鏡の中の故郷
(8)



◇◆◇◆◇


階段裏のやり取りの後、すぐに執務室に戻らず青の中庭の方へ足を向けたのは特に深い理由があったわけではない。ただ、少し息抜きをしたいと思ったからだ。
明るい日差しの溢れる中庭に足を踏み入れようとしたとき、中庭を取り囲む回廊の柱の影、エンジュの横顔が見えた。
ついさっき、まさに彼女とのことを解決したいと思った彼にとって、少なくともこれは窮地ではなく好機であるはずだった。けれども急に鼓動が早くなり、手のひらにじっとりと汗がにじむ。
そもそも、いったい何を、自分は彼女と話したいのか。
鏡のこと?それとも自分自身が抱えるいくつもの迷いについて?けれども、ティムカが何かに迷っていることがいったい彼女に ―― なんの関係があるというのだろう?
次々に浮かぶ自問の答えを見つけられずにいるうちに、柱に隠れていたもう一人の人物が目に入る。チャーリーだった。
思わず身を隠す。何故隠れたのか、ティムカはその理由が自分でもわからなかった。
二人は親しそうに話している。
「頼まれてたもの、持ってきたでー」
チャーリーがエンジュに手渡したのは、唐草模様の風呂敷だ。昔から、チャーリーが愛用していた記憶があった。
「あっ、可愛い柄ですね!お花の模様ですか?」
「おお、お目が高い!そう言ってくれるん、エンジュちゃんくらいやでー。みんな、一目見るなり『うわ、ダッサ!』とかいいよるし。ひどいと思わん?」
「…… みんな、って誰ですか?」
「ええと、オリヴィエ様やろ、オスカー様やろ、レオナードやろ、セイランやろ、レイチェルやろ、口調と言い回しは違うとるけど、ロザリア様やろ、リュミエール様やろ、両方の陛下やろ、メルちゃんやろ、フランシスやろ、他にも ……」
「あーもういいです、もういいです!そこまでとなると、むしろ、私、自分のセンスを疑うべきかも ……?」
「そういわんといてー。俺のセンスも疑われとるっちゅうことやん〜」
「でも、ともかく助かりました。これで割れないようにうまく包めると思うんですよ」
「せやろ?せやろ?生活の知恵やねん。そういや、この風呂敷の柄、可愛いゆうてくれた子もうひとりおったわー。誰やと思う?」
「えっ、なんですか、そのすごい含み笑い!」
楽しそうな二人の会話はまだ続いていたが、ティムカはそっと、その場を離れた。

執務室に戻り、ひとり考える。
エンジュと話し、鏡のことの詫びを伝えるちょうどいい機会だったのに、身を隠しあまつさえそっと離れた理由はいったいなんであったのか。
許してもらえないことを今更恐れたりはしない。ただ、自分や自分との過去の出来事が、彼女の中で取るに足らぬこととなってしまっているのが怖いのかもしれなかった。
ずいぶんと、自分勝手な言い草だった。
チャーリーと親しげに話していた彼女の笑顔を思い出し、チリチリとした胸の痛みを感じる。
物事には何事にも相応しい時期がある。おそらく自分は、その時期をとうに逸してしまっているのだろうと思った。

「なにやら、思案顔だね」
いきなり声をかけられて(おもて)をあげると、執務室の入り口付近でセイランが壁を叩いて鳴らしている。
「いくらノックしても反応がないから、勝手に入らせてもらったよ」
ティムカは慌てて立ち上がり、椅子を勧めた。
「すみません、ぼうっとしていて。何か火急の用事でも?」
「いや、お茶でもどうかと思っただけだけどね。でも少し気が変わったかな」
彼は入り口付近の壁に寄りかかったまま椅子は要らないといった身振りをして、普段の皮肉屋、毒舌家の彼しか知らぬひとから見れば意外に思うであろう、穏やかな表情をしてみせた。
「流石にそろそろ必要ないかもしれないけど、まだ一応保護者のつもりではいるんだ」※4
昔聞いたことのある台詞に、思わず笑みがこぼれた。
「そうやっていろんな人に気にかけてもらって、甘えさせてもらっていたこと、今更気が付きましたよ。三年前よりもむしろ今、の話ですけれど」
「へえ、いいんじゃないかい。今でも十分、甘えていい歳だと思うよ。ましてや今まで、誰かに甘える機会なんかなかったんだろう?たまには我侭の一つでも言ってみたまえ」※5
自由になっていい、泣いていい、怖くていい、誇りを持っていい、言いたいことを言っていい、迷っていい。
ティムカに許された、沢山のこと。だからきっと。
「甘えていい、皆はそういってくれるのでしょうね。でも、いつまでも甘えたままというわけにはいきません」
「ま、君ならそう言うだろうね」
ティムカが微笑み、セイランも笑んだ。ふと、懐かしい気持ちになった。三年前の神鳥の聖地での日々を、思い出したからかもしれなかった。
「……そういえば。神鳥の聖地で教官をしていた頃、ホームシックになった僕に、セイラン、あなたが言ってくれた言葉がありましたね。覚えていますか?」
「ふうん? なんだっけか」
興味なさげに言うものの、きっと彼は覚えているに違いないと、ティムカは信じていた。
「泣きたいほどに帰りたいと思う場所があるということは、幸せなことだと。皮肉ですね。今になって、その本当の意味を知った気がします」
少なくともあの時、その帰りたい場所こそが、帰れる場所であったのだから。
「言ったような気もするね。でも、残念ながら、状況が変わった今となってはその時の言霊は失われてしまっているだろうけど。君が本当の意味を知ったのだとしても。それに」
彼はちょっぴり楽しげに笑んで続けた。
「今の君の物思いの原因は、べつにホームシックなわけではないんだろう?君からこうやって、故郷の話題が出るのが何よりの証拠だね」
お見通しのようだった。なし崩しにエンジュのことまで白状させられてしまう前に、話題を変えようか、それともいっそのことぶちまけてしまおうかと迷っていると、新たな訪問者が現れた。今度は、扉を叩く音が聞こえなかったわけではない。扉は叩かれる前に、勢い良く開かれたのだ。
「おい、ティムカいるか!」
おや、役者が増えたかな、と、セイランがひとりごちたが、訪問者――ユーイは、わき目も振らずティムカの方へと歩いてくる。
「これ、見てみろ」
いきなり差し出されたのは、美しい海の描かれた一枚の絵葉書であった。
「エンジュが持ってたんだ」
当然出てきた名にどきりとしたが、取り繕う間も必要もないほどに、ユーイが畳み掛ける。
「あんまり綺麗な海だったから、目に付いた。で、この間の貝殻と同じなんじゃないかと思ったんだ。エンジュに、それはティムカに渡したいんじゃないか?って聞いたら少しだけ間があって『違います』って言うんだ。だからこれはお前が持ってるべきだ」
ティムカは一瞬、彼の言葉を聞き間違えたか、聞き逃したのではないかと疑った。エンジュが『違う』言った海の絵葉書が、なぜ自分に渡されるべきもとの彼が判断したのかがわからなかったのだ。
「ええと、なにが、『だから』なんですか?」
「きっとこの絵葉書はお前に見せるためにエンジュが用意したんだと思った。でもなんか理由があってやめたんだろ。この間の貝殻と同じだ。それが『だから』」
「な ―― 。何故」
あまりに無理矢理な論理の飛躍だった。しかし、ユーイはその理由をたった一言で片付ける。
「なんとなく」
「くっ」
セイランが、耐え切れぬように噴出して、その後に肩を震わせてくつくつと笑っている。
「あれ、セイランいつからそこにいたんだ?」
「君がここに来る前からいたつもりだけど。まあ、気にしないでくれないか。楽しいからこのまま見物させてもらうよ」
「そうか? じゃあ気にしないでおくぞ」
と、ユーイはまたティムカに向き直る。少しは気にして欲しいと思ったが、口には出さずにおいた。だから黙って、手渡された絵葉書を見る。描かれた海岸線、遠くに浮かぶ珊瑚礁の形に見覚えがある。白亜の海だった。
エンジュはこれをティムカに見せるのを理由があってやめたのだと、ユーイは言った。そう思った根拠を問えばきっと『なんとなく』という言葉が返ってくるのだろうが、もし彼の言い分が正しかったのだとしたら?
貝殻も、絵葉書も、ティムカを気にかけるような何かを持ちながら、決して彼女は彼の前に現れない。
ティムカは目を閉じ、考える。彼女の思い、彼女の心、彼女の決意。
彼女は少しだけ間を置いて『違います』と答えたのだと、ユーイは言った。そう聞いて思い描いた姿が、記憶の中の情景と結びついた。
いつだったか白亜の塔の上で
―― こんなに美しい星で育ったんですね
そう言ったひと。厳しい表情で彼女は続く何かを飲み込んでいた。後には、こう続くのではなかったのか。『その星を去らなければならない、辛い決断を迫ってごめんなさい』と。
けれども彼女は自分の意志で、その言葉を押しとどめたのではないのか。
時に謝罪はただの言い逃れになると、彼女は知っていたから。
実際彼女が謝ったところで、あの時点でのティムカの心は軽くはならなかったろう。一層重荷が増えるにすぎない。だからこそ、自分の心を軽くするだけの言い訳的な謝罪など口にせずに、すべてを飲み込むことで、ティムカと痛みを分かち合ってくれていたに違いない。
何故その答えに行き着いたのかと問われても、それこそユーイと同じようになんとなくとしか言いようが無かったが、この答えを得て、ようやく抜けていた欠片の一部が、ぴったりと嵌ったような気がした。
自分に言い訳を許さないでいるのは、どれだけ苦しかったろう。
そして今もなお、彼女は苦しさを抱えながら、見守っていてくれていたのかもしれない。ティムカがこの場所で、自分自身の足で歩き出すのを。
だから多分、自分も彼女に会って話すべきことは、言い訳でも謝罪でもないのだろう。自分自身が楽になることを目的に彼女に会いに行ってはいけない。
「この絵は、私の故郷の海です」
たったこれだけの情報の中に、ユーイが何かを感じ取ったようだった。
「お前さ、守護聖拝命の説得をしたエンジュに、まだわだかまり持ってるのか? だとしたら、それ、お門違いだろ。経緯はどうあれ、今お前がここにいるのは、お前自身が選んだことだ。男なら自分の行いに責任を持てってじいちゃんが言ってた」
「言われなくてもわかっています」
「だったら、すべきことは一つだと、思うぞ」
ティムカは頷いた。エンジュの所へ行くべきなのだろう。
偶然のきっかけを待つようなまねはもうすべきではない。
自分から足を踏み出して会いに行くのだ。不安は消えない、迷いは消えない。けれども、器の無くなった自分が、ようやくあなたや皆のおかげで歩き出すことができたのだと伝えに行くのだ。
そこからでなければ始まりもしなければ終わりもしない。
「彼女に嫌われたかもしれないとか、もう彼女にとって興味の無いことなのかもしれないとか、考えてためらっている場合ではありませんね」
彼女を探しに行こうと、ユーイの前を横切りかけたとき、開け放たれたままの扉の向こうから声が響いた。
今まさに、探しに行こうと思っていた人の声だった。
「ユーイ様、返してください!」
「ユーイならここだよ」
入り口付近の壁に寄りかかっていたセイランが、廊下側に向かい言った。
ばたばたとした足音についで、 「ユーイ様ッ!」 唐草模様の風呂敷包みを抱えたエンジュが姿を現す。
ティムカが何かを言うより早く、盛大な悲鳴が轟いた。
「きやあああああああ、ティムカ様がいる!っていうか、部屋を隣と間違えました!!!」
「俺はここにいるから、間違ったとは一概に言えないぞ」
暢気に言ったユーイをエンジュはきッと睨みつける。
「そういう問題じゃないし!っていうか、ユーイ様、ありえない!葉書、ティムカ様に渡すとか!」
そして、エンジュとティムカの目があった。彼女は一瞬顔を赤くしてから、青くする。
「きゃー!ごめんなさい、ありえないってのはヘンな意味じゃないです。いや、変な意味っていうか、あああ、自分で収集つかないから逃げます!失礼しますッ!」
「エンジュ、待ってください!」
引き止めた言葉もむなしく、疾風のように彼女は走って消えた。
嵐が去ったような後の呆然とした間をおいて、しれっとセイランが口を挟む。
「興味が無かったり、嫌っていたりした場合は、ああいう反応にはならないだろうね」
と、ユーイが不満そうな声でさらりと重要なことを言った。
「あーあ、損な役回りだな。俺もエンジュのこと好きなのに」
「くくっ」
セイランが、また肩を震わせて笑い始める。
こんな風にあっさりと言ってしまえる友人を羨ましくも思い、羨ましいと感じたからこそ、ティムカは己の心を自覚せざるをえなかった。
俺”も”エンジュのこと好き
ユーイはご丁寧にティムカの気持ちまで含めて言い切ったのだから。
彼女が好き、なのだろうか。
好きなのだろう。これまでの不可解な胸の痛みも、躊躇いも、ひっかかりも。その一言で全て説明がつく。
「ここで付け込んで、自分の有利になるよう仕組もうとか考えもつかないところがユーイ、君の美点だよ」
「そうなのか?よくわかんないけど、礼を言っておくぞ。ありがとう」
二人の妙に安穏とした会話に割って入った。
「ユーイ、この件に関しては私も譲れないようなので、すみませんとはいいません。貸しにしておいてください」
「友達だろ。貸しとか水くさいこというな。そもそもエンジュは物じゃない。俺はそういうの嫌いだ」
「水の守護聖だけに、水くさい」
セイランが飄々と微妙な駄洒落を披露している横を、反応する余裕もなく横切りかけると、ユーイが呼びとめた。
「追いかけるなら、こっちの方が早いぞ」
彼が指し示したのは、窓だった。確かに、宮殿裏手の森に駆け込んでゆく赤い服の後ろ姿が見える。
けれども窓から飛び降りるという発想がそもそも無く、ティムカは僅かにひるんだが、これしきの無茶ならむしろ進んでやるくらいでいいのではないかと思い直した。
身に着けていたいくつもの飾りを外した。重く縛りつけていたものは、もう何もない。
軽くなった身を、窓から乗り出して高さと周囲を確認する。
宮殿の二階はそれなりに高かったが、窓の近くに張り出す木の枝に一旦掴まってから降りれば、受け身を取る必要もなさそうだった。
白亜宮にいた頃であれば、第一級の緊急時 ―― 刺客から身を守るといった状況、しかも近衛もなく単独で対峙した場合 ―― のみ許される行動だな、と考えて、少しだけ可笑しくなった。
けれども、緊急度という意味では、今この時も十分に緊急だ。
窓枠を乗り越えようと手をかけたティムカに、本気か冗談かわからぬ声でユーイが言った。
「お前があいつのこと泣かしたら、俺が横からかっさらうから。そのことだけ覚えとくといいぞ」
それはあまりに堂々とした宣戦布告であったのか、あるいは『だから泣かすな』という比喩であったのか、両方であったのか。
恋心を自覚したばかりの今のティムカの立場で、泣かすなと言われてもどう反応するべきか迷いはしたが、振り向きざまに見えた友人の曇りのない笑顔が、特別な返事はいらないことを教えてくれた。
「ユーイ、そしてセイランも ―― ありがとう」
僕は何もしてないけどね。そんな声を背に、ティムカ窓枠を強く蹴った。


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※4:バラエティCD「White Dream」内、CDドラマ「白銀の騎士」のエピソードより
※5:CDドラマ「聖地に吹く風」内、セイランのティムカに対するセリフ引用