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そとはありあけ。
まだ朧に月の雫の零れる時間。
あなたを起こさぬように、私は寝台から抜け出して、服を着た。
私は今日、この地を去る。
長い時間を過ごした場所だ。
愛着がないわけではない。
しかし、既に
徒人となった身で、いつまでもここに留まることは許されず、そうでなくとも既にあなたとは違う時を刻む体となったのであれば。
そのことを自らの老いという形で知らしめられる前にすべてを断ち切ってしまいたかった。
未練ゆえに少しでも共にいたいなどと考えれば、きっと断ち切る機会を失ってしまう。
だから去るのは、新たな女王が即位して一夜明けた今しかない。
ただ、そうであるのなら。
何故私は昨夜あなたに抱かれたのだろうかと、人事のように考える。
たかだか肌をあわせたくらいで、何かが変わると思うほどもう未熟ではない。
それでも長く長くただ心の奥に秘めた想いを、あの短い間で発露する方法を、私は他に思いつかなかったのだ。
はじめて男性というものを受け入れながら。
その痛みよりも、心ばかり時を重ねていまだ娘のままの己の体にひどく違和感を覚えた。
あなたはそんな私を抱いて、どう感じたろう。
できることなら。
欲情のままに求め合って、快楽を追及するような、そんな体験をあなたとしてみたかったなどと考えて。
そんな自分に苦笑した。
私がいつか別の誰かを愛するように。
あなたもまた、いつか別の誰かを愛するだろう。
それでいい。
何故ならそうであっても、決して、いま在る ―― いいえ、あの遠い日から今に至る私たちの想いは、幻でも偽りでもなく、あきらかに存在しているものなのだから。
私はあなたにとって、少なくとも体の上では最初の女でも最後の女でもないと思う。
けれども今後私が歩む人生の中で、おそらくはこと在るごとにあなたの面影を思い出し心に走るであろう甘い痛み、
それと同じものを、あなたも抱えてゆくであろうことを知っている。
そして。
それを嬉しいとさえ、思っているのだ。
残酷だ。
そう心に浮かんだ言葉は、あなたの心の痛みを『嬉しい』などと評した己の戯言に対してなのか、それとも私たちを取り巻くこの運命とも宿命とも呼べる細くも深い
縁に対してなのか、わからなかった。
でもそんなことは、どちらでもいいのだろう。
こちらに背を向けているあなた。
目覚めていないわけがないと感じるのは、私の思い込みなどではきっとない。
そのあなたに向かい、少しだけ身を乗り出して瞳が閉じられたままの無表情な横顔にそっとくちづけをおとした。
いまあなたは。
いったい何を想っているのか。
そんなことを考えているとふいに、
「ごめんなさい」
ひとしずくの涙とともに自分では思いも寄らぬ言葉が零れた。
涙はあなたの頬に落ちて、そのまま鼻梁のくぼみを伝って流れて消える。
謝罪して、どうなるというのだ。
そもそも、いったい何に対して、私は謝罪しているのだろう。
果たされなかった約束の過去がか。
それとも、このまま黙ってさろうとしている現在がか。
違う。
きっと、この先あなた無しでも生きてゆけてしまう、私の未来がだ。
昨日まで、私をこの地に縛り付けていた、黄金の羽根という名の枷はもうない。
かわりにこの足で立ち、歩み、そして新たに得た自由という名の翼で羽ばたき旅立つことができるのだ。
そしてその私を、あなたは決して、引き止めたりなどしない。
だから相応しい言葉はありがとうだったのかもしれないけれども。
でも、もういい。
きっと、あなたにはすべて伝わっている。
手にすべき荷物はほとんどない。
私はそっと扉をあけ、部屋の外へと足を踏み出す。
その背中で、微かに軋んで扉が閉まった。
ひんやりとした朝の空気が私を覆い、薄暗い廊下に自分の足音だけが響いた。
ふたたび零れそうになる涙を飲み込んで、凛として面をあげて、前をみると。
その瞬間にあかときの眩しい光が窓から差し込み私の顔を照らした。
ああ。
私は振り向かない。
あなたを愛した私という自分自身で、明日に向かい、歩くことができる。
だから。
さようなら。
私が、愛したひと。
もうきっと、あうことも、ない。
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ふたりの最初で最後の朝。
ただ、ご存知の方には天球儀の
「秋愁シリーズ」のなかの、
「花咲けリ」の前女王アンジェサイド、ともうけとれるかもしれない。
解釈はお任せすると言いつつ、書き手の意図としては、これは
あくまでも最後の朝なのだとお断りしておく。
そして、それでいて彼らは決して「不幸」ではない、とも。
05.07.06