鏡の中の故郷
(1)


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赤い服の少女が、かつてティムカが伝説の鏡で風景を映し出した円蓋の窓から、街と海とを望み見ていた。
潮風が彼女のおさげ髪をやさしく揺らしている。
その姿を後ろで見守りながら、彼女がこうして訪ねてくるのは幾度目だったろうかと、ティムカは考える。
幾度も足を運んで貰ったところで、決意を先延ばしにする返答しかすることができず、そんな己のふがいなさをひどく申し訳なくも感じていた。ましてや、先延ばしにして選択肢が増える未来であればまだしも、既に否応なく決められている未来であるというのに。
しかし聖地からの使いの少女は答えをせかすことはせず、初対面の際に召致の件を語った以外は、こうして訪ねて来ても世間話だけをして帰るのが常となっていた。
彼女が語ってくれる見知らぬ世界の話は、ティムカにとって興味深く楽しいものだ。一方で本題に関しては彼が覚悟を決めて切り出すのを待っているのか、それとも単に彼女自身が言い出しにくく感じているのか、本意は判じかねる。ただ、正直に言ってしまえば、今は触れずにいてくれるのがありがたかった。
守護聖説得などというのは、任を課せられた彼女にとっても辛い役目であるだろうと彼は思う。
先日はティムカの幼馴染で今では近衛(このえ)を勤めるサーリアが『我等の王を何処に連れて行くつもりですか』と詰め寄ったと聞く。ところが、臣下の非礼を聞いて詫びたティムカに、彼女はあっけらかんと『彼の行動は気持ちを考えれば当然だと思いますよ。叱らないで差し上げてください』と笑みすら浮かべて応じた。
闊達で、湿った重苦しさを纏わぬエンジュという名の娘の気性もまた、彼にとっては救いとなっていたのかもしれない。
この日も彼女はティムカの返答を無理に求めたりはせず、世間話の流れで宮殿から海を見てみたい、そう言った。自分の産まれ育ったところは海から離れ山に囲まれた農村地帯であり、あまり見る機会がなかった、ましてや南国の美しい海ともなれば、と。

感嘆の声を上げ、窓から身を乗り出すようにして彼女は海を見ていた。
「これまで何度もこの星に訪れたのに、いくら忙しいからって星の小道と宮殿間の行き来ばかりしてないで、歩いて海まで行ってみれば良かったです」
海の青がこんなに様々にあったとは知らなかったとか、青だけでなく緑柱石が混じっているようだとか、透明度の高い水に砂の白さが透けてまるで絵画を見ているようだとか、次から次へと紡がれる賛辞は、ティムカにとっても素直に嬉しく、またこの国を守るものとして、誇らしくもあった。
「明るい昼の太陽のもとで見る海も美しいですが、夕日もそれは美しいんですよ。言葉にできぬほどに」
思わず、次に来たときは見ていってください、と続けそうになり、返答を延ばし延ばしにしている今の立場では『次に来たとき』などとは言えぬと気づき、あわてて彼は口を噤んだ。
と、この時ふいに、彼女からはしゃいでいる空気が消えた。
「ティムカさんは、こんなに美しい星で育ったんですね」
彼女自身に言い含めるようなゆっくりとした呟き。
背中を向けたまま黙っていたそのひとが振り向き、何かをいいかけた。が、開いた唇がなんらかの言葉を紡ぐことはなく、ある種の厳しさと苦しさを含んだような表情で何かをぐっと飲み込むような間の後、いつもの朗らかな彼女の笑顔があった。
「今日の帰りは寄り道して海まで行ってみます。あの色を一度みてしまったら、じかに触れずにはいられないです」
一瞬だけ見て取れた、いつもの彼女らしからぬ表情は、いったい何であったのか。そして彼女は何を言いかけ、何故やめたのか。この時気になりはしたものの、ティムカはずっと後になるまでその答えを知ることはなかった。


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