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婚礼からしばらくが過ぎた頃、些細ではあるがなんとなく引っかかる出来事が続いた。
私室の中を、誰かが何かを探してさぐっている気配を感じたのだ。
書架の本が、文机の中の手紙が、僅かであるが他人の触れた気配がある。そして、普段鍵をかけてある二段目の引出しをあけようとして失敗した形跡。
出入りする人物は大勢いる。だが真っ先に私は王妃のことが脳裏に浮かんだ。
疑うことはしたくない。それに ―― 一通の手紙を除いては ―― 探されて困るものもなかった。だが、問題は彼女が(もしくは他の何者かが)そこに、何かが隠されていると疑っていることだ。
それは、以前からまことしやかに囁かれていたあの噂。
先王崩御にまつわる疑惑。
彼女が己の后になったのは、もしやその証拠を探し出すためではないのか。
ふらりと、軽い眩暈がした気がした。彼女の心が別の場所にあるのは百も承知だった。だがまさか、仇とまで思われているとは。
自嘲しか零れなかった。
そして、心のどこかで。
いつかは、仔犬を渡した自分に微笑をくれたあの日のように。彼女が己に心を開いてくれるときがくるかもしれぬと、期待していた自分に気づいた。
だがもう、それもありえまい。
翌日、執務の合間私はふと思いついてひとり私室へと向った。
当然の如く、私の部屋を探したところで噂に関する証拠などは出てこない。だが、ただひとつだけ、私と、両親と、そして今はこの国の宰相と禁軍将軍とになった兄の幼馴染達以外には、目に触れさせてはならぬものがあったのを思い出したのだ。
何処か別の場所へと移すか、でなければ焼却するか。
いずれかの処置をせねばならないが、できることなら焼却は避けたかった。
この期に及んでそう考える自分に苦笑する。
既に幾度となくこの手にとり、目にすることなどしなくても暗唱すらできるその手紙を、未だ焼却するに躊躇う自分。
ひとつ深い息を吐いて扉の前に立った時。部屋の中に、誰かの気配を感じた。
本当なら、誰か人を呼ぶべきだったのかもしれないが、この気配が彼女であったときのことを思うと、騒ぎにはしたくなかった。
息をひそめ気づかれぬよう、身を滑り込ませる。
室内をなにやら探し回るその人影に背後から近づこうとしたそのとき
「陛下!」
王妃の叫び声が背後から聞こえ、そちらを振り向けば今まさに、もうひとりの侵入者が私の背後から襲いかかろうとしているところだった。
素早く身を低くして、相手の腹に一撃を加え腕をひねり武器を奪った。と同時に目の端で人質にでもするつもりか王妃に手をかけようとしていたもうひとりの男の姿をとらえる。
奪った短剣を投げつけ、均衡を崩した隙に彼女を引き離し、男の首の付け根を手刀で打ち付けた。
運良く先制を征することができ、腕に覚えはあるとはいえ、王妃を庇ったままろくな武器もなく、おそらくはそれなりの訓練をつんだものと一対二では歩が悪い。
じわじわと移動して間合いを保ちながら、どうやって彼女だけでも逃がそうかと私は考えていた。
王という立場で考えるならば、そのときの私の思考は過ちだった。
彼女を盾にしてでも本来己の身を守らねばならなかったのだ。その背に背負う、多くの者たちのことを考えるのなら。
だが、少なくとも私はそのとき、彼女の身を守ることだけで頭がいっぱいだったのだ。
幸いなことに騒ぎに気づき近衛の者たちが駆けつけてきて、無事侵入者は捕らえられた。
もっとも、安堵の溜息をついたのもつかの間。
私は後から部屋に駆け込んできたサーリアに
「宮殿内とはいえ御一人で行動するのはおやめくださいと、あれほど申し上げていたのに!」
と怒鳴られ、次いで入室したイシュトには
「多少の無茶には目をつぶりますが、自ら賊と剣を交えるような真似は論外です!」
と、散々絞られた。
一通りふたりの説教を聞き流した後に
「ひとりである必要があったのだ」
そう言うと、彼等は事情を察したように黙った。
「案ずるな、問題はない。侵入した二名については追って沙汰を下すからそれまで拘留しておけ。自害せぬよう良く見張れ。ありもしない証拠を探らせられて ―― 奴等も難儀なことだ」
事情を知る数少ない人物であるふたりは苦しそうな表情で私を見た。
「陛下 ……」
大丈夫だ、と言う意味で首を振る。
「私は王妃に話がある。おまえ達は下がれ」
イシュトとサーリアは、一礼して部屋を出て行った。
ふたり残された部屋の中。私は、彼女に向き直った。
こうしてまっすぐに彼女を見たのは、もしかしたら初めてかもしれない。
「怪我は、ないか」
「はい。陛下は」
「私は平気だ。
汝が声をかけてくれて助かった。礼を言う」
彼女は少しだけ嬉しそうな表情になり、そして俯いた。
「そして、すまない」
「何が、でございますか?」
顔をあげ、不思議そうに私を見る。
「
汝を疑っていた。部屋をあさり、何かを探しているのは
汝であろうと、そう思っていたのだ」
彼女はだまって、首を振った。かまわない、そういう意味なのだろう。
私は彼女に背を向け、窓際にある文机の二番目の引出しをあけた。
鍵は、いつも身につけていた。
そして、彼女に言った。
「兄がもしも生きていたとして。あなたは彼の元へいきたいか」
簡単ではない。しかし、自分のこの立場を利用して手を尽くせば、不可能なことではないような気がしていた。
彼ものとへ行き、再会して、何がどうなるものでも無いのかもしれない。
けれども、彼の口から真実を聞くことこそが、今の彼女にとって一番の救いになることではないのか。
そう思いながらも、私は彼女の返答が恐ろしくて、正面を見ることがかなわず背を向けたままだった。
背後にいる、彼女の気配から、その感情を読み取ることはできなかった。ただ、彼女は否とも応とも言わず。
「陛下はわたくしをひきとめてはくださりませぬか」
そう、問い返してきた。
もしも生きていたらなどという、事情をしらぬものが聞いたら空しい喩えに彼女が微塵も動揺しなかったことに気づいたが、さきに己の欲求に率直な問いかけをしていた。
「私に、引き止める権利があると?」
「幾久しゅうと、申し上げたはずです」
思わず振り向くとそこに、少し拗ねたような、怒ったような、不思議な表情をした彼女がいた。
あの日確かに彼女は言った。
――
何卒、
幾久しゅう
硬い表情で語られたそれは、あの時の私にはただのありふれた定型的な言葉に思えた。
だが、もういちど、彼女の心を推し量ってみれば。
かつて幾久しくと願ったひとと結ばれること無く別たれたそのひとの心を推し量ってみれば。
何卒、という言葉に秘められた思いはなんと切であり、健気であるのか。
決心した私は彼女に近づき、手にした一通の手紙を手渡そうとした。それは、かつてこの地を去りゆく兄が、私に残してくれた手紙だった。内容は、たわいも無く、そして優しい。
これを読めば兄が死したわけではなく、遠い場所で、いまもきっと健勝であることが瞭然となるものだった。
今伝えるのはかえって残酷なことなのかもしれない。けれど、ここからはじめなければ、私は永遠に彼女に秘密をもたなければならなくなる。
それだけはしたくない、そう思った。
差し出された手紙をそっと押し返し、彼女はゆっくりと首を振った。
「存じておりました。あの方は、すべてをわたくしにお話しくださいました」
驚いた反面、納得もしていた。
兄もまた、この人を真実愛していたのだろう。
「そう、だったのか」
僅かに微笑み彼女は頷く。
「あの方のことを、お慕い申し上げておりました。だからこそ、あの方が忘れろと仰るのであればその通りにするべきだったのかもしれませぬ。されど生来の不器用者、思うように心がついてはいきませなんだ。まわりがいうように、貞女であったわけでも操立てしたわけでもありませぬ。ただ、我侭であっただけで」
少しだけ、寂しそうな笑顔を零して、彼女はふとまどのそとに視線をやった。
眩しいほどの空の青に、つがいの鳥が一対飛翔する。
「それでも、時が経てば少しづつはかわってゆくもの。ただ私が変わったときにはすでに周りがわたくしのことなど忘れ去っておりました。そんな折、王太后陛下から、陛下とのお話しを頂いて」
「母が?」
全く知りもしなかった。
「お断りするつもりでございました。けれどもそのお話しを頂いた帰りに陛下にお会いして ―― 心が変わりました」
それは、もしかしたら。
「再会した、あの日のことか?」
彼女は、すこしだけ頬を染めて
是と言った。
「陛下が声をたててお笑いになった時、とても嬉しゅうございました。遠い昔、幼くいらした
御身様が屈託なく笑う姿をお見かけしたことは幾度とありましたが ―― あの折からそれもありませんでした故。ただいつも、寂しげな表情をしていると、そう思うておりました。だから、尚更に」
彼女が私をまっすぐみつめた。
胸が、締め付けられるほどに、そのひとが愛おしかった。
しかし、彼女の心も己の上にあったと知った今、ひとつだけ、気になることを聞く。
「何故、泣いた」
何時とも、何処ともいわなかったが、彼女には通じたらしい。
「わたくしは望んで陛下に添いましたが、わたくしには陛下の御心がわかりませなんだ。愛されてはおらぬのだと、そう思うておりました。権力におもねる愚かな女と、軽蔑されているのだろうと」
「…… 愚かなのは、私のほうだ」
一歩。
彼女に歩み寄る。
「触れてもいいか」
何をいまさら言っているのか。愚にもつかぬことを聞いたと思ったが、彼女はそっと目を閉じ頷いた。
震える指でその滑らかな頬に触れると、彼女が僅かに身を固くした。
「今初めて、
汝に触れた気がする」
彼女を上向かせ、その唇にそっとくちびるを這わせてから抱きしめると、腕の中で、わたくしも、と彼女が小さく応じた。
その体にまわした腕に力を込めれば、遠慮がちに私の背に彼女の手が回される。
私の胸に顔をうずめたまま、彼女が言う。
「どうか、これだけは信じてくださいませ。父に言われたからでもありませぬ、地位が欲しかったわけでももちろんありませぬ。ただ、これまでにお慕い申し上げた殿方がたまたま。たまたま、ふたりともこの国の王であった、ただそれだけのこと」
ただただ想いが身に溢れた。
これまで想い慕い、募った心を言葉にはできず、ただ強く抱きしめて、幾度もそのひとに口づけを落とした。
彼女は己のことを不器用者だと言った。
きっと、それは私も同じだったのだろう。
大切なことを伝えそびれたばかりに、いらぬ痛みを互いに抱えたのかもしれない。
もうなにひとつ迷う必要もあるまいと彼女をみつめ、はっきりと言った。
「好いていた。ずっと、前から」
恥ずかしそうに、嬉しそうに、頬を染めて俯く彼女の姿を愛でながら。
己が心中の凝った澱の中から一輪いずる、泥中の蓮華を、私はみつけた。
―― 終
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