穂張月(ほはりづき)


■注意■
決して後味の悪い話ではないはずですが、多少グロテスクな表現があります。苦手な方はご注意ください。 大岡昇平の『野火』や、1993年公開の映画『生きてこそ』等と同じ(似た?)テーマを扱っています。とはいえ、守護聖達が「それ」をやるわけではありません。傾向としては、こでまでの「怪」シリーズの「雪待月」「春待月」をお読みいただければイメージしやすいかと思われます。
ちなみに、『羊たちの沈黙』や『ハンニバル』とまではいかないです。

◇◆◇◆◇

どのくらい長い間集中していただろうか。ふと我に返り部屋の時計を見れは、いつの間にか正午を回っている。
再びカンバスに視線を戻しはしたが、セイランは一旦休憩をしようとすぐに筆を置いた。
その拍子、手のひらの腹、親指の付け根の辺りに引き攣れるような痛みを感じる。先日やってしまった怪我だ。
寝食を忘れて絵を描いて、われに返って立ち上がった。そのときに、ふらりと眩暈を起こして手を着いた先は机の上に立ててあったペンティングナイフだったというわけだ。当然、ついた手はさっくり切れた。辺りはずいぶんな流血沙汰であった。
しかし広いけれどごくごく浅かった傷は、今ではかさぶたになりつつある。包帯をしてしまえばその分手が使いにくくなる。だからセイランは、消毒だけして、傷をそのまま放置している。
浅く広く切ったときの、剥がれた側の皮が。中途半端にぴらぴらとしていて邪魔だったので、それだけはある程度までは切り取った。しかし手と皮との境をきっちりと切るというわけにはいかなかった。
結果残った皮が乾燥してささくれのようにかさかさして。何かの拍子に触れたりぶつけたりすると、傷本来の痛みとは違う、ちくりとした痛みを産む。
セイランは己の手のひらを眺めて、もう片方の手で、ささくれを引っ張った。
わかってはいたが、やっぱりうまく、切り取れぬ。下手に引っ張れば、きっと攣られて肉も裂けるだろう。
だから、歯をあてて、ささくれを()んだ。
僅かに噛み切った己の皮が、舌の上で転がっている。吐き出そうと口をもぞもぞさせてみたが、反対に、更に舌の奥の方へと行ってしまった。

仕方がないのでセイランは、それをごくりと ―― 飲み込んだ。

それがきっかけではなかったろうに、彼は。
己がひどく空腹であることに、気がついた。

◇◆◇◆◇


今の作品に取り掛かってからしばらく休日は館に篭っているばかりだったから、久々にセレスティアで食事でもしようと外出をする。彼にとって食べ物は、美味いか不味いかにのみ分類される。だから、高級だの、下級だの、上品だの下品だの。そういった分類は無意味なのだ。そして、得てして美味いものは素朴なものに多い。セイランは屋台の集まる中心の広場でサンドウィッチを買って、あいている席に座った。
セレスティアは、今日も人でいっぱいだ。人ごみの中へ、積極的に紛れ込む趣味はないが、こうして流れる人を見物するのはそれなりに興味深い。お気に入りの、ターキーとチキンのサンドをかじりながら、彼は辺りを見回した。 そして、その人影をみつけ、

―― やれやれ、なんて、間が悪いんだろう。

そう思った。普段なら、そうは思わなかったに違いない。別段彼らと気が合わぬというわけでもないのだから。ただ、今食べているモノがよろしくない。
人の嗜好にとやかく言うつもりはないが、いや、だからこそ。自分の食べているモノを見て、嫌な顔をされるのはひどく気分が悪いのだ。
なるべくなら、こちらに気付いてもらいたくないものだと願ったが、残念ならが彼らはこちらに気付き、悪意のない笑顔で近づいてきた。
「こんにちは、セイラン。一緒によろしいですか?」
「僕も、一緒にいいかな?」
神鳥の、水と緑の守護聖は、邪気の微塵も感じられぬほほえみをたたえている。
「ええ、もちろん。お二人が、嫌でないのなら」
おそらく、この言葉で二人はそれに気付いたようだった。
年長の水の守護聖はさすがに笑みを消さなかったが、少年のほうは少しだけ眉をひそめ、それでも慌ててなんでもない風を装い席に着いた。
二人の反応はセイランの許容範囲であったから、彼は普通に食事を続けることにし、その後の会食は穏やかに続いた。

食べ物の嗜好を、人にとやかく言うのは下らぬことだと彼は思っている。
嫌いであるのはかまわない。喰えぬものは、人それぞれあって仕方がないだろう。勝手に喰わずにいればいい。
けれど、それを人に強要するのはいかがなものか。
匂いがきつくて傍では勘弁というのならともかく、鳥を喰った如きで残酷などと言われては正直たまらない。

他にも、鯨を喰うな、海豚を喰うな。そういう輩がいる。おかしな話だと思う。
絶滅しそうだから喰うな。利口な動物だから喰うな。生き物を殺し食べるという行為は、果たしてそういうレヴェルの問題なのだろうか。
絶滅しそうだから喰うなという。
しかし、我らが飢えて喰うものがなくなれば、きっとそんな口上は誰もが忘れてしまうに違いない。価値観など状況によっていくらでも変わる。それがいけないと言うわけではないが、少なくとも彼らが声高に叫ぶ理屈は絶対的な真理ではない、ということだ。
それに、利口な動物だから喰うなという。
それもやはりおかしかろう。ならば、愚かなら喰っていいのか。牛は愚かなのか、豚は愚かなのか、馬も愚かか。
何よりも。
―― 人は、愚かでないというのか。
己が愚かでないというのは愚かなことだ。
なら、どちらにしろ人は愚かなのだ。
鯨を喰うなと言いう輩は、愚かなら ―― 人を。喰っていいとでも言うのだろうか。
そんな理屈は何かおかしい。
そう思うから、セイランは鯨でも海豚でも ―― 言えば聖獣の水の守護聖あたりは泣きそうになるに違いないが ―― 喰う。
目の前の神鳥の水の守護聖の嫌いな七面鳥だろうと、もうひとりの緑の守護聖が嫌いな鶏肉だろうと喰う。
美味いと、思うからだ。ただ、それだけのこと。
反対に、母親が子に言って聞かせがちな『綺麗に全部食べてお魚さんが喜んでいる』だの、『野菜さんが嬉しそう』だのの喩えは、いくら子供だましとはいえ、趣味が悪いと思っている。
仮に魚やら野菜やらに意識や感情があったとしても、だ。ならば余計、殺され、裂かれ、内臓を取り出され、骨をはずされ、解体されて。挙句の果てに火で炙られ、喰われるのだ。喜ぼう筈が無い。
彼らと意思の疎通ができたなら、最期に聞くであろう声は、怨嗟かあるいは断末魔か。いずれにしろ、ろくなものではないだろう。
命をもらうのだ。真摯な態度で感謝しなさいというのならわかる。
だが、間違っても喜んでいるなどと、言ってはいけないのではないか。
自分で想像しておきながら、セイランは少し気分が悪くなった。食物の話であるにもかかわらず、食しているときに考える話ではないな、と反省する。
幸いサンドウィッチは最後の二口を残すのみであったから、残すことなく平らげることができたし、その後はしばしお茶を飲みながら、同席していた二人の友人と会話を楽しめたのだが。
話がひと段落つき、それじゃあね、と席を立つと、その場を去ろうとした。すると水の守護聖が聖獣の聖地に用事があるから一緒に行こうという。いったい何かとセイランが尋ねると曖昧に微笑むだけだ。彼は肩をすくめて、それ以上追求することをせず、そしてふたり連れ立って聖獣の聖地へと帰っていった。

◇◆◇◆◇


休み明け、出仕して早々セイランは惑星への視察を命じられた。惑星の視察は珍しいことではないので気構えもせずに了承すると、補佐官が真剣な顔をして気をつけろと忠告をする。
不審に思いながらも詳細を聞けば、そもそも惑星の異常に気付いたのは聖天使だという。
いくらサクリアを流現しても、作物の実らぬ地域があるというのだ。惑星そのものではない。極々、局地的に。しかもその惑星の発展初期の頃はそのような現象は見当たらなかった、と。
補佐官が言った。
「陛下の命令でフランシスにも同行してもらうことになってるよ。きっと最終的な調整に闇と緑のサクリアが必要なんだって、陛下はご存知なんだと思う。で、研究員も一緒だけどくれぐれも気をつけてネ …… いろんな、意味で」
いろんな意味で、とわざわざ付け加えた理由を、この惑星に到着するまでセイランは理解していなかった。けれども星の道を抜け、目的地までの山道を歩いているときにその不安要因に気が付いたのである。
かくして、その不安は背後で同僚が叫んだ「うさ」という言葉で、現実のものとなった。

「…… ああ、セイラン、も、申し訳ありません …… 」
同僚が青い顔をして、木陰で横になりながらそう呟いた。
「いや、なんとなく、こうなるんじゃないかと思ってたからいいさ」
起こってしまったことは仕方が無い。しかし、問題はこの後どうするか、である。
フランシスはしばらく動けないであろうし、ここで時間をつぶすのも生産的でない。調査員を連れてセイランが先に現場へ向かうことも考えたが、フランシスをここに一人で置いてきぼりにするのは酷というものだ。
うさぎ追い払い要因として、人員を残しておかなければなるまい。
「僕が一人で先に様子を見てくるさ。別にいきなり魔物が襲いかかって来たりもしないだろうし、万が一そうでも大丈夫なように一応リボンを持ってきた」
「リボン …… ですか?」
「そ、僕の武器」
「何故 …… リボン …… なの、でしょう …… ?」
「知らない。僕が聞きたい」
不審顔の同僚を後にセイランが立ち上がると、裾を引いてフランシスが引き止める。懐をなにやらごそごそと探ると、手のひらに何かを乗せて差し出した。
「これを …… 昨日お預かりしたのです。魔よけに、と」
それは紫の水晶であった。紫水晶といえばすぐにセイランにもよぎる顔がある。
「預かったって、神鳥の闇の方がわざわざ?」
その行動は、ひどく意外であたからついそういうと、フランシスは理解したようで言い添える。
「その、リュミエール様がお持ちくださったのです」
なるほど、とセイランは得心する。先日聖獣の聖地にあるといったリュミエールの用事とは、このことだったのか。
「神鳥でも、過去幾度か今回のような異常があったとのこと …… 。その際に、役に立ったお守りなのだとか。そう、聞きました」
水晶を受け取り、日に透かしてまじまじと眺める。その横でフランシスがふたこと、みこと何かを呟いた。聖天使の持つトゥルー・ジェムとまでは行かないが、微かな闇の力が水晶に宿る。
「…… これで、私の幾許かは …… 同行できるでしょう」
セイランは頷き礼を言った。
「さて、行くとしよう。見送りはしなくていいよ、さっさと目を瞑っていたほうがいい。余計なものを、見ないうちにね」

◇◆◇◆◇


山道を下りきると、目的地の盆地へとたどり着く。
足を踏み入れてすぐ、彼にもその異変が手に取るようにわかった。
今この惑星の月は八月。稲穂の実が膨らみ始めるこの時期を、土地のものは穂張月と、そう呼んでいる。
水が豊かで温暖な惑星。その中でも一番豊かに茂る万緑の季節であるべきなのに、この場所は荒れ果てた岩場が広がるばかりだ。
水が無いわけではない。調査しても土壌に問題があるわけでもない。
なのに、草一本生えないのだという。
乾いた風が、飄と吹いた。見れば向こうの岩陰に、何かが、いる。
何かを、貪っているようだ。熊か、それとも野犬か、狼か。
セイランが身構えつつ目を凝らすと、それはのそりと動き、こちらを向いた。
ぎょろりと剥いた目がらんらんと。口には血の滴るなにかの肉をくわえている。
乾いた髪がへばりついた頭があり、肩があり、二本の腕があり、胴体に続く二本の足。痩せこけてがりがりだが、どうみても、人間の姿だ。いや、これは
―― 餓鬼、だ。
それが、彼の知る限りの中で、一番しっくり来る名前だった。
『それ』はぎょろりと剥いた目玉を此方に向けている。もぐもくと口にしていた肉片を飲み込んでから口を開き、驚いたことに言葉を発する。

「喰ろうても喰ろうても、腹くちぬ。やはりバチがあたったかの」

醜いその姿に反して、なぜか声は澄んでいる。女の声だ。声だけなら、それはとても美しい。
「聞いていいかい?君は ―― 人間?」
この状況に於いて、落ち着いている自分が可笑しかった。その上人間か、とはずいぶんな言い草だ。
『それ』いや、おそらくは女、か。彼女はセイランの方を向き、困ったように首を傾げた。
「少なくとも以前は人間であった。けれども今は死肉を喰らう浅ましき鬼となりはてて、さて人間と言って良いかどうか判断がつきかねる」
非常に、誠実な答えだと思った。少なくともこちらには害意はないようでもある。
女は立ち上がり、こちらに向かいよろよろと歩いてくる。先ほどまで女の足元にあった肉塊はいつのまにか消えていた。彼女はセイランの前まで来ると、相変わらずぎょろりとした目を向けて黙っている。彼女自身、どうしていいか戸惑
っているようでもある。
「おまえさまは、わしを滅しに来たのか」
戸惑っていつつも、己が既に怪しきものであることも、わかっているようであった。
「場合によっては、そうなるかもしれない。さっき君は、"バチがあたった"って言っていたね?あれはどういうこと」
こっくりと、女が頷いた。そして、語り始める。


戦争があって。邑の男衆(おとこし)はみな兵に捕られて戻ってこなかった。
狭い田を、老いた母とわしとで、幼子抱えて耕したが。
飢饉があって、みな飢えた。
わしの食い物はみな、子に与えた。
すると、母は食い物をみな、わしに与えた。
だから、最初に母が飢えて、死んだ。
死に際に、口が動いた。
自分が死んだら、喰ろうていい、と。
そう言っている …… 気がした。
だから、喰うた。
だが、痩せた体はすぐ喰らいつくし、また飢えた。
わしを喰え、と子に言った。
子は首を振って、婆と違うて、(おっか)はまだ生きている。
(おっか)が先に死んだら喰うと、そう答えた。
だがな、子が先に、死んでしもうたのだ。
哭いて。哭いて。哭いて、腹が減って。
そして、その子の体を喰った。
哭きながら、喰った。
それでも、やはり時間がたてば腹が減る。
邑を捨て、山に入った。
長い旱魃で、山も茶色に枯れていた。
枯れ木の皮をはぎ、根を掘っては喰うた。
腹くちくはならんだが、疲れて木の根にもたれてしばし眠っておると。
浅い眠りの奥で、人の声が聞こえてきた。
そして、何かのこげる匂い。
民が飢えているその上で、この国は、まだ戦をしておったのだ。
山を下った先の盆地に、先ほどまでの戦の跡か。
文字通り、死屍累々と。
それが、積み重なっていたのだ。
あるではないか。
あそこに。
あんなに沢山、肉が。


女が言葉を一旦切る。
ぽこり、ぽこりと腐った泥土から泡が湧くように、地面の上に何かが浮かんできた。それは、古い鎧に身を包んだ兵士の死体。セイランは思わず一歩、後ずさる。
さっき、女が口に咥えていたものは、これか。
セイランが女に視線をもどすと、再び彼女は語り始た。


一心不乱に喰ろうていると、残りの兵が戻ってきて。
わしをばけものと呼んで。
剣を抜き、この首を刎ねた。
生きているものを喰らうつもりなどありはせぬ。
殺したわけではない。
既に殺され死んでいたモノを喰ろうただけだ。
しかし、わしは殺された。
殺されて、捨てられて、腐って果てた。


セイランの知る法にてらせば、彼女の犯した罪はせいぜい死体損壊にしかあたらぬ。
いや、飢えていたのだ。だから、それは緊急避難で罪にはならぬ。仮に殺して喰っても、過剰避難。情状酌量の余地有り、だ。
だが彼は首を振る。彼女の魂が、今もここに留まり飢え続けるのは、きっと法に許されているかどうかなどという問題ではないのだ。
女がぼんやりと、曇った空を見上げて、呟いた。


カラスが私の目玉をつついておった。
狗が臓腑を喰らっておった。
小さな。白い蛆虫も。
肋を這って、あれは私を喰ろうていたのだろう。
鳥を捕らえて喰ろうたことがあった。
狗を捕らえて喰ろうたこともあった。
だから、おあいこだ。
べつにそれでいい。
そう思ったのだが。


女は空から再び視線をこちらに戻し、セイランを見据えてこう訊いた。

「おしえてくれぬか、命を司るお方。なぜひとは、喰らうためでもないのに殺しあうのか」

彼は、その問いの答えを必死で探す。
動物なら喰うために殺すことは許される。喰うためなら許されるのだ。
なのに人は、屍を喰うても化け物と言われるのに。
セイランはあたりに目をやる。累々とした死体。
―― 喰わないのに、殺す。殺しあう。

「わからない。僕にも答えはわからない。でも、ひとつだけ言えるなら、やはり人間は愚かで醜く、そして愛おしい」

このとき、セイランの心の中に、もうひとつの問いが浮かぶ。
―― 愚かなら喰っていいのか。
その疑問をなぞるように女が再び訊いた。
「ならば、この問いの答えは。わしのしたことは、命で償わなければならぬほど。やはりいけないことだったか」
「僕が決めることじゃない」
「そう、なのか?」
「食べたのは僕ではないし、食べられたのも僕ではないから。でも」
彼はとあることを思いつき、直りかけた掌の怪我を見た。めくれている乾いた肉片。
力を込めてひきちぎると、乾いた肉片に新鮮な肉がつられて裂けた。
血がじんわりにじんであふれたかと思うと滴った。
「僕自身のことなら、喰われていいかどうか決める権利があるだろう」
血の滴る手のひらを、彼女に向ける。
「食べてみるかい?これしか切れなかったけど」
女はぎょろりとした目を一層丸く剥いて、セイランと、手のひらを見比べた。
「いい、のか?」
「ああ、いいよ」
彼女は、おそるおそる、裂けた傷口に唇をよせ、血をすする。
ごくりごくりと、喉が旨そうに鳴る。
どれほど飲んだか、女はようやく口を放しふうと一息。

「―― ああ、やっと、腹くちた」

女が満足げな声をあげると、その姿はみるまに、美しい、おそらくは元の姿をとりもどしてゆく。
「そうか、わしはずっと喰ろうたモノ達に ―― 許して欲しかったのだ」
そう言ってふっくりと満ちた笑顔をこちらにむけた。
「わしは地獄へ落とされるか」
「地獄も無い。極楽もたぶんないよ。ただ魂は転生(てんしょう)して、またいつか」
「生きるのか」
「嫌かい?」
女は首を振る。そしてやはり、ふっくり、と微笑んだ。

「生きるために、多くの命を喰らいました。嫌と言うのは許されますまい」

次の瞬間、女の姿は掻き消えた。そして、岩ばかりの荒野も姿を消し、突如長閑な田園がセイランの周りに広がった。
この風景が幻であることを、きちんと彼は知っていた。

風に揺れる青い稲穂。
綺麗に実を結び頭をたれて、熟す時を待っている。
きっと今この季節は ―― 穂張月。
若い女が田の中で腰をかがめて草むしりをしている。
彼女だ。
セイランはすぐにそう察した。
鳥が鳴き、風が吹く。女は一息入れて腰を伸ばし、伸びをした。
頭にかぶった手ぬぐいをとり、額に流れる汗をふくと、視線を畦脇の木立に向ける。
そこには、いずめに眠る赤子と、そばで子守唄を歌う老婆。
女は愛おしそうにふたりをみつめている。
夏の風が、ふたたび穂の上を走る。
さわさわと、葉の揺れる音がする。
これはあの女の見せる過去か。
二度ともどらぬ、幸せな過去。
だとしたら、あまりにも ―― 切ない。
胸が詰まるような思いに彼は預かった水晶を掌中にして、知らず知らずに強く握った。
しばし赤子を見つめていた女は、作業にもどろうとふたたび手ぬぐいを頭に被る。その時ふと、彼女は彼のいるほうに視線を向けた。
少しだけ驚いたような顔をしてから、彼女はふっくり、と笑った。
とても、幸せそうな笑顔だ。

―― ああ屹度(きっと)、これは未来に違いない。



(絵:ギンパチさん)


彼がそう思ったとき、手の中の硬い水晶がふいにもろく崩れた。
慌てて手をひらくと、それは砂のように崩れ、さらさらと風にさらわれて消えてゆく。
同時に、風景がうっすらとかすんでいった。
かすれゆく中で、女がゆっくりとこちらに向かって一礼する。

これは屹度(きっと)、未来に、違いない。
セイランがもう一度確信したとき、既に辺りはもとの荒野が広がるばかりであった。
しかし、そこかしこに、新たに芽吹いた命の気配を感じさせて。
気付けば、手のひらの傷が癒えている。
セイランは目の前の空間に敬意をこめて深く頭を下げた。そしてすっかり戻った風景の中、元来た荒れた道を、同僚の待つ場所へと帰って行った。


―― 終

◇◆◇◆◇


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2006年に発行した「アンジェリークオールキャラ本」に掲載した作品の再録です。
サイトに掲載する再には、冒頭にあんな注意書き入れておくような話のクセに、オフ本の方には何の注意書きも書かずに掲載してあるという暴挙をしでかしました。
覚悟無しに読ませて、驚かせてしまった方いらしたら申し訳なかったです。
けれども、読み終わった後に、怖さとか、気持ち悪さとか。そういうものでない、何かを。感じていただけたなら、嬉しく思います。
執筆2006.08.17 掲載2007.08.05

2007.09.27 追記
ギンパチさんから頂いた絵を、作中に差し込ませていただきました。
もうね、拝見したときの気持ちは言葉にならないです。私の脳内には確かに存在していたけれど、果たして文字で、文章で、書き表せていたかわからない世界が、あの一枚の絵の中に凝縮されていました。
ほんとうに、ありがとうございました!!