ルヴァ探偵の回想録

爪紅(つまくれない)の花

(挿話1)Roman Holiday ―― ローマの休日


彼は地の館から育成地へと向う途中、息抜きがてら天使の広場へと足を向けた。
様々な店の建ち並ぶ雑踏に身をおいて、少し心のもやを晴らしたいと、彼は考えている。
歩きながら、広場の真ん中の噴水を見やると、風に煽られた水しぶきが、太陽にきらめくその向う、中むつまじく歩くふたりが目に入った。
その姿に、ちりちりと痛むような感覚を覚えて彼は向うから目の届かない露店の手前へ移動する。
そのとき、かけられた声があった。

「非常事態も彼らにとっては久々の再会の場って所かしら。それにしても目立つわねえ。アンジェリークはともかくジュリアスがね。あれでこっそりのつもりなのよ、あのふたり。微笑ましいを通り越してなんだか笑っちゃうわ」

首座の守護聖と新宇宙の女王に向って、笑っちゃうわ、と言い放てるのはおそらくこのアルカディアに、いや、神鳥の宇宙を含めてさえ一人しかおらず。
彼は驚きに目を見開いて、長く蒼い髪を掻きやるその美しい人をみやった。
彼女は彼女で、彼のちょっとした表情の曇りをしっかり見ていたようで。
「あら、ごめんなさい。もしかしたら、あなたには笑えない状況だったのかしら?」
などと言う。
「いえ、あの、その」
口篭もる彼に彼女は、じゃあ話題を変えたほうがいいかしら、と微笑んだ。
「あの、そういう問題ではなくてですね。このような場所にお一人で …… よろしいのですか?」
「まあっ。うるさいこといわないでおいてくださる?あなただってお城を抜け出したことの一度や二度あるのではなくて?」
少しだけ考えてから彼は
「は、はあ。申し訳、ありません」
と、謝った。心当たりが、あったのだろう。
その後、恐縮して黙ってしまった彼に彼女はくすくすと笑って。
「ちょっと抜け出してジェラードを買いに来たのですわ。アンジェったらひどいのよ。絶品だなんて話はするのに、とけてしまうから持ってこれないだなんて。で、ここまで来たのはいいけれどお店に並んでいる間に彼らの姿が目に入って。見つかってお説教はごめんだし、そんなことでお邪魔するのも野暮ですもの」
ちょっと隠れていましたの、と悪戯っぽく微笑んだ。
そしてもう一度、彼の表情をみやる。

「―― 浮かない顔なのは、もっと別に理由があるようね」

困ったように笑うだけで何も言わない彼に向かい、彼女はやれやれといったふうに肩をすくめる。
少し首を傾げてから思いをめぐらすように広場のなかをゆっくりと見渡す。そうしながら、
「わたくしもね、偉そうにいえるほどの経験もないけれど」
と、語り始めた内容からして、彼女には彼の浮かない顔の本当の理由などお見通しだったようだ。
「生まれた時から女王となるべくして育てられたわ。わたくしにとってそれが当たり前で、わたくし以外誰がいるのって、そう思ってた。女王候補がもう一人いるって聞かされたときは、誇りを傷つけられさえしたわ。もっとも、それはわたくしの奢りだったのだけれど」
宇宙を導く立場の人が語るその本音を、彼は驚きを隠せぬまま、けれど真摯に聞いている。
その先で彼女が伝えようとしていることを漏らすまいとするように。
「実際、こういう逆境のような時は本当はあのコの方が向いてるのよねえ。ほんと、あのコが補佐官でいてくれてよかったわ」
ふふ、と笑った後、彼女は真剣な表情になり、青く穏やかに晴れた理想郷の空を見上げた。
それはまるで、ここからは見ることさえ叶わないはずの、異なる次元の星々をその瞳に映し出しているかのように。

「もしもわたくしがこの地で果てるようなことがあったとしても。あの宇宙にはきちんと次の女王が生まれ、つつがなく廻ってゆくわ。ただ、それだけのことなの。宇宙の廻りとは、そのようにできているのよ」

でも、と、彼女は再び笑顔になった。
「だからと言って諦める気はなくってよ。わたくしはわたくしの親友や、わたくしの守護聖や、研究所の研究員を信じているわ。だから」
今度は彼に向き直り、凛として言い放つ。

「 ―― だから、あなたも、あなたの民を信じなさい。たかだか百十五日でどうにかなってしまうわけはない、ってね」

彼は相変わらずの真摯な眼差しでしばらく彼女をみつめ返した。
ふたりの沈黙の合間を、広場の人々のざわめきが通り過ぎる。
露店の物売りの口上、走り回る子供たちの嬌声、母親の背負う赤子のむずがり。
それらはここに生きる者たちの生命そのものの音かの如く。
夏の香りを孕んだ風が吹いて、傍らの花壇の花々がゆれる。
その中にひときわ映える鳳仙の赤い色。
先ほど見上げた空に、彼女が遠い星々を思い描いたように。
彼もまた、この風景に遠い故国を重ねたのかもしれない。
そして黙って静かに一礼する。
その所作は、おそらくは彼の故郷でもっとも格式の高い礼。
彼はようやく口を開く。
「先ほどルヴァ様にも同じようなことを」
「まあ、ルヴァが?」
会話しながら、ふたりは花壇のかたわら、親子連れが去って空いたベンチへと移動する。
「頭では、わかったつもりでいました。けれどどうしても何かひとつ自分の中で昇華しきれない何かがあって。でも …… 今、心でも理解できたような、そんな気がします」
彼は己は立ったまま、彼女にベンチに座るよう動作で促した。
座りながら、彼を見上げるような形になって彼女は艶然と微笑む。
「そう?なら良かったわ」

「 …… 良い風が吹きますね」
真っ直ぐに頭をあげて、彼は少し懐かしそうな表情する。
「そうね、聖地ではあまり感じることのできない夏の風だわ」
しばしはその風に吹かれていたが、また、今度は己のふがいなさを恥じるように彼は眉の根を寄せ俯いた。
「ああ、でも」
「どうかして?」
「いえ、せっかくご助言いただいたのに。やはり己の未熟さを情けなく思います。もしも、これが父だったら ―― 先の王だったらどうしただろう、などと、やはり考えずにはいられなくて」
その時、彼女はらしくなく目を伏せた。
「ああ、それはなんとなくわかるわ」
「え …… ?」
「先代には、敵わないって。私も時折そう思ってしまうことはあるもの。 ―― 色んな意味でね」

言ってから、我に返ったように彼女は彼を見上げて、ちょっと照れた風情で笑んだ。
「未熟者は、お互い様のようね」
「少々、恐れ多くはありますが」
そうおどけた時点で、最初のような緊張は彼からは消えているようである。

「さぁ、真面目な話はここまで。気分転換しましょう、ねえ、そこのお店でジェラードを買ってくださらない?」

◇◆◇◆◇

「『Roman Holiday』という映画が好きだったわ」

ジェラードを少女のように嬉しそうに頬張りながら彼女が言った。
ふたりは並んでよく日のあたるベンチに腰掛けている。
「ああ、その映画なら僕も知っています」
彼は屈託なく微笑んだ。
「小さな頃からちょっとだけ憧れていたの。お城を抜け出してお忍びで散歩。でも実際抜け出す身になってみると ―― 複雑な気分ね。さっきも聞いたけれど、あなたは、お城を抜け出したことはあって?」
「小さな頃に幾度か」
彼女はびっくりしたように目を見開いてから、くすくすと笑った。
「あら、意外。けっこうやんちゃなこともするのね」
「昔の、話です。今はもう」
「はいはい。そんな子供っぽいことはしない、のね?」
すこしむきになって答える彼の様子を、彼女は微笑ましく感じている。
敵わないと感じてか、彼は軽くため息をついて話題を変えた。

「『Roman Holiday』なら、ここはスペイン広場で、あの噴水はバルカッチーの泉ですか?」
「そう。石段の数が少し足りないのには目をつぶるわ。でも、残念、一緒にいるのは新聞記者というポイントは外したくはなかったのだけど。王様では、ラストに再会できてしまいそうね。どう?ちょっとだけ新聞記者になって、『理想郷(アルカディア)タイムズ』でも発行してみるというのは」
意外な茶目っ気振りを披露する彼女に、彼もつい声を出して笑ってしまった。
そして、
「あなたも、王女さまではなく、女王陛下なのをお忘れですか」
などと反論しつつ、彼はつい真面目に考えてしまう。
「…… 『理想郷タイムズ』って、いったい何を記事にすればいいのでしょう」
「そうねえ、先日腹痛事件で延期になったっていう温泉ツアーが実行されたら、ルヴァがターバンを外すかどうかレポートするっているのは如何?アンジェがきっと喜ぶわ(ついでに、あなた自身の湯上り腰タオルを激写、なんかがあったら喜ぶ人たちがいそうだけれど。流石にこれは当人にはお願いできないわね。メルかゼフェルにでも頼んでおこうかしら?)
彼は困惑気味に尋ねる。
「ルヴァ様のターバンって、そういえば、ゼフェル様も以前そんなこと仰ってましたけど、いったいどういう」
「あら、ご存知なくて?」
彼女はこっそり彼に耳打ちする。
「ああ、それはロマンチックですね」
「でしょう?」
「では、機会があったら新聞記者に変身してみます」
ふたりはにっこりと微笑みあった。
その時、彼が何かを思いついたようにあ、と声をあげた。
「どうかして?」
「新聞記者の前にやれそうな役がありましたよ」
言って、彼は病院に持っていくために用意していた花束を見せる。
納得したように彼女は言う。
「『お金を持っていないの』」
期待通りの反応に彼は微笑んで、恭しくその中の一輪を彼女に差し出した。
「この花は、きっと貴女に一番相応しい花です」
その言葉に、彼女の表情が一瞬硬くなった。
「それは、私がとっつきにくいって意味かしら?」
予想外の言葉に彼は慌てて首を振る。
「何故、そのように仰るのですか ……?」
明らかに困惑しているその表情に彼女は自分の早とちりに気付き、申し訳なさそうに謝った。
「ごめんなさい。だって、主星で『don't touch me』―― 私に触らないで、という意味もある花よ」
「ああ、言われれば、確かに種が触れるとはじけ飛ぶ様子が。すみません、故郷ではそのような呼ばれ方はしていなかったので」
納得している彼に彼女は気になって問う。
「そういう意味でないのなら、どういうつもりでしたの?」
「ホウセンカという名の『鳳仙』とは『鳳凰』。辺境の惑星の言葉で、神の鳥のことなのです。その花弁が似ていると言う理由でつけられた名なので」
そこまで言って彼が、にっこりと笑う。

「ですから、神鳥の元翼を戴く貴女に、最も相応しいと」

今までの凛とした様子から、このときばかりは少女のような表情で微笑んで、彼女はその一輪を受け取る。
「ありがとう、うれしいわ。あまりこの花にはいい想い出がなかったのだけれど。これからは、きっと好きになれそう」
「そう、なのですか?」
彼女はふふ、と笑って話し始める。
「爪紅をご存知?」
「ええ、鳳仙の花で爪の先を染めるのですよね」
「では、夏に染めたその爪が初雪までに消えなかったら ―― っていう言い伝えは、あなたの故郷にあって?」
彼は少し考える。
「言い伝えそのものは聞いたことがあります。本か、何かで呼んだ記憶が。でも、それは故郷ではありえません。なぜなら、雪は降らないからです」
あら、まあ、そうだったわ、と彼女は笑う。
「でも、言い伝えはご存知なのね? ―― 不可能だと思わないこと?だって、一日二日で取れてしまうのよ。どんなに遅咲きの鳳仙花を使っても初雪までだなんて。ねえ、笑わないでくださる?女王候補の頃、それでも一度試してみたの。でも、結局すぐに取れてしまったわ。そうでなくても …… 結果は同じだったでしょうけれど」
何の結果なのか。
少し怪訝な顔をしながらも、彼はそれをあえて尋ねはしなかった。
「同じ花でも様々なのですね。呼び名にしろ、言い伝えにしろ。しかし、一日二日、ですか?もう少し長く持ったような気もするのですが。僕の故郷では、女性が嫁ぐ時に鳳仙の花でその指先を彩るのですよ。爪だけではなく手の甲から指にかけても模様を描いて。もっとも、古い風習なのでよほど格式ばっていなければ行いませんが。」
その言葉に彼女は、何か思い当たったようで。
「素敵な風習ね。でも、格式ばった、ということは、あなたの将来のお嫁さんは爪紅を施すのね?きっと」
鋭い突っ込みに彼は顔を赤くして。
「え、ええと。ま、まだ先の話です」
「あら、即位と同時に、と、以前は伺っていたけれど?」
赤くなったままあたふたしている彼に彼女は重ねて言う。
「わかったわ、あまりいじめるのは止めてさし上げてよ。ああ、わたくし、そろそろ戻らなければ。アンジェが探しに来てしまう。あなたは、これから病院?」
「え、ええ。そうです」
「そう、教官としてももちろん、あなたのそういう部分にとても助けられているわ。ありがとう」
「 ―― もったいないお言葉です」

一礼する彼に、ごめんあそばせ、とふわりと微笑んで、彼女は広場を後にする。
その優雅な後姿を見送りながら、先ほどこの広場へ入ってきたときの鬱屈した心のほとんどが穏やかに消え去っていることに彼は気付いた。
晴れた空と広場の人々の騒めきとゆれる赤い花と。
それらをもう一度見やり、深く深呼吸したあと、彼も目的地へと向かい、広場を後にした。


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