鼻と靴底と手袋と(2)

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【2】手袋の中の暗闇(1)


少年相手になんとも情けないやりとりをしていると、マーガレットが去っていった道を今度は二台のエアカーがやってきた。
一つは我が社の社用車であり、もう一つは大使館ナンバーのプレートをつけた車である。
音もなく車が停止し、大使館の車の方から、いかにもそれらしい民族衣装を身につけた青年が二人転がり出るように降りてきた。年の頃は二十歳そこそこ、といったところか。
少年も笑顔で二人に駆け寄る。
「イシュト!サーリア!」
なるほどこの二人が、女性の嫌い云々などと、少年に吹き込んだ者達か。私よりもだいぶ若いようなのに、そんなこと言いくさっているのが若干 …… 悔しい。
鈍い赤い髪をした軍人系の青年 ―― どうやらこちらがサーリア殿と言うらしい ―― が、心底安堵したような表情で、少年と会話している。
「色々心配かけてごめんなさい」
「殿下がご無事でなによりです。アージ殿も心配されてましたよ」
「爺や、怒ってなかった?」
「さあ、多少のお説教は覚悟されておくことですね、カムラン様」
「うえぇ……」
一方、淡い青緑の髪をした理知的な青年が私に向かい深く一礼した。消去法で行けば、彼がイシュト殿ということになる。
「このたびは多大なるお力添えを頂き、感謝の言葉も見つからぬほどです」
正直なところ、今回の件の動機は少年のためというよりは、自分のためでもあったから、彼の感謝の気持ちを素直に受け止めるには後ろめたさがある。とはいえ、ここは無難に応じておいた。
「たいしたことは何も。殿下は少々お疲れのようですが、無事お連れできて私も安堵いたしました」
部屋から出ないままとはいえ、財閥総帥として十数年培った外面はそう簡単には崩れないらしい。普通に会話できている自分に驚きつつも、モニタ越しであるかそうでないかというのは、乗り越えてしまえば大差ないものなのかも知れない。社交辞令程度であれば、なおさらに。
少年も無事本来の保護者の元へと返したことだし、そろそろ自分も失礼しようとしたとき、少年の腹が盛大に鳴った。
太陽の位置を見れば、確かにもうじき昼時である。
青年が苦笑して、戻ったらすぐお昼にしましょう、と言う。
なんとなく、この次の会話の流れに嫌な予感がして、私は黙礼してから足早に社用車の方へと向かいかける。と、少年が言った。
「マコやんも、一緒にどう? そういえば、マコやんあまり食べていないよね? 昨日の昼も食べたのは僕だけだったし、今日の朝も水しか飲んでない」
相変わらず、彼はよく見ている。そして、よく記憶している。
青年達も、それなれば是非一緒に、と声をかけてくる。無論、善意以外のなにものでもなかったろう。
だというのに、瞬時にして私の全身の肌が粟立つ。
何も、恐れることなどないはずだった。ましてや、一国の王太子と共に取る食事ならば、冒険で食したそっけない携帯食料などよりも、はるかに丁寧に安全に調理され、栄養面に於いても考慮されているに違いない。
だとしても。
わかっているのに、体の奥で制御できない恐怖が芽生え、暴れている。
手袋をはめたままの指先が震えていた。せわしなく、手を手で握り、押さえ込む。
「さすがに疲れました。非礼を承知で、今回はご遠慮させて頂きたい。ましてや、この成りではご一緒するにも憚られる」
冗談めかして手を広げ、己の中途半端に汚れた姿を見せる。
青年達は疑問を差し挟む余地もなく納得したようだった。笑顔で
「確かに、お疲れでしょう。無理を申し上げました」
そう言った。ただ、少年はしばしの間、じっと私を見ていた。僅かに不安げであり、私を心配するような表情でもあった。それから駆け寄ってきて私を見上げ、小さな声でささやいた。
「また、会えるよね、マコやん」
「ああ、また会おう」
一歩下がり、私は幼い王太子に礼をとる。
「それでは殿下、私はここで失礼します。―― 良き王と、なられませ」
社交辞令ではない、心からの願いだった。
少年は一瞬のうちに表情を変えた。朝日に向かい決心を述べた時と、同じ表情だ。そして大人びた態度で私の言葉に応じた。

「色々世話をかけた、礼を言う。(けい)も息災で」

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彼らを乗せた車を遠く見送ってから、社用車に乗り込み私も屋敷へと帰る。
玄関ホールには長くこの屋敷に勤めている老執事が待っていた。先だって行方不明の私を案じて、古い付き合いのあるウォン家に連絡を入れてくれたのも彼だろう。
「マックニコル様」
彼が深々と頭を下げた。だが、頭を下げたいのは私の方だ。長年心配をかけたことに対する謝罪や、それでも見捨てずこの屋敷に留まっていてくれたことへの感謝の念が溢れる。
それらを伝える何かを言おうと思ったが、上手く言葉にならなかった。
「部屋を、改装しようと思う。もう少し、風通しが良くなるように。手配してくれるか」
「はい、畏まりました」
すれ違いざまに肩を軽く叩き、何事もなかったかのように階段をあがる。背後で、密やかに鼻をすする音が聞こえたが、あえて気付かぬふりをした。
彼の思いが、とても嬉しかった。
部屋に入り、一日ぶりに帰ってきた自分の砦を眺めやる。これまで十年間、不自由を感じたことのない空間。不思議なもので、こうしてみるとひどく小さく感じる。
さて、感慨にふけるのは後回しにしてまずはこの汚れた服を着替えねばと、上着を脱ぎ、手袋をゆっくりと(まく)ってゆく。
ふと、花の香りが立ち上ったように思う。
来たか。わかっている、これはただの幻覚だ。

◇◆◇◆◇

伯母が温室で、白い花の世話をしている。
両親を失った私が引き取られた、屋敷の温室。
伯母は結婚はしておらず、私が世話になるまではその屋敷に一人で住んでいた。
あまり表情が豊かではないかわりに静かな優しさを持ったひとで、突然の悲劇に見舞われた子供である私は、その優しさに救われた面もあったように思う。

花の世話をする伯母の背に、私は話しかける。
―― 何か、手伝おうか?
―― ありがとう。良い子ね。ではこの鉢を、移動してくれるかしら
頷いて手を伸ばした私を、伯母が止めた。
―― ああ、素手で触ってはだめよ、手がかぶれてしまうから
私は側にあった土いじり用の軍手を手にはめる。
―― 伯母様、この花はセティンバーの家紋と同じ花?
―― そうね、似てるかしら。でもこれは私のお母様が故郷から持ってきた特別な花なのよ
―― とても、甘い香りがする
―― 難しい花でね。原産の星の土を使って、温室で育てなければこの香りはしないの

十二の秋から十五までを過ごした伯母の家。
今はもうない温室。

百合に良く似た白い花の、まとわりつくような甘い香を嗅いだ気がして、私は軽く眩暈を感じた。

◇◆◇◆◇

幻覚とも白昼夢ともわからぬ追憶から脱した私は、真っ直ぐバスルームヘ向かいすぐにシャワーを浴びた。
冷たいままの水を頭から浴びて、気持ちがいくらか落ち着いたところで、素のままの己の掌を眺めやった。強い雨のように、水が掌を打って指の間から落ちてゆく。
いつか私は手袋をはずしたまま、外へ出て行くことが出来るだろうか?
触れたいものならば沢山ある。
例えば、冒険の道に流れるせせらぎ、春に目覚める柔らかな新芽、路傍に転がる石さえも。
ここで何故か、あるいは当然のように、マーガレットの姿が浮かんだ。彼女の頬や髪に、この指で触れることが出来たらどんなにか心が満たされるだろう。だが、それ以前に、大嫌いと言われて殴られた身であることを思い出して、一気に気持ちがしぼんだ。
バスルームから出て服を着る際、僅かに手袋をはめることに逡巡した。ただ、ついでのように腹が減っていることを思い出したので、結局は手袋をはめ直して、この十年間変わらぬ食事を取る。
工場で正確に衛生的に大量生産された簡易食事一式。栄養バランスはこれで、問題ない。
私は、私が口にすることを知られた状態で調理された食事を、食べることが出来ない。
誰が食べるともわからぬままに調理され、その中から無作為に選んだ食事がいい。昨夜食べた携帯食料もこの部類に入る。
それらの食物を手袋をして摂取することで、私は私の安全を確認してきた。
だが、いつまでもこのままではいられないであろうこともわかっている。
部屋の外への最初の一歩を踏み出したとき、これまでの十年間で築いてきた(いびつ)な均衡の世界は崩れたのだから。
食事を終えて、私は通信機を操作する。
崩れゆく砦から脱出するとして、おそらくは、ここからはじめないといけない。
突きつけられる事実が望んだものと違った場合、受け入れる強さが自分にあるかどうか自信はない。が。
朝日に向かい強く立った少年の姿を思い浮かべる。
彼に偉そうな事を言った自分が、逃げるわけにはいかない。
接続が完了したモニタの向こう、姿を現した担当者に、こう言った。
「調べてほしいことがある。十三年前の、事故について」
それだけで、相手は全てを理解したようだった。ようやくその気になったか、という表情さえした。
「…… もうひとつの件は、このままでよろしいのですか。もうじき十年で時効が成立してしまいます。あの時とは状況が違う。今のあなたの立場ならば ――」
指が、意図せずして小刻みに震える。
「余計な真似は、しなくていい。その件は調査結果を待ってから考えよう」
強く言い切って、通信を終えた。

◇◆◇◆◇

寝台に倒れ込み、泥のように眠ったはずであった。

窓の外、あかい夕日を温室の硝子がはじいていた。
その光を目の端にとらえながら、十二歳の私は窓辺で手紙を書いている。
静かな午後だ。
決して豪奢ではない屋敷を一人では広すぎると言い、祖父の死後の財産分与にも興味も持たず、ただ日々を慎ましく暮らしていた伯母との生活。
伯母が一番近い親類であることを口実に、他の親類達はわざと辺鄙な場所へ自分を追いやったのだと、薄々は感づいていた。
だが、ここでの穏やかで少しだけ時代遅れな暮らしを、私は決して嫌ってはいなかった。
親しい人達を失ったばかりで哀しみから抜け出せぬ自分を、厳しすぎず甘すぎず包み込む平穏が、そこには存在していた。
父の跡を継ぎ、名ばかりでなく本当の総帥となるために、学ぶべき事は山ほどあった。
だが、学ぶということは、志さえあればどんな場所でもできる。
だから、不満があるとすれば、ひとつだけ。
チャールズに、手紙を書いた。幾度も。
だが未だに、一通も返事が、来ない。

―― どうかしたの?
―― 友達に、手紙を出したのだけど、返事が来ないんだ。もう、一ヶ月以上経つ
―― お友達も、きっと忙しいのよ。元気を出して

窓辺に立ち、夕日を背にした伯母の表情は逆光でよく見えない。
だから、彼女がどこか不自然に笑ったように見えたのは、きっと気のせいに違いない。

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眠りの奥で、再び百合に良く似た白い花の、まとわりつくような甘い香を嗅いだ気がして、私は少しだけうなされた。

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2009/03/18 佳月