海棠の夢

(弐)――燕子庵(えんしあん)


「あの梨の木は立派だな。俺の知っている梨の木の中で、二番目に立派だ。」
彼の知っている一番立派な梨の木は、あの懐かしい土地の、かつての友の館にあった。
「旅のお方、草木にお詳しゅう御座いますねぇ」
渡り廊下を渡りながら、庭に見える木々を一通り眺め、片っ端から名を挙げてその状態の良さを誉めていた男に 女は驚いたような、呆れたような、どちらとも着かぬ表情をしてから笑った。
良く笑う女である。
彼女が笑う度に、花がほころぶような空気が辺りに漂った。
「そうかな。よく知られた花の名ばかりだと思うんだが」
植物の事になるとつい、饒舌になってしまう自分に我に返り、そう応える。
「そりゃあ、花を附けた時分になら判りましょうが、葉を見ただけで判るのはお詳しゅう御座いますよ」
そして女はまた、笑った。
実際、桜や桃、梨くらいなら解かるかもしれないが、花を附けていない水木と山帽子を一目で見分けた男はかなり植物に詳しい。
「まあ、仕事柄……かな」
「植物の学者の先生かなにかで居らしゃいましょうか?」
「いや……まあ、昔の話だが、……『緑』関係の仕事を……」
男は歯切れ悪く云ってから、頭を掻いた。
「良く判りはしませんが、草木(かれら)を好きな人に悪い人はいやしません。そう(わたし)は聞きますよ。」
女の笑う、鈴を転がすような声が雨に響いた。

草木を「彼等」と言った女に、ふと、男は先ほど思ったことを言った。
「不思議なひとだな。貴女は。草も人も、同じ扱いをしている」
「……お嫌で御座いますか?」
「いや、その逆だ。嬉しいもんだな。そう思っていてくれる人がいるってのは」
女は一瞬、おや、といった顔をしてから微笑み言葉を続けた。
「貴方様こそ、不思議な方に御座いますねえ。(わたし)の話を笑いもせずに、嬉しい、などと」
「そうか?」
「ええ。でも……」
「でも?」
「それこそ、嬉しゅう御座いますよ。そう言って頂けて」
音も無く、風のように歩むひと。
その揺れる(きぬ)から、()き染められた(こう)(かす)かに立ち昇る。

瞬間、男はなにか深い、言葉にするならば「郷愁」のような、懐かしい気持ちに駆られた。
ああ、これは、この香りは……

―――白檀(びゃくだん)

思うでもなく、男はそう思った。
雨足は、先程より少し弱まっただろうか。
雨が屋根にあたる音が、静かに響いている。

「樹は大地に根を下ろし、その枝を天に向かってそよがせておりましょう。 人も地を足で踏みしめ立ちあがり、天を仰ぐは両腕となるのみの違いに御座います。
縦横(じゅうおう)に走る脈に流るるは色は違えど生命の水。
人は言葉を話し、樹は言葉を話さねど、、我らに聞こえぬだけやも知れず。
そんな我等に如何ほどの違いがありましょうや。
……この天と地との間に生けるすべての命あるもの、みな、同じに御座います……」

遠く雨の降る空をしなやかな枝を広げる(にれ)の樹越しに見ていた女は、そう云ってから 男を振りかえり、静かに微笑んだ。
庭に、後少しであでやかにひらくであろう海棠の花が、雨に打たれて悩ましげに揺れる。
彼女はやはり
―――海棠の花精(かせい)にちがいない……
男は雨に消える声で、そう小さく呟いた。

◇◆◇◆◇

「祖父の物で少々古く、申し訳ありませんが、男物がこれしか在りませんゆえ、許して下さいましな」
「いや、十分さ。着替えまで用意してもらって、こちらこそ申し訳ないな」
男物がこれしかない、ということは、彼女はひとり身なのか。
これだけ美しい女性が(しかも、適齢期はとうに過ぎていそうだ)ひとりであるはずがないか、 と思っていただけに驚き半分、喜んでいる自分に、ひとり柄にも無く赤くなったりしている男であった。

着替えを済ませ、部屋をでると、庭を見渡せる部屋に温かい茉莉花(まつりか(ジャスミン))茶が用意されていた。
冷え切った体に、その優しい香りがありがたい。
男が尋ねる。
「貴女がここの主殿(あるじどの)なんだろうか?」
「そうで御座いますよ。父、母ともに幼い頃に他界して、祖父母に育てられましたがその祖父母も彼岸の人となりまして久しゅう御座います。何かとこの山のふもとに居ります伯父に世話にはなっておりますが、山中ひとり細々と暮らすには不自由在りません故。嫁にも行かず、気侭におりますよ」
「では、ずっとここに……?」
いたのだろうか。彼女は、美しくも、寂しい山の中に。独りで。
女は庭で濡れる海棠を見つめている。そして呟いた。
「……人を……待っているので御座います。そう、もう、ずっと、長いこと……」
そう言って、目を伏せ膝の上で心地よさげに眠っている猫をなぜる。
長い睫が、女の黒曜石のような瞳に影を落とした。
――恋人でも、待っているのだろうか?
そう考え、すこし切なくなった男の耳に
――それも、今日でお終いやもしれませんがねぇ
という静かな呟きは届かなかった。

啼唖(なあ)……

と、猫が寝惚けた声を出した。起きたのかと思いきや、再び主の膝の上で丸くなる。
「一度寝てしまったら、三顧の礼を尽くそうが起きやしないんで御座いますよ。うちの孔明は」
女が冗談めかして言った。

◇◆◇◆◇

お茶を飲み終わると、沈黙が流れた。
何となく、気まずく感じた男はつい、口を開く
「貴女は……」
その後が続かず、慌てて言いかえる。
「あ、いや、表の屋号は、なんて読むのかな。此方の言葉は読むのはからきしだめなんでね」
――貴女は、あの海棠の花の精のようだ――
などと、初対面の人に向かって何で言えるだろう。男は再び、柄にも無く赤くなった。
その様子には気付かず、女は応える。
「『燕子庵(えんしあん)』と申します」
「何か(いわ)れがあるのだろうか」
その問いに、女は、懐かしく優しい記憶を確かめるように、ゆっくりと話し出した。
男はそのあでやかな横顔をみつめている。
はじめて出逢ったこの人に、どうしてこうも惹かれるのか、不思議に思いつつも、どこか納得さえしている自分に戸惑いながら……

◇◆◇◆◇

……伯父……母の兄と祖父は仲が悪う御座いましてねえ。
いえ、仲が悪い、と申しますか、伯父は商才のあった人で御座いますし、祖父の詩才を認めていた故に、余計こうした山ン中で詩を詠じて 気侭な隠者生活を営んでいた祖父を理解できないことも在ったんで御座いましょう。
伯父が若い折りに喧嘩して、勝手に飛び出して……。
でもまあ、伯父も大人になって考えも変わったんで御座いましょうねえ、仲直りしたようで御座います。
尤も、祖父はなぁんにもしちゃあいなかったんですがね。
ただ、時間の流れるままに、伯父が反抗した時も、飛び出した時も、戻って来た時も、
『成るようにしか、ならぬよ。あれの人生、我のものでなし』
飄々とそう云ってただけ、と伯父がいつか教えてくれました。
それが余計、頭に来た、とも笑っていってましたがねぇ。
そうこうする内に、伯父の娘……(わたし)の従姉妹で御座いますが、なんぞ、婿をとり家を継ぐことをせず、主星で学問したいと申しまして。
伯父は猛反対。親の云う事がきけないのかっ!とまあ、そんな感じで。
そして、何か云ってやってくれ、と祖父に泣きついたんで御座います。
祖父はなぁんにも云わずに、ここの庭を眺めましてね、そして詩をひとつ、詠じたんでございますよ。


梁上有双燕 翩翩雄与雌―――梁上に双燕(そうえん)有り  翩々(へんぺん)たり雄と雌
銜泥両椽間 一巣生四児―――泥を(ふく)両椽(りょうてん)(かん)  一巣(いっそう)に四児を生ず
四児日夜長 索食声孜孜―――四児日夜に長じ  食を(もと)めて声孜孜(しし)たり
青虫不易捕 黄口無飽期―――青虫捕へ易からず  黄口飽く(とき)無し
嘴爪雖欲弊 心力不知疲―――嘴爪弊(しそうやぶ)れんと欲すと雖も  心力疲るるを知らず
須臾十来往 猶恐巣中餓―――須臾(しゅゆ)に十たび来往するも  猶恐る巣中の餓うるを
辛勤三十日 母痩雛漸肥―――辛勤三十日  母痩せて雛(ようや)く肥えたり
喃喃教言語 一一刷毛衣―――喃喃(なんなん)として言語を教へ 一一毛衣を()
一旦羽翼成 引上庭樹枝―――一旦羽翼成り  引きて庭樹の枝に()せば
挙翅不回顧 随風四飛散―――翅を挙げて回顧せず  風に(したが)いて(よも)に飛散す
雌雄空中鳴 声尽呼不帰―――雌雄(しゆう)空中に鳴き  声尽くるまで呼べども帰らず
却入空巣裏 惆愁終夜悲―――却きて空巣の裏に入りて  惆愁(ちゅうしゅう)して終夜悲しむ
燕燕爾勿悲 爾当返自思―――燕燕(なんじ)悲しむこと勿れ  (なんじ)当に返りて自らを思うべし
思爾為雛日 高飛背母時―――思へ(なんじ)雛為りし日  高く飛して母に(そむ)ける時を
当時父母念 今日爾応知―――当時の父母の念ひ  今日(なんじ)()さに知るべし
(「燕詠」――白居易)

梁の上に二羽の燕  ひらひらと雄と雌とが
泥をくわえ、たるきの間  巣を作り四つ子を産んだ
雛は日に、夜に育ち  餌を欲してちいちと鳴く
青虫は捕らえ難く  幼い口は飽くときがない
くちばし、爪破れても  魂は疲れをしらず
たちまちに十度往来するも なお恐る巣の中の飢え
三十日(みそか)の苦しみの後  母は痩せ、雛は肥ゆく
喃喃と言葉を教え  丁寧に羽根を磨く
ある朝、美しい翼ができ  庭樹の枝に上げれば
羽根を広げ、後顧みず  風に乗り四方へ散った
親は空に向かい泣き  声をからして呼べど帰らず
空しき巣に戻り  夜通し嘆いた
燕よ、燕。嘆きたもうな  己自身を振り返り見よ
思い出せ、君が幼き時  そして母に背き高く飛翔した日を
あの時の親の思いを  今、まさに君が知るのだ―――

……子は親を離れるもの。その親もまた、かつて親から巣立ったのだと。
伯父が家を出たとき、飄々としていた祖父もまた、心のうちで悲しみながらけれども子の幸せを願っていたのだと。
そう云いたかったので御座いましょう。
あのとき、何故か思いましてねぇ。
祖父もかつて、親から離れた時が在ったわけでありましょう?その時何を想ったのか、ってね。
……いつぞや尋ねましたら、
『家族には縁が薄く何の孝行もしてやれなんだ、死に目にさえ(いわん)や、何時(いつ)死んだかさえ知らなんだ』
そう、云っておりました。幼心にもその時、何だかとても悲しくてねえ。
じい様は、母様も父様も居らず、おひとりで寂しくはなかったか、自分にはじい様と、 ばば様がいるので寂しゅうはありませんが、と。
そう申しました。祖父は懐かしそうに微笑んで
『……良き朋等(ともら)がおったゆえ、寂しゅうはなかったぞ。可愛い義弟等(おとうとら)もおったしな。良い飲み仲間もおった。そいつが私以上の酒飲みでな……今ごろどうしているのやら。皆、仲良うしているといいのだが……』

本当に懐かしそうに、そして何処か悲しそうに言うものですから、祖父が若い時、どんな風な人生を送っていたか、聞けないままで……。
あの時の、祖父をみつめる祖母の優しく深い瞳の色も、忘れることができないので御座います。

何故で御座いましょう……貴方……旅のお方。
髪の色も、瞳の色も、何処(どこ)何方(どなた)にも似ていらっしゃいませんのに、祖父を思い起こさせてなりません。 雨に濡れ(なが)ら門の前に佇む貴方を見て、思わず声を掛けてしまうほどに、懐かしゅうございました。貴方がこの庵の門をくぐった時、庭の植物達も、嬉しそうにさざめいた気さえ致します。
まるで……祖父が帰って来たかのように……

◇◆◇◆◇

暫し、女は男の金の瞳を見詰めていた。
男は、女の黒い瞳を見詰めていた。
女が我に返り微笑み、照れた様に言う。
「おや、嫌だ。話が逸れてしまいましたね。そうそう。この庵の屋号はその詩から名をとって
燕子庵(えんしあん)』と、こう呼ばれるようになったんで御座いますよ」

女の長い、長い話が終わった時、男は不思議な気持ちに包まれていた。
まるで導かれたようにこの惑星を尋ねた理由。
それは、もしかしたらこの庵に……いや、この美しい女にあったのではないかと、ごく自然に思っている。
男は、庭にある立派な梨木をみやり、女に尋ねた。心なしか、男の言葉が丁寧になったいることに女は気付いたかどうか。

「立派な梨の樹ですね……もしや、もしや貴女の祖母君の御名(みな)は……あの木に(ゆかり)のお名前だろうか……?」

不思議そうに女は応える。

「……?……(はい)梨華(リーホア)と、申しました……が……?」
ああ、やはり。
ありえないほどの偶然。でも今、彼にそれは少しも偶然に感じられなかった。
そう、導かれたのだ。彼に、自分は。
そして、彼は、あの懐かしい友人は……
「では、祖父君のお名前は……いや、やめておこう。聞かない方が、いいのかも知れないな」
やはり、彼はすでに彼岸の人なのだ。
だが、あの地を去った後、彼は幸せだったに違いない。
懐かしい故郷の惑星でふたたび回り逢った人と。
そして、子と、孫娘に慕われて――幸せに。
男は胸の奥が熱くなるのを感じた。
(しかし、俺が彼以上の酒飲みだというのには納得いかないが、と考えながら)

外に雨は蕭蕭(しやうしやう)と降っている。
優しい時間がゆっくりと流れていく。

「……貴方……旅のお方……?泣いて、いらっしゃるので御座いますか……?」

女の声と、頬を伝う温かい滴に男ははじめて、自分が涙を流していることに気付いた。
その涙は、すでにいない友への涙であり、まだいるはずの、けれど恐らく二度と逢うことの無い友等への涙でもあった。

俺は、いったい何を探しているのだろうな。この旅で。
旅から旅へ、留まることをせず。
何かを探すように。否、それは、
―――自分が本当は孤独であることを知りたく無いからこそ
だからこそ、ひとつところに留まることができないのでは無いか?
あれだけ懐かしく思っていた故郷の星にさえ、俺のいるべき場所はなかった……

「雨は、止みそうも無い様子で御座いますねえ」

春の淡く透通るような緑をより一層つややかに、生き生きと見せる雨を眺めながら女は静かに呟いた。
「こんな、静かな雨の日は、いろいろと馳せる想いも御座いましょう……。
けれど、なんぞ、いつもより、優しくなれそうで(わたし)は好きで御座いますよ。
それに、どんな不思議なことが起こっても、信じてしまえそうな、そんな風に思えやしませんか?
……ゆっくり、していってくださいませ。貴方様の気の済むよう……幾日でも。
春の緑に命を与える緑雨(りょくう)のようなお方。貴方なら、この山の神々もきっと喜んでくれましょう……」
優しい声に重なって、いつの間に起きたのだろう、猫がちいさく

啼唖(なあ)

と啼いた。


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今回は、漢詩が長いですが、ぜひ読んでみて下さい。私の一番好きな漢詩で、どうしても使いたくてあんな無理な設定を考えたんです(汗)
で、今更なんですが……
リーホア(梨華)という名前に聞き覚えのない方、
「月さえも眠る夜」本編と、外伝「静夜思君不見」をご覧ください。