泥中の蓮華
弐)四苦


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それから、彼女と直接言葉を交わす機会はほとんどなくなったが、やはり寂しさゆえに話し相手が欲しかったのだろう私の母の元に、茶会やらなんやらと口実をつけては招かれている姿を見かけることがあった。
いつみても彼女は儚げであり、愁いを帯びた表情で、私に気づくとひっそりと一礼をする。
真実を知るものと知らぬものとの違いはあったが、同じものを失った者同士。
ただ会釈を交わすというそれだけでありながら、私たちの間に不思議な連帯感が生まれたのを感じていた。
忘れろと言われたところで忘れられるわけも無い兄のことを、彼女もまた、同じように思いつづけていてくれるのだろという喜び。
しかし瞬く間のうちに時が経ち、いつしか彼女を見る目が年上の少女に対する憧憬からから一人の女性への執心と変わり、淡い思慕は劣情へ、連帯感から生まれた喜びは痛みとなった。
彼女はいったいいつまで。
もうここにはいない人物のことを思いつづけているのか。
その答えを知る術も無いまま、あるときからその姿を王宮では見かけなくなった。
後日聞いた話によれば、彼女は王宮のある星都から遠く離れた母方の祖父の領地のある地へと連れてゆかれたとのことだった。
そろそろよかろうと、どこかからか湧いた縁談を頑強に拒んだ末、手を焼いた彼女の父親が投げやりにだした命令に従った結果だった、と。

折りしも。
兄が即位したのと同じ年頃となった自分にとって、兄王の影が次第に重く感じられるようになった頃だ。 何をしても比較され、彼にはかなわぬ、超えられぬという焦りが常に我が身を脅かしており、 いつまでも手のとどかぬ理想故に、いつしか私は彼とは全く違う王の姿を目指すようになった。
じっくりと、時間をかけて物事を円満に導くことに長けているのが先王であれば、私は決断の速さと意思の強さで周囲を率いた。
なにかにつけことを強引にすすめた結果、覚悟していたとはいえ反感も多かった。特に私の下した命令によってかつての権限や利権を失った輩は先王の時代を懐かしんだ。
本来、富は民に対し還元されるべきで、一部の力を持ったものが私欲で蓄えこんでいいものではない。だから私が行ったことがあやまちだったとは微塵も思わぬしそれに対する反感は逆恨みでしかない。
先の王とて、そういった輩を野放しにしていたわけでは無いはずなのに、根回しをせずに断罪する私の方法は恨みを買いやすかったのだろう。
声高に批判する者、影で皮肉を言う者、挙句の果てに兄の急すぎた死(・・・・・)が公の理由とされている病などではなくもっと別の(はかりごと)であり、私が治める現在のこの国で得をしている者こそが、その首謀者であるなどという噂までがまことしやかに流れた。
真実を知るものにしてみれば噴飯ものでしかない憶測であり、そうでなくとも当時六歳であった私がそのような謀に関われるわけがないと少し考えればわかることだ。
にもかかわらずそのような噂が流れるほどに、私は多くの敵を、作っていたのかもしれない。
それでもなお。
永遠に兄の身代わりであるくらいならそれでよいとすら、考えていたのだ。

宰相であるイシュトは、そんな私に対して苦笑していった。

―― 陛下は清廉過ぎます。

兄とは違った意味で真面目すぎるのだと、そういうのだ。
だが正直その評価が己にあてはまるとは思わなかった。
私の中には消せぬ濁りがある。それはかつては純粋な愛情だった。しかし時が経って何時しか憎しみと変わらなくなった兄への感情。
彼という存在がもしもはじめから存在しなければ、私はこれほどまで、得られぬ何かに苦しまずに済んだという、身勝手な妄念。
こうして心の中で彼という存在を(しい)ているのであれば、ならばあの噂は皮肉にも嘘からでた誠ではないか。
そんな私に、きっと清廉などという言葉は似合わない。

もちろんわかってもいた。ここまで兄の影に反発するのは、幼い頃に行き場を失ったまま押し込められた兄への思慕の裏返しであることを。
目を背ければ背けるだけ、逃れることなどできない。
ましてや、超えることなど。

姿を見なくなってからも消えることのなかった彼女への執着も、やはり兄への複雑な感情の延長線上であったのかどうか、正直私にはわからない。
ただ、望んでも手に入らないという点において、私には同じことだったのだと思う。
いや、立場を利用すれば無理にでも手に入れることはできたのだろう。しかし、それをするのは私にとっては最大の禁忌であったのだ。

手に入れることのできぬ彼女をもし何かに喩うるなら、それは濁った沼よりいでて清らかな花をつける蓮に同じ。
生きることの哀しみや苦しみの中にありながら、穢れることなく凛と咲く、泥中の蓮華。
心に濁った澱みを抱えたままの私にとって、それは得がたくそして永遠に汚してはならぬ聖域のようなものであり、聖域であるからこそ汚したいという激しい欲求を駆りたてるものでもあった。

そんなふうにして得られぬままの恋の反動のように。
悪戯に手折った、名も知らぬ花の数は既に知れぬ。
あえて手折ろうとせずとも、向うから蕊を散らす花も多かったが、それに対してさした感慨も抱かなかった。周囲では世継やら何やらという声も聞こえ始めていたから、こうでもするうち孕むものが現れればそれはそれで余計な面倒から開放されるとすら、思っていたのだ。

そんな日々の果て、いつしか私はここを去った時の兄の歳を追い越していた。

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