鏡の中の故郷
(8)



◇◆◇◆◇


翌、土の曜日の午後。ティムカは再び神鳥の聖地を訪ねた。先日の礼と侘びという名目でジュリアスと会うためである。執務時間外であったが、彼は私邸ではなく執務室にいた。
ティムカの訪問の意図を聞いたジュリアスの反応を見るに、既にユーイの訪問を受けた後のようだった。
「馬達との信頼関係も築けている様子ゆえ、確かに乗りたいと思ったときはわざわざ私に許可を求めずとも、馬が良いと言えば良い、とは伝えてあったが」
まさか執務時間中にしでかすとは思っていなかったのだろう、彼は苦笑を浮かべた。
「守らねばならぬ規律というものがあるのだと、かの者には伝えておいた」
ということは、ユーイはお説教を食らった後だったのだろう。ティムカは頭を下げる
「申し訳ありませんでした。元を(ただ)せば私を心配してくれてのことだったのです。お叱りならば私が受けますので、彼に対してはどうかご寛大に」
「わかっている」
頭をあげて目に入ったジュリアスの表情は、既に穏やかに笑んでいた。
「そなたにとって、必要なことだったのだろう。
かの者も、きちんと謝罪をした上で、必要だと思ったからしたのだと、何らかの罰則があったとしても後悔はせぬと申していた。
馬に関しては、言ったように元から許可していたものであるし、職務の放棄については神鳥の人間である私が罰則について口を挟むべきものではない。
殊更厳しく問いただしたつもりも無いゆえ、そなたも案ずるな」
ティムカは再び頭を下げた。謝罪ではなく、心からの謝意として。
「不思議なものだ。サクリアが同じだからといって、気質が同じとは限らぬことを聖獣の宇宙が教えてくれたが」
ここで、彼は言葉を切った。おそらくは聖獣の首座を思い浮かべたのだろうと、ティムカは推測して、なぜか申し訳ないような気持になった。
ジュリアスが口を挟むべきでないと言った執務放棄の罰則についても、規定を作れば聖獣の場合首座が一番影響を受けるに違いない。しかも、その罰則も彼に考えさせたら休日の自主研修といった類のものにはならないであろうことは容易に想像できた。
お互いの暗黙の了解のようなしばしの間の後、ジュリアスは続けた。
「風の者たちは皆、まっすぐな気性を持つようだ。聖獣の宇宙は良い風の守護聖を得た」
そして、ティムカを見る。
「むろん、水の守護聖も」
ティムカはあわてて否定する。
「私などは ――」
しかし、ジュリアスは皆まで聞かずに、こう続けた。
「謙遜は必ずしも美徳ではない。そなた自身が目標を持って心掛けるものがあるのであれば、それは誇りを持って然るべきものだ」
自然と背筋が伸びる思いがした。
「―― はい」
ティムカは真摯に頷き、今はなるべくヴィクトールの負荷が減るように頑張っている、と言いそうになった。しかし『首座の守護聖の負荷が減るように』でない点に於いて、ジュリアスにわざわざ御注進するはいかがなものかと慌てて思い直す。
何かを言いかけたティムカが目を泳がせたことを、彼も察したようだった。軽くため息をつく。
「ヴィクトールも色々と苦労しているように見受ける。そなたのような真面目な若者がいることは、きっと聖獣の聖地にとっても救いとなろう」
「ありがとうございます。しかし、謙遜ではなく本当に、やはり己の未熟さに不甲斐なさを感じることも多いです」
と、想像もしていなかった言葉が返された。
「私とて、未熟な時はあった」
思わずまじまじとジュリアスの顔を見てしまう。しかし考えてみれば彼にも当然守護聖になったばかりの時代があったのだ。ましてや驚くほど幼い頃に聖地に来たのだと、誰からか聞き知った話を思い起こす。
五歳であったか、六歳であったか。そう考えて、六歳、という歳に否応無く思い出される弟の姿。
自分自身の迷いや不甲斐なさであれば、自分で切り開き変えていくことができる。
しかし、国に残された者達の苦難に対し、自分にできることは何も無い。たった六歳の幼子の背に託されるには、あまりに重い国一つ。
沈んだ心に沿うように、視線が下を向いていた。我に返り(おもて)を上げると、鋭い蒼穹の瞳がティムカを捉えている。ジュリアスが、静かに口を開く。
「ティムカ」
「はい」
「多くは語らぬ。ただ ―― 幼子は、いつしか大人になろう」
他の誰でもない、彼の言葉であるからこそ深く胸に迫るものがあった。
昨日より今日、今日よりも明日。日々人は成長する。ましてや聖地の外であれば、なおさらだ。
いつまでも別れたときの弟の幼さを哀れに思うのは間違っているのだろう。
ならば、できることは一つだけ。
愛しているのなら、信じればいい。ただそれだけのこと。


◇◆◇◆◇



ジュリアスの執務室を辞して、すぐに聖獣の宇宙へ戻ろうかとも考えたが、せっかくこちらまで来たのだからと、ティムカは先日の草原へと足を伸ばす。
時間はまだ沢山ある。ゆっくりと風景を楽しみながら草原へと向かった。
『目、逸らすなよ』
昨日言われた言葉や、先ほどのジュリアスの言葉を胸に歩きながら、ティムカはゆっくりと自分の心を見つめなおす。
いくつもの痛みがまだある。けれどももう大丈夫。そう思った。
草原に着き、ゆっくりと流れる雲を見上げながら一人考える。これまで、考え直そうとすらしなかった鏡についてだ。
伝説の鏡を、母は何故自分に渡そうとしたのか。
あの時ティムカは割る以外の選択肢を見つけられなかったが、いまならば違う答えが見つかりそうな気がした。けれども、母の意図という意味では、未だ分からないままだ。
いずれにしろ、鏡はもうない。
赤い瞳の少女に、嫌な役割を押し付けたことにも変わりない。
それでも
―― 彼女に、会いたい。
自然にそう思った。
それでいて、彼女に自分から会いたいと連絡を入れたり、訪ねていくにはまだ勇気が必要だった。
こうしている場所で、偶然会うことができたなら。そして、遅すぎる詫びを言ったなら。
いつかサーリアを叱らないで、と言った時のように彼女はあっけらかんと笑って許してくれるのではないか。
そんな浅はかな希望を思い描いたとき、背後で草を踏む音がした。
振り向くと同時に、声がした。
「よー、こんなところにいたのかよ」
落胆を顔に出したつもりは無かったが、声の主 ―― ゼフェルは目を吊り上げた。
「あんだよ、その表情は。がっかりすんじゃねーよ」
「い、いえ、そういうわけでは」
彼は不満そうに、あんだよ、ジュリアスの部屋から出てくるの見かけて来てやったのにこれかよ、と小さくつぶやいた。そして大きな声で追加する。
「別に心配して様子見に来たわけじゃねーからな!!」
彼の言葉は、たいていに於いて反対に受け取ればほぼ間違いない。
「心配してくださったんですね、ありがとうございます」
「だから、そんなんじゃねー!」
ムキになって言うゼフェルに、ティムカは声を出して笑った。憮然とした表情をした後、言い訳をするのはあきらめたらしく彼はティムカの隣に腰掛ける。
「なんだ、元気そうじゃねーか。前ちらっと向こうの宇宙で見かけたときは、幽霊みたいな顔しやがって」
「そんなに、ひどい顔をしていましたか?」
「ま、無理もねーとは思ってたけどな。けど、少しは落ち着いたみたいで安心したぜ。……オレみたいに暴れて反抗するようなタマじゃねーしな、お前。一人で抱えてるんじゃねーかって気になってた」
ティムカは素直に白状した。
「ご推察の通り、抱え込んでいました。でも、きっともう大丈夫です。今すぐ全てが大丈夫とは言い切れませんが」
「オレん時は、説得なんか、甘っちょろいことしてもらえなかったんだからな。甘えてんじゃねーよ」
ティムカはゼフェルをまじまじと見つめる。
そうか、自分は、自分達は幸運だったのだ。命令ではなく説得をしてくれるエトワールがいて、決心する間を補うサクリアを持つ先輩達が近くにいる。これらのことがどれだけ恵まれていることだったのかに初めて気づき、横っ面を張られたような気持になった。
「本当に、甘えていたんですね。甘えさせてもらっていた。だめですね、今になってやっと気づくなんて」
説得やサクリアの補助ばかりではない。多くの人が、ティムカを気にかけてくれていたのではなかったか。
「そ、そんなあんまりマジに受け取ってまた落ち込んだりすんなよ」
ティムカがあまりに真剣な顔をして考えるような様子をみせたからか、ゼフェルは自分で言っておきながら、慌て気味だ。ティムカは笑んで、首を振った。
「大丈夫です。ありがとうございます。大切なことを、気づかせてもらいました」
別に礼を言われるようなことじゃねーよ、と彼は嘯いた。
「ま、弟分だからな。当たり前っつーか?ヘンに悩んで、また夜中にエアバイ飛ばしてたりしたら、ヤバイからな。聖獣の聖地でされちゃ、オレだって助けられない」(※3)
「そっ、その話はもう、どうか忘れてください ……」
昔の失敗をからかわれて、ティムカは赤くなる。ゼフェルは、いーじゃねーかよ恥ずかしがんなよ、と笑った。
困り顔で見上げた空は、先ほどより雲の流れが速くなっていた。日暮れにはまだ間があるが、風が強くなってきていた。
そろそろ帰るか、とゼフェルが少し離れた場所に止めてあるエアバイを指差して言う。
「いつかみたいに、乗ってくか?(※3) ああ、だけど、ここまで馬で来たんじゃ無理か」
ティムカは首をふった。
「いえ、歩いてきました。ですから、よければ乗せてください」
「マジかよ!この距離歩いたって?ま、ランディ野郎ならやりかねねーけどよ」
「そういえば、ユーイも走って来れる距離だといってましたね」
肩をすくめて言ったティムカに、ゼフェルは心底げっそりしたような顔をした。
「なんか、お前もだんだん風の奴らに感化されてねーか。つーか、なんで風の奴らはどいつもこいつもあんなんなんだ」
先ほど、ニュアンスは異なれどジュリアスも同じ事を言っていたことを思い出し、ティムカはくすくすと笑った。笑った理由を勘違いしたゼフェルが言う。
「だろ?お前もそう思うんだろ?もっとも、ランディなんか、最近子ジュリアス化してっけどよー」
「いえ、その、そうではなくて。ゼフェル様がジュリアス様と同じことを仰ったのがおかしくて」
言ったティムカに、ゼフェルは
「げー、マジかよ!」
と一言つぶやくと、草原にあおむけに倒れ込んだ。


◇◆◇◆◇



週明けて、月の曜日。
首座の確認が必要な書類を持って、ティムカは光の守護聖の執務室を訪れた。しかし当たり前のように空っぽであることを知り、件の階段裏へとまっすぐ足を向ける。
果たして、そこで昼寝をしている首座の守護聖を見つけ軽くため息をつく。
「執務放棄の罰則を決めた方がいいかもしれませんね」
どうやら不良首座は起きていたらしく、ティムカの声に反応があった。
「ああん?便所掃除でもしろってか」
やっぱり、自主研修といった考えは浮かばないらしい。
それはともかくと、ティムカは書類について説明する。
「今すぐ執務室に戻って下さい。今すぐ、です」
「うっせえな、まったくヴィクトールが留守にしてて静かと思えば、お前は子ヴィクトールかよ!」
ふと、先日ゼフェルがランディのことを「子ジュリアス」と評していたことを思い出し、ティムカは可笑しくなった。
「子ヴィクトールで結構です。光栄ですよ。そういえば、彼は私の父と同い年なんです。ところで、先日の質問にお答えしていませんでしたね。私のやりたいことは、少なくとも今この時点で言うなら、あなたを叩き起こして執務室に向かわせることです」
レオナードの表情が何か感じ取ったように変わった。
「へえ、少しは吹っ切れたようだな」
「吹っ切れたわけではないと思います。色々悩んでばかりですから」
「おお、悩め悩め。十代のガキなんざあ、悩むのが仕事だ」
レオナードの言い様が少しばかり(かん)に障って、ティムカは言い返す。今までなら、口の端だけで笑って
―― そうですね
とでも、返していたのに。
「未熟なのは認めますが、あまり、子ども扱いしないでください。不快です」
きっぱりと不快感を表したティムカに、レオナードは反省するわけも無く、それどころかニヤリと笑った。
「言うようになったねえ、いいんじゃねえの?借りてきた猫みたいにお上品にいるよりは、そのくらいの鼻っ柱の強さがあったほうが」
言うだけ言って、彼は大きく伸びをしながら起き上がり、仕方ねえな執務室行くか、とつぶやいて去ってゆく。
彼の後姿をあっけにとられて見送りながら、ティムカは思う。
もしかしたら、あの日『何がしたいんだ』と言った彼はわざと自分を煽ったのではなかったろうか。
まさか。でも、もしかしたら。
ティムカはレオナードの黒くて大きな背中に声を投げかける。ジュリアスとは全く似ていない、けれども紛うことない聖獣の首座の守護聖に。
「先ほど説明した、書類忘れないでください!執務室へ行ってもそこで昼寝してたら意味ないですから!」
レオナードは振り返らずに片手を軽く挙げただけだった。
わかってるよ、という意味なのか、アホ言え仕事なんかするか、という意味なのかは判じかねたが、ティムカは自分が笑顔でいることに気がついた。
そう、言いたいことを言っていい。悩んだっていい。
解決できない幾つもの悩みを抱えたそのままの自分。
けれども、わかっている。当面最初に解決しなければいけないこと ―― いや、解決したいことが一つだけある。

それは、エンジュのこと。


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※3:バラエティCD「White Dream」内、CDドラマ「白銀の騎士」のエピソードより