鏡の中の故郷
(6)



◇◆◇◆◇



騒々とした潮騒を聞いた気がして、夜中にふと目が覚めた。
海から遠く離れたこの場所で、潮騒が聞こえるわけがないとティムカとてわかっている。おそらくは、庭を渡る風の音だろう。
ここ数日、同じようにして浅い眠りから目が覚めているが、原因は考えるまでもなかった。やりたいことは何かと問われたあの日から、自分の中で元々危うかった何かの均衡が崩れつつあるのを彼は自覚していた。 寝返りを打ち、眠ろうと試みたが、静寂のなかに自分の息遣いだけがやけにうるさく耳に響いて、ひどく重苦しかった。
不意に滲みそうになった涙をごまかすかのように、ティムカはいっそう強く目を閉じる。
泣くことは許されない、そういう生き方をしてきた。だから、今でも涙を堪えてしまうのはごく自然なことだった。そしてこらえながら涙の意味を考える。
寂しいのでもなく、哀しいのでもなく、ただティムカは己の身の置き場所がないように感ている。 王という器を失って、未熟ながらも守護聖という器を得た。その器に少しづつ自分を沿わせていけばいい、そう思っていた答えが、きっと違うということに、気づいてしまった。
仮に器に沿わせたところで、自分の内側はきっと虚ろだ。まるで故郷の海を離れて実が失せた巻貝の殻のように空っぽなのではなかろうか。
そんなことを考えているうち、いつしか再び浅い眠りに落ちる。何かを追って掌中に収めようともがくのに、その前に黒い塊に押しつぶされるような夢を見た。
息苦しさに目をあけると、外はもう、ほんのりと明るかった。まだ夜が明けたばかりだが、もう一眠りしようとしたところで眠れるわけも無く、かといってこの時間に館の者を起こすのも忍びなかった。ひとり身支度を済ませ、彼はそのまま出仕することにした。
早朝の空気は清さやかであり涼やかであったが、心は反対に晴れぬままだった。光の中で影がいよいよくっきりとなるように、常に胸の上に重いものがのしかかっているような苦しさが、朝の光に一層重さを増している。
正殿へ向かう足取りも、鉄の棒のようだ。
帰りたい。ふと、そう思った。このまま館にもどって、今日は一日何もしたくない。そういう意味で浮かんだはずの言葉は、言葉にした瞬間別の意味へと変わってしまった。
―― 結局私は、帰りたいだけなのか。
あの場所へか、それとも過去へか。だとしたら、自分は単に逃げ出したいだけなのだと、ティムカは首を振る。
物心ついたときからそうあるべきと信じていた姿が、今は綺麗さっぱり消え失せた。
消えてしまった。それなのに、こう在らねばならぬとか、こうすべきであるとか。そんな義務感ばかりが身を締め付けている。だから結局、嫌と思いながらも宮殿へ向かう以外の事をできはしないのに。
正殿に到着し、執務室の重い扉を開く。席に着き、椅子によりかかって天井を仰いだ。
こうして早く来たところで、何もする気が起きない。ここのところ、ずっとこの調子だった。
昨日の夕方廻ってきていた書類が机の上に置かれている。読んで印を押して、次にまわさねばならない。わかっているから、幾度も読もうとするのに目は文字の上を上滑りして、何度繰り返してもその内容は頭に入ってこなかった。
このままではいけないということは、彼自身もわかっていた。けれど、どうすればいいのかが、わからなかった。
『もっと自由になってみていいと思うよ』
友人の言葉を思い出した。しかし、そもそも自由になるということは、どうすればいいものなのか。
―― 誰も教えてはくれなかったな。
思わずそう考えてから、教えてもらわなかったからできないなどというのは、ひどく幼い言い訳をしたものだと、ティムカは一人苦笑した。

◇◆◇◆◇


幾度か集中を途切れさせながら仕上げた書類がようやく片付き、ティムカが気づいた時にはとうに三時を回っていた。
昼食は食べる気がせずに、要らぬと言った記憶があった。
いい加減この時間なら空腹になっていてもおかしく無かったが、喉の奥にもやもやと何かが詰まっているように感じて、やはり食欲は無いようだった。
印を押した回覧書類を隣の部屋に持っていかねばならないのも、ひどく億劫に感じる。 自分つきの補佐官に頼んでもいいが、隣の風の守護聖はいつも何かしら質問したがるから直接手渡すことが多いのだ。
ようよう立ち上がったとき、扉を叩く音が聞こえた。彼が返事をする間も置かずに、今まさに向かおうとしていた風の守護聖が顔を出す。
「おい、ティムカ今いいか?」
今書類を持っていくところだったとティムカが言うと、ユーイは急ぎか、と返してきた。わざわざ聞いたということは、彼がここへ来た理由はおそらく仕事の話ではないのだろう。
「いいえ、それほど急ぐわけではない ―― はずです」
さっき幾度目を通しても頭に内容が入らなかったことが影響してか、思わず曖昧な言い方をしてしまう。
「はずです、って読んだんだろ?」
「ええ、いちおう」
「なんだか、歯切れ悪いな」
彼は受け取った書類にさっと目を通して頷き、これなら急ぎじゃないな、とつぶやいた。
書類から上げた彼の顔は、ひどく嬉しそうだ。ティムカは何故か、嫌な予感を抱いた。
新しく知り合った三人の守護聖のうち、ユーイは歳も近く、裏表の無い性格が好ましい少年だ。きっと仲良くなれるだろうと思う一方、ティムカの常識では量りきれない行動をして、彼をひどく混乱させる時がある。
ティムカの警戒をよそに、彼は機嫌よく言った。
「いいもの見せてやるよ。さっきエンジュが持ってたんだ。持て余してたからくれと言って、貰った」
彼が取り出したのは美しく大きな巻貝の殻。
「ほら、耳にあててみろ」
ユーイが貝殻を差し出した。
ぱっくりとあいた、巻貝の口。黒い虚ろな空洞がティムカを見ていた。その暗い空洞が、襲い掛かるように辺りを包む。
遠くに、幼い声が聞こえた。
『にいさま、にいさま。不思議、この貝殻に耳を当てると海の音が聞こえるよ』
『ああ、ほんとうだ。不思議ですね』
『どうしてかな』
『きっと、貝殻の中に、海のそばにいたときの記憶が詰まっているのですよ。そして耳に当てるとそれが聞こえるのです』
『じゃあ、きっと何かの理由で遠く遠く離れてしまっても、この貝があれば、いつでも波の音が聞けるね』
『ええ、そうですね。きっと、懐かしく聞き返すことができるでしょうね』
よくもそんなことが。ティムカは過去の自分の言葉を皮肉に思う。あの時点で、遠くはなれることなどありえないと思っていたからこそ、そんなことが言えたのだ。遠くはなれってしまった今、懐かしいなどという感情で波の音を聞くことなどできはしない。
ところが、友人は悪意などなかろうに、手にした貝を耳へと押しあててくる。
「どうしたんだ?ほら、聞いてみろよ」
「やめ ―― やめてください!」
悲鳴に近いその声が、ティムカ自身の口から発されたことに彼は驚いた。そして続いてめまいが襲う。思わず机に手を突くと、ユーイは心配そうに彼の顔を覗き込んだ。
「おい、ティムカ大丈夫か。顔色が、悪い」
「―― ここのところ、眠れなくて」
「なんだ、恋わずらいか?」
ユーイの表情が真面目だっただけに、あまりな的外れ具合に少しだけ気が抜ける。
「いいえ、そういうわけでは」
言いながらも、何故かエンジュの瞳が脳裏を掠めた。ユーイの言うような話ではないが、彼女とのわだかまりも放置したままでいることが気にかかってはいる。
けれども、彼女に今の状態の自分を見せてたなら、きっと今以上に失望させてしまうだろう。そう思った。
「ふうん、そうか。でもたしかに、ここのところ元気ないな。ここに来てすぐの頃は、もっと ―― 上手くいえないけど様子が違った」
確かに言われたとおりだ。来たばかりの頃は、それでも前向きに頑張ろうとティムカとて思っていたのだ。いや、思っているのは今も同じだ。なのに、意思に心がついて行かない。
「意思」と「心」が別のものなどと、今まで彼は思いもしなかった。
そしてまた、意思とは裏腹に胸が苦しくなり、涙が出そうになる。ティムカは友人から、思わず顔を背けた。
「あんまり元気がないとエンジュも心配する」
ユーイは手の中で貝殻を弄びながらそう言った。
「すみません」
「別に、謝るところじゃないぞ」
「ですが、彼女はきっと心配などしないでしょう。彼女の責務とは、なんの係わり合いもないことです」
ティムカが勝手に、ティムカ自身のことで道を見つけられずにいるだけのこと。エトワールが気にかける必要など、露ほども無い。
ところがユーイはなぜか怒ったようだった。
「今の言葉こそ謝るべきだぞ。人を心配する気持ちは、責任とか、義務とか、そういうモノじゃない」
「…… すみません」
「俺にじゃない。エンジュにだ」
すみません、と。再び言いそうになり、口をつぐんだ。他に言うべき言葉があるのかもしれなかったが、今のティムカには見つけられなかった。
彼は少し不満げに眉の根を寄せ、それから本来の話題を思い出したかのように貝を耳にあてる。
「うん、やっぱり潮騒が聞こえる。懐かしい音だ」
ユーイの故郷もまた、海のそばだと聞いていた。海と共に生きるのが、当たり前のような生活だったのだと。なのに何故、彼はこうも簡単に懐かしいと言えてしまうのか。
理不尽な苛立ちが襲い、ティムカは思わず反論していた。
「潮騒の音ではありません。ただ、耳を塞ぐことによって聞こえる、自分の体を流れる血脈の音が潮騒に似ているだけで」
この言葉に、彼はやはり少し不満げに眉の根を寄せた。
幻想を打ち砕いたのが気に入らなかったのだろうか。そう思ったが、それしきのことで不満そうにするのは彼らしくないように思えた。
しばしの沈黙の後、
「ティムカ、お前さ」
ユーイは何かを言いかけた。
言いかけたけれども、次の言葉が見つからなかったのか黙り込み俯いた。しかしすぐに勢いよく顔を上げティムカのほうを向いた。
「お前、今日の執務はあとどのくらいで終わる?」
身の入らない一日だったが、時間は多くあったので既にやるべき執務は終わっていた。実際、白亜にいたときと比べれば、彼の一日の執務の量は少ない。
「じゃ、付き合え。これから出かける」
と、彼は返事を待たずにすたすたと出口に向かう。
「だめです、まだ執務時間ですよ。勝手に出かけるなんて、できませんよ」
「大丈夫、ちゃんと行き先は言っていく」
「でもそんなことは」
「ティムカ。少しはサボることくらい覚えろ。大丈夫だ、首座の守護聖だってよくサボっている」
何が大丈夫なものか。一番見本にしてはいけないような人物を例に挙げられて、けれども反対に彼からふっと、抵抗する気が失せた。

『もっと自由になってみていいと思うよ』

いいのだろうか?いいのかもしれない。
友人の言葉に、心の中で頷いてみる。この時、ユーイが足を止めて振り向いた。
「そうだ、お前馬に乗れるか?」
馬術は、剣術、棒術、弓術と共に習い親しんでいたから、こちらにもティムカは黙って頷いた。それを見て満足そうに頷くと、彼は再び早足で歩き出した。


◇◆◇◆◇



◇ 「鏡の中の故郷(7)」へ ◇
◇ 「鏡の中の故郷 目次」へ ◇
◇ 「彩雲の本棚」へ ◇