故国へ還る日

6) 団欒の肖像




「九月の、誕生石だわ」

九月。
それは、彼が生まれた月。
これは偶然?それとも。

―― もしも偶然でないのなら、それは必然と言う。

このことに、彼も気づいたらしい。
しばらくは何か考えをめぐらすかのように黙っていたが、唐突に、時間が来るのを待ちましょう、と私にはよくわからないことを言いだした。
わけを訊ねると、

「自信はないのではっきりいえませんが、確認したい場所があります。人目が少なくなる閉館時間ぎりぎりまで、時間をつぶしましょう」

言って彼は館内で時間をつぶせる場所は無いかと探し始める。
いや、探そうとしたのだがすぐに思い出したように、先ほどは足を止めかけながらも素通りした例の肖像画の前へと足を運ぶ。
ちょっとだけ気まずそうに笑みを浮かべて、

「…… すみません。時間がくるまでここにいてもいいでしょうか。あなたは自由に見回ってもらっても」

言いかけた彼に私は首を振った。
「わたくしも、ここにいるわ」

◇◆◇◆◇

それからずいぶん長い間、彼は飽かずにその絵を眺めていた。
彼の心のうちを思うとひどく切なかった。私もじかに会うことのなかった義父と、義母と、義弟に思いを馳せ、 さらには、己の両親や、時に両親以上に親のようであったばあやのことを思い出し、一層切なくなった。

気付けば俯いていた視線を上げて、もう一度絵に目をやった。
くつろいだ、家族四人の肖像。
彼とおなじ瞳の色をした父君と、優しそうで美しい母君。
そして、なんとなく見覚えのある十三歳のころの彼自身の姿と、彼に手をつながれて子供らしい笑みを浮かべた十歳離れた弟君。
絵の中から、微笑んで、こちらを見ていた。
ひどく、優しくて、切ない絵だ。

「この絵をかかれたときのことを、覚えていて?」
「ええ、はっきりと」

訊いた私に彼は頷いた。
そして、その時のことを思い出したように微笑んで、
「他の肖像画と比べてくつろいでいるでしょう?この絵は、こうやって公式の場に飾られるために描かれたのではなく、ほんとうに偶然得られたものだったんです。飾られていた場所も、絵画の間ではなく、普段家族が過ごす内宮殿の【青海(せいがい)の間】という部屋でした」
次いで、絵の右下隅を指差した。
彼の指先、書かれた署名に思わず私は、まあ、と声をあげてしまう。
なじみのある、とある芸術家の名前。
「あの気難しい芸術家さんに、良く描いていただけたものね?」
彼は何故か照れたように笑う。
「不思議ですね、皆は彼を気難しいとか皮肉屋だとかいうけれど、私にとって彼はそういう印象は無かった。
どうしてかな、それこそ、僕は彼を兄のように思っていたのかもしれない。女王試験で聖地にいた折は『僕は君の保護者だよ』って言ってくれたこともあったし、聖獣の聖地に行ったばかりの頃は『たまには我侭のひとつでも言いたまえ』と、言われたこともありました」
(作者註:それぞれCD「White Dream」と「聖地に吹く風」のエピソードより)

この話は、ひどく意外だ。
私は記憶の中の、かつての感性の教官であり、後の聖獣の緑の守護聖の姿を思い起こしてみる。
やはり、想像がつかなかった。

「彼は権力や肩書きというものをひどく嫌う人だったから、逆にそういったものをすべて排除して、目の前にいる、人間なら人間そのものを見る力に長けていたように思います。だから多分、彼は僕を同僚だと思ったことはあっても、この国の王太子だとか、国王だとか、そんなふうに考えたことは無かったんじゃないかな。
この絵も、何かの機会にふらりと遊びに来て、何かの拍子に『君たち家族を描いてみたくなった』って。
そして『自分は家族に縁の薄い人間だったけれど、それでも君たちを描けるか、試させてくれないか』って。
だから、この絵は当時の王家の絵なのではなく、ただの、ある家族の。
―― 団欒の肖像なんです」

私は、もう一度絵を眺めやった。
あたたかな、やさしい家族。
自らを『家族に縁の薄い人間』といった画家。ならば、この家族はその彼にとって壊したくない理想のような存在だったのだろう。
その姿と、ともすれば嫉妬や羨慕といったある意味負の感情へと陥りそうな想いを、ここまで完全に作品へと昇華しきった彼に、改めて敬意を感じ、更にはそれを成さしめるきっかけを与えたこの家族にも、頭が下がる思いがした。

「十三歳の女王試験のとき、家に帰りたくて悲しくなってしまったときが実はあったんです。あの時彼が。
『帰りたくて涙が出るほどに大切な家族がいるのなら、それは悲しむことではなく喜ぶべきことだと僕は思うね。仮にその場所に、二度と帰る事ができないのだとしても』と。
不思議ですね。今になって、彼の言葉の本当の意味を、知った気がする」

十三歳のあの時は、まだ、この場所は彼にとって帰れるはずの場所だったのだ。
そして、そうと知っていながら『二度と帰る事ができないのだとしても』と言う言葉を付け加えた彼の友人。
胸を締め付けるような感覚に涙が零れそうになって、私は絵から目をそむけ、より完全な解説者が傍らにいるが故に、注意をはらいもしなかった説明書きのプレートへと目を移した。
そこに書かれていた解説の、一節。

『【百日紅の間】に飾られていたものを移動』

何かが、引っかかった。
そうだ、さっき、彼はこの絵は家族で過ごす【青海(せいがい)の間】に飾られていたと、言ったではないか。

「…… 【百日紅の間】というのは、なにに使われていたの?」
一瞬不思議そうな顔をして、でも彼は答える。
「弟の、私室でした。何故その間の名を ―― 」

ああ。垣間見えた。
この国の、最後の王の心が。

私は黙って説明のプレートを指し示す。
彼が、息を飲み、万感を込めるような風情で呟いた。

「古い友人に、こんなところで背中を押してもらえるとは、思いませんでした …… 」

◇◆◇◆◇

絵の前の空間に設置された椅子に腰掛けて、閉館までを待つそれからの時間は全く苦にならなかった。

絵の中で兄と手をつないだ幼い少年の姿。
幸せな微笑み。
この絵を、己の部屋に飾った、カムラン王の心。
それを思うと、私の心の中で、淡い切なさをおびながらも、あたたかな何かが灯った。

「中の良い、兄弟でしたのね。わたくしには兄弟がいなかったからわかりませんけれど、喧嘩などしたことがないのではなくって?」
「歳が離れていましたから、確かにそうですね。友人たちから聞くような、兄弟での取っ組み合いの喧嘩などは、したことがありませんでした」
歳が離れていようといまいと、彼が取っ組み合いの喧嘩を誰かとしていることそのものが想像つかなかったが。
「特に父が病で、母と共に離宮で療養生活をするようになってからは、この宮殿で家族はふたりだけで。私が親代わりなところもありましたね」
「そう、でしたの」
ふたたび、切なさが溢れてくる。
懐かしそうに、彼は頷いた。
「だから、喧嘩をしたことはありませんが、叱ったことは幾度か。
たいていは素直に謝る子でしたよ。
ああ、でも、いつだったかな。彼が、私が大切にしていた素焼きの花瓶を割ったことがあった。 私が、大切にしていることを知っていただけに、彼はひどく悪いことをしたと、思ったのでしょう。
しばらくその事実を隠していて。
割った事実に怒る気にはならなかったけれど、黙って隠していることが問題だと、そう私は思った」
「叱ったの?」
彼は笑って首を振った。
「自分から言い出すのを待ちました。幾日目の朝だったかな。私の部屋の扉の横に、メモを差し込めるような溝があったのですけれど。 そこに『にいさまごめんなさい』って」
「そう ……」
「後日、同じような花瓶を探してきてくれましたよ。ちょうど、私が守護聖を拝命する頃の出来事です」

彼の、そんな思い出話を聞くうちに、展示物を傷めぬよう注意深く設置されている採光窓の外の色が、少しずつ夕暮れに変わる。
徐々に館内を埋めていた人が減り始め、あと少しで閉館である旨の放送が流れた。
先ほど王冠の説明をしてくれた老人が私たちに、そろそろ時間だよ。気に入ったんならまたおいで、と声をかけて前を通り過ぎようとする。
彼が老人に声をかけた。

「最後にもうひとつよろしいでしょうか。この宮殿は、外宮殿だけが、開放されているようですが、何故内宮殿は見学対象外なんでしょう?」
「内宮殿は、まあ、最後の国王遺言なようなもんでね。あの場所はある意味自分達家族や祖先の『記憶と思い出の墓所』のようなものだから『後世の民に情けあらばその眠り妨げることなかれ』ってね。そういわれちまやぁ、開放するわけにも行くまいよ。手入れはされてるが、観光はできん。諦めておくれ」

この言葉で、彼は何かを、確信したようだった。
と、その時。向うから、嬌声をあげて走ってくる子供達がいた。

「こらあ、ガキども、走るな!」

老人は怒鳴ったが、言葉に反して表情は笑顔だ。
昨日の口づけ小道の子供たちも同じだったが、子供の元気な国は国も元気な証拠。
微笑ましい気持ちで子らが通り過ぎるのを見送って、気付く。
彼等の。

目じりの、黥。

息を飲んだ私に、老人が不審そうに目を向ける。
隣にいる、彼も気づいたようだった。
声が震えないように、私は尋ねた。

「あの子達がしていた、目じりの黥は、何か意味が ―― ?」

ああ、と頷いて老人が説明してくれる。
前にかかる肖像画を指差し、元々は王家にのみに許された習慣だったものを、王制から政権が交代した時に一般の民にも許可されたのだ、と。

「カムラン王は広場に集まった民を見渡してこう言ったんだと。
『これからは、あなたがた皆が、この国の王だ。私が先王から、彼が愛したこの国を受け継いだように。これからは皆に、この国を導いて欲しい』
んで、王家の風習を皆が行うことを許したのさ」

私の隣で、彼は黙ったままだった。

「まあ、幼い子供に刺青を施すわけだから、今じゃやらない親の方が多いがね。
別に実益があるわけでもなし。
だが、どちらかといえば、実益だ、なんだってもんではなく、こいつはかつて若いながらも国を立派に導いた賢王達の偉業にあやかって。
子等が無事元気に賢く育つようにという願いを込めたまじないなようなもんさ」

「賢王()?」

おもわず尋ねたわたくしに、老人は答えた。

「この国は、そりゃあ恵まれた国だ。過去に沢山の名君が生まれたのさ。
革命王カムランはもちろん、古くは建国王サジール、近世なら礎賢王タリサム。
それに忘れちゃいけない。
革命王の兄君の ―― 」

その名を。
照れくさいような、誇らしいような気持ちで私は聞いていた。
ゆっくりとサングラスを外して、老人に礼を言った隣の彼も。
きっと、同じ気持ちだったろう。

◇◆◇◆◇


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ひとりごと。
『公式でセイランがティムカに甘い』説の天球儀的解釈をやっと書けた。いつかセイランサイドでも書きたいものだ。