泥中の蓮華
壱)無垢


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婚礼から一夜明けた日の朝、妻である女はこちらに背を向けて声もなく泣いていた。


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はじめて彼女を紹介されたのはいつだったか。ずいぶん昔であったことは間違いない。
その娘は、遠く過去に遡れば王家と血を同じくする名門の姫君だった。
父親から一歩下がったところにひっそりと立ちうつむいていたその姿を、彼女にいきなり引き合わされていささか困惑した表情を浮かべていた兄の姿と共に思い出す。
やはりひっそり、という表現が相応しい仕草で彼女が会釈をすると、艶やかな長い髪が、さらさらと肩から零れ落ちて流れ、それを私は美しいと思ったものだ。

誰から聞くともなく、この美しい年上の少女が将来の自分の義姉候補だと私は知っており、それをほんのりと嬉しくすら感じていた記憶がある。
私はまだ幼く、この世にある悲しみや苦しみも知らず、疑うことも、ましてや憎しみなどと言うものを知るはずもなく。
ただ純粋にその時、この大好きな家族の中に新たな一人が加わわったらどんなに楽しいだろうかと想像しては胸を高鳴らせ彼女のことを眺めやるばかりだった。

その頃の私は周りにあるもの全てが永遠であるかのように錯覚していた。
尊敬できる父と、やさしい母と。そして誰よりも大好きだった兄と。
このさき幾年も幾十年も何一つ失うことなく。
いつか大人になる時がきて多少何かが変わったとしても、その変化はきっと些細なことであり、ただこの平穏で幸せな日々がつづくのだと。
そしてその未来に、自分という存在は兄の支えになりたいという、たったひとつの夢をかなえているに違いないと。
そう信じて疑わなかったのだ。


けれども、そんなふうに私の周囲に構築されていた狭く美しい楽園がいとも簡単に崩壊したのは今から十年程前。
私が六歳の時だった。

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何故と問うことすら許されず、あっけなく別れの時は訪れた。
常に歳のわりに大人びたという評価を得ていた兄とは対照的に、いつまでも甘えん坊と言われていた私ではあったが、少なくともあの別れの日、泣いたり駄々をこねたりして遠くへ旅立つ兄を困らせてはならぬことは重々承知していた。
無理にでも笑顔を見せ、そして行ってらっしゃいと彼を送り出すことが、唯一。
いつかは叶えたかった『兄の支えになりたい』という夢を僅かなりともその時に実現する方法であったのだ。

哀しみは胸を張り裂けんばかりに溢れていたが、兄が遠い場所で元気でいることを知っていた私や両親、そして兄の幼馴染達はまだ幸せだったのかも知れぬと思う。
兄の偽りの大殯(おおもがり)の儀で、いつかと同じようにひっそりといった風情で佇み、己の婚約者の死を悼んでいた彼女の姿を。
はじめてあった時と同じように思い出せる。
私と目が合い、喪の色の衣を纏った彼女が哀しみの中でゆっくりと礼をしたとき、その黒髪はやはりさらさらと肩から零れ落ちた。
沈黙のなかからひしひしと伝わる彼女の悲しみをひどく心に痛く感じると同時に、ひとつの疑問が頭をもたげる。

兄は何故、彼女に真実を伝えなかったのか。

彼にとって、たとい婚約者とはいえ家柄で決められただけの婚姻。そこまで語る必要性を感じていなかったからか。
否。
二度と会いまみえることなどありえないのだ。だからおそらくは、あえて死んだと伝えることで彼女を余計なしがらみから解放しようという、兄らしい優しさと愛情故の結論だったのだろう。

―― 私のことなどお忘れなさい。

今は私の忠臣であり、兄の幼馴染だったサーリアとイシュトは、かつて去りゆく兄からそう言われたのだと語ったことがある。
我忠誠変わることなしと、そう言った二人に苦笑して言ったのだそうだ。
あなたたちの忠誠は新たな王と民の前にあるべきで、ここを去る自分にいつまでも捧げてよいものではない、と。
だからきっと、彼女に対しても似たような考えでいたに違いない。
ただ、残念ながらその意図は彼女には通じていなかったようだ。
王に嫁した女は、仮に王が死しても再嫁は許されぬ。まだ正式に華燭の典を挙いだわけてもなく、あくまでも婚約者であったそのひとに、このしきたりを守る義務はなかったが彼女は自ら喪を解こうとはしなかった。


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