泥中の蓮華
参)破戒


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その日、私が宮殿の回廊を歩いていると、なにやら宮中の使用人たちが騒いでいた。
私の姿に気づき、彼らは慌てて一斉に頭をたれたが、そのとき一匹の仔犬が足元にじゃれ付いてくる。
おそらくは、宮殿内の使用人がこっそり飼っていた犬が子を産んで、それを皆で検分でもしていたところなのだろう。
まさか、仔犬がしたことを無礼などと言うばかばかしい行いをするつもりもなかったが、若さゆえに侮られることを嫌い、周囲に対して気安い態度をとることをしてこなかった私の反応を使用人たちは明らかに恐れている様子だった。
そのとき、ひとりの女が私の前に歩み出た。
数年ぶりに見るその人は、それでもひと目で彼女だとわかった。いやわからないはずもなかった。
その儚げに佇む姿は記憶のなかのそのひとそのもののようであり、そうでありながら、彼女の上に流れた時は、追憶の中で美化された姿を補ってあまりあるほどに彼女を美しくもしていた。
水面に広がる波紋のような声で、彼女は言う。

「どうか、お咎めなきよう」

都を遠く離れていた彼女の元に、私の噂はどのように伝わっていたのか。少なくとも、良い噂ではなかったのだろう、と流石に私は苦笑するばかりだった。
たしかに、厳しい態度をとることも多くはあったかもしれない。しかし少なくとも非道ではないと、思っていたが。
足にじゃれついている仔犬を摘み上げ、彼女に手渡す。
仔犬が彼女の手の中で、心地よさげにくぅ、とないた。

「ずいぶんな暴君だと、思われているようだな。私は」

一瞬目を見開き、申し訳なさそうに俯いた彼女から目をそらし、私は傍に平伏していた者に問うた。
「仔犬の里親は全部決まったのか」
問われた男は慌てて、まだ三匹残っていると、そう答えた。
「余ったら私に言え。内宮殿の庭ででも飼うことにしよう」
よほど意外だったと見えて、彼女は私に聞いた。
「犬が、お好きでございますか?」
「小さな頃は街に出かけては犬やら猫やら拾って来て、兄に呆れられた。可愛がるばかりであまり躾をしたことはないがな」

自然と兄という言葉を口にした己に、そのとき少しだけ驚いていた。
「だから、躾はもっぱらサーリアとイシュトの役目だった。案ずるな、その仔犬も宰相(イシュト)禁軍将軍(サーリア)が立派に躾てくれるだろう。奴等の隠れた特技だ」
まあ、と。
彼女は一瞬あきれたように目を丸くしてから、耐えられなかったのだろう、くす、と笑みを零した。
彼女のそんな笑みははじめてであったから、内心驚きつつ、私もつられて笑った。
声をだしてそのように笑ったのはずいぶん久しぶりだと、そう思いながら。


再び彼女にまみえるまで、それからさほど時間をおかなかった。
かつてどこかで見たような風景。
父親から一歩下がったところにひっそりと立って一礼する。その姿をみて私もやはりかつての兄のように困惑した表情を浮かべていたのだろうか。
大人の女性となった証のように結い上げられた黒髪の、もうさらさらと零れ落ちぬことだけがあの頃と違うようだと私はそんなことを考える。
それにしても、誰が后になろうとさしたる違いはないと思っていた私だが、この成り行きには流石に戸惑いを覚えた。
()はそれでよいのかと、思わず問うた私に彼女は硬い面持ちでたった一言。

「―― 何卒(なにとぞ)幾久(いくひさ)しゅう」

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結局この縁談は、娘を王妃にしたい野心家の父親が今になり再び行動を起こしただけなのだろうと、私は結論付けた。
しかしそうとわかっていながら、彼女を己のものにできるという誘惑に私は浅はかにも負けたのだ。
ただひとつ、かつて幾つかの縁談を頑強に拒んでいたという彼女が、何故この話には応じたのか。その真意に疑問を感じ、彼女とは友人のような付き合いを続けていた母にそれとなく訊ねてはみた。
母はただ微笑んで、気になるなら当人に聞きなさいというばかりだった。
にもかかわらず何かに阻まれるように、私は彼女とはほとんど言葉も交わさぬまま時が過ぎた。再び王の許婚(いいなずけ)という立場になった彼女に対し、周囲は様々な噂を立てているようだった。しかし、そんな俗世を苦にする風でもなく彼女はいつもひっそりとそこにいる。そんなふうに淡々としていた当人たちとは相反する如く、周囲の盛大な盛り上がりの後に婚儀は執り行われた。


婚礼の夜。
震える彼女の体を、己が体の下に組み敷いてただ抱いた。
彼女が男を知っているわけがないとわかっていながら、事実その通りである事がひどく以外にも思えた。
苦悶の表情を浮かべながら、ひたすらに耐え声ひとつ零さぬ彼女に対し、優しい言葉も、ましてや甘い言葉も口にしなかった。
乱暴にその身を貫きながら、湧き上がる黒い感情はなんであったのか。
穢してはならぬものを穢した己に対する罪悪感か。
それとも、長く憧れたそのひとが、愛してもいない男に抱かれることのできる、ただの女だったことへの失望か。

一夜明けた日の朝、妻である女はこちらに背を向けて声もなく泣いていた。
そう、恐らくは泣いていたのだ。
零れる声はなかったが、肩が微かに震えていた。

手荒に扱わずにはいられなかったその欲求は、明け方潮の引いた後の白い砂浜、だれひとりの足跡もない美しい波打ち際を思わず己の足で踏み荒らしたくなる子供じみた残酷さと同じだ。
そして必ず。
振り返り己がつけた足跡をみて、後悔せずにはいられないことも。
長年手に入れたいと思っていた女の体を手に入れたところで、結局は何ひとつ満たされない。
欲しかったものは心であり、いつもひっそりとさびしげな彼女の微笑みだったのだとようやく知った。

兄ならば、彼女に笑顔を与えることができたのだろうか。

愚かなことを考えた己に腹が立った。
兄のかわりになどなれぬ。なりたくもない。
やり切れぬ思いのまま私は彼女に声もかけず、乱暴な足取りで寝室を後にした。
閉じられた扉の向う、彼女はやはり声を押し殺して泣きつづけているのだろう。


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欲しいものは得られぬと知っていながら、それでも私は彼女を毎晩抱いた。

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