鼻と靴底と手袋と(3)

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【3】手袋の中の暗闇(2)


数日後、調査報告は届いた。
報告書を読みながら、脳裏に炎につつまれた温室の光景が浮かんだ。
あかい光が闇の中でゆらめいている。
だが存在するのは、記憶の中でだけ。もう何も、残ってはいない。
大丈夫、これで私は、もう一歩先に進める。きっと。

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やはり、静かな午後だった。
紅に染まった木々の葉が、冷たい風に吹かれるたびに攫われて落ちる。
暖かい部屋の中、伯母が何か縫い物をしている横で、私は経済学の本を読んでいる。
ふと、顔を上げて私は彼女に話しかけた。
得にどうといった理由があったわけではない。
家族であるなら普通にする、たわいもない会話。

―― 何を、縫っているの?お母さん

顔を上げた彼女の表情は、驚きを含みつつも、照れくさそうな喜びを滲ませていた。
私は単純に彼女のことを呼び間違えただけだったが、既にそこでの毎日は彼女のことを母と呼んでも、違和感のない生活だ。
ただその頃の年齢の独特の気恥ずかしさと、独身の伯母に対する遠慮と、実の母に対する申し訳なさとで、私は意図的に彼女を伯母様と呼んでいた。
だから、慌てて言い添える。
―― ごめん、呼び間違えた
彼女は僅かに寂しそうな表情をして、でも優しく微笑んだ。
―― そろそろ寒くなるから、あなたの掛け布団を縫い直していたの
暖かみのある、色とりどりの、パッチワークの布が彼女の膝の上に散らばっている。
伯母と、養子縁組と言った法的手続きによる母子になることはないことを知っていた。
おそらくは周囲の親戚が許さないであろうし(彼らの財産分与の皮算用が狂うからだ)、余計な財産争いに巻き込まれることを厭い、彼女自身が拒否していたのだ。
だからそれは、あくまでも気持ちの上での話だった。
ありがとう、と礼を言いながら、いつか彼女の事を素直に母と呼べるときが来るといい、私はそう考えていた。

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どこかからのプライベート通信の着信音が、物思いを破った。発信元は白亜宮の惑星。私は知らず知らず、穏やかな心持になる。
モニタに映像が映し出されると、回線の向うで少年が開口一番元気良く言った。
「こんにちは、マコやん!元気だった?」
「マックニコルだ。殿下も、お元気そうでなにより」
心持ち意地悪く言い返しながらも、私はきっと笑顔でいるに違いない。
「なんか、ずいぶんそっちは賑やかだね?何の音?」
最初は何の話かと思ったが、現在身の回りでしている音を今更ながら自覚して苦笑する。
「部屋の改装をしているから、その音だろう。声が聞こえにくいようだったら言ってくれ」
そんな他愛のない会話をいくつか交わしたあと、少年が本題に入る。
即位式の日取りが決まったらしい。
未来に対する不安はきっとあるだろう。だからこそ余計な水は差さずに、せめて言霊だけでも言祝(ことほぎ)ぎとして伝えたかった。
「そうか、おめでとう。あなたの御世が幸多きものになることを願っている」
結果口から出た言葉は、ありふれた言い回しではあった。しかし今彼に伝えたいこれ以上のものを私は知らない。ただの社交辞令、定型句。今までそう思っていた多くの言葉は、長く人の口から語られ磨かれ、余分なものをそぎ落とされた言霊そのもの、なのかもしれない。
対する少年の応えも、ごく簡潔だ。
「ありがとう、マコやん」
彼はどうあっても私を名で呼ばぬつもりらしい。どいつもこいつも、何故なのだ。あきらめ半分、先日マーガレットが私を殴ったとき呼んだのがフルネームだったことを思い出した。それはそれで、ひどく切ない。うまくいかないものだ。
危うく思考がよそへ行きかけたが、私は一つ報告をする。
「一財閥とあまり懇意にしては色々と煩いこともあるだろから、法に触れぬ程度の、ささやかなお祝いを贈ろう」
少年がくすくすと笑う。
「うん、もう連絡貰ったよ。図書館への寄付ありがとう」
「礼を言われるほどの事ではない。企業なら、よくやる宣伝行為、あるいは税金対策だ」
「ふふ、そうだね。でも、嬉しかった」

何故だろうか。不意に、不安が襲う。
少年の完全に心を許したような笑顔が、かえって私に暗い影を落としたのだ。
以前とは違う日差しの入る部屋。
開け放した窓から、心地よい風も吹き込んでくる。
一方で、日差しが入れば影も出来る。モニタの置いてある机の上に、今までよりもくっきりとした己の影が映っている。その影を目で追って、先ほどまで読んでいた報告書へ視線がたどり着く。

突然黙り込んだ私を、少年が不思議そうな表情で見ていた。私は、重い口を開く。
「このようなことを、本当ならば言いたくはないが」
主星において、セティンバーがいくら旧家といってもたかが知れている。それでも十年前、事件は起きた。
自分の経験や基準にすべてを当てはめることが正しいとは思わない。しかし、古くから続く辺境惑星の王宮など、私が知る以上に偽りと裏切りの横行する世界ではないのか。
少年がこの先そういった悪意に出会わないなら、それに越したことはない。何も私の人間不信をこの少年にまで植え付ける必要などない。
だが。
何も伝えず無防備なまま、少年が無条件に信じていた何かに裏切られるようなことがあれば、私はきっと、この日の己の沈黙を後悔するだろう。
「先日、私を信じていると言ってくれたね」
私は、あの時嬉しかったのだ。本当に、心から。けれども。
「あまり、容易に人を ―― 信じてはいけない。そして、君は賢いが、その賢さをむやみに人に知られてはいけない。いつか、君が私の言った意味を知る時まで」
少年は僅かに眉を寄せ、不審そうな表情をしたようだった。
私はなんと中途半端な助言を与えているのだろう。どうせそこまで言うのであれば、徹底的にぶちまけてしまえばいい。例えば、こうだ。

賢しげな素振りを見せてはいけない。敵になりうると判断したら、奴らはこちらがまだ抵抗できぬ幼いうちに容赦なく狩りに来る。だから、凡庸を装い力を蓄え、時を待て。鋭く成長した牙で、敵の喉笛を一撃で噛み切れるようになるその時まで ――

違う。彼に伝えたいのは、わかって欲しいのは、そんなことではない。
せわしなく手袋を嵌めた指先をこすり合わせるような仕草をしていることに気づき、私は慌てて手を机の下、通信用カメラから見えぬ位置に降ろした。
「本当は、こんなこと。言いたくはないんだ」
眉を寄せ半ば泣きたい気持ちで。重ねて言った言葉は、これ以上ない本心だ。
しばらく私の様子を伺っていた少年が言った。
「目を見て話して?マコやん」
私は我に返り、面をあげ少年を見て、自分が俯いていたことを知った。彼は真剣な眼差しで私を見ていた。たかだか七歳の少年。だが幼さゆえに視線は透き通るように清んでいて、清んでいるがゆえに圧力を持っているかのごとく私を呑み込んだ。
気圧されて目をそらしそうになったが、冷静になれば何一つ、私は己の言葉に恥じることはない。
そのまま、しばしの時間が過ぎた。沈黙を破ったのは、少年だった。
「うん、覚えておく」
彼は笑顔を見せた。
「まだ信じちゃいけないと思った人に出会ったことはないけれど、誰も彼をも単純に信用してるわけじゃないよ。にいさまに、信じられるかどうか判断する時には、相手の目を見なさいって、そういわれたことがある。だからこそ、僕はあなたを信じようと思う。
マコやんの言葉、覚えておくよ。言葉の意味もそうだけど ―― あなたが、言いたくないと躊躇ったその心も、わかる時が来るまで」
思わず、目を閉じて片手で顔を覆った。ひとつ油断すれば、私は涙さえ見せたかも知れない。 賢さを隠せと言った私が、彼の賢さに救われている。それとも、賢さではなく、もっと別の何かだろうか。純粋さ、優しさ、強さ。そんな言葉で呼ばれる、あらゆるもの。
彼は何事も無かったかのように話を続ける。
「それでね、即位式に来て欲しいんだけれども、どうだろう。大丈夫?」
言った表情から察するに、スケジュール的なものよりも、あまり外出を好まない私の事情そのものを考慮しての"大丈夫?"なようだった。
十年間誰にも会うことを望まなかったセティンバーの総帥の話は、既に彼の知るところだろう。
近所の山登りの次は、いきなり遠い惑星の国王の即位式。冒険の規模としては一足飛びすぎるが、どうせなら大々的な方が良いのかもしれない。
「喜んで出席しよう」
応じてから、慌てて付け加えた。短時間では解決出来そうにない問題が残っている。
「だが、晩餐会的なものがあるようなら、そちらは遠慮したい。その ―― 偏食が、激しいので」
彼の反応がないことに気づいた。再び私は俯いて話していたらしい。慌てて顔をあげて目が合い、目をそらしていたことで中途半端な嘘が見抜かれていることを知った。そもそも、先日昼食を断った時点で、彼なら何かしらを察していても不思議はない。
ビジネスでなら、どんな嘘でも冷静に突き通す自信がある。だが、ひとたび自分を語ろうとしたとき、わたしは只の世間知らずの嘘の下手な子供になるらしかった。
ありがたいことに少年は私の嘘を追及はせず「格式は下がるけれど主星の様式に則った社交パーティーがあるから、よかったらそちらに出て」そう言った。
「それでね、色々お世話になったお礼の贈り物も準備しておいたよ」
少しだけ、自尊心が傷ついた。彼を助けたのは、そんな見返りを求めてのことではない。彼とても、それを知っているはずではないか。
「ありがたいが、そんな気を使う必要など ――」
「僕に対してのお礼はまだ言わないほうがいいとおもう」
「…… 殿下?」
少年は、仕組んだ悪戯がどのような結果をもたらすか楽しみで仕方ないといった顔をしている。 「だって、かえって地雷になるかもしれないから。その時は、恨まないでね。うふふ」
…… うふふ、だと?
この後すぐ、私の質問の余地を許さず、ご多忙な次期国王陛下は通信を切ってしまった。
椅子の背に寄りかかり、彼の言葉を反芻する。
地雷?
なんだ?それは。


◇◆◇◆◇

その日も伯母は温室で、白い花の世話をしていた。
―― 伯母さん、話があるんだ
―― どうしたの?
彼女は私に背を向けたままだった。
少し前に、父の古い友人でもあり弁護士でもある人から、連絡を貰った。
正式な継承者である自分の目が届かないのをいいことに、親族達が好き放題していると。
そうなるだろうな、というある程度の予測はしていた。けれども正直、それらのことよりも、自分にはゆっくりとした時間を過ごす期間が必要なのだと、言い訳をしてもいた。
でも、追憶のための時間はもう終わりを告げたように思う。
穏やかな日々を与えられて、自分は先へと進む力を得たのだ。
伯母との生活に、感謝していた。心から。
―― 自分の家に、戻ろうと思うんだ。僕、きっともう大丈夫だ。
土をいじっていた彼女の指が、ぴくりと動いてから止まる。
ゆっくりと振り向いた表情は、いつもの優しい笑顔だった。
―― そう、寂しいけれど、応援しなくちゃね?出発は、いつ頃かしら
―― そうだね、すぐというわけじゃないよ。冬が、終わるまではここにいる
家に戻ったら、幾度手紙を書いても返事をくれなかった薄情なチャールズに文句の一つもいってやろう。
そして、マーガレットにも会おう。
ここ数ヶ月で、身長がとても伸びた。15cm上をいくのだって、近いかも知れない。
気になることは、もうひとつ。
伯母様も、この屋敷を出て、一緒に来ない?そう聞く前に、彼女が言った。

「今晩はあなたの好きなものにしましょうか。何が、食べたい?」

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2009/03/19 佳月