鏡の中の故郷
(3)



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召致を受け入れた後の日々は、ただひたすらに慌しく過ぎて行った。ひとり落ち着いて考えられる時を与えられたなら、決意したはずの心に迷いが生じる隙ができてしまったであろうから、その煩雑さはティムカにとっては救いだった。
一方で、忙しさの合間を縫って、なるべく家族との時間を持とうとも思っていた。けれども意識して時間を持つことがかえってその時間を非日常に変えてしまうこともあるだろう。ティムカ自身の惜しむごくありふれた白亜での一日を失わせるような気もして、あえて場を設けるようなこともしなかった。
聖地行きの前日になり、流石にこの日ばかりはと、家族だけでゆっくりと過ごしたした時間。
父も、母も、改まって何かを語ろうとはせず、ティムカの傍にいてくれた。夜が更けて、片時も側を離れなかったカムランがついに眠りに落ちたとき、ティムカは両親に向かい頭を垂れた。

「申し訳、ありません」
この国を、選ばなかったこと、選べなかったことに対する詫びだった。

ところが、再び頭を上げてみた父の表情は、どこか呆れたような、苦笑いう浮かべている。
「この旅立ちに際して、とやかく言葉をかける必要が無いだろうと思う程度には、私は己の息子を信用していたつもりだったのだが。けれども、ここで謝罪の言葉が出るようでは、もう一度、言わねばなるまいな。
お前がどこにいたとしても、胸を張り自分らしく生きることが、私たちの誇りなのだよ」
だから何を謝る必要がある、と彼は微笑んだ。
そして、ふと隣に座る己の后を見て言う。
「もっとも、母親の場合はまた違う感情があるのかもしれないが」
水を向けられて、彼女は首を振った。
「あなたがもし、まだ母を必要とするような幼い子供だったなら、身を切られるような思いがしたでしょうね」
言いながら、眠るカムランを見、そしてティムカを見た。
「けれども、今のあなたは王も立派に勤め上げるほどに独り立ちした息子です。
だから、私はこれを別れだとは思っていないの。あなたは遠いところに行くけれど、その場所で自分の足で立ち、幸せを掴むと信じているから。
母親という生き物はね、子供が遠くに行ってしまったとしても、幸せでありさえすればそれでいいのですよ。
もちろん、寂しさはあるけれど、それは子供の巣立ちを見送る母親全てが抱く感情。あなたが気にするようなものではないのよ。
だから、私も言うことは同じ。
何を謝る必要があるというの。
新しい世界で、これまでできなかった多くの事を経験なさい。そして多くのものを感じなさい。あなたが心を傾けられる夢を見つけ、いつか手にし、幸せになりなさい」
国のこと、王のこと、次期国王となる弟のこと。残された側の抱える苦難はいくらでもあるというのに、この二人はただ、父として、母としての言葉しかティムカに与えずにいてくれる。
これまでの十六年間、彼らの子として過ごした時間を思った。
優しい両親ではあったが、どんなときも、彼らは父である前に国王であり、母である前に王后だった。そのことを不満に思ったことはない。
けれども今この時になって、自分の中にそれを寂しいと思う気持ちがあったことをティムカは知った。
この機会がなければ、自分たちがただの親子になれることなど永遠になかっただろう。偶然与えられた時間を嬉しいと素直に喜ぶには代償が大きすぎたが、だからこそこのくらいのささやかな見返りは得てもいいのかもしれない。
さまざまな想いがあふれた。伝えたい気持ちの一方で、知られたくない感情も存在する。ひとたび均衡を崩してしまえば全てが噴き出てしまいそうで、結局両親の言葉には
「…… はい」
とだけ言って、頷くのが精一杯だった。そして、おそらくはこの一言で十分なのだろう。
ティムカは今、彼らのただの息子なのだ。

沈黙が降りたとき、ふと先王が外の気配を気にした。
そして、ティムカに向かい言う。
「もうひとつ、やるべきことが残っているようだね」
ティムカは黙って頷いた。


◇◆◇◆◇


ひとり王宮の庭に出る。
最後残ったやるべきことを、いや、伝えてるべき事を伝えるために。
月明かりに優しく照らされた南国の木々、宵闇に漂う馥郁とした熱帯の花の香り。ほの青く浮かぶ噴水のきらめきに囲まれて、ティムカはひとり佇む。すると予想したとおり、人影がふたつ、現れて彼の前に跪く。いつもなら気配を消して常に傍にいてくれるサーリアと、もうひとりはイシュト。ティムカの忠臣にして、幼馴染である。
二人の声が、示し合わせたように響いた。
「我等が忠誠は、永遠に御身の(もと)に」
きっと、そう言ってくれるのだろうと思ってはいた。だからこそ、伝えなければいけないとも。それがこの国を去る自分が、この国のためにできる、最後にして唯一のことだ。
「そのようなことは、言ってはいけない」
「何故ですか!」
熱を帯びた声は、サーリアのもののようだった。隣のイシュトが彼を制している気配がする。
「あなたたちには、次の王を支える存在となって欲しい。僕への忠誠など、僕のことなど、忘れておしまいなさい。それはきっと、今後は邪魔にしかならないものだから」
「―― 陛下ッ」
「もう陛下ではないよ」
涙が混じった声に対し冷静に応じてから、伝えるべきことはこれで伝えた、そう思った。そう思ってから激しいやりきれなさを感じて、ティムカはうつむく。本当に伝えたいのは、言いたいことは、こんな言葉ではないのではないか。既に王ではなくなった自分。ならば、ただのティムカという十六歳の少年が、幼馴染に言うべき本来の言葉がきっとあるはずだった。
今しがた両親が、ただの父と母として自分に言葉をくれたように。
「……違いますよね。言うべきことは言ったけれど、言いたいことはもっと別にあるはずなんです」
熱く苦いものが、喉の奥から溢れてきた。両親の前でも耐えたそれを、力ない笑みで押しとどめ飲み込んだ。
「忘れてなど欲しくはない。だから忠誠ではなく、変わらぬ友情を ―― 友情は、請うものでも誓うものではないけれど。サーリア、イシュト。 ふたりとも、ずっと大切な友人でいてくれますか。僕の、幼馴染」
若君(わかぎみ)
再び、二人の声が重なった。懐かしい、呼び名だった。まだ即位する前、彼らはティムカをこう呼んでくれていたのだ。やもたてもたまらずに、膝をつきティムカは二人を抱きしめていた。
震えているのは彼等の肩か、自分自身か。
泣くことはすまい。そう決めていたから、多くを言葉にすることはできなかった。語ればその分だけ、溢れてくるものを我慢することが難しくなるからだ。
だからたった、一言だけ。
「さよなら」
先日の客人とその幼馴染のように、また会おうとは言えなかった。しかし、言葉とは時と人により、相応しいものが違うのだろう。自分達にはこの率直な別れの言葉こそが相応しい。そう感じていた。


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