海棠の夢

(四)――華、(ひら)


その日、山のふもとに住み、骨董商を営む彼女の伯父をふたりは尋ねた。
色々と心配も有るが、結局のところ、証文も消えてしまった事だし、おそらくは相手も諦めただろう、そうでなくても今すぐどうこうということはあるまい、という結論におちついた。
男は用心棒よろしく女について山を降りたが、その風貌ゆえに人目を引くこと甚だしかった。
話を終え、今後困るような事があればいつでも言って来ていいのだよ、と女の伯父は言う。 どうやら、前々からあの家を売れと言ってくる者がいた事を女は黙っていたらしい。
そして、いくら上がってくれといっても、玄関口で待つと言って聞かなかった男の方をちらりと見やると伯父殿は微笑んだ。
「なるほど、あの御仁(ごじん)が、父上の『金の蘭』ですか」
「……御分かりに、なりますか?やはり、そうなのでしょうか?」
「解りますとも、棠花(タンホア)。長い間、待っていた甲斐があったようだね」
そして、こう付け加える
「ずっとここに居て頂けるといいね。貴女も、そう思っているのでしょう?棠花?」
血筋だろうか、祖母に似て昔から、妙に鋭い所のある人だった伯父の問いに、少女のように赤くなり、俯いてしまう女であった。

◇◆◇◆◇

伯父殿の家を辞し、ふたたび燕子庵に向かう頃には、何時の間にか長く続いていた雨が止んでいた。
雲が破れ、そこから青磁色の空が顔を出す。
草木の葉に宝石の如く露が煌いている。
すでに日は西に寄り、その幽かに橙がかった色の太陽の光が空を一層に蒼く、山中の風景を一層に濃く、くっきりと浮かび上がらせていた。

ふたりは、ただ、言葉も無く山道を行く。
あの雨が、あのやさしい緑雨が……やまなければいいと思っていたのに―――

男は思う。 雨も止み、例の件に関しても伯父殿の協力があれば、得に問題はないだろう。
そうなれば。
―――俺が、ここにいる理由はもう、無い、か。
そして自分は続けるのだろう。まだ己にも解らぬ何かを探す旅を。
心の内を見せない様に、男は冷静に言う。
「戻ったら、俺はこのまま失礼しよう。雨も止んだ。もう、心配はいらんようだしな」
その言葉に、はじかれたように女が言った。
「いいえ、いいえ、どうか……せめて今宵一夜でも、御泊りになって行って下さいまし……」
その必死な様子に喉まで出掛かった言葉を飲み込む。
―――貴女には、待つ人がいる。……これ以上辛くなる前に、俺は……

「―――解った。では、明日の朝、立つとしよう」

◇◆◇◆◇

白檀の香の微かに馨る中、男は眠れぬ夜を過ごしていた。
静かな、夜である。
昨日までは聞こえていた雨音も当然ない。
そう、聞こえるとしたら春に霞む空に、淡く煌く星の囁きだけだろう。
目を閉じると浮ぶのは、女の……棠花のあでやかな笑顔ある。
困ったように首をかしげる以外に少女のようなしぐさ、ほつれた髪をそっと直す白い指。
黒曜石の如く煌く瞳、海棠の花房の唇……
心が痛む。
このまま、明日になれば自分は宛てのない旅に出る。
これからは。
―――彼女を忘れる為の旅になりそうだな。

ふいに、風が部屋に入る。
その方向を向くとそこに。
そこには。
女が立っていた。
はじめて逢った時と同じあでやかさで。

「―――」
言葉のでない男のもとに、音もなく、女は歩み寄る。
その(かんばせ)は、明日の別れの為に、愁いていいる。
ふわり。
女が歩むと風が起こる。
「おしえてくださいまし、明日にはここを去る御方。何故に妾の心が、こんなにも痛むのか……貴方は、妾の心も、連れていっておしまいになるのですか……?」
男は寝台に身を起こし、唯、女を見つめていた。
静かに、女の白い首筋に手が伸びたが、触れるか触れないかの瞬間それを押し留めるように下へ降ろすと男は目をそらし、心持ち苦しそうに言う。
「戻った方がいい。俺が……海棠の花のを散らしてしまわないうちに」
その言葉に、女は、いいえ、と首を振る。
薄絹の肩掛けがふわりと、香の馨る部屋の空気をはらんで落ちた。

「いいえ、私は花などではなくただの女 ―― 」


一瞬か、永遠か。
芳しい花の馨りをのせて春の夜風が部屋を渡ったその瞬間、男は、女の腕をつかみ引き寄せた。
風に飛ぶ花びらのように軽やかに腕に倒れ込んでくる女。
男の胸にしなやかに身を任せているひとの顎に指を掛け、そっと上を向かせると、しっとりと、そして次第に深く接吻する。
そして、その身をやさしく寝台に倒しながら、結い上げた髪の銀簪をするりと抜き取る。
長い、長いつややかな黒髪が夜の帳にも似て乱れて広がった。
部屋に響く、帯を解く間の幽かな衣擦れ。
薄絹のうちより露わになる女の滑らかな白い肌。
その鎖骨の線をなぞる指。
やわらかな乳房を這う唇に、紅に染まる肢体。
切なく零れいでる吐息。
それに反応したかのように愛撫が激しくなり、女の内側を指がまさぐる。
吐息と共にしなやかに身体がうねった。
そのあまりの艶やかさに男は耳元に囁く。

―――やはり、貴女は花の精だ

女は吐息のあいまに応える。
その白い腕を日に焼けた肢体に絡めて。

―――花の精、などと云ってくださいますな。
花に喩うと云うならば、妾は、春の緑雨に打たれて花開く海棠の花の如く、 一夜の夢であろうとも、貴方の腕の中だけで咲く花になりたいので御座います。

そして、身を貫く熱い想い。
ふたりはともに交じり合い、ねっとりとした芳しい花の香の中に―――

その夜、燕子庵の海棠が美しく咲いた。

ずっと、何かを探して旅をしていた。そして、これからもその旅は続くと思っていた……
男は思う。
けれど、もしかしたら自分は、この海棠の花に出会う為、長い時間を旅してきたのではないだろうか。
遥か遠い昔、生を受け、運命に随い長き時を生きた。
でも、それは……棠花(タンホア)……君が、この世に生まれ来るのを待っていただけなのかもしれない。

軒下に巣を作っていたのであろう、燕の雛の啼き声に目が醒める。
眩しい、光が開いたままの窓から入り込む。
カティスは目に入った庭の景色に微笑み、となりに眠る美しいひとの頬に触れる。
棠花は目を覚まし、そして、何かを思い出したように不安げな瞳でカティスの腕に寄り添った。
「……よう、御座いました。目が醒めて、まだ、貴方が居て……」
カティスはその言葉を紡いだ唇にやさしくくちづけ、庭を指差す。
庭に艶やかに咲く海棠。昨日まで、蕾のままであった。

「俺は、昨夜……海棠を散らしたわけではなかったようだな」

そう言って笑うひとに、棠花は真っ赤になって俯いた。

春雨に 濡れて 君こし草の門よ おもわれ顔の海棠の夕
(与謝野晶子「みだれ髪」より)

◇「(伍)――飛龍(ひりゅう)」へ ◇
◇「海棠の夢――目次」へ ◇
◇「彩雲の本棚」へ ◇