鏡の中の故郷
(7)



◇◆◇◆◇

連れてこられたのは想像だにしていない場所だった。ユーイは神鳥の宇宙のとある館の敷地にすたすたと入り込み、裏に回って厩舎へと近づいてゆく。
「ちょ、ちょっと待ってください!ユーイ!ここは、ジュ、ジュリアス様のお屋敷ではっ!」
「ああ、そうだ」
「そうだ、って。いったい何をするつもりなんですかっ!」
ティムカが慌てる一方で、ユーイは飄々として厩舎から馬を引いて来た。
「お前も一頭選んで来い。大丈夫だ、コイツらとはもう結構馴染みだし、ジュリアス様からは許可を貰っている。馬車が嫌いだと言ったら、乗馬を教えてくれた。だから」
確かに彼が聖地に来た当日、馬車がいやだと宮殿へ向かう道すがら逃げ出して大騒ぎになったことがあるのは覚えていた。(※註1)
だからと言って執務時間内によりにもよってジュリアスの、という点に冷や汗を隠せないでいるのにユーイは全く気にする風もない。
「今度子馬が生まれたらくれるって約束した。そうしたら、オスカー様が睨むんだ。何故だろう?」
彼の言い草にしばし呆けたあと、ティムカは耐え切れず噴出した。そして、笑ったのはずいぶん久しぶりであることに気づく。このことだけでも、彼についてここまできた意味があったのかもしれなかった。
それにしても、聖獣の宇宙一奔放な彼が、あの神鳥の首座の守護聖と親しいとは意外だった。
けれどもいつだったかメルが、両聖地の人々の中で、彼ら二人が一番相性が良いと驚いていたことを思い出す。しかし、同率一位でティムカと例の聖獣の光の守護聖も相性が良いのだと聞かされて、丸々無かったことにしていたのだが。(※註2)
自分がアレと ―― レオナードと相性がいいとは、到底思えない。
そんなことを考えながらも、彼は友人に言われるまま自分を乗せてくれそうな馬を選んだ。
「よし、こっちだ。ついて来い!」
言うだけ言って、颯爽と彼は馬を駆った。慌ててティムカも後から馬を走らせる。流れてゆく景色、体を掠めてゆく清かな風。あたりに響く馬蹄の音と、自分自身の呼吸の音。
色々なものを感じながら、ひたすら、前を駆ける友人を追う。快活な彼らしい短い髪が靡いている。
その後ろ姿を見ながら、ああ、彼は風がとても似合うと、そう思った。そしてティムカも馬上で風を受けながら、少しづつ心が軽くなってゆくのに気づいていた。

◇◆◇◆◇


しばらく馬を駆って、ようよう馬から下りたのは、神鳥の聖地の南のはずれ、断崖に続く開けた草原であった。
風が吹くと、さわさわと草が揺れ、開放された馬は嬉しそうにその草を食む。
ユーイは気持ちよさそうに伸びをして、快活な笑顔をみせた。
「ここの風景は、すこし故郷に似ているんだ。もしもあの崖の向こうに海が広がっていたら、そっくりだ」
―― 海。
この言葉にティムカは表情を強張らせる。ユーイはそのことに気づいたようだったが、あえてそのまま話を続けたように見えた。
「そう言ったら、ジュリアス様が教えてくれたんだけど、何処までも続く草原を『草海(ツァオハイ)』―― 草の海って言うんだそうだ。ここじゃちょっと広さが足りないかもしれないけどな」
聞いたことの無い言葉だった。ユーイは表情を強張らせたままのティムカに向き直る。
「でもそう聞くとさ、風にゆれる草が波に見えないか?」
風が、草と光をはらんで舞った。風にゆれる草はまるで波のように。
耐え切れず、目をそらして天を仰いだティムカの視界に、傾きかけた太陽が入った。目の端に滲んだ涙に反射して、ひどく眩しい。

「目、逸らすなよ」

彼は低く言った。
友人には、すべてを見透かされているようだった。それをどこか嬉しく感じながらも恐ろしくもあり、ティムカの心はやはり頑ななままだった。目をきつく閉じ、下を向いて首を振る。
言い訳のように、太陽が眩しい。そう呟いた。するとユーイはいともあっさりと図星をついた。
「涙が出たんだろう」
再び首を振ったが、ティムカの嘘を、彼は許してはくれなかった。
「嘘だ。涙が滲むと、太陽が反射して眩しいんだ。俺も経験があるからわかる。故郷が恋しくて、ここで少し泣いたことがあるから」
故郷が恋しくて、泣いたことがあるから。
あっさりとそれを話してしまう彼には適わぬと思った。けれどもティムカは自分の涙の意味すら知らない。故郷が恋しくないと言ったら嘘になる。けれども不意にこみ上げる涙の理由は、説明できるようなものではないのだ。
寂しいのでもなく、哀しいのでもなく。ただ、己の身の置き場所がないように感じて。
「ただ、虚ろなのです」
搾り出すように言った。ユーイは、やっと喋ったな、と嬉しそうに頷いてから首を振った。
「泣きたいときに泣かないから、自分の事虚ろだなんて思い込むんだ。目、逸らすなよ。ここの風景からも、自分自身からも」
面を上げて、彼を見る。彼は、笑顔だった。
「お前、しっかりしているかと思えば、時折すごく子供だ」
「すみません」
「だから、謝るなって。それでいいんじゃないのか?どうせ、永遠に子供でなんかいられないんだから、子供でいれる間は子供でいろって、じいちゃんが言ってた」
言いながら風を目で追うように草原を見渡す。その視線を追って、一緒に草原を見た。
「だから、泣きたいと思ったら泣いとけ。でも、中身が虚ろだなんてこと、絶対ない」
彼は懐から何かを取り出した。それは、先ほどの貝殻だった。
「海を離れて空っぽに見える貝殻だって、ほら、波の音を歌うんだ」
ふと、重く沈んだ心の中を一筋の風が通り抜けたように感じた。
海を離れ、空となってもなお潮騒を歌うこの貝殻のように、そうあるべきと育てられた王で無くなった自分にも、何かが残っているのだろうか。
「さっき、貝殻から聞こえる音は自分の血脈の音だって言っただろ。不思議だよな」
「なにが不思議なのですか?」
彼はにかっと笑って楽しそうに貝殻に耳を当てた。
「だって、自分の血の音が潮騒に聞こえるんだろ。それって、俺の体の中に海があるってことだ」
彼は空を振り仰ぎ、両腕を、空をいだくように伸ばした。
そしてそのまま、ぱふっ、と草の上に寝転がる。同時に貝殻を投げて寄越す。
「ほら、お前も聞いてみろ。お前の中の、海の音だ」
ぱっくりとあいた、貝の口。ティムカに向かい開く黒い虚ろな空洞は、懐かしい潮騒を奏でている。そっと耳にあてれば聞こえてくる潮騒に、耐え切れず涙が流れた。
一度流れてしまえばあとはとめどなくはらはらと零れ落ちる涙を、彼は笑ったりしなかった。

「本当は、どこにも行きたくなどなかった。どこにも、行きなくなどなかったんです」

涙に濡れて零れた言葉は掛け値なしの本音だった。故郷を離れるとき、両親にも幼馴染にも、決して言ってはいけない、(さと)られてすらいけないと思っていた本当の心。
しかし最大の苦衷を彼はごく簡潔に受け止めた。
「そりゃそうだ。俺だってそうだ。ずっとじいちゃんと一緒に暮らして、いつかじいちゃんみたいな漁師になりたかったんだぞ」
そんなのは当たり前のことだと言われて、ティムカの中の憑き物が落ちた。
―― そうか、どこにも行きたくないと、私は言ってよかったのだ。
ユーイに目を逸らすなと言われたとおり、まさにずっと目を逸らし続けて来た本心は、別に隠す必要などなかったものなのだ。
「でもさ」
彼は少しだけ切なげな表情をする。
「でもその反面、ずっとどこか新しい世界へ行きたかった。むしろ俺、そのことの方が辛かった。じいちゃん置いてくような未来の方を、俺は選びたいんだって事実が辛かった。まあ、実際は、じいちゃんそんなの全部お見通しで、俺の背中押してくれたんだけどさ」
ティムカの中に、両親の姿が浮かんだ。
『新しい世界で、これまでできなかった多くの事を経験なさい』
そして思う。
自分もまた、どこかへ行きたいという夢を心の奥に持ってはいなかったか。
決して叶うことの無い夢として、自覚することすら拒んだそれを、両親はきっと気づいていたのではなかったか。
選ばなければいけない未来が、選んでもいい未来になったあの時、己は捨ててくる故郷に罪悪感を抱いていた。それはきっと、心のどこかで新しい世界を望んでいたからこその痛みだったのだ。両親はそれを知っていて、謝る必要はないと諭してくれたに違いなかった。
涙に嗚咽が加わった。
今やっと気づいたこのことを、両親に伝えられぬのが悔やまれてならなかった。けれども、きっと彼らは言うに違いない。
ただ、あなたが幸せであればそれでいい、と。

◇◆◇◆◇


風が吹くと、草原の草が波のようにゆれた。
いつしか影は長く伸び、太陽は友人の瞳と同じ色の光を放っている。
どれだけの間泣いていただろうか、どうにか落ち着きが戻ってくると、ティムカは友人に向き直り言った。
「すみません、恥ずかしいところを見せてしまいました」
「だから。謝らなくっていいんだってば。泣くことが恥ずかしいことだとは、俺は思わない」
そうか、泣いてもいいのか。これまで縛り付けていたものが一つづつ消えてゆく。自由になる。そして、自由は ――
「…… ユーイは、怖くは無いですか。新しい世界が」
「怖いさ。怖いなら怖いでいいだろ。怖いのに怖くないとか寂しいのに寂しくないとか自分を騙すから、行き場がなくなっておかしくなるんだ」
彼は起き上がって、座っていたティムカの横に立った。
「ティムカ、お前海に船で漕ぎ出したことってあるか」
「…… いいえ」
移動手段として船を使ったことならあるが、彼の言う意味での『漕ぎ出した』には当てはまらないのだろう。
「海ってさ、すごく怖いぞ。島も見えなくなると、どっちに行っていいか自信がなくなって。でも怖いけど、そこに憧れる。怖いからこそ、一人前になって、あの海を自由に行き来したいって思うんだ。 聖地に来たから、直接的には難しいかもしれないけど、でも俺、根っこのところでは変わってない。怖いと思っても、立ち向かっていける人間になりたいと思うぞ」
隣に立つ友人を、ティムカは見上げた。
「私もそうやって、なりたい自分を見つけたいです」
「見つかるだろ。見つかるまで、いくらでも迷えばいい」
「そうですね」
『これまでできなかった多くの事』は、無限の可能性を秘めていて、あたかも生まれたばかりの聖獣の宇宙のように広大だ。
だとしたらきっと、迷うのも当たり前のことであり、迷ってもいいのだろう。
驚くほどすっきりとした心持でひとつ深呼吸をすると、思い出したように腹が鳴った。朝から何も食べていなければ当然といった腹具合だ。
ユーイにも聞こえたようで、ふたり、顔を見合わせて笑った。
「そろそろ戻るか」
頷き、二人で歩き出す。
「その貝殻、お前にやるよ。そのほうがいい。きっと、エンジュも許してくれる。いや ―― 」
彼はそこで一回言葉を切り、少しだけ黙った後に、あとは躊躇いを見せずに言った。
「あいつはきっと、お前にやりたかったんだ」
「…… ありがとう」
言ってようやく気がついた。そうか、先ほどから言うべき言葉は、ありがとうだったのだ。
「ユーイ、この貝は、あちらの ―― 聖獣の宇宙で得たものなのでしょうか」
「たぶん、そうだと思うぞ。先日の流現の時にみつけたって言ってたから」
「そうですか」
「それが、どうかしたか?」
「いいえ、なんでも」
少しだけ不思議そうに彼はティムカをみやったが、ティムカの表情に心配する要素はもうないと判断したのか再び前を向いた。
「こんどお前の故郷の海の話を聞きたいぞ。俺はジーレの海が宇宙一綺麗だって信じてるけど、お前の故郷の海もすごく綺麗だって聞いた。どんな魚が捕れるのかとかさ、興味がある」
ほんの少し前まで、故郷の海の話を語れなどと言われたところで、素直に頷けなかったかもしれない。しかし、いま、なんと穏やかな心で、それを喜んで受け入れていることか。多くのものを、失ったと思っていた。けれどそれに目をやるばかりで、新たに得た多くの素晴らしい出会いに、ティムカはこれまで気づかずにいたようだ。ティムカはこの地で得た新しい友人に言った。
「ええ、約束します。今度、時間があるときにでも」

◇◆◇◆◇


夜、枕元に貝殻を置いた。
この宇宙で生まれた貝、この宇宙で生まれた友人。
故郷を離れるとき、身を引き裂かれるような痛みゆえに、この宇宙そのものを憎んでしまうかもしれない自分を恐れた事もあった。
けれども、今ならば言える。
きっと、そんな日は未来永劫来ない。

目を閉じて、枕もとの貝殻に意識を向けた。
眠りの中に潮騒を届けてくれるだろうかと、楽しみにしている自分に気づき、ティムカはひとり微笑んだ。






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※1:CDドラマ「聖地に吹く風」のエピソードより
※2:エトワールの攻略本記載の親密度/相性 一覧より
だとしても、ジュリアスがそう簡単にユーイに馬を貸すだろうかというツッコミもあろうかと思いますが、その辺は当サイト独自設定のイメージが影響しているとお考えください。
つか「執務中は慎め」と、あとからユーイはジュリに怒られたかもしれない。萌える!!

もいっこCDドラマネタ。「王が守護聖になって宇宙を憎む」という点でCDドラマ「緋の輪郭」ネタを引っ張ろうと思ったけれど、CDが一枚目しか見つからず、あきらめたでござる。