ルヴァ教授の事件簿1

赤い花、白い花

(第二章)ルヴァ教授の夢と迷いと



「あ、あの、これで本当に国王陛下にお会いできるんですか?」
先ほどの『ご在宅ですか』発言のあと、奥から人が出てきてなんと僕たちは宮殿内に通された。

「はい。その、こういう突然のお客様は ―― 慣れておりますので」
慣れてるって。
僕は凄く不安になる。
この国の王様って若いけど国民からの支持も高く、ずいぶんな賢王だって聞いたけどもしかして、教授と同類の ―― ええと、いわゆる変わり者?
案内をしてくれている年配の男性。この方だって、こうして歩いてるとすれ違う人々が隅に逸れて頭下げるところをみると、ずいぶん身分の高い人なんじゃ。
まさか本当に国王陛下への謁見が可能になるとは思っていなかった僕は、ここにきて緊張し始めた。

長い廊下を幾つも歩き、僕らは王宮内の奥まった部屋に通される。
熱帯の花が咲き乱れる中庭に面した、開放的な一室。
外の明るさゆえに目が慣れるまで室内はすこし暗く感じるけれど、だからこそ壁を介さずにつながる中庭の光景が一層眩しくみえた。
通り抜ける馥郁とした甘いかおりの風が、僕の短い髪をなぜて通り過ぎる。汗をかいた体には、それがずいぶん心地よかった。
その風に吹かれたまま、僕はしばし中庭の花を見やる。
ブーゲンビリア、沙羅双樹、ハイビスカス、ホウセンカ、コットン、蓮、サンダルウッド。
その他もろもろ。
眩しいほどに色とりどりの花が咲き乱れて。
もしかしたら楽園と言うのは、こういう風景なのかもしれないなどと、柄でもない事を考えたそのとき。
一人の人物が部屋に入ってきた。
案内してくれた男性が深々と礼をしている。
それに軽く頷き返すその物腰。
多分この人が、この国の国王陛下。
第一印象は、ずいぶん若い、ということだった。

妹と同じくらい?

そしてふと思う。妹も、王宮に用事と言うのはやはり彼に用があったのだろうか。
そう思った理由は ―― 彼がイケメンだったから、なんだけど。
それじゃあまり根拠にならないか。

「ありがとう、アージ。ルヴァ様お久しぶりです」
王様は、ルヴァ教授に向って丁寧に一礼した。
「あー、こんにちは、ティムカ」

そのやり取りをみて、僕はやっと気付いた。
教授を様づきで呼ぶ国王陛下と、彼を呼び捨てにする教授。
知り合いだったんだ。しかも、おそらくは、教授の前の職場での。それなら、納得がいく。
なんだ、それならそうと言ってくれれば僕だってこんなにはらはらしなくたってよかったのに。
とは言うものの、僕が一介の学生であることにかわりはないわけで、こんなときどんな風に挨拶していいものやら。
やばい、掌に汗かいてきたよ。
かちんこちんに緊張している僕に王様はにっこりわらってから、こちらは?とルヴァ教授に尋ねてる。

「あー、あなたにね、会わせたくて無理にお願いして来てもらったんですよー」

はいっ?
あの、きょ、教授、そんなこと、僕、一言も聞いてないんですけど。
第一、無理にお願いも何も、有無を言わさずだったじゃないですか。
いや、そうじゃなくて。
どうして僕をこの国の王様に会わせたいだなんてっ!?
この国に来てから僕は混乱しっぱなし。
でも、このまま突っ立ってるのも流石に失礼だろうと思って、僕はちょっと震える声で自己紹介してみる。

「ク、クリス・サカキ です …… 」

明らかに、反応があった。
目の前の王様の、表情に。
はじめは驚いた表情をして、そしてそれから、どうしてそんなに、ってほどの嬉しそうな顔をして、そして僕の手を取って握手しながら怒涛の如く話し出した。
「あなたが、あのクリスさんなんですか?!お話を聞いてずっとお会いしたいと思っていましたけれど、まさか本当に。ああ、驚きました。いえ僕は物語を聞いて、勝手にあなたのことを十二前後の少年で想像してたこともあって。そうですよね、冷静に考えればそんなことあるわけないのに。ああ、すみません、なんだか嬉しくて興奮してしまって」

い、いえ、それはかまわないんですけれど、いいかげん誰か僕にわかるように説明してください。

◇◆◇◆◇

お茶を頂きながら一連の話を聞いて、ようやく僕は、教授が僕を彼に会わせたがった理由に納得する。
僕としては照れくさいけれど、目の前の王様にとっては、童話の中の主人公に会っちゃったような気持ちなんだろう。
イメージ壊しやしなかったろうか。
なんだか申し訳ない気もするぞ。
それに、僕もそうだけど、何よりも。

「あのう、もしかして僕らの前に、あなたに面会を求めた人間がいませんでしたか?食紅で口真っ赤にしたマヌケな娘なんですけど」

彼はちょっと驚いたように、その角度によっては黒にも灰にも見える鈍い青の瞳をみひらいてから、ええ、と頷いた。
ちなみに、マヌケでは、ないかとは思いますが、というフォローも忘れなかったけど。
いいんです。かまわないんです。マヌケで。
「実はその口の赤さ具合が理想郷の子供たちをちょっぴり思い出させて、さっきまであの時のことを思い出していたのです。そこにあなた方がお見えになったと言う連絡を受けたのです」
そこで、言葉を切って。
「彼女のことを、ご存知なのですか?」

その質問には、ルヴァ教授が答える。
「あー、彼女はねー、クリス君の妹なんですよ。さっき王宮の外で会って話したばかりです。彼女がここに来た理由は、知りませんでしたが。しかし、やはり、そうですか」
ルヴァ教授も、エンジュの面会の相手が彼だと推測してたらしい。
でも、その根拠ってなんだろう?まさか、彼がイケメンだからでもあるまいに。
王様はちょっと戸惑ってる。
「え、妹って。では、あの流れ星の」
「はあ、その妹がアレです。元気になりすぎて、あのとおり手のつけられないお転婆になってしまいました …… 恐縮です」
何故か申し訳ないきがして僕は謝った。
もうちょっとおしとやかになってくれてもいいものだけど。
いつかそう言ったら、『お兄ちゃんの好みに合わせたって不毛』と一蹴されてしまった。
まあ、理屈はわかる。
「ちなみにあの口はここへ来る直前に食べたりんご飴のせいです。赤がラッキーカラーなどと言って。やはり、昔の経験のせいかあいつ、そういう占いとか、縁起とか、担ぐのが好きなんですよ」
彼は微笑んで
「ふふっ、そうですか。でもかつて病の床で流星に夢を託した少女が成長し、『流星(エトワール)』になるというのも素敵な偶然ではありませんか?」
と言ってから、ふと視線を下げて表情を曇らせた。一瞬だけ。
そして呟いた。

―― もっとも、運命や宿命と言うものが存在するなら、それは偶然ではないのかもしれませんけれど

再び彼の視線が上がる。先ほどの曇りはなかったけれど、でも笑顔も消えていた。その目はルヴァ教授を捕らえている。
少しだけ、何かに怯えるような、それでいて、何かを期待するようなそんな表情。
彼は、教授の言葉を待ってる。けれど恐れてる。
僕は何故かそう思った。
そのときルヴァ教授はゆっくりと中庭へ目をやった。
いや、彼の視線から目をそらした、のか。

「いつかあなたが話してくれたとおり、ホウセンカが咲いていますね。赤に、黄色に、ピンクに。私は白い色が好きですが、どうやらこの庭には見当たりません」

教授が、無理やり話題を変えたと、そんな印象を受けたのは、考えすぎだろうか。

けれどティムカさん ―― 当人のご希望もあって、そう呼ばせてもらうことになった。ていうか、僕に王様を呼び捨てにすることはできないから、さん付けで勘弁してください。
ともかくティムカさんは、いきなり変わった話題にああ、それは、と話し出した。

◇◆◇◆◇

それは、古い物語。今から三百年程も前にさかのぼる。
そのころ国は民が食うに困らぬ程度には豊かではあったけれど、とある一族が国の要職を占めたうえに王もを蔑ろにしはじめ、どこか政(まつりごと)に陰りが見え始めた、そんな時代だったと言う。
そんな折突然の先王の崩御により即位した国王タリサムはなんと齢(よわい)、僅か六歳。
時の宰相は、即位と同時に王妃を持たねばならぬしきたりがあるのをいいことに、幼い王の王妃に己の娘を据え、国王の補佐を名目に国政を牛耳り始めた。
幼いうちは疑問ももたなかった王であったが、成長するに従い国のあり様を憂うようになった。
しかし、既に時遅くなす術もなく、ただせめてもと、学問に打ち込む日々を過ごしたそうだ。

事の起こりは国王タリサムが十六歳となったとある日のこと。
王宮に年々花を咲かせていたサルスベリの老木の一本が落雷を受けて倒れてしまったのである。
サルスベリは紅の花と、そしてめずらしい白い花を咲かせる二本があり、枯れたのは白い花であった。
咲けば百日咲き誇る、その縁起のよい樹が枯れたままでは何かと差し障りもある、と宰相は国内で同じような古木を探すように命令を出した。
当然のように、国王命令 ―― 勅(ちょく) という形で。

さて、しばらく後に奉納されたサルスベリが一本。
都のはずれに庵をかまえるかわりものの学者がいて、その小さな庵の片隅にあった木、とのことだった。
少年王は複雑な気持ちでその木を見やる。

―― たかが樹一本という者もいるだろう。けれど数百年を過ごした場所を移される樹の心いかなるものか。長き時支えた古木を奪われる大地の心のいかなるものか。そして、これまで愛でた花を失った民の心、いかなるものか。

そして、気付いた。木の枝に結わえられた紙と、そこにしたためられた一遍の詩に。

「勅なれば いともかしこし 鶯(うぐいす)の
宿はと問(と)はば いかがこたえむ」
(作者註:村上天皇「鶯宿梅」の故事)

―― 勅命であれば逆らいもできず差し出したが、毎年訪れる鶯に、私の宿はと問われたら、さてどう答えたものか。

それは言外に、権力で花を奪った国王を責めているのだ。
タリサムは宰相の不満をよそに、すぐにこの樹を元の庵に戻すよう命令した。
そして、自らその庵を訪ねたのである。

庵の主はまだ若い人物だった。彼は態度こそ慇懃に王を迎えたが、その言は甚だ無礼だったという。

―― 民の庭から花を奪うようなことを勧めるようではろくな家臣がおられませぬな。ろくな家臣がおらずば、仮に王の賢きと雖(いえど)も政のたどり着く先も見えようと言うもの。

無礼、と。
周りの家臣は彼を責めたが王はそれを諌めた。
そして礼を尽くして彼に問う。

―― では、よき臣を得るにはどうすればいいと、あなたは考えるのですか?

―― なるほど、臣下はともかく陛下は素直でもののわかるお方のようだ。何より花を返しに来たそのお心に痛み入る。よき臣を得るにはそうですな、『まず、隗よりはじめよ』と申します。

王は彼の言葉の意味をすぐに理解した。

―― あなたを、臣に迎えよ、そういうのですね?

王の即答に庵の主 ―― 隠遁の賢者、ラグランは満足そうに、そして不敵に笑ったそうだ。
その後、ラグランは王の師である国太師の位に尽き、生涯国王を支えたと、そう伝えられる。

(作者註:『まず、隗よりはじめよ』「十八史略」より、よき人材を欲するなら、まず隗 ―― 私からはじめなさい、という中国春秋戦国時代の燕の照王に対する郭隗の言葉)

◇◆◇◆◇

以上が、後に並びなき賢王と称される少年王タリサムと、彼を支えた賢者ラグランの出会いの物語。
それからの時代が現在の王朝の礎を築き、もっとも繁栄した時代のひとつ、なのだそうだ。
だからそのときの縁起を担いで。
この国がいつでも、賢王と優れた忠臣に恵まれるように、との願いを込めて、王宮の庭には同じ種類の花で、赤と白の色違いの花は植えないのだという。

多少の脚色はあるんだろうけど、なんか昔の人ってかっこいいなあ。
などと、僕は思っている。
若き国王に忠誠を誓う賢者の姿を僕は想像する。
満開の白い花の下で、彼は膝まづいて頭を垂れたのだろうか。
それを信頼の篭った目でみつめる王はどんなひとだったろう。
僕の想像の中で、それはティムカさんのような若き王で。
ラグランは ―― そうだなあ、いかにも切れものの感じの三十前後の識者で。

そんなことを考えていると
「後に賢者ラグランの家系の女性が国母(こくも)になったこともありますから、二人とも僕のご先祖様でもありますね」
へえ。
なんだか、王様なんだからあたりまえなんだろうけど、そんな大昔まで系図がさかのぼれるってすごいよな。
僕、父さんの方の祖父さんも親戚も全然知らない。
小学校の宿題かなんかで聞いたらもういない、としか答えて貰えなくて。
そう答えた父さんがちょっぴり寂しそうで、子供心にもあまり深く追求しちゃいけないって思って、それ以降聞いてないんだけど。

ところで、僕は気になって聞く。
「即位の時に妻帯する風習って、どのくらいまであったんですか?」
ティムカさんはなぜかちょっと顔を赤らめて。
「ええと、今は、ないです」
とだけ答えてから、おもいだしたように。
「そういえば、この頭の飾りですけど」
と、自分の頭部を指差して。
「これは、タリサム王の御世どころではなくもっと昔にさかのぼりますけれど、ルヴァ様の故郷のターバンと同じ使われ方をしてたそうですよ。砂漠の惑星とは直接の交流がないのですが不思議な偶然です」

ええと、それはどういう意味なんだろう。
教授が頑なにターバン外さない理由と何か関係があるんだろうか。
説明を求めて、僕は教授をみやったんだけど、教授はなんだか真面目な表情で黙ってる。
今の僕らの会話なんか耳に入ってなかったみたいだ。
そして、
「 ―― そんな物語があったのですね」
静かにそう言って、そして中庭に向って立つ。
僕らに背を向けて、だから教授の表情はみえなかったけれど、しばらく何かを考えているようだった。
そしてようやく呟いた言葉は。

―― 運命や宿命と言うものが存在するなら、それは偶然ではない、ですか。

それはさっきティムカさんが。
そのあと、教授は無理やり話題を変えたんじゃなかったっけ?
ちょっと動揺した僕。そして、ティムカさんは困惑した表情をして、僕と目が合うと俯いてしまった。
そこに教授がこちらに向き直りいきなり言う。

「ティムカ。守護聖として、聖地に呼ばれているのですね?そしてあなたは決心がつけられない」

はじかれたように、ティムカさんは面をあげた。
その表情は険しい。怒りとも、戸惑いともつかぬそんな表情だった。
「何故」
その声が震えてた。そして、ずっと耐えていた何かが切れてしまったかのように彼は立ち上がって叫ぶ。
そう、叫んだという表現が、きっと相応しい。たとえ、その声が押し殺したものだったとしても。

「ルヴァ様は先ほどわざと話題をそらそうとなさいました。なのに今度はいきなりそんな、わかったようなことを仰る。答えを知っているとでも仰るのですか?いつか、私の前で謎解きをしたように、この迷いに答えがあると仰るのですか?!」

強い口調でたたみかけてから、我にかえったのだろう。
「―― 申し訳ありません。取り乱して、失礼なことを」
そう力なく言って、もう一度腰掛けた。けれど、その握った拳が微かに震えてる。

突然の展開に、僕はただその場に固まって聞いていることしかできなかった。
でも、彼らの会話が耳を通り抜ける傍ら、脳の片隅で思い当たっていた。妹の言っていた『説得』の、あまりに重い意味に。

ティムカさんの叫びにも、教授は表情を変えなかった。
「いきなりではありません。私は私なりの決心がついたのですよ。あなたの話してくれた物語を聞いてね。
かつてアルカディアで私はあなたに幾つかの故事を引用し、王としてのあなたに古人の言を伝えました。
それと同じ口でね、あなたに守護聖になるのは運命だから、などと言えないと、さっきまでは思っていたのです」

「今なら言えるのですか」
ティムカさんの声は、なぜか自嘲するような。
教授は苦笑して、首を横に振る。
「少し違います。あなたが必要とするのなら、幾つかの言葉を、あなたに与えられるかもしれない、いや、そうするべきなのだと思い直したのです」
「それが運命だと?」
ティムカさんは硬い表情のままだ。教授はまた首を横に振る。

「いいえ、運命ではなく縁(えにし)です」

普段ののんびりとした口調から想像できないほど、教授はきっぱりと言い切った。
教授が縁(えにし)と言ったその奥の意味を。
このとき僕はまだ、知りはしなかった。
だから、運命だろうと、宿命だろうと、縁だろうと。
それはただの言葉のあやに過ぎなくて、結局ティムカさんが、当人の望まぬものを突きつけられているのには違いないだろうと、そう思っていた。
ティムカさんはようやく硬い表情を崩して、けれど

「ならば、教えてください。宇宙が僕を守護聖として必要としているという。でもそれは。
それがさだめなら ―― 僕はこの国から必要とされなくなったということでしょうか」

俯いて言った彼の声は切なくて。
正直その時僕は、この重大な局面に自分などが同席してていいものなのかどうか、正直うろたえていた。
いかに、妹が密接に関わっている事柄とはいえ。
そう、妹。
エンジュも、なんて恐れ多い責務を負ったものか。
能天気に主星行きの準備をしてた頃には当人だって思いもしなかったろうに。
でも、運命や宿命やさだめ。
そういったものがこの世にはやはりあるというものなのだろうか。
―― あるのかもしれない。
彼女の運命は、あの日聖地で一命を取り留めたあの時に、既に決まっていたものなのかもしれない。
陛下のお慈悲によって流れた星々。
その流星で妹はどれだけ勇気付けられたか、僕は知っている。
生きようとする意思が、何よりも手術の成否を左右すると、そう言われていた彼女。
だから。
あの日の空を埋め尽くした流れゆく星に、彼女は命を救われた、と。
そう言っても過言ではない。
その彼女が、今は『流星(エトワール)』と呼ばれて尊い使命につくのは ―― そういうさだめだったのだと。
思わなくもないのだ。

ならば。
運命や宿命やさだめがあるのなら。
この目の前の若き王も、また逃れられぬさだめを今まさに突きつけられているのだ。
『逃れられぬ』
それは、ひどく、残酷に思えた。

軽くため息をついて、こっそりと表情を伺ったルヴァ教授は微かな笑みさえ浮かべて。
そして静かな口調で言う。

「いいえ、あなたがこの国を必要としなくなったのですよ」

その一言のあとの教授は、今まで僕がみたこと無いほどの厳しい顔をしていた。
たぶんそれは。
彼が僕や目の前の若き王などよりも遥か長き時を生き、先達として多くのものを見、経験した人生そのものの重みであり、厳しさだったんじゃないかと思う。

「知識や情報を提供して、『謎』の答えを導くことはできても。あなたの『迷い』の答えを、教えることは私にはできません。けれども、もしかしたら、答えを見つける手助けなら、できるのかもしれません」

そこで、教授は視線を王宮の庭へと移す。
燦々と照る太陽。
それを避ける大きな葉陰に。
色鮮やかな蝶がいままさに羽化し、飛び立たんと、羽根を広げていた。

「器をお捨てなさい。『君子は器ならず』です。
国を必要としているのはあなたの器です。あなた自身ではありません。そして、あなたが捨てるのは国なのではありません。あなたが捨てるべきはいままであなたを覆っていた『器』なのです。そして生身のままのあなた自身で、もういちど迷いの答えを探しなさい」

蝶が、羽ばたいて空へと舞い上がる。
教授はそれを目で追った。

「あなた自身は何一つ変わる必要などないのですよ。そして、あなたのご家族も、友人も、器など関係なくあなたを ―― 大切に想っている。それを、忘れてはいけません」

そこまで言って、教授はいつもの微笑みを見せた。

「たしか弟さんが、いらっしゃいましたね」
「はい、今、六つの」

六歳。さっき聞いたタリサム王が即位したのと同じ歳。
ティムカさんがこの国を離れたら、やはりその弟さんが王位を継ぐのだろうか?

「そうです、か。私も拝命時にそのくらいの幼い弟が、いました。
行っては嫌だと ―― ずいぶん、泣いて引き止められました」
教授が、家族の話をするのを聞くのははじめてだった。
「父は学者でしてね。父のようになりたいと、そう思っていましたよ。いつか、父のような学者になりたいと」

私が生まれた惑星は、こんなに緑や水にあふれた場所ではありませんでした、と、教授は語り始める。

風に流れる砂が刻々と模様を描いて。
乾燥した空気と、舞う砂埃。けれども砂嵐の去ったあとの夜見上げれば、そこに晧々と照る月。
―― あの月が、その後何処で見た月より私にとっては美しいのです。
そう言ってはにかんだ教授は、まるで少年のようだった。

その月光の下で。
時折数千の眠りから覚めたかの如く顔を出す遺跡。
幾重にも重なる砂に埋もれた遥かなる古代の文明は言葉少なに当時を物語る。
胡楊の大木で作られた棺に収められ、紅柳の花が手向けられて埋葬された死者。
遺体は牛の皮に丁寧にくるまれて、棺中に捧げられた編み籠には麦の実が入れられていた。
彼らが生きた時代はいったいどんな風景が広がっていたのか。

そこはかつて、この惑星のような緑豊かな土地だったに違いない。
今は白い塩分を含む乾いた土壌。
でもそれこそが、そこにかつて川の流れた証。
その豊かな水辺に紅柳の赤い花が咲き、胡楊の林は茂る。
人々は草原に牛を追い、麦を育て日々を生きた。
何を想い、何を夢見て。
そして。
何故栄え、何故滅びたのか。
それはさだめだったのか、逃れられぬ運命だったのか、それとも
―― 人々の過ちだったのか。

「私は、それを知りたかったのでしょうね」

「では、ルヴァ様は今夢を叶えられたのですね」
ティムカさんはようやく表情を少し和らげた。

「そう、ですね。はじめは遠回りなのだと、思っていました。けれども私はいったん道を逸れることで多くのことを学びましたよ。あの回り道がなければ、今の私はありえないのです」
ただ、と。
ルヴァ教授は声を少し落とした。
「でもここに来て迷いがないわけでもないのです。私は、私の満足のためだけに多くの知識を得ようとしているのか、と。知識を得、答えを見つけたその先、私は何をするべきなのかと」
そこで、教授は照れたように笑った。
「幾つになっても迷いは尽きないものなのですねー」

ティムカさんも庭に目をやる。
そこにある光と緑と水に満ちた楽園の光景の向う。
彼は、乾いた空と遥かに続く砂の大地を見たのかもしれない。

「ルヴァ様と同じように、僕も父のようになりたいと、そう望んでいました」
そう望んでいた、と。過去形で言ったそれが、ひどく聞いていて悲しかった。

「父君のような、国王に、ですか?それとも、父君のような人間に、ですか?」
はっとしたようにティムカさんは教授を見た。
「―― それは」
ルヴァ教授はにっこりと微笑む。
「その『謎』の答えはすでに、あなたの心の中にあるようですね」

◇◆◇◆◇

王宮を辞して、無言で僕はルヴァ教授を見やる。
教授はにっこりと笑って。
「だいじょうぶですよ。きっとね」
そう言った。
なんだかとても大変なことに行きあってしまったけれど。
僕はただ、教授と、ティムカさんと、そして僕の妹を信じるしかないんだろうと、そう思った。
さて、その後僕らは白亜宮の惑星で当初の目的どおり、遺跡の調査をした。
身を寄せた小さな町で、由緒ある黄金の仏像が消える騒ぎがあたりしたけれど、まあ、それは別の物語だし、調査も無事終了。

そんなわけで、僕と教授は様々な思いを胸にしつつも、
若き王の治める常夏の美しい惑星を後にした。


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