鏡の中の故郷
(4)



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早朝、ティムカは海辺を歩いていた。
昼になれば星の導き手が迎えに来るだろう。だからそれまでは、故郷の海を目に焼き付けておきたかった。透き通った青から次第に(しら)んでゆく水平線。絢爛(けんらん)とも評すべき旭日がもうじき姿を見せる。
その時、砂が()いた。
振り向き、その姿を認める。エンジュだった。
彼女はいつもの笑顔ではなかった。かといって、深刻な表情をしていたわけでもない。今日が特別な日であるなどと微塵も感じさせない気負いのなさで、ごく普通に朝の挨拶をしてくる。つられておはようございますと応じたティムカに、彼女は言う。
「夕日を見る機会がなかったのは残念ですが、明けゆく海も美しいですね。あ、大丈夫ですよ、発つのは昼ごろでも。単に私がこの光景を見たくて早出したんです。それと、」
彼女は、持っていた何かを差し出した。
「ティムカさんのお母さんからです。渡すようにと、預かって来ました」
手に取る前に何であるかを理解した。錦の布に包まれた、それは伝説の鏡であった。
受け取ろうと差し出した手が、震えている。震える彼の指先を見て、彼女は少しだけ訝しげな表情になったが、黙ってそれを手渡した。
きっと、彼女はこの鏡が何であるのか知らないのだ。
布をはぎ取ると、鏡面があらわになる。映っている何かを認める前に、折しも海から産まれたばかりの日が反射して、彼の顔をまぶしく照らし、視界を白く遮った。
張り詰めていた何かが切れた気がした。
自分らしく生きよと言った父、幸せになりなさいと言った母、決意を秘めた目をした弟、変わらぬ友情を誓ってくれた同胞(はらから)。様々な人の顔が、浮かんでは消えた。
己がこの国にある限り、鏡に映し出されて当たり前だった全てのもの。
けれどもこれから行く場所で、この鏡は、いったい何を映すのだろう。

―― 私はこの先、大切なものは何かと問われたときに、何と返すべきなのか。

かつて王の前で鏡を割ろうとした娘の話が心に浮かんだ。
彼女には、伝説を聞いただけでは量りきれない想いがあったにちがいないと、今ならば思う。
自分の意思とは関係なく決められた政略的な婚姻、見知らぬ国。彼女は人質ですらあったかもしれない。弱さを見せて侮られては故国のためにならぬ、かといって嫁ぎ先への忠誠を疑われ、(あだ)なす存在と見られても困るのだ。
おとぎ話の中だけで生きていた姫君を、初めて血肉をもった生身の人間として認識できた気がした。
―― ああ、伝説の姫君は、今の私のような気持ちだったのかもしれない。
愛さなければいけない第二の故郷。しかし、故国への愛情が深ければ深いほど、ともすれば引き裂かれた傷口から、憎しみの念が湧く。
こんな運命でさえなければ、自分が守護聖として選ばれなければ、そもそもあの宇宙が ―― 存在しなければ。
いつしかそんな思いを抱いてしまう時が来ないと、何故言いきれるだろう。
当時女王候補だった聖獣の女王と、その誕生から見守った宇宙だ。憎む日が来るなどありえないと否定しながらも、考えすぎだと笑って済ませられぬ自分の心こそがティムカはひどく怖かった。
鏡に映されるのが『故郷』に限らず、かつて母が言ったように『大切な何か』であるのなら、伝説の中の姫君も、そこに白亜ではなく真の母国が映し出されるのを、恐れたのかもしれない。
白亜の人間になると誓いながら、心は遠く故国を見ている。
それはそのまま、聖獣の宇宙に身を捧げると誓いながら、きっと白亜を想ってしまうだろう自分と同じだ。
秘めておかねばならない望郷の念が、白日の下に晒されるのを、恐れたのだ。
今ならば、その気持ちが痛いほどに理解できた。この鏡を母から託された理由は正直わからなかったが、ティムカがすべきことは決まっていた。
本当にこの鏡に不思議な力があると信じているわけではない。生誕に立ち会ったこともある(えにし)深き新宇宙を、己の第二の故郷として愛していこうという気持ちに偽りもない。
それでもただ、決意の証として。
かつてこの国に嫁いだ娘がしたように、未練を断ち切るべきなのだ。
ティムカは近くにあった椰子の木まで歩み寄り、その堅い根元に向かい投げつけようと、鏡を勢い良く掲げた。しかし、震える手は振り下ろされることを拒んでいる。今更迷う己を滑稽と知りつつ、割るに割れずにいるティムカを少女は黙って傍らで見つめていた。
その視線と自分の視線とが交わったとき、彼自身予想もしていなかった言葉が口をついて出た。

「故郷と決別するために。あなたが、割ってくれますか。私をこの星から引き離す、あなたが」

何故、こんな言い方をしてしまったのだろう。
すぐさま後悔の念に駆られたが、彼女自身は彼の言葉を責めるようなそぶりは見せなかった。ただ、いつかと同じ厳しさと苦しさを含んだような表情を一瞬だけ見せ、あとは真摯に頷き、鏡を受け取った。
鏡が割れる姿をか、彼女が鏡を割る姿をか、それとも両方か。
いずれにしろ見るに耐えず、背中を向けて彼はひとり歩き出す。
彼女は今、どんな表情をしているのだろう。そう思ったとき、何かが硬いものにあたり、砕ける澄んだ音がした。
脳裏に粉々になったあの鏡の姿が浮かんで、消えた。
彼女にひどい役回りをさせたという自覚はある。しかし、いやだからこそ。彼女の表情を見るのが怖くて、彼は振り向かずにひたすら歩みを進めた。
もう振り向いて、この故郷の海を見ることもない。
潮騒が次第に遠くなるのを感じながら、先ほどの鏡の砕けた音がいつまでも耳の奥に残っているような感覚にとらわれた。
ちくりと、胸が痛んだ。
心に重くのしかかる、離別に対する悲しみの痛みとは違う、もっと別の何かだ。
まるで割れた鏡の小さな破片が、胸に刺さったような、そんな痛みだった。



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