続々・「家の明かり」
デル・リンデンバウム
〜菩提樹〜

※前女王アンジェは、「月さえも」シリーズの設定のため、
公式のそばかすアンジェとは性格や設定が多少異なります。




Am Brunnen vor dem Tore, Da steht ein Lindenbaum;

泉にそいて 茂る菩提樹

Ich ttraumt' in seinem Schatten So manchen sussen Traum.

慕いゆきては たのし夢見つ

Ich schnitt in seine Rinde So manchen liebe Wort,

幹には彫(え)りぬ 愛の言葉

Es zog in freud' und Leide Zu ihm mich immer fort.

うれし哀しに 訪いしそのかげ


その大樹はいつもそこにあった。
はじめてひとりこの地を訪れ不安が隠せなかった時。
怖いくらいに澄んだ蒼い瞳と金の髪を持った同じ年頃の少年と共に遊んだ時。
そして、甘く、切なく、哀しい恋の想い出を紡いだあの遠い日々も。
大樹はいつもそこで、変らぬ姿で自分を迎えていてくれた。
風にそよぐ繊細な枝は涼やかな陰をつくり、木の葉のざわめきは優しい歌のように心を穏やかにさせた。

変わりゆくのはいつだって人間のほうである。
かつていちばん低い枝にも手が届かずにいた自分はいま、登ろうとすれば楽々とその木の頂きへと行き着くことができるだろう。
けれど、姿とともに心も変わった。
瞳を煌かせ、友と秘密の宝捜しをした少年達はもういない。
この木の上で、翼を休めていた愛しい天使ももういない。
いまの自分に

――― この木に登る理由はもう無いのだ。



夜明けまではまだしばしの時間があるようだ。
森の湖はいやになるほど、いつもと変わらない静けさを呈している。
世界は薄明かりににじんで、
木々も、草も、花も、天も、水も、大気も
淡くすきとおった蒼に染まっていた。
あと、小一時間もすれば鮮烈な光を辺りに与えながら耀く太陽が天に姿をあらわすだろう。
そのまえに、此処を ―― 聖地を去ろう
彼はそう考えていた。

闇のサクリアが費えた今、自分がここにいる理由はない。
女王交代直後でいささかの混乱はあるだろうが、自分の後任者は直にみつかるだろう。
そういうふうにできているのだ、この宇宙は。

黙って去ったことに気付けば、またあれが騒ぐだろうな。
最後まで、職務怠慢だ、なんだ、と。
そう思いながら彼は、ふ、と笑みを零す。
―― まあ、聞こえないからどうでもよかろう
そんなことを考えている。
そして、そう考える自分に苦笑する。
結局、こうなのだ。
相反する光と闇。
けして交じり合うことの無い互いの存在。
いつも反発し合い、どう間違っても「友人」とも呼べない存在。
なのに、この聖地を去る今、心を支配してやまないのは「友人とも呼べない奴」であるはずの、光の守護聖に他ならない。
あれは、自分がこの地を去った後、どんな反応をみせるだろう?
少々、みてやりたい気もする。
誇り高き光の守護聖のことだ。
表向き、挨拶も無い退任を責める程度だろうが……
けれど、私も、あれも、本当はわかっているのだ。
幼い日から永きに渡り共に過ごした互いの存在。
それが、かけがえの無いものであるということに。

―― ただ、あれは、それを認めたくはないだろうがな。

彼はそう思い、再び笑む。
―― 昔から、わかりやすい奴だ。


彼は大樹に歩み寄り、その幹に手をふれた。
なぜか、その幹に温もりを感じる。
まるで、この木と過ごした想い出の時間のぶんだけ、大樹に心が宿ったように。
いや、もしかしたら始めからこの大樹には心があったのかもしれない。
そして、ずっとみていたのだろう。
自分達のことを。


森の湖でのいくつもの想い出が心をよぎる。

この場所で、はじめて腕にいだいてくちづけした金の髪の少女。
打ち砕かれ、果たされなかった約束。
そして、さらに遠い昔。
目の前に不思議な光景が広がる。
夜も明けていなかったはずの辺りは突然、明るい午後の日差しに満ち、大樹はやさしい木漏れ日を落としている。

それは、まだ、恋も、闇も、宇宙も、何も知らずにいた幼い日の幻だった。
友とふたり、木の上に一枚だけあるという、手に入れれば一番の幸せを得られる『金の木の葉』を採ろうとしていた時の――

6才ほどの少年がいる。
黒髪に、紫水晶の瞳
これは、私だ。
そして、もう一人、同じ年頃の少年。
黄金の髪、蒼穹の瞳。
どうやらふたりは、湖の大樹に登ろうとしているらしい。
しかし、いくら挑戦してみても、幼い少年達が登るのに、木は大きすぎたようだ。

「まだ、我らの身長ではのぼれまい」
負けん気の強そうな金の髪の少年が悔しそうに言う。
「そう?じゃあ、大きくなったら、また、ためしてみよう……」
おだやかに笑う、黒髪の少年
「では、約束だな」
「うん、約束」

―― 約束 ――

―― そうか、この場所で果たされなかった約束はもう一つあったのか……
もう、ずっと忘れていた。
大樹よ。
この幻を見せたのはおまえか?
この地を去る、私への餞別か。それとも、あれとの不仲を心配したか?
だが、安心しろ。
私は、あれを責めてなどいない。
あのとき、我らの……私と彼女の運命はすでに決まっていたのだから。

だから私は、あれを責めてなどいない。けっして。


Ich musst' ssuch heute wandern Vorbei in tiefer Nacht;
Da hab' ich noch im Dunkel Die Augen zugemacht.
Und seine Zweige rauschten, Als riefen sie mir zu;
"Komm her zu mir, Geselle, Hier find'st du deine Ruh'!"
今日もよぎりぬ 暗き小夜中
真闇に立ちて まなこ閉ずれば
枝はそよぎて 語るごとし
「来よ いとし友 ここに幸あり」

あの長い時を過ごした、すでに故郷とさえ呼べる地から遠く離れた大陸。
この大陸も不思議な地だった。
―― エリューシオン。
天の花園の名を持つ大地。
そこは。
帰るべき故郷を持たずして訪れた旅人を暖かく迎えてくれる家の明かりのような。
そんな場所だったのである。

そして、帰るべき故郷を持たないふたり、先の女王・アンジェリークと、クラヴィスは、この地でふたたび廻り逢い、結ばれる。
ある時、かつての女王だったひとは、楽しそうに笑みをうかべながらこう言った。
「この大陸がこんなに美しくてやさしくて、幸せなのはこの大陸を導いた『天使様』が幸せだからですわね、きっと。
その『幸せ』にあなたも一枚かんでいらっしゃったのでしよう?」
彼にとっての天使は相変わらず、その光を映さない若葉色の瞳で、すべてを御見通しのようである。



闇の安らぎに満ちた静かな夜。
腕の中に愛しいひとの温もりを感じながらふと、聞こえるはずも無い遠い場所の大樹のざわめきを聞いたように思い、クラヴィスは目を覚ます。
静寂の中に、遠い波音がくりかえし、くりかえし、聞こえている。
―― 海鳴りと……間違えたのだろう。
そう思ったその時、腕の中の人も目を覚ましたようであった。
「……起こしてしまったようだな……」
その囁きにアンジェリークはいいえ、とちいさく首をふってクラヴィスの胸に頬をよせる。
「……大樹のざわめきを……聞いたような気がしたのだ。……波の音だろうがな」
その言葉に
「いいえ。本当に聞いたのかもしれませんわ。大樹のざわめきを。私、夢をみましたの」
彼女はそう言って微笑んだ。


不思議な夢でしたの。
私、夢の中で、ちいさな少女になって木登りをしていて……
聖地の、あの森のの大樹でしたわ。
一生懸命登って、終にてっぺんまで行きました。
新記録ですわ。私の。うふ。
そして、そこにはもうひとり、同い年くらいのちいさな女の子がいました。
私と同じ色の、くるくるした可愛い巻き毛で、深い、森と同じ色の瞳をしていました。
私、その子とおしゃべりしました。内容は忘れてしまいましたけれど……
とっても、とっても、楽しかった。
それで、ふと、樹の下の方を見ましたの。
うふふ。
かわいらしい男の子がふたり、樹に登ろうとしていました。
ほんとに、かわいい子達。
ひとりは、すぐにわかりましたわ。
紫の瞳と、闇の色の髪。
……あなたでした。
そして、もうひとりは、『光』と同じ髪をしていました。
そして、瞳は空の色とおなじでしたわ。
おわかりですわね?あなたも。
……あれは、きっと……

あなたのいちばんのお友達。そうでしょう?

ふたりは樹に登ろうとしていたんですけれども、どうしても登れなくって。
諦めてしまいましたの。
とても残念でした。
だって、一緒に樹のてっぺんで遊びたかったんですもの。
だけど、もうひとりの女の子が言いましたの。

『いつかきっと、ここまで来てくれるわ!』

って。
私、ああ、そうかって。そう思いました。
きっといつか、一緒に遊ぶことができるんだ、って。
そのとき、樹がざわめく音がきこえましたわ。
さわさわと、さわさわと。
それはもう、やさしい歌のように、心に染みるような。
そんな、木の葉のざわめきでした。


「そこで目が醒めましたの。ね?あなたもきっと、そのざわめきを聞いたんですわ」
そう言ってクラヴィスの頬に手を当てるひとを、彼は抱き締める。
すこし驚いたような声をあげて、でもすぐに何かを感じ取ったようにアンジェリークはクラヴィスの長い黒髪をやさしくなぜた。
まるで、脅える幼い子をなだめるかのように。
クラヴィスの愛しいひとをいだいていた腕に、さらに力が込もった。
「 クラヴィス?……私は、ここにいますわ。
ずっと。もう、何処にもいきません。あなたが嫌だといっても、ずっと、ずっと、そばにいます……」
彼は彼女にやさしく接吻する。
「おまえのことだったのだな……」
かつて、ジュリアスと共に手に入れようとした『金の木の葉』とは。
そして、ようやっと、手に入れることのできた一番の幸せ。
あれも、手に入れたのだろう。
『金の木の葉』を。

そして、あの約束は、今もふたりのなかに息づいている。
そう、果たされなかったわけではなのだ。
これから先、自分達が互いを思うたび、思い出す遠い約束。
それは、ふたりが生きている限り、いつか果たされる可能性を永遠に秘めているのだ。
いつまでも、いつまでも。

しかし、この腕のなかのひとは、よくもまあ、あっさりと言ってのけてくれたものだ。
あれのことを『いちばんのお友達』などと。
クラヴィスは苦笑する。

アンジェリークは怪訝な顔をしてどうしましたの?と訪ねる。
その問いは、甘やかなくちづけとやさしい愛撫にかき消されてしまった――

夜明けはまだ遠い。
森の大樹が、風にざわめく音がふたたび聞こえた気がした。

遠くはなれた地にいるかつての少年は、このざわめきをそばで聞いているだろう。
その腕に、運命が出会わせてくれた愛しい人をいだいているだろう。


語るが如く大樹がざわめく。
我が愛しき友よ、どうか、幸せであれ。
そして、かつての少年達は思う。
我が愛しき友よ、どうか、幸せであれ

―― 我が愛しき友よ、どうか
幸せであれ ――

                              
    

Die kalten Winde bliesen Mir grad' ins Angesicht,

遥か離(さか)りて たたずまえば

Der Hut flog mir vom Kopfe,Ich wendete mich nicht.

なおもきこゆる「ここに幸あり」

Nun bin ich manche Stunde Entfernt vom jenem Ort,,

遥か離(さか)りて たたずまえば

Und immer hor' ich's rauschen:"Du fandest ruhe dort!"

なおもきこゆる「ここに幸あり」

(Lindenbaum「菩提樹」より。一部歌詞を編集)



〜Fin.



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