鏡の中の故郷
(2)


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来客を告げられた時に、ティムカはごく自然に赤い服のおさげ髪の少女を脳裏に思い描いた。だから、部屋に入って籐の椅子から腰を浮かせた人物を意外に思った。
以前エンジュに非礼を働いてから、彼女の来訪を聞くたびに複雑な面持ちで緊張していたサーリアも、背後で肩の力を抜いたのがわかる。
もっとも彼の場合だと安堵と言うよりは、もしかしたら残念がって肩を落とした可能性も無きにしも非ず、だ。先日もうひとりの幼馴染で、今はカムランの教育係であるイシュトが、この王宮に彼女の信奉者が増え続けているのだと、笑いながら報告してきたことを思い出していた。
一方で、サーリアに肩を落とさせた意外な客人は、ひとなつっこい笑みを浮かべて開口一番にこう言った。
「や、ティムカちゃん久しぶりやな〜。王様と面会するために、ついウォンの名使うてしもうたけど、実は俺、もうただのチャーリーやねん。チャールズ・ウォンちゅう男はのうなってしもた」
内々の情報で、ウォンカンパニーの総帥の交代劇を知っていた。それが指し示す意味もまた、ティムカは痛いほど知っている。
かつてこの宇宙の聖地で出会った五人の知人。ティムカを含めて六名、同じ未来が決定づけられていたのだろう。そして彼は、その未来を受け入れたということなのだ。
ティムカが終わりの見えぬ逡巡をしている間に。

ティムカは人払いを命じ、部屋には二人だけが残った。
当人曰く『ただのチャーリー』となったチャールズは窓辺まで歩んで寄って、眩しそうに明るい庭を見ながら、ゆっくりと言う。
「自分についてまわるウォンの名な、ずいぶん長いこと、邪魔に思うとった時期もあるけど。イザのうなってみると、けっこう寂しいもんやな」
言いながらも、存外彼はさっぱりした表情をしているように見えた。
もっとも、楽しさや喜びの表現はあけっぴろげなわりに、心の奥に抱えている迷いや憂いといったものを簡単に露わにはしない人だ。それゆえ見ただけでは推し量れないものも、あるのだろうけれども。
「たかだか一介の商人でもな、ぜ〜んぶ捨てて来い言われたら、そりゃ迷うわ。正直に言てまえば、心が決まるまでけっこう時間かかったで。いろんな人の生活背負っとったし、簡単には捨てられへんよな、ティムカちゃん。会社の社長でこれやから、まして、王様なら尚更やろ」
いつ自分のことに話題が及ぶだろうか、そして及んだときにどう反応すればいいだろうかと内心気をもんでいたティムカに対し『王様なら尚更やろ』という最後の言葉を、彼はひどくあっさりと口にした。そして、ティムカが反応を迷うのも見越したものか、口を挟む余地を与えずに、こう続ける。

「でもなぁ、捨てるんとはちゃうんやないかて、今は俺、思うてんのや」

話題の流れが、いささかティムカにとっては不穏な空気を孕んできた。身構えると、彼は全く想定外のことを語り始める。
「…… 俺に腐れ縁の友達がおってな。マコやん、ちゅうんやけど。そいつ、昔から別れ際にさよならっていわへんのや。必ずスカした顔で『また会おう、チャールズ』とか言うんやけどな?」
言いながらチャールズはセティンバー社の社長の物真似をしてみせる。公人としてそちらとも面識のあったティムカは、少しだけ心を解して微笑んだ。しかし。
「昨日、そいつに会ってきてん。したら、別れ際、また会おう、やっぱりそう言われてしもた」
それは永遠に等しい別れを前にして、優しくもひどく切ない言葉のように思えた。
ただの推測だが、いつもの癖で口をついた言葉ではなく、彼らの絆が見て取れる言葉である気がしたのだ。何か相槌を打とうとしたのだが結局相応しい返事が浮かばず、沈黙が話の続きを促す結果になる。
「可っ笑しいやろ? もう、会えへんのわかっとるやん。なのにまた会おう、なん。せやけど、そう言われるとな、なんか、また会えるかも知れへん気になったわ。遠くに離れるっちゅうだけであって …… 失うわけでは無いもんも、あるんやな」
可笑しいやろ、と言いながらも彼は笑っていなかった。しんみりとした表情をティムカに見られたのに気づいたのか、彼は我に返り、そっぽを向いた。二、三鼻の頭を掻き、それからようやくティムカの方を向き、はにかんだように笑ってみせた。
「ほんまならな、俺もここでティムカちゃんに『また会おな』って、言って別れたいところやけど、反対に言わんでおくな。ティムカちゃんが選ぶもの次第で、もう会うこともあらへんって思うから。
別にそれで、いいやろ? 何選んだってええやん。
……そして、選ばんかった方は捨てるんやない。選ばんかった、ただそれだけのことや」
ティムカは目を見開いて、チャールズをみやる。
なんと彼は言外で、聖地に行かぬ選択肢もあるではないかとティムカに言っているのだ。
もちろんそれが許されるかどうかの根拠は持ち合わせていないのだろうけれども。
「ここにくること、誰かに頼まれましたか」
思わず訊ねていたティムカに、チャールズはにやりと笑う。
「赤い服の可愛いコのこと言っとんやったら、見当違いやな。俺の単独犯や」
このとき、胸がざわざわと騒いだ。
唐突に湧いたこの感情を、ティムカは訝しむ。彼女が自分以外の候補者のところにも行っているであろうことは、当然であり自明であったのに、こうして他の人の口から彼女のことを聞くのが、寂しく思えたのだ。
彼女の持ってきた話は、間違いなく凶報だった。しかし、その後の彼女の来訪を、一度たりとも厭わしく思ったことはないことに、今更ながら気がついた。彼女はあの快活さで、他の人たちにとっても、迷いの先の道標となっているのだろうか?
立ち向かわなければいけない自分の大きな問題とはまったく別のところで、不思議にざわざわと騒ぐ心を持て余し、ティムカは無自覚にチャールズから視線をそらした。
チャールズは一瞬、おや? という顔をしてみせたが、すぐにもとの表情に戻り、そのことについて何か言ったりもしなかった。
彼の言葉を信じるのならエンジュとは顔見知りでも、ここに来たのは、独断ということになる。
白亜の国とウォンカンパニーとの公的な繋がり以外にも、三年前から現在に至るいくつもの出来事と彼とのかかわりを思えば、こうして挨拶に来てくれること事態は不思議ではない。しかしそれならば、他の人のところにも彼はこうやって顔を出しているのだろうか。
いささかそれは想像しにくかった。やはり、彼女に頼まれたのではないのか。それとも何か別の理由があるのか。
ティムカの抱いた疑問を、彼は問われぬうちに汲み取った。
「ウォンの名、邪魔に思っとってたって、さっき言ったやろ」
ティムカは曖昧に頷く。
「三年前の試験で会った時なんかは、モロのその最中やな。二十四歳にして反抗期、ゼフェル様も真っ青や」
表面上の人なつっこさとは裏腹に、あまり自分のことは語らない印象のあった彼が、こうして己を語ってくれることをティムカは意外に思う。
「せやから、自分の名、名乗るのも嫌やってん。試験の時に女王候補さん方に聞かれてもな、『商人さん』でええ、とか、好きに呼んどって、とか、まあ往生際の悪い話で」
ここまでおどけた様子で話していた彼が、ふいに真面目な表情になった。
「自分の未来が、自分の意志とか、努力とか、そういうもの以外できめられてるっちゅうことが、耐えられんかったんやな。
商売そのものは好きやったし、家出して反抗するほど根性もなかったんやけど」
言ってしまえば、ティムカもチャールズと似たような状況であったわけだが、そこに在って抱えていた気持ちはずいぶんと違うことになる。かつて伝説の鏡に国土を映し、これこそが自分の大切な物だと決意を新たにした幼い頃を思い出していた。しかし、そんなふうに疑問も持たず受け入れる人ばかりではなく、チャールズのような逡巡を経る人だって、当然いるのだろう。どちらが良いわけでも、悪いわけでもなく、ただ違うということなのだ。
「でもな、女王試験で行ったあの場所で会った例の人たちもな、ぶちまけてしまえば無理矢理将来決められた人たちやん。色々腹に据えかねたこともあると思うで? でも、なんか、マイペースでやっとって、すごいなぁ思ったんよ。
家名一つ名乗るんに、グダグダしとった自分が妙に恥ずかしゅうなってな、それからなんや、吹っ切れた。
……俺がすごいな、思うた人たちのそんなかに、ティムカちゃん、あんたも入っとるんやで。生まれた時から将来決められて、でもヘンに捻くれるんでもなく、驕るんでもなく、心から『故郷のことが、大好きなんです、僕!』ゆうて。すごいな、そう思ったんよ。これ、ほんまや。茶化してんのと、ちゃうで」
急に自分の話題になり、ティムカは驚いて照れ笑いをする。
「あ、あはっ。なんだか、そういわれてしまうと照れますね」
そしてチャールズの言葉を嬉しく思いはしたが、運命の皮肉に、やりきれなさも感じていた。
なぜならこの人は、生まれた時から決められた将来を受け入れ前向きに生きようとした矢先、全く別の残酷な未来を、むりやり突きつけられたことになるではないか。しかし、いつも何かと茶化してばかりの彼が、真面目に己を語る際の目は、ひどく穏やかだ。彼は最初の一歩を乗り越えたのかもしれない。そしてそのことを、誰に頼まれたわけでもなく、わざわざ伝えに来てくれたのだ。
他でもない、同じような―― それは全く同じでないとしても―― 迷いを抱える、ティムカ自身に。
「ま、だから、知っといてほしかったんかな。俺が今回きちんと選んだっちゅうことを。
…… なんや真面目に語ってしもうたな。いや〜ん、チャーリー恥ずかしいっ!」
くねくねと身をよじっておどけてみせるその姿は、既にいつもの彼だった。
「じゃ、ぼちぼち、いこか〜。じゃな」
ぽん、と肩の上を叩き、彼はそれを別れの挨拶に代えた。先ほど宣言したとおり、また会おう、とは言わずに。

―― ティムカちゃんが選ぶもの次第で、もう会うこともあらへんって思うから。
―― 何選んだってええやん

チャールズがここに来た意図が、語られた言葉とは相反し、婉曲な説得なのだろうとはティムカとてわかっている。
何を選んでもいいということは、裏を返せば『国を捨てる』という選択が、ティムカに許されているということでもあるのだから。だからこそ、彼は自分自身にかこつけて、最初にこう釘を刺したのだ。
『選ばんかった方は捨てるんやない。選ばんかった、ただそれだけのこと』と。そうでいて、チャールズはやはり、本気でティムカのしたいようにすればいいと、思ってくれてもいるのだろう。
そしてどちらでもいいから、自分自身で選び取れと言っているのだ。

この国のことを、他の何よりも、ともすれば自分自身よりも大切に思ってきたのだ。離れることへの引き裂かれるような痛みが消えるわけもない。
ただ、いままで『全てを捨てて、選ばなければいけない』と思っていた道を『選んだっていい道』と言い換えられたことは、新しい発見だった。
前へ進むための、強さを貰ったのかもしれない。そう考えてから、これからチャールズが司ることになる力が、この宇宙ではまさにそれであったことに気がいた。
不思議な、気持ちだった。
果たして自分は、優しさというものを司るに相応しい人物たれるだろうか。
この時はじめて、ティムカは使命を受ける受けないではなく、受け入れたその先の、自分自身のあり方について思いを馳せた。

数日後、訪れたエンジュにティムカはこう告げることになる。
「賭けをしませんか、僕と。ここにある赤い花と白い花、どちらが先に散るかに、です。もしもあなたがこの賭けに勝ったなら、あなたの言う未来を受け入れましょう」



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