ばいかしん
梅香信

ふぁんでら連載中のアンジェリークコミックと、ブックレット「黄金色の追憶」を参考にしています。
かつてディアとアンジェリークが女王候補だった頃、
ルヴァがクラヴィスに「想いを(前女王)アンジェリークに伝えなさい」と促したと言う
エピソードがあると言うことをあらかじめご了承ください。
また、同じくアンジェリークコミックのオルゴールのエピソードより
ディアは前任の鋼の守護聖との間に悲しい恋があったのだろうと想定しています。



いつもと変わらぬ穏やかな常春の空のその日、あたたかな日の射す机の上に届けられた一通の便り。
私はその差出人の名を見て、えもいわれぬ懐かしい想いに駆られました。
そう、そは彼女からの手紙だったのです……。


拝啓、如月の候
ルヴァ様、そして皆様方には如何お過ごしでいらっしゃいましょうか。
春とはまだ名ばかりと思いつつ、先日ふと香る紅梅に、懐かしくも遠い、あの聖地の紅梅を思い出し筆をとった所存です ――

何気もない日々の近況を綴るその便りの美しい筆跡は、かつて女王補佐官であった彼女のものそのままのようでいて、けれど、いつも書類でしか見たことのなかったそれとは何処か違う ―― 強いて言うならばひとりの女性の優しさや、温かさ、そして内に潜む淡い悲しみを表すような。
そんな、筆跡でした。
『紅梅』その言葉に、 私は並ぶ本の間の窓に覗く青い空をみて、森の湖の少し奥にある紅梅の咲く谷を想いました。
ああ、あの紅梅は、常春の聖地の風に今日も花を咲かせているでしょうか。
彼女の淡紅(あわくれない)の瞳と同じ色の芳しい華。
その香は捕まえようとすれば幻のように消えてしまうほどに、淡く、儚く辺りを満たしているのでしょう。
遠い思い出は何故か現実よりも時として鮮やかに脳裏へと浮かび上がります。
私はその時確かに、馨るはずの無い紅の梅の香が心に満ちてくるのを感じました。
あの美しい人の、悲しげな笑顔と共に。

彼女が聖地を去ってから、私はあの樹のもとへ行ったことがありませんでした。
意識的に避けていたつもりはありませんでした。
でも、今想えば避けていたのかも、しれない、とも思います。
新しい女王陛下や補佐官殿、若い守護聖達の教育係で忙しいことにかこつけて私は。
私は、自分自身の想いに目を背けていたのです。
その昔、同僚に「自分の言葉に正直に、思ったままを言葉にすればいい」と言っておきながら、終に自分自身の想いを伝えることなく失った淡紅(あわくれない)の華のような。
うつくしい、ひと。

他人と接することに器用とは言えない私が不用意に立ち入ったために同僚を傷つける結果になった遠い昔。
そのときから明けぬ夜の闇に身を任せつづけていた彼と、今の私に いったい何の違いがあるというのでしょうか。
時が過ぎて新しい風をはこんだ少女が、いつしか彼の闇を拭っていたことを嬉しく思いつつ、 やはり同じように明けない闇の中で、癒されることなく聖地を去っていった友人。
前任の鋼の守護聖のことも、私の口を閉ざさせた原因だったのかもしれません。

何故、人は皆望んだように幸せになれないのでしょうか。
あの女王試験の折り、 ふたりの女王候補と闇と鋼の守護聖、それぞれの間に生れた想いは決して罪などではなかったはずです。
純粋な想いで互いに惹かれあった彼らが不幸にならなければならない理由など、どこにもなかったはずなのです。
先の女王陛下が即位なされた時、私はてっきり彼女は彼の元へ ――
彼女達だけでも幸せになるべきだと思っていました。
けれど想いと想いの狭間、時だけが流れてゆき、 彼は独り聖地を去り、彼女は補佐官としてその身を捧げ、やはりこの地を去る時は独りでした。


常春の聖地のこと、やはり今日もあの紅梅は花をつけているのでしょうね。
女王候補だった頃、貴方はあのあ花の色が私の瞳の色に似ていると、そうおっしゃった事、まだ覚えておいでですか?
不思議ですね、何故、今ごろになって、とお笑いになっても宜しいのですよ。
本当に、不思議ですね。
あのひとのサクリアが尽きた時、何故共に行かないのかと私をお叱りになったことがありましたわね。

貴方が怒るのをみたのはあれがはじめて。そして、最後でした。

何時からだったのでしょう。
あの時お叱りになった貴方の心の内、そのことが気になりだしたのは。
友達思いの貴方が、あのひとのために言った言葉であろうと思うにつけ、心が痛んだのは。
いったい、何時からだったのでしょう。

私はいつのまにか香る紅梅の樹の元へと来ていました。
あまり日の射さぬ谷間のこと、聖地とは言え、ひんやりとしたこの空気が、この花々を一層美しく咲かせているのでしょう。
久方ぶりに訪れたそこに、花は昔のままにありました。
遠くで滝が深い壷へと落ちていく音が響いていました。
(うぐいす)でしょうか、鳥が穏やかに囀っています。
聖なる地にという名にふさわしい光景は、それ故に私の心にある種の悲しみの影を落としました。

以前、彼女がこの地を去る日の前日、私達はここでしばし、花を眺めて時を過ごしたことがあります。
彼女が女王候補だった時、一度だけ、一度だけ誘ったことのある場所です。
この花の色が、貴女の瞳の色に似ているから、見せたかったのだと。
我ながら情けない理由をつけて誘った記憶があります。
再びふたりで訪れた時、彼女はすでに少女ではなく、私もまたあの頃の私ではなかったようです。
彼女が言いました。

いつも気にかけてくださって、私はどれだけ貴方に救われたか知りません。
けれど、それは ……
あのひとが …… 貴方の親友だったから、ですか?

いつもは結い上げていた彼女の優しい色の髪が、その時は結われぬまま風にゆれました。
返す言葉も見つけられぬまま、私は彼女を見つめ、そんな私の様子に彼女は悲しみを帯びた微笑みを見せました。

ごめんなさい。
つまらないことを……聞いてしまいましたわね。

そう言って風景に目をやった彼女の横顔を、私は今でも忘れることができません。
あの時、私もまた、かつての私の友人と同じように貴女を愛しているのだと、そう告白できたなら。
私達の未来は変わったのでしょうか。
後悔先に立たず、などと言う言葉の知識はあっても、後悔せずに生きていくと言うのは難しいことです。
いつもいつも、その時の私の行動で未来は変わったかもしれないのに。
いくら後悔しても現在に続く過去は変えようがないのだと、つくづく思い知らされます。
その時私が言葉を詰まらせた本当の理由。
それは、古い友人への気兼ねや彼女の答えを恐れた訳でなく。
ただ、勇気がなかったのだと思うのです。
―― すでに女王補佐官ではなく、私とは違う時を体に刻む彼女に。
想いを打ち明ける勇気が、なかったのです。
傷つけることよりも、傷つくことを私は恐れたのかもしれません。
愚かであることは解っていました。
けれど、紅梅を見やる彼女の横顔をみて、彼女もまた、その勇気は持っていないのであろうことを悟ってしまったのです。
かつて、彼と聖地を去らないと決心した彼女を諭そうと試みたのは、 彼女を愛しているからこそ、幸になって欲しいと、そう望んだからでした。
けれど、彼女にとって辛苦を共にした友人の元を去るのはまた、逆に辛いことでもあったのでしょう。
どちらを選べばより幸せになれたかなど、人である身がが知るべくもありません。

同じように。
想いを伝えればより一層、悲しみを抱えることになったかもしれない。
けれども。
想いを伝えれば違った未来が在ったかもしれない、そう思うことも止められずにいるのです。

運命はいつも、捕まえたと思えばすり抜けてゆくこの梅の花の香りのようだと、思いました。
確かにその時そこに在ったのに、過ぎ去って、もう、幾ら探してもみつからない。
そして、また忘れた時に訪れるのです。
淡い、感傷を人々の心にもたらすために。


貴方が入れてくれた緑茶の暖かい湯気。
日の当たる部屋の古い本の香り。
風に吹かれると必ず慌てて押さえていた頭布(ターバン)

ふたり眺めた紅の梅の花。
そして。
ひだまりのような、貴方の笑顔。
  あげればきりがないほど、こんなことばかり思い起こしています。
思い出とはまるで、傍らを通り過ぎる梅の香のように、 ほのかに、捕まえようとすればすり抜けて消えてしまうほど淡く儚いものなのですね。


私が、この先綴る言葉は、貴方を傷つけるかもしれない。
だから、若し、望まないのであったならこのまま破り捨ててください。
でも、逆に私と同じ痛みを貴方も感じてくれているのなら幸せだとさえ、思っている私がいます。

彼女がこれから伝えようとしている言葉を、私は知っているのだと思いました。
そしてきっと、彼女も私があの時伝えたかった言葉を知っていたのでしょう。
二度と交わることのない路の上に立つ私達。
それでも、この先に綴られているであろう言葉を読むことに、もう(ためら)いはありませんでした。
二枚目の便箋を()る前に私は空を見上げました。
澄んだ空に風は青々と流れています。
その風が不意に強く吹いたその時、いつもの癖で抑えようと頭布(ターバン)へと手をやった私は、思い直してその布を外しました。
誰もいない谷間に微かに衣擦れの音が響いたようです。
それは彼女への誓いでした。
いつか、私は別の誰かを愛するかもしれない。
けれど、いま、この時間違いなく私は彼女を愛しているのです。

貴女を、愛しています。


貴方を、愛しています。
あの時も、そして今も変わることなく。
ただ今迄、貴方に、伝える勇気だけが、ありませんでした。

あの時も、そして今も変わることなく。
ただ今迄、貴女に、伝える勇気だけが、ありませんでした。

花の香りを含んだ風が、私の短い髪を揺らし、慣れないその感覚に少し戸惑っています。
どうか、この梅の香にのせてこの想いが貴女の元へ届きますように。
『自分と同じ痛みを感じていてくれるのなら』と、彼女は綴っていました。
それならば、遠いどこかの土地で、彼女もまた私を想いこの切なさを抱えていてくれるのでしょうか。
涙が溢れんばかりに痛む心とは裏腹に、彼女と同じく『幸せだとさえ、思っている私』がそこにいます。

春とは名ばかりのその季節。
寒さに堪え忍び、それでも凛と香る梅の花のように。
この想いもまた、その痛みのうえにあって切なくも幸せであると、梅香にのせて届いた便りが、それを私に教えてくれたのでしょう。

向来氷雪凝厳地 ――― 向来 氷雪の凝ること厳しき地に
力斡春回竟是誰 ――― (つと)めて春の(かえ)るを(すす)むるは(つい)に是れ()

昔から 氷雪の厳しく深い大地に
春をもたらす健気な花は 
寒さに堪え忍び香る梅花よ
貴女のほかにあるべくもなし


翌日、金の髪の女王補佐官により、前女王補佐官のディアが静かにその生涯を閉じたことが伝えられました。
―― 夜半の雨に、谷間の梅花は、その花を散したそうです

〜終

◇ Web拍手をする ◇

◇ 「あとがき」へ ◇
◇ 「彩雲の本棚」へ ◇