鏡の中の故郷
(序)


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次のような、伝説がある。

昔白亜の王に嫁いできた異国の姫が、故郷から持ってきたという一枚の鏡。
覘けば故郷が見えると言われて母親から手渡されてきたそれを、姫君は彼女にとっての異郷である白亜に到着するやいなや、夫となる王の前で割ろうとしたのだそうだ。
なぜそんなことをするのかと、慌てて制止しながら問うた王に姫君は答えた。
『縁あってこの国に嫁いで参りました。これからは、この国が私の故国となりましょう。
ならば、かつての故郷への未練となるこの鏡は、割ってその心の証と致しとうございます』
王は深く心を打たれ、
『なれば、()が故郷も我が故郷、懐かしむをどうして未練と責められよう』
そう言って結局鏡を割るのをやめさせた。
その後二人は末永く、仲睦まじく暮らしたということだ。

幼い頃の寝物語に母が聞かせてくれたこの話が、私は大好きだった。
(くだん)の鏡は代々王妃に引き継がれ、当時の持ち主は母である。
いつかせがんで見せてもらった異国の鏡は、装飾は美しくあっても、古びた何の変哲もない鏡に見えた。それでも例えば、伝説の姫君の故郷が映し出されるといった不思議な何かが見えるのではないか。淡い期待を抱いて覗き込んだ銀面には、ただ己の双眸(そうぼう)が少しばかり残念そうな表情で見返しているだけであった。
私の子供じみた期待などお見通しだったのだろう。
母は微笑みながら、見えるのは故郷とは限らず、見た者にとっての『大切な何か』なのだと教えてくれた。
今のあなたには、きっとまだ見つかっていない『何か』なのだと。
この言葉を、かつての私は少しだけ不満に思った。自分にとっての大切な何かなど決まっているではないか。
私は母の手を引いて、白亜宮にある、街と海とを望める塔の上へ向かい石造りの階段を駆け上る。
塔の最上階、円蓋(えんがい)穿(うが)たれた窓から身を乗り出せば、海から吹いた風が、頬と耳飾りをかすめて通り過ぎていった。
私は窓辺によりかかり、潮風と海と街とに背を向けて、鏡を高く掲げてみせた。
きらりと陽光を反射する鏡中に映し出された白亜の国土、その中で日々を生きているであろう人々。
ひとしきり満足した後に角度を変えて、今度は自分と母とを映す。父はそのとき公務にあり、鏡に一緒に納められないことだけが残念ではあったけれど、自分にとっての大切な何かとはこの国のすべてであるのだから、自分がこの国にある限り、鏡は特別な何かを映し出す必要などないのだと考えて私は納得していた。


その頃の私はもちろん、己が永遠に白亜とあり続けるのだと純粋に信じていたのだ。
故郷を遠く離れる日が来ようとは、夢にも、思わずに。


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