潮騒


「わたくしと、海を見に行きませんか」

日の曜日。
私の元へきてくれたあなたに、私はそう言った。
あなたと共に。
こうしてふたりで過ごす時間はこれがきっと最後だから。
だから。

―― 海を見に行きましょう。いつか話してくれたあなたの海を。

◇◆◇◆◇

それは女王試験が始まってしばらくたった頃のことだったと記憶している。
彼女が嬉しそうに頬を染めて息を切らし、私の執務室へと報告にきてくれたのだ。
そのぱたぱたと走る足音で。
私はいつも彼女の来訪を知る。

執務の息抜きのつもりが、つい熱心になって描いていた彼女の肖像のスケッチを急いで隠すのとほぼ同時に、扉が開きその満面の笑顔があらわれた。
「リュミエール様、聞いてください!」
挨拶もそこそこに嬉しそうに話し出す彼女。
私もつられて笑顔になり、彼女の言葉に耳を傾けた。
「先日送っていただいた水の力で、エリューシオンの海が驚くほど穏やかになったんです。地形も変わってきて、絶壁から望むような海ばかりだったのですけれど、美しい砂浜も沢山できたんですよ」
エリューシオンの発展と彼女の笑顔を嬉しく思い、そうですか、と微笑を返せば。
更に楽しそうに、その風景を語ってくれた。

白い砂浜に遠く続く波打ち際。
深く透きとおった碧瑠璃の水と潮風にゆれる浜木綿(はまゆう)の花。
目に沁みるような太陽の下を飛翔する白い水鳥。
時を忘れて佇んでいれば、風が止まって知る夕凪の刻。
あたりは橙に染まり、日は水平線へとのみこまれて、そして訪れた宵。
かかる隈なき月に水はいっそう蒼くゆらめいて。

愛らしい口から零れだす言葉が、次々に私の心の中で風景の像を結ぶ。
それはまるで私の故郷の記憶そのままの、優しく温かく、懐かしい光景。
部屋に吹いた聖地の風に、私はあるはずもない潮のにおいを感じた。

そんな彼女の力になりたいと、いつだって私はそう思っていた。
だから、嬉しそうに話していた彼女がふと表情を曇らせたとき、その陰りがひどく気になって。
どうしたのかと尋ねる私に、遠慮がちに口を開くことには。

―― 育成の次の段階には闇の力が必要なんです。でも ――

その言葉だけで、すべてを聞く必要もなかった。
苦笑に近い感情で、私は右隣の、一つ部屋を挟んだ向うの執務室の主を思う。
光満ちる聖地の風景を分厚い布ですべて覆い遮断して。
明かりといえばゆらめく蝋燭の微かな炎と、それを映して淡く光る水晶球。
机の前に物憂げに座り、必要なこと以外は ―― 時には必要なことさえ ―― 多くを語らないその部屋の主について。
為人(ひととなり)を何も知らぬ人に、気後れするなという方が難しいのかもしれない。
でも。
彼女ならきっと、いつか気付いてくれるはず。
部屋の静寂と共に溢れる気配。
それが安らぎであれば、司る力ゆえにと、思うかもしれない。
けれどもそれだけではない、暖かな。
恐らくは多くの人が気付こうとしない、あの方の人柄そのものである優しい気配に。

彼女は先ほどの言葉に続ける言葉を選びかねて、黙り込んでしまっている。
推測するに前々から私に相談を持ちかけたかったに違いない。
かといって、あまりに正直に『恐くて育成を頼みにいけない』などとは、流石に言いにくかろう。
彼女を安心させるよう笑顔を向け、そして一つの思い出話をする。
それは私がまだ守護聖になったばかりの頃の、ほんの些細な出来事。

覚悟していたとはいえ、家族と離れ離れになって。
知り合いもおらず、唯一気安く話せるかと思っていた同期の同僚とは全く反りが合わず。
この地に馴染めずにただ息を潜めるようにして過ごした日々。
さりとてあまり塞ぎこんでは、気遣ってくれる館の者たちに心配をかけるだけ。
唯一の心の慰めとして、私はいつしか宵の中でひとり竪琴を爪弾くのが習慣になっていた。

だからその日もひとり、月明かりの下竪琴を弾いていた。
指先から零れ出る弦の音は、私の郷愁そのもの。
家族を想い、友を想い、繰り返しさざめく波の音を想いながら奏でるそれは、誰かに聞かせるためのものではなく、ただ己の中の鬱屈を昇華させる手段に過ぎなかった。
何曲目の曲を終えたときだろうか。
私ははじめてその気配に気付く。
闇そのものを纏うかの如く、あの方はそこに佇んでおそらくは月を見上げていた。
指を止めた私に気付き、溜息のようでいて何故か通るあの独特な声で、今宵はそれで終わりか、と。
そう言った。
戸惑いと、そしてやはりほとんど言葉を交わしたことのなかった先達への恐れとで、私はただ黙って頷くしかできなかった。
あの方は、ひそやかに、そうか、と呟いて。
身をひるがえして闇の奥へと消えていこうとする。
ようやく我に返り、あの、と問いかけた私に、振り返らず一言。

―― 弦の音が潮騒のようだ。

と。

守護聖となった時点で出自は伏せられるしきたりであれば。
自ら語ったことのない私の故郷を、あの方が知るはずもなかった。
けれども故郷の海を想い爪弾いた弦音を、潮騒と言ったそのひとは、語らぬうちの私の中の憂いなどお見通しだったに違いない。
そして、特に請われたわけでもなく、請うたわけでもなく。
いつしかあの方のものとで竪琴を弾くのが習慣となった。
気付いてみれば私はこの地に馴染み、懐かしさはあるものの、故郷を想う心にさほどの憂いを含まなくなっていたのだ。


「本当はお優しい方なのです」

言った私に、アンジェリークは決心したように頷く。
その表情に私は安心して、笑むことができる。
きっと、明日にでも彼女はあの方のもとへ向かい、無事育成の依頼をするだろう。
そして何ごとにも無関心に見える表情の奥にあるあの方の本当の姿に、いつしか気付いてくれるに違いない。
そのことは私にとって、本当に。
本当に喜ばしいことだったのだ。

だから。
このとき彼女にこの話をしたことを、今もこの先も後悔などするつもりはない。

ただ。
いつもはぱたぱたと。
この執務室で止まる足音が通り過ぎ、右隣の、ひとつ部屋を挟んだあたりに日々止まるようになったのを。
私は。

これほどまでに苦く思う日がくるとは、それまで考えもしなかったのだ。

◇◆◇◆◇

いつものようにあの方の元で竪琴を爪弾いていると。

―― あの娘に余計なことを吹き込んだのはおまえか。

と、不機嫌そうに彼は言う。

「わたくしは、本当のことを申し上げたまでですよ」
微笑ましい想いと、苦さのあい混じる不思議な感情。
不機嫌そうでいて、彼は、本気で怒ってなどいない。
私はそのことに気付いている。
彼女に惹かれないはずがない。
そう思うのは彼女に恋をしたが故の、盲目的な愚かさだろうか。 けれども、気だるげに目を閉じて竪琴に耳を傾けるその人の様子を、何処ともなくいつもと違うと感じるのは。
やはり、彼女の力なのではないかと思う自分がいた。
かつて私はこの方に故郷を想う寂しさを癒してもらったが、反対に私の爪弾く弦音は、この方の心の奥深くには届いてなどいない。
彼が纏う深い孤独が、死さえも司る力によるものなのか、この地であまりに長いときを過ごした生い立ちによるものなのか、あるいはもっと別の何かなのか。
きっと、私はそれを知ることはできないし、おそらくはその必要もない。

何故なら、闇に閉ざされた深い深い淵に。
ひとすじ差し込まれたであろう光の存在。

わかってしまったのだ。
今はまだ予感でしかなくても。
いつか惹かれあうであろう、ふたりの姿をありありと思い浮かべることができる。

だからこそ。
今ある己の想いは。
いつか聞いた青い海の深い深い水底へと、沈めてしまおうと考えている。

あの方のために身を引こうなどという、思い上がった考えがあったわけではない。
何故なら、恋とは意志などでかえられるものでありえないし、ましてや彼女は物ではない。
譲るとか、譲られるとか、そういった行為は彼女への、そしてあの方への侮辱でしかないと、そう思った。

だから、これは恐らくは臆病であるが故に。
深く傷つく前に、諦めてしまえばいい。
ただそう思った私の、姑息で小心な結論でしかない。

◇◆◇◆◇

そんな私の思惑や、惹かれあうふたりのそれぞれの想いなどとは関係あるはずもなく、試験は着々と終わりの時を迎えようとしていた。
このまま行けば彼女が女王となるのは時間の問題。

有態に言えば。
私は心のどこかで、早くその日がくるのを望んでいた。
もちろん、彼女が王として相応しいと考えていたから、というのも事実だ。
けれども、それだけであるはずがない。

―― 別の誰かのものになるならば、いっそ手の届かない場所へ ――

己の浅ましさに吐き気がした。
彼女への想いはなかったことにしてしまおうなどと頭では考えていながら、これが私の剥き出しの本音だ。
理性の届かぬ心の奥の、なんと醜いことか。
そんな私を罰するかのように。
爪弾いていた竪琴の弦が不穏な音を立てて切れた。
切れた弦にはじかれて、傷を作った指から血が滴る。
その赤い雫を口に含みながら、ぼんやりと想う。

これでしばらくは、あの方の元で竪琴を弾かぬ理由ができた。

と。
そう、こんな心のまま、あの方の前で演奏をしたなら、きっと瞬く間にすべてを見抜かれてしまうに違いない。
愚かでも、醜くても。
それが己の本性なら仕方がないと半ば開き直りつつ。
それでもその姿を、あの方や、彼女に知られるのを、この期に及んで恐れている。

失いたくなど、ない。
どちらとも。
それは比べたりできるものではない。
そして。

幸せになって欲しいと。

思う心もまた本心なのだ。
こうまでも相反する心を人は抱けるものなのか。
抱いてしまった思いならそれを人はどうやって昇華してゆけばいいのか。
答えを出せぬまま、どろりとした液体に身が浸かったような息苦しさの中で日々は過ぎてゆく。

そして。
今日がやってきた。

◇◆◇◆◇

「わたくしと、海を見に行きませんか」

日の曜日。
私の元へきてくれたあなたに、私はそう言った。
あなたと共に。
こうしてふたりで過ごす時間はこれがきっと最後だから。
だから。

―― 海を見に行きましょう。いつか話してくれたあなたの海を。

私は知っている。
彼女がこの部屋に来る前に、別の部屋を尋ねたのを。
そして、その部屋の主は、今日彼女に会うことを恐れるが故に、その部屋に姿を見せていないことを。
月の曜日に、ひとたび彼女が育成を頼めば、おそらくはそのまま女王が決定するだろう。
否。
彼女が頼まなかったとしても、私が大陸へ力を送れば、それですべてが終わるのだ。

そしてふたり訪れた、楽園の名を持つ大陸。
引く波に寄する波。
それは彼女を慕い、その素足にまとわりついて、名残惜しげに微かな渦を巻いて砂と共に去っていく。
波に弄ばれて貝殻が転がり、白い砂が透きとおる水の中で舞い上がりきらきらと輝く。

私の澱の凝った内面をものともしないほどの、その圧倒的に美しい光景。
濁りのない波に洗われて、丸くなめらかになる小石のように。
私の心も変われればどんなにいいか。

「この貝、まるでハートの形みたいですね」
彼女がひらいた手のひらの上、淡いくれない色の貝殻が濡れて艶やかに光った。
「ああ、ほんとうですね。割れぬよう、大切にお持ちなさい」
頷く無邪気な表情。
いや、無邪気であるのはおそらくうわべだけ。
その心に、やはり抱える迷いがあるはずなのだ。
思ったとおり、彼女はふと足を止め、遠く水平線を眺めやり、こう言った。

「女王になる以外に ――」

小さな呟きは潮騒にかき消された。
けれども、彼女はそれ以上を言おうとしない。
いつか、育成に闇の力が必要であると尋ねてきたときのように、きっと私の助言を期待していたに違いない。
期待しつつ、私の答えを恐れてもいたのだろう。

女王になりなさい、とも。
あの方に想いを伝えなさい、とも。
どちらの答えも彼女にとっては痛みを伴う結論なのだ。
相反する想い。
彼女もまたそれに苦しんでいる。

私は自嘲する。
何故なら、彼女の中で、私の返答はそのふたつしかありえないと結論づけられているのだから。
今ここで、何も言わずただ彼女を感情のままに抱きしめたなら。
このひとはいったいどんな表情をするだろう?
背中を向けたままの彼女。
潮風になびく髪の合間に見える白い首筋。
抱きしめようと細い肩に伸びる自分の手を、まるで他人の手を見るかのように私は眺めている。

―― いけない。

己の手を押し留め、私は目を閉じて天を仰いだ。
そして、その背に語りかける。

「風が冷たくなってきました。もう、もどりましょう」

彼女の問いに答えなかった私を、彼女はどう感じたのか。
けれども、それを表情に出すことなく、そのひとは頷き、微笑んだ。

帰ってきた夕暮れの聖地を、二人歩きながら交わす言葉はなかった。
沈黙を重く感じるのは、私の後ろめたさゆえか。
彼女の横顔の、笑顔の消えた表情。
その姿をみて、かつての己の心を思い出す。

ああ、私は。
その笑顔のために、どんなことにでも力になりたいと。
そう思っていたのではなかったか?

歩みをとめて。
怪訝そうに振り向いた彼女に私は言った。

「あなたの望む道こそが、答えなのだと、わたくしは思いますよ」

夕日が彼女の顔を赤く照らしている。
眩しそうに細められたその瞳に、日を背にした私の表情はきっとうつらない。
だからどうか。
私が微笑んでいると、そう思って欲しいと願った。

「わたくしは送ってさし上げることができません。ですからお急ぎなさい、日が暮れぬうちに」

身を切るような痛みに、声が震えぬよう言った言葉は、もしかしたら聞き取りにくかったかもしれない。
けれども、しばらくの間を置いて、彼女の表情の中に一つの決心が浮かぶのを見て取る。
ありがとうございます、と言って去ってゆく後姿。
行く先は、もちろん寮などではなく、闇の館。
大丈夫、あの方はきっとそこにいる。

ありがとう、と。
その言葉が『ごめんなさい』でなくてよかったと、思う自分に苦笑する。
そうでありながら考えている。

―― あの時、万感の想いを込めて、抱きしめることができたなら。

できたなら?
違う結末があったとでも言うのだろうか。
それはただの未練だ。
己を信じるしかない。
明日にはきっと、ふたりを祝福できる自分で在れるはず。

だから今は、目を閉じて。
瞼の裏に透ける聖地の夕日を感じながら、耳に残る潮騒にただ。

心を、傾けた。


―― 終


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◇ 「彩雲の本棚」へ ◇


「思いが通じないで悲恋」って初めて書いたことに気付きました。
(いや、微妙にルヴァ探偵では、ロザ→クラとかティム→コレとか通じてない人はいるんですがメインじゃないし)
いつかは続編の形をとったリュミエンでリベンジの予定。

2005.06.01 佳月拝