花咲けり

「秋愁の雨」と同じ軸で展開するお話です。


「おまえの好きな花はなんだ」

唐突にカティスにそう聞かれたのは、どういう経緯でだったかはわからないが共に酒を飲んでいた時だったと、クラヴィスは記憶している。

「好きな花の名でなくとも、どんな雰囲気の花が好きか、でもかまわないんだが」

とも、言っていた。
彼の館の花壇を少し手入れするため、欲しい花は無いか、という意図だったはずだ。

好きな花など尋ねられたところで、名はもちろん、どんな雰囲気と言われてもわかるはずも無く、そうであることをカティスとて予想がつかなかったわけではないと思う。
だから、その問いをした時、友人は珍しく酔っていたのではないかと、後から考えればそうも思える。
もっとも、酒に飲まれるような人物でないのはクラヴィスとて重々承知していた。
だから、あの日酌み交わした酒は特別だったのだ。
何故なら、その後さほど時間を置かずに彼は聖地を去った。

あの時に、答えを出さなかったことに軽い後悔がないわけではない。
けれども、あの時点で答えがなかったのだから仕方ないとも思う。
いや、あの時点どころか、いまなお。
時折思い出すその問いに、クラヴィスは答えを持たない。

◇◆◇◆◇

そんな旧友の問いを思い出したのも。
おそらく目の前に迫っている別れが関係しているのだろうと、クラヴィスは自嘲する。
覚悟していたはずだ。
いまさら動揺もすまいと思っていたが、それでも何がしかの感情がはたらくらしい。
飛空都市で女王試験が執り行われた。
新たな女王を選ぶ試験であれば、当然それは現女王の退任を意味する。
それは、すなわち。

だから、次なる女王が決定した今、おそらく今日明日にでも彼女がこの地を去るであろうことをクラヴィスは知っている。
だからといって何ができるわけでもない、何をするでもない、しようとも思わない。
ただ、いつもと同じように。
館のテラスで更けゆく夜に晧々とする月を眺めやる。

手を差し出して、その月の光をすくうようにしてみる。
月影は指のあいまからさらさらと零れ落ちて、青く滲んだ。
かつて月の女神に喩えた女も。
指先をすり抜けて遠くへと旅立つ。
痛みを感じるわけではない。懐かしさや、寂しさや、熱情がそこにあるわけでもない。
かといって虚空なわけでもなく。
今心に。
穏やかとさえ言っていいように満ちる思いはなんだのだろうかと、彼は考える。
それこそ、この月の光のようにつかみ所が無い。
ただひとつ。
思い当たった言葉を紡ぐ。

―― 幸せで、あれ

と。
そして紡いでから気がついた。
心満たすこの思いは、これもまたひとつの愛情なのだと。
長い時を経て、ようやく成った穏やかな想い。
知らず、彼は笑みを零す。
そのとき、草を微かに踏む音がして、彼はそちらを見やった。

金の真っ直ぐな髪を月光に愛撫されて、その人はいた。
その表情は、やはり愁いなく穏やかな笑みを零して。
記憶の中の少女らしさは少なくともその外見からは感じられない。
そう、彼は思ったが、そのあと彼女がみせたはにかんだ笑顔に、そうでもないか、と思い直す。

妖精のように。
ふわりと彼女は歩み寄る。
彼が差し伸べた手に手がふれた時。
宵の闇のその空間に魔法がかかった。
音も無く刻も無く、悲しみも愁いもない。
ただ淡い感情だけが。
あえて名づけるなら愛情とよぶ感情だけがそこにある。

彼女は触れた指先を愛おしそうになぜてから頬を寄せた。

言葉はいらぬ、と。
クラヴィスは感じる。
本当ならば、彼女にとて語りたい言葉のひとつやふたつはあるのだろう。
だが、それを言うことが無意味でもあり。
この幻想的とも言えるひと時を、ひどく無粋なものに変えてしまう気がした。
そう、この幻想が破られれば、きっと今均衡を保っている何かも共に壊れてしまう。

だから、ただ黙って彼は彼女を抱き寄せる。
それを待っていたかのように、彼女もまた身を彼に預けた。
一度だけ、その名を呼んでくちづけをかわし、そして再びいだきあう。
今度は互いを刻み付けるかのように、きつく。

明日には別れが訪れると知っていて、こうして抱きあう夜は自虐的でしかないと彼は想像していたが実際はさほどの痛みを感じなかった。
それは長い間こごっていた想いゆえの馴れなのか。
おそらく違う、と。
彼は否定した。

彼女の額にかかる髪をかきやって。
額に、髪に、瞼にくちづけを落としてゆく。
彼の背に回された華奢な手が、愛おしそうに、その髪を、その背をなぜた。

しじまのなかに、聞こえるのは互いの吐息だけ。
晧々とした月以外にみるものもなく、ただ、夜は深々と更けてゆく。

◇◆◇◆◇

クラヴィスは眠っていたわけではないが、寝台の上で彼女が去るのを黙って背で見送った。
去りぎわに微かに頬に落とされたくちづけを感じる。
暖かな雫は涙か。
小さな囁きが聞こえる。

「ごめんなさい」

その言葉で。
すでに昨夜の幻想の魔法は彼女の中で消えてしまっていることを彼は知った。
詫びることはないと、言うべきだったのかと。
考えなくもなかったが、言ったところで何が変わるわけでもないと思う。
そして、彼女の落とした一滴の涙に、彼女の愁いのすべてが凝縮されて流されたのであればいいと思う。
これから新しい世界に、その、今も自分には感じることのできるましろな翼で真っ直ぐに旅立っていくのだと。
彼はそう信じており、事実そうでもあるのだろう。

扉の閉じる音。
目を閉じながら、去りゆく彼女の後姿を想像する。
真っ直ぐ頭を上げて、凛として歩むその姿。
底抜けな明るさと、月光のような繊細さと危うさと、湖の傍らにある大樹のような力強さと。
それでいて。

―― そうか。

クラヴィスは目を開けて微かに笑んだ。
可憐な花のような愛らしさと。
いつか、友に問われたまま見つけられずにいた答えがそこにあった。
好きな花は何かと。
心のなかで呟く。

―― 名は知らぬ。ただ、弱さを持ちながらも凛と咲く可憐な花だ。

と。
友にかつて答えなかったことに淡い後悔を感じたように、今その花の後を追わずにいることを後悔する時がくるだろうか?
彼はそんなことを考える。
何故か、答えは否だった。

ほのかな予感がある。
だたの思い過ごしかもしれない。
だが、彼は感じている。互いに結ばれたその絆が、決して絶たれていないことに。
いつかふたたび。
まみえる日が来るかもしれないと、心のどこかで感じている。
だから、いま追わずともいい。

そんな自分に彼は軽く苦笑する。
―― この自分が未来に希望を託すなど。
自分らしくないと思いながらも、それ以外に、己の心に憂いが無い理由を見つけられなかった。

聖地の夜はこれから明けようとしている。
彼は再び目を閉じ、僅かな時間の、眠りへと落ちていった。

◇◆◇◆◇

その惑星の小さな教会で。
緑萌えいずる穏やかな春の日の今日。
婚礼を挙げる恋人たちがいる。
祭壇の前で、誓いをかわし、くちづけをかわし。
彼らは、その教会の外へと姿を現した。
そこで待ち受けていた幾人かの惑星での知り合いがフラワーシャワーを祝福の言葉と共に投げかける向う。
その姿を見つけて、彼 ―― カティスに笑みが浮かぶ。
そして彼はついさっき永遠の愛を誓ったばかりの妻を見やる。
彼女のあでやかな桜色の瞳もその懐かしい友人たちの姿をとらえ、嬉しそうに微笑みを零している。
それからカティスと目が合うとにっこりと頷く。
彼女は教会の階段を下りる前に彼らに背を向けて。

手にした愛らしいブケーを大空高く放りあげた。

きらめく春の日差しと朗らかな青い空。
淡い紅を帯びた白い、凛としながらも可憐な花のブーケがくっきりと弧を描く。
そしてそれは、参列者が祝福を込めて撒くフラワーシャワーのあいま。

長身の男性のかたわら、満面の笑顔で手を伸ばす金の髪の女性の手へ ――



―― 終



◇◆◇◆◇


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「秋愁の雨」「いつか、帰るところ」「愁霖の秋」
この三部作での、カティスとディアの結婚式に顔を出すクラヴィスと前女王アンジェというのをずっと書いてみたいと思っていました。
でもそのシーンだけだと面白くも何とも無いんで、聖地を去る時のアンジェとクラの一夜なんぞを。これは、コミック11巻のあのさっぱりしたクラ様の前夜です(笑)

シリーズモノの一部をさし上げるのも如何なものかとも思いましたが、AIRさんの
クラ×前女王 +ジュリかカティス登場
or
カティス×ディア +ジュリかクラ登場
というリクエストに見事合致したので、こんなんで、如何でしょう?!(笑)

最近切な系といえばティムカばっかでしたが、切な(?)クラヴィスを書いて思った。
やっぱ、オトナだわ!クラヴィス様!
なんつうか、悟っちゃってるって言うか。
ティムティムのときのような青さが無いというか(笑)
つうか、ずいぶん前向きなクラヴィスだな。
まあ、「いつか、帰るところ」につなげようと思ってこうなってしまったのか。

とにもかくにも。
この物語を、AIRさんに捧げますv

2005/02/09 佳月拝