海棠の夢

(壱)――林中の猫




海棠:
(1)バラ科の落葉低木。中国原産。葉は長楕円形で細鋸歯がある。四月頃長い柄のある紅色の五弁花が数個づつ下垂する。
(2)玄宗皇帝ノ妃ヲ喩ヘテ曰ク「海棠ノ眠リ未ダ醒メズ」(唐書・楊貴妃伝)此レヲ以ツテ美人ヲ喩ヘテ海棠ト云フ。


激しく叩きつける俄雨(にわかあめ)に旅の男は、まいったな、とひとりごちた。
(わら)を編んだ笠をふもとの小さな集落で手に入れていたものの、これではなんの意味も為しそうにない。
この山の中で、民家もあるまいに、ひとまずそこにある榎木の大木の下にでも身を寄せようか。
そう考えたが、貫くような驟雨(しゅうう)はいとも簡単に重なり合った木の葉を掻き分けて、 その下の大地に(にわたずみ)を作っていた。

年の頃なら三十路の中程であろうか。
黒髪の漢人ばかりのこの辺境惑星では一目で胡人(こじん) (註:白人を含む西方民族の意。ここでは外国人、又は異星の人間と解釈してください)
と判るひとつに結わえた真っ直ぐの長い金の髪、金の瞳。
日に焼けた精悍だが優しげな風貌。均整の取れたしなやかな肢体。なかなかの男前である。
「これは困ったぞ」
男がたいして困った風でもなくそう呟いた、其の時であった。

(りん)……(りん)……

冴えた鈴の音が聞こえた。
一匹の美しい黒猫がひょい、と大木の陰から姿を現わす。
興味もなさそうに男の方を、その紫水晶色の瞳でちらりと見やり、
「……ぅな〜〜〜ぁ……」
と、いかにもやる気のなさそうな声で啼いた。
妙に親近感の湧く、というか、既視感を覚えさせるその猫はしなやかに体を(ひるがえ)すと(くさむら)を分け入って何処かへ行ってしまった。
凛々と鈴の音が遠ざかる、かと思うと再び近づき、猫は叢から、ぬう。と頭を出して、やはり何となくやる気のなさそうな(男にそう見えただけかもしれない)顔をして男をみつめる。
「俺に『来い』と云っているのか」
男はそう謂って笑った。

◇◆◇◆◇

猫の後をついていくと気付かぬところに細い脇道がありその道は竹薮の奥へと続いている。
その先にぼんやりと、古ぼけた門が雨に濡れ、黒く浮んで見えてきた。猫の飼い主の館なのだろう。
しばしためらった後、門の(ひさし)の下で(しばらく)く雨宿りをさせてもらう事にした。
俄雨(にわかあめ)のことだし、直ぐに止むだろう。
そんなことを思いながら体の露を払い、辺りを見回す。
春の竹林の中に雨は勢いを削がれ、静かに蕭蕭(しやうしやう)と降っていた。
雨垂れの音が唯、辺りに響いている。
門は立派な構えである。
(ひさし)の下に三文字ほどの屋号を流れるような筆跡で(したためた)めた木板が掛かっていたが、外国人である彼にはこの国独特の表意文字は読めなかった。
門の向こうには住まいがあるのだろう。
元は白かったであろう(すす)けた古い土塀に隠れて、屋根の一番高い所にある装飾の焼き物以外は見えないところをみると、平屋のようだ。
尤も木造建築ばかりのこの星は殆どの民家は平屋であるのだが。
塀の長さから見てかなり広い屋敷のようで、屋敷の裏手はすぐに高い崖が(そび)え、岩が迫出(せりだ)し、墨絵の様な風景を造形していた。
男はその迫出した岩肌を見上げる。高い崖だ。岩肌の所々に生えている樹。あれは……躑躅(つづじ)であろうか。
花が咲いたらさぞかし見物だろう。主星では公園などに良く植樹されていたが、野生の躑躅(つづじ)は一味違うからな。
そう、男は思った。
剪定さえしなければ、種によっては6メートルを超す大樹になる。

不意に周囲の大気が音もなく動いて風を起こしたような気がした。
凛……
また鈴の音がする。猫が戻って来たのだろうかそう思い振り向くとそこには。
そこには

―――女が立っていた。

女は美しかった。
()やかな長い黒髪は、この国の女達が良くやっているように芸術的な結われ方をされており、 そこに幾つかの銀簪(ぎんかんざし)が揺れて、紗羅紗羅(しゃらしゃら)と幽かな音をたてた。
民族衣裳であろう。
やわらかな衣は淡い色合いで統一され、ただ一輪その中に、一際(あで)やかな紅の海棠(かいどう)が刺繍してある。
腕には紗織りの透通った布を通して掛けていた。
女の瞳は黒く深く澄んでおり、唇は海棠の花のように紅い。
瓜実(うりざね)の輪郭に、涼やかな目元と少々色気を漂わす口元。
うっすらと青い血管の浮かぶ細い首筋。
そして、この星独特の黄味掛かった色合いの肌が「白い」というより「透明」といった風で、一層抜けるような肌の青白さを引き立てていた。

腕に抱かれていた黒猫が苗々(みようみよう)と甘えるように啼いた。女の飼い猫なのだろう。
その声で女に見とれていた男は我に返る。
門が何時の間にか開いていた。先程の風はそれで起こった風だったのだ。
其の門の奥は何処か別世界に繋がっているような、そんな錯覚を女の存在は起こさせた。
女はついと男の方へ寄ると、ゆっくりと、妖艶とも表せる美しい笑みを浮かべ口を開く。
「この様な山奥でに驟雨(しゅうう)遭ってはさぞかし難儀で御座いましょう。
軒なんぞに居らっしゃいませんで、どうか奥へお入り下さいましな」
流暢な主星語だった。この星の言葉を知らぬわけではないが、何となくほっとする。
若しかしたら、女が人間の言葉を話した事にほっとしたのかも知れない。
其れほどまでに、女は浮世離れした風に見えていた。
まるで、偶然訪れた旅人に眠りを妨げられた海棠の花精でもあるかの様に。
男は躊躇(ためら)った。
確かに在り難いが、女が生身の人間である以上、ここで上がり込んではあまりに図々しい。
「いや、気持ちは嬉しいが、此処を貸してもらえれば俺はそれで十分だ。有り難う、お嬢さん」
其の応えに女は気恥ずかしそうに笑った。
「『お嬢さん』等と呼ばれる歳でも御座いませんよ。
……春とは云え、雨で体が冷えて居りましょう。温かい物でも用意致します故、上がって下さいまし。
遠慮などしては嫌で御座いますよ、この様な山奥、人も滅多に参りや致しません。
何処ぞ面白い星の話でも聞かせて下さいましな、旅のお方」
女はそう云って、傘を差し出し、門の内へと男を(いざな)う。
こうまで勧められては…と、躊躇(ためら)いつつも男は言葉に甘える事にした。
実際体が冷えていて、暖を取れるのは在り難い。
「じゃあ、そうさせて貰おうか。有り難う」
『お嬢さん』と喉まで出掛かって、そこで言葉に詰まってしまう。女は二十六・七の年頃に見える。
察したように女は『ハイタン(hai-tang)』と名乗った後、皆が呼ぶので『タンホア(tang-hua)』と呼んでくれ、と付け加える。
なかなか難しい発音だな、と思いつつ男も自分の名を名乗ったが、女に
胡人(こじん)の方の名前は発音し(にく)う御座いますねぇ」
と逆に謂われてしまい、そうかな、と照れ臭そうに笑った。
女の腕の中で啼唖(なあ)、と猫が面白くもなさそうに欠伸をした。

女に続いていて門中に入る。
門の下の霰零(あられこぼし)しの石畳から玄関口へと、曲線を描いた飛び石が敷かれている。
左手には、小さな菜園が作られており、幾つかの野菜が植えられている。
石は雨に濡れて艶々(つやつや)と黒く光っていた。
植えられた野菜達は雨に濡れて瑞々しく青かった。
「ちょいとお待ち下さいましな」
そう云って女は菜園の方へと行ってしまった。
男はぼんやりと菜園の反対側、右手の方を見やる。
そこには、垣根の向こうの幻想的な庭園が垣間見えた。
男は庭の善し悪しを芸術的観点で見る目など持ち合わせてはいなかったが、その伸び伸びと枝を広げている木々や、
まるで山中の岩陰の如く、庭石の傍で小さくも其々(おのおの)の色を(たた)えて咲く草花は、この庭はいい庭だと男に思わせるに十分だった。
更にその庭は、その昔、彼が好きだった場所を彷彿とさせる。
尤も庭と云えば直線的な造りの整形式庭園を思い浮かべる質なので、同じ様式の庭を見れば何処の庭でも同じ印象を受けたかもしれないのだが。
―――それは、男の友人の館の庭だった。
酒好きふたり、よく飽きもせず、華や紅葉(もみじ)を肴に盃を傾けたものである。
特に春に咲く白い梨の花が男も友人も大好きだった。
そしてこの惑星は、実はその友人の故郷なのである。
恐らく、もう、彼は彼岸の人だろう。彼に『その時』が訪れ、自分達は長い間別々の時間を生きてきたからである。
けれど、自分にも『その時』は来た。そして、全てを後輩に譲りこうして気侭に宛ての無い旅をしているのだ。
ある時ふと思い立ち、この惑星を訪れることにした。
彼に会えるとは端から思ってなどいなかったが、何かが彼をこの地にへと駆り立てたのである。
其れが何であるのか―――男は、まだ解からないでいる。

その時ふいに、足元で唸り声がした。
ぼんやりと物思いに耽っていた男はかなり慌ててその方向を見る。
見れば一匹の(いぬ)であった。玄関へ向かう道を塞いで立ちはだかっている。
薄い茶色の毛が雨に濡れて綺羅綺羅(きらきら)と金に綺羅めいていた。
如何にも「妖しい奴、何者だ。」と云った風に、深い蒼の瞳が睨み付けている。中々に威厳のある狗である。
男は状況に似合わず、可笑しそうに笑みを漏らした。
先程の猫と云い、この狗と云い、なんとも云えず、親近感が湧く。
「そう、睨むなよ。確かに妖しいかもしれんが、俺に悪意は無いぞ。お前のご主人様のお言葉に甘えて、暫く雨宿りさせて貰うだけさ」
男はそう云った。

公瑾(こうきん(gong -jin))、御止め。その方はお客様です」
女が戻って来て狗を(たしなめ)めた。狗は直ぐに大人しくなり、つい、と道を開ける。
女の腕から猫が啼唖(なあ)、と馬鹿にしたように
(男がそう思っただけかもしれない。更に「ふっ」と笑ったように聞こえたのは完全に気のせいだろう)
啼いて、ひらりと庭の方へ走って行った。
狗はけたたましく吠えながら、猫の後を追って行った。如何(どう)やら仲が悪いらしい。
男はまた、可笑しくなって笑った。
「まったっく、仲が悪うて困ります。孔明(こうめい(kong -ming))も解かってて公瑾をからかうんで御座いますよ」
困ったもので御座います、と、女は逆に可笑しそうに云った。

女が持っている、畑で摘んできたらしい葉から爽やかな芳香が漂う。
昼餉(ひるげ)の薬味にでもしようと思いましてねぇ」
紫蘇の葉であった。
「ほお、良く手入れされてるな。こいつは直ぐに虫に食われるから、手入れが難しいんだ」
虫食いの無い綺麗な形の葉を眺め、男は謂った。つい、土弄(つちいじり)り好きな本性が顔を出す。
「人が食うても美味しゅう御座いますもの。虫とて食らい付きとうなりましょう。
……それに、虫も食わぬものは人とて食えや致しません。
紫蘇と虫にお願いするんで御座いますよ。虫には(あたし)の分と、紫蘇本人の分、どうか残しておいとくれ、紫蘇には妾と虫に、どうか葉を数枚くれてやってくださいまし、とね。……祖父の受け売りで御座いますがね」

何処まで本気か判らないが、そう謂って女は鈴を転がすように笑った。
冗談にも聞こえる言葉であったが、何故か、人として生きるという事の真理を突いているような気さえする。
彼女の中で、虫も草も自分自身も、凡て同じ生き物なのだと、そう云っているようであった。
そして、そんな女の言葉に、男は好意を持った。



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