鏡の中の故郷
(10)



◇◆◇◆◇



宮殿の裏手にある森は、奥深くまで入り込まなければ、日の差し込む明るい森だ。散策するための道が程よい曲線を描いて、木漏れ日の合間を縫っている。
その中を、ティムカはエンジュの姿を探してひた走った。
彼女に色々なことを伝えたかった。言い訳も謝罪もするつもりはもうなかった。ただ、そのままの自分を見てほしかった。
ふと自分以外の葉を踏む音が聞こえた気がして、ティムカは立ち止まる。あたりを注意深く見回すと、小道を少し外れた大樹に隠れて、赤い背中が見え隠れしている。
「エンジュ」
声をかけると、肩がびくりと震えた。かと思うと、彼女は後ろ姿のまま木の根元にしゃがみこんで頭を抱えだした。
「あーもう、あんな間抜け晒して、どの面下げて顔合わせればいいんですか」
彼女の仕草や言葉が、ひどく愛おしい。不思議なもので、一度自覚してしまえば彼女に対する思慕はあまりに自然に存在しているようだった。
ティムカは励まし半分、本音半分の心持ちで言った。
「会わせる顔がなかったのは、むしろ私の方です。それでも勇気を振り絞ってここまできました。どうかその(ねぎら)いと思ってあなたの愛らしい姿を見せてくれませんか」
エンジュは驚いたのか勢いよく振り向いた。頬にほんのりと赤みが差している。どうやら彼女をこちらに向かせることには成功したらしい。
「って、ティムカ様ってそういう台詞吐く人だったんですか!?」
彼女の問いには直接答えず、ティムカはにっこりと微笑んだ。
「よかった、こちらを向いてくれた。あなたとこうして向き合うのが、とても久しぶりな気がします」

話は長くなりそうだった。散策路沿いに置かれた長椅子に、二人で座る。エンジュが落ち着きを取り戻すまでにまだ時間がかかりそうだ。相反して妙に冷静になって空を見上げれば、木の葉の合間から見えるそれはいかにも聖地といった風情の穏やかな青だった。ティムカが聖地の空は聖獣も神鳥も変わりませんね、そうつぶやくとエンジュが首を振った。
「雪の日も、風の日もあったんですよ。変わらないように見えるなら、それはそこに至るまでの陛下や皆さんの決意があったからです」
空の青が、心に沁みた。散々迷い、悩んで、道を見失いかけていたが、少なくとも彼女はここにいたことが無意味ではなかったと教えてくれている。けれども彼女の言葉には一つの欠けがある。わざとなのか、単に気づいていないのか。おそらくは後者であろうと、彼女に知らせるために言い添えた。
「もうひとつ。あなたの決意も、ですね」
ティムカの言葉に、エンジュが驚いたように目を軽く見開いてから微笑んだ。落ち着きを取り戻せたようだったので、ユーイから預かっていた絵葉書を手渡す。
「これを、先にお返ししておきます」
エンジュは頷き、受け取った。
「差し上げます、って言えばいいのかもしれませんが、私も気に入ってるのであげません」
彼女は絵葉書を大切そうに胸に当てている。
「とても懐かしい風景を見せてもらえて、幸運でした」
苦しさがないといえば嘘になるが、もう大丈夫と言う気持ちをこめて言った後、きっかけは事故みたいな感じでしたけど、と続けて笑って見せた。エンジュもほんと事故みたいでしたね、と肩をすくめる。けれどもこの事故は、きっと必要な切っ掛けだったのだ。
笑顔を消して改めて名を呼ぶと、彼女は微かに不安そうな表情で彼を見た。
「故郷を去る日に鏡を割るようひどい言葉を投げかけたこと、あなたに重荷を背負わせたのではないかと、ずっと後悔していました。あなたに謝罪する機会を伺っては怖気づいて時間がたち、今日の日まできてしまった。けれど、伝えるべきことは謝罪ではないのだと今は理解しています。ただ ―― 色々と、甘えさせてもらってありがとう、と」
安心したような笑顔がこぼれた。
「よかった。ティムカ様がそういってくれるなら、私も謝らずにいてよかったんだって思えるんです。ごめんなさい、って言ってしまえたら楽だったけど、一生懸命我慢した甲斐があったから」
やはり、自分の苦しさを消すための謝罪をせずによかったのだと、そう思った。長い逡巡や遠回りをしたが、この結論に達するためには不可欠な時間だったのだと今ならわかる。
「あと、ひどい言葉を投げかけたと仰るけれど、本当に傷つけようとしていった言葉ではないことくらい、わかります。ティムカ様のほうが、傷ついた顔をしてた」
結局、鏡を割る姿を正視できずに場を去った自分を思い出していた。彼女には、全てお見通しだったらしい。
しばしの間の後、彼女はゆっくりと語りだした。
「エトワールに選ばれたとき、何故自分なんだろうっていっぱい考えました。行き着いた答えは、特別だったから、では無いということ。たぶん、逆。
未熟で愚かでありふれた魂だから。
ありふれているけれど、私と全く同じ人はいない、たった一つの自分だから。
聖獣にもそういう、ありふれてるけど同じじゃない魂が沢山いて、そういう魂が寄り集まって星になって宇宙になってる。 ごくありふれているからこそ、そういう全てのものの代表になれるんじゃないかなあって。
そんな答えが出かけた頃、皆さんの説得をする任務の打診を受けました」
これから語られるであろうことを予測して、かつて選べなかった国を思う。隠し切れぬ胸の痛みを感じて視線を落とした。けれどももう、同じ痛みを彼女も感じていることを知っていた。だから自分自身をごまかすことはせず、静かに耳を傾ける。
「宇宙が辛いとき、私も辛かったです。宇宙が元気になると、私も元気になりました。
だから私、自分から志望しました。聖獣の多くの人のために、守護聖の誕生を望んだんです。このことが宇宙という規模では些細でありながら、人々の生活という点で決して小さくない影響を与えるであろうことは判っていました。ティムカ様をはじめ、色々な立場の方がいらっしゃいましたから」
静かな声とは対照的に、彼女の指はせわしなくひざの上で抱えていた風呂敷の唐草をなぞっていた。
「辛い思いをさせたこと、もちろんわかっています。わかった上で、した方が良いと思ったことをしたまでです。 だから、使命だからだとか、運命だからだとか、そんな言葉で言い訳はしません。過酷な未来を突きつけて苦しめてごめんなさいだなんて、言い逃れのような謝罪もしません」
まっすぐな目、厳しくも決意を秘めた表情。彼女の横顔はとても美しかった。
十数年の時を経て、伝説の姫君の気持ちが理解できたかもしれないなどと思っていた自分。目の前にいる、少女の決意と痛みをどうして汲むことができなかったのか。
ティムカは過去の自分を怒鳴りつけたい気持ちになったが、あの時の愚かさに気づけることが大事なのだと考え直した。
彼女の強い覚悟が、きっと自分を支えてくれたということ。ごめんなさいと言われて仕方なく来た道ではない。自分自身で選んだ道だからこそ、何かを言い訳にして逃げることなくこの先に続く未来を望むことができるということ。
それらのことに、やっと自分が気づけたと言うこと。どうやって伝えようかと考える前に、ティムカはエンジュの手に手を重ねていた。
「もう一度、伝えさせてください。ありがとう」
痛みを分かち合ってくれたこと。時に不安を抱えながら、同じ場所に立って、同じ未来を見てくれたこと。
エンジュはもう一方の手を、ティムカの手に重ねる。多くの言葉を費やすよりも、伝わる何かを感じた。
と、エンジュが意を決したように頷いて、手の上の温もりを離すと同時に、膝の上に置いていた風呂敷包みを持ち上げた。
「なら、これをお返ししてもいいですか?」
「チャーリーさんの風呂敷 …… ですよね?」
ティムカの問いかけに、彼女は頷かなかった。
「鏡を割るという行為が、ティムカ様にとってどういう意味があることなのか、私にはわかりませんでした。でも、割るのは違うんじゃないかって思って」
彼女の細い指が、風呂敷の包みを解いた。現れたのは、驚いたことに割れたはずの鏡だった。
鏡面に、聖地の空が写っていた。エンジュが、皆の決意がもたらしたと言った青い空だ。
「この宇宙を愛して欲しいです。けれどもどうか、無理に故郷を忘れるようなこともしないで。ティムカ様、あなた自身の心のために」
古の王が嫁いできた娘に言った言葉が心に浮かんだ。
『懐かしむをどうして未練と責められよう』
言い伝えを知らぬはずのこの人が、誰よりも鏡が存在する理由を知っている。そのことがとても嬉しい。
ああ、彼女も忘れなくていいと言ってくれるのだ。
そう思うと、胸がつまり、少しだけ、泣きそうになった。おそらくここで涙を見せてもエンジュは笑わない。自分は泣くことを許されているのも知ってはいたが、ティムカはあえて涙を堪えた。
泣いてはいけないと思ったからではない。ただ、たいていにおいて、少年は好きな少女の前で涙を見せるのを堪えるものだ。
「ずっと、故郷のことを忘れなければ、この宇宙は愛せないのだと思っていました」
「ティムカ様 …… 」
「そんな顔はしないでください。もう、それは間違っていたのだと気が付くことができたから。 痛みも迷いも、抱えていていいのだと気づきました。いろんな人が自分を支えてくれていたことも。 もちろん、あなたもです」
ティムカが以前ユーイから貝殻を渡されたことを打ち明けると、エンジュは目を丸くした。それから、先ほど大樹の根元でしていたときのように頭を抱え込んだ。まさか貝殻もティムカの手に渡っているなどとは夢にも思っていなかったのだろう。
「…… 一度、ユーイ様を〆ても許されるでしょうか ……」
それなりに迫力のある声での呟きは、彼女にとって笑い事ではなかったのかもしれないが、ティムカにとっては微笑ましい。
「どうか、怒らないで下さい。私はあの貝に救われたようなものですから」
「でも、私、もう少し時間を置こうって思ってたのに」
彼女の気遣いを嬉しく思いつつも、やはり自分にはあの機が相応しかったのだろうとティムカは感じていた。荒療治ではあったが、沢山のことに気づくきっかけを、友人はくれたのだ。
「あの貝は、こちらの宇宙で得られたもの、ですよね?」
エンジュは諦め顔で頷く。
「そしてユーイは、こちらに来てはじめてできた同じ年頃の友人です」
彼はティムカが故郷で何人(なにびと)であったのかを知らない。立場の違いから来る遠慮も気遣いも必要ない、ひたすら正面から向かい合う人間関係というものを、ティムカははじめって知った。三年前、神鳥の聖地での出会いが、唯一の例外だったかもしれないが、ティムカ自身が王太子や王という器を、全く無かったことにして接していたかと問われれば、自信が無かった。
「この宇宙がなければ、あの貝は生まれなかった。同じように、友との出会いもなかった。エンジュ、あなたと出会うこともなかったろうと思えば、この宇宙を大切に思わずにはいられません」
このことについては、もうなんの迷いも無かった。割れぬまま、自分の元へと帰ってきた故郷の鏡を受け取ってひざの上に乗せると、鏡面に自分の双眸が写りこむ。
このティムカの様子を見て、エンジュが思いもかけないことを言った。
「ティムカ様、私に色々してもらったとばっかり思ってたかもしれませんけど、私も、いっぱい勇気貰ったんですよ」
「え?」
「『なんでもありません、大丈夫ですよ』って。いつも言っていたでしょう。国の、周囲の人たちに。なんでもないわけ、ないじゃないですか。悩んでるし、迷ってるし、苦しんでるのを、私は知ってた。でも、それを表に出せない立場にティムカ様はいたわけで。出せないから出さないでいる強さとか、優しさとかが、すごく ―― す」
この時、彼女は『す』に続く何かを言いかけてから、慌てて言い直す。
「すごいなって。説得に行った私に対しても、嫌な顔一つしないでくれて。もっと厳しいこと言われるんじゃないかとか、つまみ出されてお終いになるんじゃないかとか、最初は本当に緊張してたから、笑顔で穏やかに迎えてもらって、私、本当は泣きそうだった」
今だから言えますけど、と彼女は照れながら言う。
優しさを司るに足る人間であれるかと、そう思ったことがあったが、他でもないこの少女が、自分では不甲斐ないばかりと思っていた彼の中に、強さや優しさを見いだしてくれていたことが嬉しかった。
一方で、改めて自分は自分のことしか見えていなかったことを知った。今、隠すことなく『本当は泣きそうだった』と言った彼女。
自分のことで精一杯で、それでいてしっかり自分自身と向き合おうとすらしなかったティムカに、彼女の心は見えていなかった。
―― 多くの迷いを抱えながら、故郷を離れているのは、彼女も同じだったのに
かといって、彼女に同情するのは違うのだろう。自分で強く言い切ったとおり、苦しさを抱えながらも彼女は自分自身で選んだ道を、強く歩んでいるのだ。
「私を優しいと仰ってくれるのは嬉しいですが、あれが本当に優しさだったかどうか。 弱い姿を表にさらけ出すのが怖かったのです。迷ったり苦しんだりしていることを悟られるのが怖かった」
「でも、悟られるのが怖かったのは、悟られて皆に心配かけたくなかったからでしょう?だったら、やっぱり優しさなんだと思いますよ」
でも、と。否定の言葉を口にしかけたとき、『謙遜は必ずしも美徳ではない』というジュリアスの言葉が脳裏に浮かんだ。と、同時に何故か同時に思い出すのがいささか申し訳ないような人物の言葉も。
優しさなどではないと否定してしまうのは簡単だ。けれどもそれは、自分にとってただの楽な道への逃げではないだろうか。彼女の言葉を受け入れて、評価に恥じぬ自分になれるよう、これからも努力していけばいい。
『おまえのやりたいことってなんだ』
今ならば、答えられるかもしれなかった。答えはなりたい自分になること。
「あなたの評価はまだ過分に思えますが、あなたに対して、恥じぬ自分になれたらいいと思います」
エンジュはへへっと笑い、なんだか照れちゃうな〜と顔を覆う。その仕草に、ティムカも心が騒いで視線を落とした。膝の上に置いていた鏡に、少しばかり頬に赤みが差した自分の顔が映っている。そういえば、と彼は不思議に思う。重苦しい数々が解決してしまえば、妙に些細なことが気にかかるものだ。
「あの時、何かが割れたような音を聞いた気がするのですが」
まさか、心の中の音ではあるまい。
「ああ、あれは素焼きの壷です。この鏡はきっと割ったらいけないと思って、代わりに割りました」
「壷?」※6
「ええ、壷。まとめ買いしちゃったんで、いつも持ち歩いているんです」
と、彼女はどこからともなく二つ目の風呂敷包みを取り出し、中から壷を三つほどひっぱり出した。本当に持ち歩いているらしい。
「あ、いります?」
「いいんですか?」
「ええ、基本的にティムカ様にあげようと思って買ったものなので」
彼女はポン、と素焼きの壷をティムカの掌の上へ置いた。
造作に置かれた素焼きの壷をまじまじと見ていると、彼女が思い出したかのように風呂敷包みをつまんだ。
「そういえば、ティムカ様コレ、可愛いって思います?」
「え?ええ。シンプルな色合いなのに、模様の中に良く見ると葉っぱや花が隠れていて可愛いと以前思ったことはありますが」
「よかった。私と一緒で。ティムカ様と一緒なら、センスがヘンとか言われても、私耐えられます」
会話の中で、三年前、チャールズに同じ事を伝えた自分を思い出す。そして、ついさっき、青の中庭を囲む回廊でなされていた会話も。
『この風呂敷の柄、可愛いゆうてくれた子もうひとりおったわ』
考えてみれば明瞭だった。女王と補佐官、エンジュとメルが除かれた条件で、彼が『子』と表現する人物は、限られる。なるほど、それは自分のことだったのだ。
割られていなかった鏡、風呂敷包みの唐草模様、掌の上の壷、こんなものをいくつもまとめ買いして持ち歩いているというエンジュ。
軽快な馬鹿馬鹿しさと、愛おしさ。おのずと、腹の底から笑いが込み上げてきた。
くつくつという抑えた笑いから、耐えられず、ついにはあははと声が出た。つられたようにエンジュも笑い出す。
「でも、やっぱり、唐草模様に関しては自分のセンスを疑った方がいいのかしら。ティムカ様も自分の感性疑った方がいいかも」
「だとしても、私も貴女と一緒なら、センスがヘンといわれても耐えられますよ」
笑いすぎて目の端に浮かんだ涙を指で拭いていると、エンジュが微笑を浮かべた。
「よかった」
「?」
「そんな風に声をだして笑うの、初めて見ました。初めてお会いした時も、常に笑顔でしたけど、笑うべき所だから笑っているようで。やっと、本当のティムカ様に会えた。ずっと、会ってみたいって ―― 思っていたから」
「私もです。ずっと、貴女に会いたかった。貴女はいつもそのままの貴女でいてくれたのに、ずっと私の心が曇ったままだったから」
しばし見つめあった後、再び彼女が照れて、俯いた先のティムカの持つ鏡に視線をそらす。ティムカが彼女の視線を追うと、そこには鏡を覗き込む互いの姿が映っていた。鏡の中で、また目があった。エンジュがとってつけたように訊ねてくる。
「私、何も知らなかったんですけれど、何か謂れのある鏡 …… なんですよね?」
「ええ、覗けば故郷が映ると言われています。あるいは、『大切な何か』が」
「へえ、私の故郷(ふるさと)も映るかな」
好奇心を隠さず鏡面を眺める彼女を見つめながら、ティムカは母の意図を再び考える。
「ひとつ、気になっていたんです。母は、あなたにこの鏡を手渡す時に、何か言いませんでしたか?」
エンジュは首をかしげる。
「『いずれ、あなたの手に渡るかもしれないけれど』と、笑顔で。確かにあの後ティムカ様に割って欲しいと手渡されたから、そういうものかと思ったんですけど、ちょっと状況とお母様の笑顔とがそぐわなくて、気になってはいたんですよね」
しばし考えた後、母の言葉の意味にたどり着き、ティムカの頬がかっと熱くなった。
鏡の持つ、もう一つの意味。それは、代々の王妃が持つべきもの ―― 。
赤くなって黙ったティムカに、エンジュが怪訝そうに聞いてくる。
「ティムカ様? 他にもなにかあるんですか?」
すぐに教えてしまいたい気持ちもあったが、自覚したばかりのこの恋で、実際に伝えられる言葉は多くはなかった。
「……いつか、話します」
「いつか、ですか?」
「ええ、いつか」
「じゃ、待ちます。その、いつかを」
にっこりと笑った彼女と、鏡越しではなく、直接視線が絡み合う。
彼女の紅の瞳も頬も、言葉で表せないほど美しいという点で、白亜の夕日に似ているとティムカは思った。
―― あの色を一度みてしまったら、じかに触れずにはいられないです
心に浮かんだのは、いつかのエンジュの言葉だ。その気持ちが、とてもよくわかる気がした。なめらかな頬に触れたくなって、触れてもいいですか、などと聞く前に彼女の肩を抱き寄せる。
「けれども、今伝えたい言葉もあるんです」
そっと耳元で、彼女への思いを打ち明ける。耳まで赤くなった彼女は、こつんとティムカの肩に額を寄せた。
伝説の鏡は、見守るように鎮座して、二人の姿を映し出す。
いつか、彼女の故郷も見てみたいと思った。
いつか、白亜の海に落ちる夕日を見せたいと思った。
それは、遠すぎる未来かもしれなかったが、切なさやむなしさよりも、考えただけで心躍るような、希望に満ちた将来の夢だった。
焦る必要はない。なぜなら鏡は、こんなにはっきりと映し出している。
幼い日、母に『今のあなたにはまだ見つかっていない』と言われた、大切な何か。
彼は今、それをようやっと、見つけ出すことができたのだ。


―― 終


◇◆◇◆◇



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※6:エトワールにおけるティムカ説得時の必須アイテム。みんな大好き素焼きの壷(安いのに効果が高いから)。
2013/5/5加筆再録