舞姫

■オリヴィエは二十歳で守護聖就任。
それ以前はモデルをしつつ、独学で服飾デザインを学び、自分のブランドを立ち上げ、
成功しかけたところで聖地の迎えがきたという、公式設定を元にしています。


湿っぽいのは私には似合わないよ。
だから、余計なことを思い出さずにすむ、あっけらかんとした芸のないこの青空が私はけっこう好きだな。
そう、青い空が好き。
ロマンチックな星空でも、神秘的な月夜でもかまわないし、 すこし寂しげな雨の日も、まあ、きらいではないけどね。
でも、雪はキライ。
どんよりと曇った重苦しい空と、そこから落ちてくる冷たい破片。
美しいという人はすごく多いけれど。
―― でも、雪は、キライ。

◇◆◇◆◇

自分の館のテラスでその日、オリヴィエはひとり雑誌を繰っていた。
聖地の空は、あいかわらずあっけらかんとした晴れた空である。
かわり映えしないと思いながらも、ちょっと安心する自分を、彼は自覚している。
外界から定期的に取り寄せてはいるものの、さして身も入れず読んでいる雑誌の頁をぺらぺらと送ったその時、ふと目に入った記事に彼はくぎ付けになった。
慌ててその記事を端から端まで読んでみる。

「あのコ、知ってたんだ …… 」

思わず、天を仰いだその空に、白いものが舞った。
―― 雪?
そんなわけあるはずがないと知っているのに、その柔らかな破片を彼は一瞬雪と見紛う。

―― ああ、花が、散ってるだけ、か。そうだよね。雪の訳がない。

白い破片の正体は、館の庭にある梨の古木が、吹いた風に白い花弁を散らした姿だった。
吹く風に煽られて青空に舞い映える純白の色。
雪を花に喩えて風花と言うけれど、花は雪に喩えたら、何と言うのだろう?
オリヴィエは天を仰いだまま、遠い記憶を思い起こしていた。
それは、まだ彼が守護聖になる前の ――

◇◆◇◆◇

ごちゃごちゃした塵溜めのような街。
オリヴィエは主星の星都から少し離れたその街のことをそう思っていた。
学生やら、芸術家の卵やら、役者の卵やら、ダンサーの卵やら。
夢を追って家を出て、いまだ叶わず、叶う日をまた夢見て日々を生きる若者が住まう街。
決して美しいとはいい難いその雑多な町並みを、それらしくてけこう好きだとも、実は彼は思っている。
なによりも、建物のあいまから見える、晴れた日でも少し霞みがかかったようなぼんやりとした青空が、何よりも好きだと思っている。
この街は冬でも乾燥していて、雪が降ることはほとんどない。

「肌が荒れるから、乾燥は辛いけどね」
少し安っぽい下宿屋の最上階。屋根裏を改造したような、天井の低い、けれど広さはけっこうある部屋。
寝台の横にある小さな窓から外を見て、彼はそう呟いた。

「あなただったら、もう同居なんかしなくてももっといい街のいい部屋借りて生活できるじゃない。乾燥なんか気にするんだったらどうしてそうしないの。まあ、同居人としてはありがたいけど」

呟いた彼に、アリスが振り向いてくすくすと笑いながら言った。
くるくると表情の変わるこげ茶の瞳、長く艶やかな黒髪。それは、ひとつにまとめて結い上げられている。

「同居人だなんて冷たいコト言うね」

笑ったまま、冗談よ、そう言いかけたアリスの唇を、オリヴィエがそっと塞ぐ。

―― 彼女がかけがえのない存在になったのは、いつだったっけ。

絡み合うようなくちづけを交わしながら、彼は考えた。
いろんな未来を夢見て人々が集まる街。
アリスも、その中のひとりである。
ダンサーを目指して、働きながらレッスンを続けて、時折舞台にも立つ。
たとえそれが端役だったとしても、彼女はそれを全身全霊かけて演じ、舞う。
夢追うのは同じだからこそ、その姿に、自分に似た何かを感じた。
彼女の踊りをはじめて見た時。

―― 常ならず軽(かろ)き、掌上(しょうじょう)の舞をもなしえつべき少女

彼は何かの小説の一説を思い起こした。
その小説の話は大嫌いであったが、文体が印象的で心に残っていたのだ。

それは彼がこの街に来て二年ほど経った頃のこと。
言ってしまえば、彼女とは心よりも先に体を合わせた。
先の見えぬ不安に押しつぶされそうになって、そして、その日珍しく降る雪が一層人恋しくさせて。
仔犬を拾うかのように差し伸べられた暖かな手。
それにすがるかの如く彼女を抱いた。

情交の熱覚めやらぬ寝台の上で、アリスと交わした会話を、彼ははっきりと覚えている。
雪が嫌いと言った彼に、アリスが言ったのだ。

―― あなたが、怖がっているものは何?

見透かされた、と彼は思った。

―― このまま歳をとってしまうこと
―― 歳をとらなかったら、それはそれで怖いわ
―― 夢を叶えられずに、ひとり醜く老いていくのが怖い
―― ……夢が叶わなかった時のことが怖いの?醜く老いることが怖いの?それとも。ひとりが怖いの?

ひとりが怖いなどと、一言も言わなかったのに、彼女はそう問いを投げかけた。

―― 全部
―― 怖がりね
―― そうかもしれない
―― その中のどれが一番、怖い?
―― どうだろう

言葉を詰まらせた彼に、彼女は優しく言う。
―― 想像してみて

答えは、多分はじめから分かっていたことだ。
雪深き故郷を捨てて、夢を目指して。
華やかな世界の片隅に身を置いて、多くの人に囲まれてはいる。
でもふと見渡せば、感じずにはいられない。
このまま、何の夢も叶えられず、ごみごみした街の片隅で埋もれてしまうのではないかという、漠然とした不安と孤独を。

―― ひとりは嫌
呟いた彼を、アリスは裸の体で抱きしめる。
ひどく、その肌が温かかった。

―― じゃあ、きっと大丈夫
―― あっさり言うね。人間は本当は孤独なものじゃないの?
―― そうよ、人間は『本当は孤独』なの。でも、『本当に孤独』な人は、きっと少ないわ。自らが、望んだのでなければ

言って化粧を施さぬ素顔で笑んだ彼女を、心から愛おしいと感じた自分に、彼は気付いた。
それから数え切れぬほどの夜を重ねてきたが彼女を腕に抱くたび、その時の想いが胸にあふれる。


くちづけをしながら、彼女の結われた髪を梳いて寝台へ連れて行こうとするオリヴィエにアリスは笑って言う。
「まだ、明るいわよ?」
オリヴィエはカーテンを引く。

「ほら、こでれ暗くなった」

◇◆◇◆◇

いつまでもそんな日が続くわけがないとわかってはいても、心のどこかで永遠に続くようにもオリヴィエは思っていた。
ひとつの電話が、その新たな変化をもたらすまでは。

「この間のコンペ、私のデザインが通ったって」
「すごいじゃない!これであなたの夢、叶ったも同然よね?お祝いしなくっちゃ」
「―― ありがとう。喜んで、くれるんだ」

歯切れ悪く言う彼に、アリスは変わらぬ笑みを浮かべる。

「気にしないで。ここを、出て星都へ行くのでしょう?」
「アリス、あんたも一緒に ――」
「ダメ。私は、私の夢を叶えたいから、その言葉にイエスは言えない。そんな顔しないで。あなたが私を忘れなければ、いつでもこの街に遊びに来て」
「私、この街が好きだよ」
夢見て日々を生きる若者が住まう街。
決して美しいとはいい難いその雑多な町並み。
建物のあいまから見える、晴れた日でも少し霞みがかかったようなぼんやりとした青空。
そして、なによりも、彼女のいるこの街が。

「もちろん、あんたも。―― 毎週末には、逢いにくるから」
「ありがとう」

涙を滲ませるアリスの向う、窓硝子とぼんやりとした青い空が見える。
そこに舞う白い破片。
風に煽られて、遠くから運ばれた、それは風花だった。

「やだ、雪」
「雪は、今でも嫌い?」
「 ―― 」

答えぬオリヴィエに肩をすくめて、アリスはその頬にくちづけした。

「じゃあ、こう考えて。あれは雪じゃないわ。白い、花弁が舞ってるの。あなたの成功をお祝いして。ね?
素敵でしょう」
「そうだね」
「さあ、お祝いの準備をしましょう」

◇◆◇◆◇


その夜は、特別な夜だったのだと、彼は想う。
ほのかなろうそくの明かり、ふたりしてレースにくるまって。
美しく、優しい夜。
窓の外にまだ舞う風花を、アリスは今度は夢の欠片だと言った。
手にすると溶けてしまう、儚いけれど、美しくて、追わずにはいられない、夢の欠片。
あなたが、くれた夢の欠片。
と。

「あんたの望むもの、なんでもあげたい」
「そう?じゃあ、約束して。毎年、この日はこうして会いましょう?」
その愛らしい願い事に、愛しさがこみ上げた。

「―― 可愛いね」
「それとね」
「何?」
「もういちど、あなたが欲しい」

ふたり、そっとみつめあい、そして微笑む。
オリヴィエは囁いた。

「―― 目を閉じて、ここへおいで」

その先で待っていた運命を、予測などできたわけもなく。
いつか互いに夢を叶えたその先で、再び寄り添って歩ける日がくると、その時はまだふたりは信じていた。

◇◆◇◆◇


「お迎えに上がりました。今日こそは、ご同行願います」

聖地からの迎えが無表情にそう言った。
初めて、この迎えがきたとき。
冗談じゃない。
それ意外の言葉は、彼には思いつかなかった。

―― 守護聖、だって?冗談じゃない。

星都での新しい生活にも慣れいよいよ自分が立ち上げたブランドもメジャーの仲間入りをしようという、その矢先だった。
叶うはずの己の夢を捨てて、どうしてそんなものになれるだろう。

―― よりにもよって夢の、ってのが、笑っちゃうよね。

それでも、それが逃れられぬものであることもわかっていた。
迎えを撒いて、主星からすら飛び出して逃げ回って。
そうすることで何かが変わるわけでも、ましてや自分の望むものが手に入るはずがないことも、十分彼は承知していたのある。
はじめの打診から二年、粘った。
でももう、決心はついていた。
人の世で ―― ほんとうにに美しい夢を手に入れるまでには、イヤなことも当然ある。
そのことに気付いた時から。

「悪いけど、あと一日待ってくれない?」
肩をすくめて、オリヴィエは迎えに言った。
「この期に、及んでですか」
「そ、決心したから ―― 行かなきゃいけない場所があるの」
「了解いたしました」
彼が既に逃げ出さないことを察したのか、聖地からの迎えはそう言って、一礼した。


アリスになんて伝えよう?
それを思うと暗澹たる気持ちになった。
聖地行きはトップシークレットであり、本当のことを話すわけにはいかない。
結局は、別れ話を切り出すしかないのだ。
ここ数ヶ月、彼女に会いにいっていなかった。
会いたいと、思えば思うほど、自分の状況をどう伝えていいかわからず、会いに行けなくなった。
それでも今日は、ふたりの記念日だから。
必ず、この日は会おうと約束した日だったから。

―― これが最後

約束の時間をだいぶ過ぎて彼は、かつて住んでいた部屋へとたどり着く。
今年も何故か風花が舞っていた。
部屋に明かりが無いことを、まず不審に思った。
いつかのように、蝋燭をともしているわけでもない。
入った部屋は、ひんやりと冷たい。
そして、彼はテーブルの上の冷めた料理の隣、一通の手紙を見つけた。

『大好きなオリヴィエ

勘違いしないで。
嫌いになったわけじゃない。
あなたの邪魔にならないように身を引くとか、そんな殊勝な心がけなわけでもない。
ただ、この数ヶ月姿を見せずに。
約束の時間になってもこないあなたを待ちながら。
もしこれがずっと続いたなら、私は耐えられないかもって。
そう思ってしまったの。
いつか、私はあなたを束縛するようになるかもしれない。
あなたの夢の妨げになるのなら。私はきっと側にいないほうがいい。

サヨナラ。
あなたがくれた、夢の欠片を。
ずっと大切にしていくから。

―― アリス』

探せば、まだ間に合うかもしれない。
部屋を飛び出して、表へ出て舞う雪の中、彼は思い直して足を止める。

手紙に綴られた、彼女の言葉はきっと、本心でもあるのだろう。
けれど、その奥に探して欲しいと、追いかけて欲しいという気持ちだってあるに違いない。
オリヴィエはそれに気付いていた。
―― でも。
自分がこれから向う先は、あこがれていた輝かしい世界ではなくて。
これまで培ったすべてを棄てていかなければいけない美しい牢獄。
再び逢うことの叶わない、死別にも等しい別れの悲しみを与えるくらいなら。
むやみに探したりなどせず。
このまま。

―― 棄てられたと、憎んでくれた方がいい。

うつむいた足元、小さな犬がじゃれ付いていた。
「あんたも捨てられちゃった?ちょっと待って」
一旦部屋に戻り、パンのひとかけらを手にする。
再び表へ出ると仔犬は尻尾を振って彼を向かえた。
パンを与えて、その小さな頭をなでる。

「連れて行けないから、こんなコト、かえって残酷かな」

仔犬が彼を見上げて鳴いた。
風花がただ、音もなく舞っていた。

◇◆◇◆◇

新米記者のウィルは激しく緊張していた。
目の前に座る女性はもう、七十歳は超えた歳なのに、上品な中にどこかあでやかで、独特の美しさを持った人である。
ただ実年齢より見た目が若く見えるとか、そういったことではなく、これまでに生きた彼女の人生に対する愛情と自信が刻まれた皺さえも美しくしていると、彼は思った。

「ええと、まずは栄誉賞の受賞、おめでとうございます アリス・バートンさん」
「ありがとう、アリスでいいわ。こんなおばあちゃんに名前で呼んでって言われても、こまるかしら?」
「あ、いえ、そんなことは。とても美しい方なので、緊張してしまいます」
「まあ、ありがとう」

三十代後半で舞台を去ったあとも、若手の教育や、あらゆるジャンルの舞踏芸術の発展に貢献したとして賞を授与されたのである。
ウィルは彼女の現役時代を知らないが、以前ムービーでその舞を見たことがある。

―― 常ならず軽き、掌上(しやうじやう)の舞をもなしえつべき少女

そんな、古い小説のフレーズが浮かんだ。
記事の見出しはこれでいこう、と彼は考えている。

「この喜びをまず誰に伝えたいですか」
「私に、夢を諦めずに追うことを教えてくれたひとかしら」
「それは、数年前になくなられた旦那様?」
確か、彼女の夫は四年前他界しているはずだ。

「あらあら。それは禁句よ。そうじゃないから、このインタビュー記事は彼のお墓の前には供えちゃダメ」

悪戯っぽくウインクしたあと、彼女は少し遠い目をする。
「遠くて手の届かない楽園で、見ていてくれるはずの人。人々の美しい夢を、守ってくれている人よ」
そして、ウィルはある噂を思い出す。
彼女には下積み時代同棲していた恋人がいて、その人とは死別したという噂。
彼を想う故に、あらゆる男性のプロポーズを断りつづけたが、引退後ついにバートン氏がその心を射止めたと、当時はずいぶん騒がれたはずだ。
昔の恋人云々の真偽は知れぬままだったが、彼女の様子から、それは真実ではなかったのかと、そう考える。

「そうね、その人に伝えたいかな。さっき私を美しいと誉めてくれたでしょう?
それがお世辞でないのなら」
アリスは、まるで恋をする少女のように微笑んだ。

「―― 人は、男でも女でも、美しく歳をとることが可能なのよって、彼に教えてあげたい」

◇◆◇◆◇


―― 教えてくれてアリガト。相変わらず、あんたは最高にキレイだよ。

雑誌に再び目を落とし、オリヴィエは心からの笑みを浮かべた。
突然、雑誌が取り上げられ、頭上から声が落ちてくる。

「熱心に読んでるな。面白い記事でも載ってたか」

赤い髪の同僚に彼は答える。
「まあね」
「まあ、いい。いい酒が入った。今晩どうだ?」
雑誌を返しながらオスカーが言った。

「メンバーは?」
「俺と、あと向うからチャーリーとレオナードが来てる」
「…… 濃いいね」
「なあに、大人な話題にはうってつけだ。来るか?」
「行くよ。今日は」

―― 常ならず軽き、掌上(しやうじやう)の舞をもなしえつべき少女、か

「ん?」
「祝杯をあげたい気分なんだ」


アリス。
ふたりだけの乾杯をしようね。
何に乾杯するのかって?
私とあんただけが知っている、一番大切なものに。
乾杯。

仰いだ聖地の澄んだ空。
白い花びらが雪のように、踊り子の白いレースのように。
ひらひらと、ひらひらと、舞っていた。
―― 終

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◇ 「彩雲の本棚」へ ◇


「雪白幻夜」企画出品作品。
彼が守護聖となる決心をする部分に関しては「夢守たちの夜」参照。
それならどうしてあのシリーズに含めないのかというと、この話はもともと長編としてプロットをたてていたものを企画ように短編に書いたという経緯があります。いつか長編で書き上げることができたなら、そのときに、あちらのシリーズへ含めよう、などと漠然とした思惑が(笑)

以下、企画出品時あとがき
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『石炭をば早や積み果てつ。中等室の卓のほとりはいと静にて、熾熱燈の光の晴れがましきも徒なり。
今宵は夜毎にこゝに集ひ来る骨牌仲間も「ホテル」に宿りて、舟に残れるは余一人のみなれば』
(森鴎外「舞姫:冒頭」)

オリヴィエの就任前の恋の話を一度は書きたいと思ってました。
二十歳で聖地入りした彼だからこそ、書ける物語を、です。
ストーリーのベースはここに引用した鴎外の「舞姫」。
あの話、むちゃくちゃむかつくんですけど(文章の美しさは好き)、だからこそ、それを元に幸せな話を書きたかった。女性の名前はもちろん「エリス」!って思ったんだけど、誰かさんの自殺した恋人とかぶるのでアリスにしました。

鴎外の舞姫は、既に著作権がありません。そのため、Web上に全文を掲載してあるサイトが多数あります。
興味のお持ちの方は、Googleなどで「鴎外」「舞姫」「石炭おば」あたりの語句で検索すると見つけることができるかと思います。

2004.12.15 :佳月