海棠の夢

(参)――緑雨


―― 雨は夜の間も降っていたようだ。

半ば子守歌のように屋根や樹の葉にあたる雨音を聞いていたような気がする。
雲の間から薄ぼんやりとそれでも朝の光が磨硝子(すりがらす)を通して室内を明るくした。
その幽かな光と、変わらず蕭蕭(しやうしやう)と降る雨の音に目を覚ました男は一瞬自分が何処に居るのか判らず暫し呆けていたがすぐに昨日の事を思い出す。
ここは、そう、『燕子庵』だ。
暫らくの間雨宿りをさせて貰ったら、すぐに失礼するはずだったのだが、 結局、女の話す昔話とやまぬ雨に足止めされ、こともあろうに泊まり込んでしまったのである。

知ってか知らずか、女はかつて彼女の祖父のものだった部屋を客室として男を案内した。
昨日のような感情の疼きはすでにない。
ただ、懐かしむように、雨の朝の光に照らされた部屋を見回す。
彼の死後も、丁寧に残されてきたであろう書棚の書籍、木机の上の(すずり)、そして棚に置かれた翡翠(ひすい)の香炉。
心地よく、白檀の香が馨る。
そしてよほど大切にしてあったのか、丁寧に金を混ぜた鋼で繕いのしてある青い磁器の一輪挿し。その後ろの壁にかかっている書は何と書いてあるのだろうか。屋号の文字と、同じ筆跡であった。
(いにしえ)の名言でも書いてあるのだろうか。いや、真面目腐った字面の割に意外と御茶目な内容かも知れん。
男はそう思って笑みを零した。友人の性格を思い出したのである。
(男には読めないがどうやら「酒百薬之長(さけはひゃくやくのちょう)」とあるようだ:筆者談)

何とはなしに寝台の上に半身を起こしたまま時間を過ごして居ると、部屋の外に気配がして、つややかな声が聞こえる。
「もう、お目覚めで御座いますか?」
雨のせいで薄暗いが、時間としてはもう十分に日も高くなっているのだろう。
男は慌てて起き上がると
「あ、ああ、起きてはいる。申し訳ない、つい、寝過ごしてしまったようだ」
と言って、頭をかいた。
微かに笑う気配が部屋の外から伝わってくる。
「そんなことは御座いません。ようよう朝餉の用意の整った頃合いに御座います。旅のお疲れもあったのでしょう、お気になさりませんよう」
食事の用意ができていると伝えると、女の気配は去っていった。
男は窓によって、硝子を開けると雨を見、
「すぐに止むと思ったんだがな……」
そう呟いた。
女は好きなだけいればいいと言っていたが、そうはいくまい。
昨夜泊ったことでさえ、少々良心が痛んでいる。
ただ、それとは裏腹に……
ここを離れ難くなっている自分に気付く。
それは、ここがかつての友人の家だからだろうか?
いや、ちがう。
俺は、彼女に……あの不思議な海棠の花の精に、惹かれているんだ……。
男は軽く、ため息をついた。
いずれはここを去らなくてはいけない。
だいいち、彼女は云っていたではないか―――待っている人がいる、と。
少し切ない気持ちで緑の葉を優しく濡らしていく雨をみやり、考える。
だが、今しばらく……この雨に理由をつけて、ここにいさせてもらおう。

この雨がこのまま、やまなければいい―――

◇◆◇◆◇

次の日も、その次の日も、男の願いを聞きいれたかのように雨は降り続いた。
はじめの日の激しい驟雨ではなく、穏やかに緑を濡らす雨である。
こんな雨を、緑雨(りょくう)、と言うので御座いますよ。
女はそう云った。新緑の頃に草木を育てるために降る、やさしい雨の呼び名である。
もう少し後になり、初夏に青葉を濡らして降る雨は翠雨(すいう)というのだとも教えてくれた。
雨ひとつ、様々な呼び名があるものだと、男は感心する。
自然を愛し、四季と共に詩を詠み生きてきたこの惑星の人々にとって、当然のことなのかもしれない。
「貴方は、この緑雨のようなお方に御座いますね」
女は云う。
「貴方様がいるだけで、ほら、緑が美くしゅう、見えるような気がするんでございますよ。それとも、妾の心のせいでしょうか……」
女の言葉に、男は鼓動が早くなる。
ふいに、以前から思っていたことが口をついて出てくる。
「なら、貴女は庭にある、咲きかけの……海棠の花のようだな」
と。
言った後に、我ながらなんと気障(きざ)な言葉を言ったものだと「あ、いや、」と口篭(くちご)もり頭を掻く。
これでは、どこぞの誰かのようではないか。

女は、一瞬、不思議そうな顔をしてから、くすりと笑う。
それは、どこか今迄の笑みとは違い、あどけない少女の笑みを思わせた。
「妾の名の意味をご存知でございましたか?」
女が尋ねる。
確か、『ハイタン』と言っていた。男は、いいや、と首を振る。
「こちらへ、いらして下さいましな」
女は庭の見える場所に男を手招きすると海棠を指差し
「あの樹を『海棠(ハイタン)』花を『棠花(タンホア)』と申します」
そう云って、首をかしげ男の方を見ると、ふたたび少女のように笑った。
金の瞳と、漆黒の瞳が交差する。
しばし、ふたりはみつめあった。
そして、女は呟く

「貴方……旅のお方……この雨が止んだらまた、旅を続けるので御座いますか?
なら、このまま、雨がやまねばよう御座います……」

―――今日も、雨の音は優しい。
そして、その雨音と同じ程に優しく、すぐとなりのひとの鼓動が聞こえる……

何かを云おうと、ふたりが同時に口を開きかけた時である。
玄関の方から野太い男の声がする。けたたましく吠える声は例の金狗(きんく)公瑾(こうきん)であろう。
ふたりは我に返り、女は心持ち青ざめると、ここにいらしてくださいまし、と言い残して慌てて玄関へと向かった。男はほっとしたような、残念なような、複雑な気持ちで、庭をながめる。そして、ふいにこんな考えが過ぎった。
―――女の待ち人が、帰ってきたのだろうか?
しかし、それにしては、先程の公瑾の様子がおかしい。そう言えば、さっきまでその辺で寝ていた孔明もいなくなっている。瞬間、玄関口から激しい唸り声と、猫の鳴き声、男の怒声。そして女が強く言っている声が聞こえる。
「お帰り下さいまし!何度来られても返答は同じに御座います!」
この惑星の言葉であったが、何を云っているのかは直感で解かった。
男は反射的に立ち上がり、玄関へ向かい走る。
そこでは、如何にも粗野な風貌の髭面の男が女の腕をつかみ、まさに暴力を振るわんとしているところであった。
軽やかな身のこなしで近づき、女の腕をつかんでいる太い腕をねじり上げると男は云う。
「何の用事かは知らないが、彼女は帰れと言っているんだ。大人しく帰ったらどうだ」
髭面の男は捻じられた腕の痛みに顔を歪めると何か憎憎し気に喚いていたが、男には皆目理解できない。女の叫び声の意味は理解したくせに、現金なものである。
「悪いが、俺はあんたの云っていることは全く理解できない。だが……」
腕をつかんでいる手に、更に力を込める。
「この人に、これ以上手をだすようなら、ここで骨の一本でもへしおってやろうか」
さすがに、言葉の意味は解からなくとも、迫力が通じたか、髭面の男は大人しくなった。 あきらめたか、と思い手の力をゆるめた瞬間、ふたたび今度は男の方へ髭面の男は拳をあげて殴り掛かってくる。 女の方へと被害が行かぬよう、気を付けてしかし軽やかに避けると逆に痛烈な一撃を見舞った。
喧嘩はそれほどした事はないが、実は拳闘(ボクシング)ならそれなりに自信があるのである。
剣技はからきし歯が立たなかったが、拳なら炎の奴(あいつ)と対等に渡り合えた自分に、そうそう勝てる相手はいないだろう。
そんな考えが、多少の油断を呼んだのだろうか、いつのまにか外に出ていた自分の足元が雨で滑りやすいということを、男は忘れていた。
「お気をつけ下さいまし!」
女の声が聞こえると同時に男は僅かに体勢を崩す。
好機とばかりに反撃にでる髭面の男。
咄嗟に防御の構えをする男だが、と、その時。
黒猫がしなやかに宙を舞ったかと思うと髭面の顔面に爪を立てて飛びつく。
叫び声も上がらない内に、今度は金狗が腕に噛み付いた。
―――結局、
痛そうな叫び声を残して、髭面の男は転げるように逃げていった。

「怪我は、ないか?」
青ざめて、不安げな面持ちの女にそう、声を掛ける。
女は、幽かに震えてさえいる。無理もないだろう……よほど、恐ろしかったに違いない。 こればっかりは、雨にかこつけてここに居座った意味があったと男は考える。
「あの、二匹に助けられてしまったよ」
そう言って、安心させるよう、微笑むと、女の方へと足を向ける。 と、ふいに、腕の中に飛び込んできたやわらかな感触に、男は慌ててしまう。
しかし、一瞬の躊躇のあと、男は女をしっかりと抱きしめていた。
腕に、熱と力が込もる。
女も、少し安心したように男に身を預けた。
「貴方が無事で……よう御座いました」
「……心配は、いらん。もう戻ってはこないだろうからな」
そう、やさしく云って子供をあやすように女の背をそっとなぜる。
女の美しい黒髪は、やさしく不思議な馨りがした。
暫らく、そうしていただろうか。
猫の鳴き声に女は我に返り、お見苦しい所を……と云って詫びた。

「……話したくなければ構わんが、いったいあの男はなんだったんだ?」
部屋に戻り、まだ愁いのとれぬ表情の女に尋ねる。
女は、重い口を開いた。
「随分先からこの庵を売れと……ある商人が云っていたので御座います。商人と申しましても……随分と悪どい事をして来たことで有名だと、伯父も云っておりました。目的は解かっております。この庵のどこかに、祖父の遺産があるなどと云う、妄執に取り付かれているので御座いますよ」
「遺産?」
意外な展開に、男はつい、問い返す。
「祖父は詩を良く詠み時折気が向いた時にそれを世に出しておりました。 それなりに名のある歌人として通っております。その詩の中に、どう解釈すればそうなるものか、 不老長寿の妙薬を隠した場所が記されていて、それがこの庵の近辺だとか、何だとか……」
不老長寿、ね。男は呟く
「そんなにいいもんだとは思わんがな」
人と、違う時を過ごすというのは、どんなに残酷なことか経験してみなければ解からない、か。
だた、そのばかげた噂の(ばかげているに決まっている)出所、というか由来は何となく分かるような気がした。 それは、女の祖父と、祖母自体が、あまりに長い時間を生きていたからであろう。
けして、不老不死であった訳でもなく、ここで暮らしていたであろう時は、普通の人間と何ら変わらないはずなのであるがなんらかの理由で噂が噂を呼び、いつのまにか『隠された不老長寿の妙薬』という形に落ち着いたのに違いない。

「妾はこの庵が好きで御座います。手放すなどと考えた事は御座いません。 この先ずっと、祖父が生きていた頃のように、この場所を守っていきたいので御座います……。なのに、今日きた男は……」
たおやかな中に、何処か気丈であると思っていた女は今、心細気に打ちひしがれている。
「借金の証文なぞ持ち出して……今すぐ返せ、でなければ立ち退けと」
「そんなものがあったのか」
男も思案顔である。ただ、暴力に訴えて来ているのなら、守ってやる事もできようが、法律的な立ち退き根拠があるのではどうしょうもない。
ただ、ひとつ気になることがあり、男は訊ねる。
「変なことを聞くが、ある程度の、その、年金のようなものがなかったか?祖母君にも、祖父君にも。それなりに豊かに暮らしていける量の」
女は少し驚いたように目を見開いたが、特に警戒するでもなく、素直に頷いた。
「はい、確かに在ったのは事実ですが、それは昔、ある惑星に大きな災害があった折りに再建復興のためにと全て寄付してしまいました」
それはひどく彼等らしい行為だった。亡き友人の人となりを思い出し、男はしばし感慨に浸る。しかし、現実的な問題が残っている。女は、話を続けた。
「生活は祖父が詩集を出し、その収入でまかなうつもりで。実際それで日々の糧に困るほどではなかったのですが、昔ここで暮らしていたわたくしの従姉妹が、重い病を得まして。その時の費用を借入しました。今でもその収入で月々返しておりましたが、でもあと4年もすれば返せるはずで御座いました」
しかし、今すぐ耳を揃えてと言われては、(くだん)の伯父と言う人を頼ってもおそらくは無理だろうと女は言った。
念のため、その金額を尋ねてみたがその額に、聞いた事を後悔する。生活の保障はされているものの、自分に今すぐどうこうできる額ではない。
「何らかの手を使って、証文を手に入れたのでしょう。口惜しゅうてなりません」
うっすらと、瞳に涙を浮かべつつも、悔しそうにきっと唇を噛んだ女の表情は本来の性格であろう彼女の強さと、そして美しさを引き立てていた。
彼女の力になれないものだろうか。
友人の愛した土地と、この美しい人を守る為に……。
男は思案し、そして、なにも思いつかぬ自分にため息を吐いた。

◇◆◇◆◇

その時、遠慮がちに近づいていた金狗に男は気付く。
その口に、白い紙を咥えている。
蒼穹の瞳は
「私とした事が、この様な不正を行うなどと、不本意ではあるが非常の折り故、致し方あるまい」
と言っている(ように男には思えた)。
その紙は……
「これは、その証文なんじゃないか?」
先程のどさくさに紛れて奪ってしまったのであろう。男は苦笑しつつ、女を見やる。
「まあ、公瑾……」
女も、どう反応していいやら、あっけに取られている。
呼吁(くう)……
「やはり、不正はいけなかったであろうか……」
と言って(いるように男には思えた)、少々自己嫌悪に陥っている声の公瑾の横から、すいっと黒い影が横切り証文を奪っていく。
「あ、孔明、お待ち」
女の声を無視して
啼唖(なあ)。(「ふ、何を悩む必要がある……」:男の脳内訳)
一声啼くとひらりと庭へでて、長雨でできた泥濘(ぬかるみ)のうえに紙を落し、さらに丁寧に、そのに乗っかり何食わぬ顔をしている。
吁啼(うな)
「私は……知らんな……」
そう言って(いるように男には聞こえた)。

いまや、証文は泥水の中でちぎれて、見る影もない。
なにやらいつもの喧嘩をしはじめた二匹をみやり、男は絶えかねたように声を出して笑うと言った。
「これは、また、頼もしい騎士殿(ナイト)が二人もいたんだな」
女も呆れた様に、恥ずかしそうに、でも笑みを浮かべて言う。
「いいえ。貴方様を入れて、三人に御座います」

思わず顔を見合わせたふたりの笑い声は、懲りずに喧嘩している二匹の騎士達の啼き声と混じって、静かな山中に響いた。


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◇「彩雲の本棚」へ ◇