故国へ還る日

2) 絵葉書




平穏な今の暮らしに何一つ不満があるわけでもないが、消し切れぬ澱が心の奥に淀んでいる。
何故彼がこちらの宇宙にとどまりあれほど愛した故郷へ帰ろうとしないのか、という疑問島名のこの澱は、そのことに関して何も話してはくれぬ彼への苛立ちというよりは、話してなどくれなくともその大方の予想がついてしまっていながら、何してやることのできぬ自分自身への憤懣だ。

そう、理由なら、わかっている。

彼はかつて王という器を捨て去ったが『かつて王だった自分』という過去までをも捨てたわけではない。
私とて、己の名を聞かれれば今でも ロザリア・デ・カタルヘナ そう答えるだろう。
かの宇宙に既に私の生家はなく、カタルヘナ家の名を継ぐ者はいない。そんなこの名に固執するのは、名家だった生まれを鼻にかけるためでも、ましてやカタルヘナ家を再興しようとしているわけでもない。
ただ、この名を持つわたくしという存在こそが、今こうあれるわたくしのはじまりであり、すべてである。
それだけのことなのだ。
きっと同じような理由で、彼は彼の生まれを捨てることはできない。
長く過ごした聖地という場所での人生も、また彼の一部分ではあるが、それでも生まれてから十六歳までの尊い時間を過ごした故郷での彼こそがいま在る ―― 私が愛する ―― 彼の始まり。

彼の目じりに刻まれた、王家の証である黥。
これを現在の医療技術で取り去ることは容易だが、過去を捨てぬ彼がそれをするわけがない。
だがだからこそ、故郷に帰ることを潔しとしないのだ。
その、黥ゆえに。
かつて『くちづけ小道』でお忍びである身をいとも簡単に見抜かれたように、少しでも古の風習を知る人には一目で彼が、既に絶えたはずの(・・・・・・・・)旧王家の血を引くものだとわかってしまうのだから。

―― 既に絶えた。

そうなのだ、彼が守護聖として去った後、白亜の惑星では大きな改革があった。
王制から共和制への国政体制の変貌。
大きな改革を乗り越えいま穏やかに民が暮らす故国に、今更古い制度の忘れ物である己という存在を、紛れ込ませるわけにはいかないと、きっと彼は考えている。
あるいは改革の有無はこの際関係のないことなのか。
仮に王制が続いていたとしても、彼の弟から続いた血脈が、かの国の正統なる王家の血筋ということになっているのであれば、それはそれで帰れるはずもないのだから。
いずれにしろ、故国を愛するがゆえに捨て去れぬ彼の血が、彼が故国に帰ることを拒むのだ。
なんと、皮肉なことなのか。

更に私は考える。
こうして添うようになって、それなりの年月がたった私たち。
既に背負う責務もなければ、家族を ―― 子供を ―― もうけることに障害はない。
なのに、彼がそうならぬよう未だ注意をはらうのは、もしかしたら。
もしかしたら、先のような理由から己の血筋を残してはならぬと、自らを戒めているのではないか?


あれは、いつだったろう。
確かにぎやかな友人たちが我が家を訪ねてきてくれた時のことだ。
もう、二、三年も前になるだろうか。
あのころ、私たちはここでの新しい生活をはじめたばかり。さらには就任した時期や年頃が近いせいもあるのか、退任もほぼ同時期だった彼のふたりの友人と ―― それによる聖地の混乱は想像に難くなかったが私たちにとっては嬉しい偶然だ ―― やはり同じ時期外界へと降りた私の親友夫婦。
彼ら四人が遊びに来てくれたのだ。
あの時、私の親友はおめでただった。
ふんわりとした金色の髪も、相変わらず少女のようなふっくらとした頬も昔のままなのに、いとおしそうにおなかを撫でる時の優しい瞳は、すでに母親のものだった。
もっとも、祝福の言葉に照れてしまい素直に礼を言えず、動揺の挙句に悪態をつく彼女の夫については、父親としての覚悟ができているのかどうか甚だ疑問ではあったが、如何にも彼らしく微笑ましい反応ではあったとおもう。

にぎやかな夜も更けて、客人たちがそれぞれの客室へと去った後。
夫婦の寝室でふたりきり、私は鏡に向かい己の髪をくしけずりながら背中越しに何の気無しに言ったのだ。私たちも、いずれは、と。
多少の気恥ずかしさが含まれていたとはいえ、夫婦であればごくごく当たり前の会話だ。
けれど、その時鏡に映っていた彼の背中が、ひどく動揺したように見えた。
十三の時既に后となる人物を探すことを強いられ、当然その影にはお世継という事情もあったであろう彼が。今更こんな話題で、例えば友人の夫と同じような理由で動揺するとは考え難い。
そして、しばしの沈黙の後。

―― まだ、その話は。

とだけ。
この返答そのものは、さして不自然な内容では、ないとは思う。人の親になるということに迷いをいだくのは人間であれば当然だ。
しかし『まだ』というのであれば『いずれ』は存在する話なのであろうか。それとも。
結局、私は深く追求できずにいる。
彼が望むのなら、それでもいい、とは思っていた。
兄弟を持たなかった私だ、にぎやかな家庭に憧れる気持ちがないではない。
だがこうして騒がしいほどににぎやかな友人たちが尋ねてきてくれるあたたかな我が家。
このままふたりでゆっくりと共に老いて添い遂げるのも、それはそれでいいではないか。

◇◆◇◆◇

さて、とうに安定し二代目の女王が治めるこの聖獣の宇宙と、我ふるさと神鳥の宇宙は今では民間人も自由に行き来でき、したがって郵便物も普通に届けられる。
両宇宙空間を繋げるのは、女王の力によって張られ一部の限られた人間しか利用することができない星の小道ではなく、過去の偉大な発明家サカキ博士によって開発された『ミルキー・ウェイ』という名の空間移転装置だ。
かの発明家は『人々が幸せになれる発明を』という言葉を信念に掲げつづけ、結果生まれた『ミルキー・ウェイ』は、生まれて間もたっておらず、十分に星の小道を張り巡らせることのできなかった黎明期の聖獣の宇宙で、辺境の星々への迅速な物資と人物の移動を可能とし、多くの命を救った。
故に彼の名は、出身である神鳥の宇宙でよりも、こちらの宇宙での方が知られているかもしれない。



ある日、私は執事から受け取った郵便物の中に、神鳥の宇宙より届いた一枚の絵葉書をみつけた。

裏面はどこまでも青く透きとおった南国の海の写真。

何故か、心臓が高鳴った。
その高鳴りは、不安ゆえか、もっと別の理由の何かか。
裏返し、差出人を確認する。
そこには、思ったとおり夫の旧友の名と、彼の闊達さがあふれ出ているのような大胆な筆跡での文章。



『今オレはおまえの故郷の星に遊びに来ている。あんまりに綺麗でおどろいた!
オレの故郷の星ほど海の綺麗な場所はないと思ってたけど、ちょっと悔しいくらいだぞ。
ああ、あとこっちの宇宙でヨメさん見つけた。
だいぶあちこち旅して回ったし、事情もあってそろそろそっちに戻ろうかと考えてる。
こんど連れて会いにいくからよろしくな!

―― ユーイ』

本来なら、こんなに微笑ましく嬉しい知らせはない。
けれども、一瞬私は、この葉書を破り捨てそうにすらなったのだ。
夫の友人に悪感情を持っているわけもない。ただ、問題なのはこの写真と文面。

故郷。
故郷の宇宙。
故郷の星。そして、海。
これをが、彼の目に触れる前に ―― 。

けれども葉書を手にしたまま立ち尽くしていた私を不審に思ったのか、どうしたのですか、と彼が私の手元を覗き込む。
一瞬の沈黙の後、ああ、彼は相変わらずですね、お嫁さんを連れて遊びに来るのが楽しみです、と微笑んだ。
そんな彼に、私は、何も言えなかった。

夜、いつになく激しく、熱く、いくどとなく求めてくる彼に抱かれながら。
これ以上なく深くつながりあっていながら、何処か遠くにいるような感覚を心に抱いていた。
違う。
そばにいる。
そばにいるからこそ、わかってしまったし、触れてはならないと察してしまう。
だからこの哀しみに似た想いも、かつて彼の昔話を、枕辺で聞いて切なく感じたあの時と同じ。
あなたの哀しみが、滲みでて、私の心を染めあげる。
そのことで、幾許でもあなたの心が軽くなるならまだいい。
けれど、残念ながら、私という存在はその役割を果たしてはいまい。
行き場のないもどかしさ。
できてしまった心の隙間を、埋めるかのように自分からも彼を求める私。
こんな私の心のうちを彼もまた、察してしまっているのだろうか。

◇◆◇◆◇

この一枚の、ごくありふれた絵葉書は確実に、穏やかだった水面に波風をたてた。
こちらの宇宙で、風は、変化をもたらすという。
でも願わくば。
願わくば、同時にこの変化に立ち向かう勇気もこの心に抱けるよう、私は祈らずにはいられなかった。
そして、二ヶ月ほどが過ぎた頃、それはやってきた。


◇◆◇◆◇


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ひとりごと。
シリアスですら、台風の目、ユーイ(笑)