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【第四幕】鎌倉の十六夜 ―― 源頼朝三十七歳 ◇◆◇◆◇ 冬とはいえ、未だ秋の気配の残る鎌倉の朝。頼朝はひとり、御所に紛れ込んだ闖入者達と対峙していた。 長く彼を守護していた異国の神は、龍神の神子の前に力尽きて既に気配を散じている。少なくとも、もう政子の体の中にはいないようだ。 未明に腰越方面で平家の残党の襲撃があったとの知らせを受け、 彼らはそれを見越して、こうして無謀にも思える行動に出たに見えた。 倒れている妻の体がきちんと呼吸していることを横目で確かめて、頼朝は闖入者たちを一人ひとり眺めやった。 平家の残党に、僧兵崩れ、熊野の水軍に鬼の一族までよくまあ取り揃えたものだと、感心する。 その途中、目の端で奥州郎党の姿をした銀の髪の青年を捉えた。 ここまで無事であったなら、術を施した異国の神が消えた今、必要となればいずれ本来の己に立ち返るだろうと、頼朝は思い僅かに安堵した。 もっとも記憶を取り戻すことが、当人にとって幸せか否か。図りかねることではあったとしても。 時折、庭の方から彼らに昏倒させられたのであろう兵のうめき声が聞こえてくるだけで、出払った兵が戻ってくる気配はまだない。 この状態では抵抗しても無駄であろうし、その気もなかった。 昔、京に捉えられていた自分が、あと幾度見ることができるのかと十三の月を見上げた時のことが心に浮かんだ。 先刻沈んだ月こそが最後であり、今日の夜半に昇る十六夜はもう見ることはないのだと考えて、ここ幾年も月など愛でたことのなかったことに気づく。 月などゆっくり見上げた最後はいつだったか。 ふいに、明朗な声が心の奥に響いた。 ◇◆◇◆◇ 『懐かしい、 治承四年葉月の十六日、伊豆。 挙兵の前夜になっても、兵を連れて参ずるはずの そんなにはっきりと言い切る根拠はなんだと、笑いがなら聞いた自分に三郎も笑って応じた。 『根拠と仰いますか、困ったな。佐殿の事も、佐々木らの事も。信じているから、ではいけませんか』 後ろで控えていた当時十八であった 『昨夜から続くこの雨では、伊豆の山中を向かうにも難儀しているのかもしれません。ただでさえ兵の数では劣っているのです。無理に策どおりに明日の未明に動くより、あと一日なりと、待つほうが得策かと』 頼朝が頷くと、父に伝えてまいります、と小四郎は席をはずした。隣に座していた政子が、不安そうに呟く。 『雨に降られて 普段の勝気に似合わず弱音を吐いた妹を、戒めるように三郎が何かを言いかけた。が、頼朝はそれを押しとどめて、心配するな、いざとなったらお前が助けに来てくれるかと、妻に向かい冗談めかして笑って見せる。 政子も幾ばくかは心を軽くしたようで、微笑んで頷く。 夜半の雨は止みそうにもなかった。雨が外壁を叩く音がはっきりと聞こえていたはずだった。 が、その時頼朝は胸のうちで、雲居に隠れた十六夜が、やわらかな弧をえがいて姿をあらわすさまを、くっきりと思い浮かべた。 おそらくそれが、彼が月を心穏やかに見た、最後の時だったのかもしれない。 ◇◆◇◆◇ 長いこと、忘れていた。それとも、忘れた振りをしていたのか。三郎だったら ―― 亡き、友であったら。今の自分をみて、何を思い何を言うだろうか。少なくともあの日、彼にあっさりと『信じているから』と言わしめた自分ではもうないのだろう。 京の十三夜からも、伊豆の十六夜からも、随分遠くに来てしまったものだと、頼朝は思った。 少年から青年に至る幾年かを過ごしたという、たかだかそれだけの理由で。奥州を助けようと命を賭してここまできた弟を、先ほどまでは正直理解しがたいと思っていたが、伊豆での一幕を思い出すに至り彼は少しだけ。 少しだけ、その心がわからぬでもない、と、いう気になった。 そして、静かに言った。 「この首をとった後、どうするつもりだ」 自分ひとりを思うなら、いまさら惜しい命ではなかった。ただ、これまで歩んだ道のりは、あまりに多くの犠牲を生んでいる。 弟の望む理想を知らぬわけではなかったが、すべてを水泡に帰す選択をするようであるのなら、今まで口にはしてこなかった事柄を、彼に伝えるべきかもしれなかった。 そして、操られていただけの妻にはこれ以上手を出すなと、言い添えようと思わぬでもなかったが、そちらの必要はないだろうと思い直し、あとは返答を待って黙る。と、彼の弟は意外なことを言った。 「―― 兄上を、手にかけようとは思っていません。奥州から兵を引いてさえくれればそれでいいのです」 「おい、九郎!この期に及んで何言ってやがる!」 紺糸縅の鎧を纏った男が、不満そうに九郎を怒鳴ったが、彼はそれを片手で制した。目は、頼朝を見据えたままだ。 「俺は戦を終わらせたいとは思いましたが、鎌倉を滅ぼしたいと思ったわけではない。いま兄上を討てば、この国はまた乱世へと引き戻されるだけ。だから、あなたには生きていて頂かなければならない」 彼の出した答えに湧き上がる感情を押しとどめ、頼朝は、わざと憎憎しげに口の端をあげて嗤って見せた。 「その甘さがいずれ命取りになると、まだ理解していないのか。お前とここで口約束をしたところで、私がそれを守ると?お前の追捕を止め、奥州から兵を引くと、何故思える」 「信じているから、ではいけませんか」 いつかどこかで聞いたような言葉。彼は、やはり真っ直ぐ頼朝を見たままだ。 その目の色も、髪も。 何一つ己とは似ない弟だと、何故か今更ながらにそんなことを思う。 九郎が続けた。 「けれどももしも約束を違えたその時は。その時こそ、再びこうして鎌倉に潜入し、俺が兄上を討ちに来ます。それは己が命を惜しむからではない。ただ ――」 僅かに視線が揺れて俯きかけたが、再び彼は向き直る。 「俺は兄上に道過ちて欲しくない。だから奥州のことだけでなくこのあと鎌倉が道過ったと判じたなら ―― 俺は必ずあなたを討ちに来る」 弟の出した結論を、頼朝は大きな喜びを以って迎え入れた。 しばしの沈黙の後、頼朝はゆっくりと口をひらく。 「奥州の件はともかく、私が過った時と言うのであれば、お前が討ちに来るまでもないかもしれぬがな」 「兄上?」 「それが、私が景時をそばに置く理由だ。あの男は、私が過たぬ限り裏切らぬ。だが」 「過てば、裏切りますか」 言葉を受けて聞き返してきたのは九郎ではなく、九郎の子飼いの僧兵崩れだった。 「裏切るだろう。だが、それを本当の意味での『裏切り』というかは、知らぬ」 「そう、ですね」 「もうひとり、江間の小四郎も同じだ。あの二人は、ある意味似ている」 そこに至る理由や経緯、その先に導き出す結論が全く異なっていたとしても、だ。頼朝を中心とした同心円上に立ったとき、彼らの行動は結果的に近いものになる。もっとも、だからこそ頼朝という軸が失われた場合にはひずみが生じるだろう、と。そこまでは推測できても、更に後の結末までは知りようがなかったし、興味もなかった。 荒法師の異名を持った男もそのあたりの機微を得心できたらしく、作り物めいた笑みを浮かべて黙ったが、景時の妹の黒龍の神子はいまひとつ腑に落ちなかったらしく、眉をひそめた。 「似ていますか?小四郎殿と比べると、兄上のほうが、相当情けなくて頼りなくてヘタレててダメっぽい感じがするのですけれど」 「我が鎌倉の軍奉行も、妹御にかかるとかたなしか」 すさまじい勢いで身内にこき下ろされた軍奉行を、頼朝は少しだけ哀れに思いつつ、それがあの男の面白いところでもあるな、と考え直した。 その一方、部屋の隅では別の会話が交わされているのが聞こえた。 「江間の小四郎 ―― っていうと北条義時のことですよね。彼は …… 十数年後ならともかくこの時点で、そんなに頭角を現してたかなぁ。兄さん、何か知ってるか?」 「俺が知るわけないだろう。譲」 そのまま尻すぼみに、座が静かになった。 「話がついたんなら、長居は無用だろ。さっさと行こうぜ」 熊野の別当の一声で闖入者達が場を後にしかけたこの時に、そのまま行かせてしまえばよかったのだと、後からならば思える。 けれども頼朝は、あることをどうしても問いただしたくなった。 『還内府』とだけ呼び名を知る紺糸縅の鎧を着た男が、頼朝と決着をつけそびれたことに不満を持つかのようにこちらを一瞥したことがきっかけかも知れず、さきほど辿ってしまった追憶の名残がきっかけかも知れなかった。 「待て」 低く鋭く響いた声に、去りかけた一行全員が、足を止める。 「お前。還内府」 「何だよ」 明確な殺意と敵意を込めて、還内府が振り返った。 「お前は、本当は何者なのだ」 意外な質問だったのだろうか、青年は一瞬鼻白んだ表情をみせた。 「何者って聞かれてもどう言やいいんだ。名は、将臣。有川将臣だ。この名をお前に名乗って意味があるとも思えねぇけどな」 「ならば、こう聞こう。あの方 ―― 小松内府殿の名を、何故騙る」 その瞬間、音の無いざわめきのようなものがあたりを満たした。 いまや関東を掌握し、奥州も朝廷も邪魔には思えども恐れはしない頼朝が、何年も前に死んだ清盛の息子を『あの方』と呼んだことにその場の誰もが気づいたのだ。 困惑を隠せない様子で、将臣と名乗った男が答えた。 「…… 騙ったわけじゃねぇ。のたれ死にしかけてたところを、清盛に助けられた。死んだ息子に似ていると、そういわれて」 彼の後ろで、清盛の甥にあたる青年が、その言葉に偽りなし、とばかり頷いてから言った。 「将臣殿が邪心や野心を持ってなされたことではありません。ただ、清盛叔父上が、意識の混濁の中で将臣殿と重盛殿を混同しはじめてしまっただけで」 この言葉は信じられると思ったが、かといってすべてのわだかまりや疑問が氷解したわけでもなかった。 「怨霊についての噂も聞いた。あの方が亡くなった翌年 ―― 治承四年春頃だ。平家で死者を蘇らせる秘法を行っているという噂が流れたのは」 更に問うた頼朝に、応じたのはやはり清盛の甥だった。 「確かに、秘術そのものは成されました。しかし、重盛殿の魂は呼びかけに応じなかったと聞いています。かわりにその秘術で最初に蘇ったのは ―― 」 迷うように言いよどみ、青年の眉が、苦しそうに寄せられた。 「 …… よい。言わずとも」 細い腕に不釣合いな戒めの鎖を見れば、聞かずとも明らかだったし、それ以上の言葉に興味はなかった。 ―― 重盛殿の魂は呼びかけに応じなかった この言葉で頼朝は、この数年間抱え続けた『重盛の怨霊』という存在に拘る理由を失ったのだ。 将臣に向き直り言う。 「そう、か。確かに似ているかも知れぬが、瓜二つというほどでもない」 「重盛を、直接知ってるのか ―― ?」 驚きを含んで眉間に皺を寄せたその表情を見て、頼朝は思わず笑みを見せてしまいそうになり、表情の変化を意思で押しとどめる。 ―― なるほど、眉間に皺を寄せるとよく似ている。 頼朝がそんなことを考えている間、重盛似の男は仲間の内の一人から「1160年だかに捕らえられた頼朝の助命嘆願を、重盛がしたんだよ。その際に顔を合わせる機会はあったんじゃないかな。で、そのことを恩義に感じてたとか、そういう伝説も残ってる」などと、少々不可思議な説明を受けている。”兄さん”と。将臣と名乗った男を呼んだのをみると、説明しているのは彼の弟らしかった。 「あの方は昔私に、己が道過ちた時は討て、とそう言った。そして、怨霊になどなるのはごめんだ、とも」 何を余計なことを言っているのかと、頼朝は己に驚いたが、何も言わずにいて『恩義』という言葉で片付けられてしまうのも癪だった。 そうしながらあの朝の重盛の声や桃の花の色、晴れた空の青がありありと浮かんでくる。既に、それらは今の自分にとってくだらない感傷であるようにも思えているが、しかし、あの日の邂逅こそがすべてのきっかけであったことも頼朝は十分に自覚しているのだ。 「もしかして、だから『還内府』が怨霊だったら浄化しようとしたのか?…… まさか三種の神器の奪還にこだわったのも、浄化のためだったりするのか」 既に、青年から頼朝に向けての殺意や敵意は消えており、詳しい話を聞きたがっているようにさえ見えた。 だが頼朝は、これ以上馴れ合う必要はないとばかり、話を打ち切る。 「そうだと言えば、信じるか?既にどうでもいいことだ」 「どうでもいいだって?俺にそれを聞く権利はねぇってか」 食い下がる将臣に、頼朝はただ、口の端をあげて自嘲した。 言葉にすれば、すべてが綺麗ごとの言い訳になる。それを彼は恐れている。 二十年以上前の恩義と約束が、きっかけだったのは事実だ。 重盛の訃報を知ったとき、彼はあまりに早く逝きすぎたと思った。そして彼が内から変えようとしてならなかったのであれば、己が外から変えるまでではないか、とも。重盛が望んだ未来や具体的な政策と言うものを、頼朝は推し量る以上には詳しくしりようもなかったが、平家が犯した政治上の失策ならば、伊豆という僻地にいたからこそ冷静に見据えることが出来た。 結局彼らは、貴族に追従しただけなのだ。武家の棟梁である事を忘れ、京という都に執着した。 その結果、西国への支配力はともかく、東国に渦巻く連綿とした不満に気づかず、頓着もせず、これまでの貴族と同じように搾取だけを繰り返した。 一方で失策ばかりでなかったことも知っている。宋との貿易といった他国との交流は評価すべき点であった。ただ、それで得た富をあまり そうするうち、彼は思ったのだ。ならば、己はこの東国に、全く新しい仕組みを作ってみてはどうかと。 朝廷にも、京に住まう古い神にも影響を受けない、新しい国。 折りしも自分たちの代弁者・代表者である武家の棟梁としてあるべき平家が、都で力を持っても何の働きもしないことに、東国での不満は否応なしに増していた。 そのうえ、彼らは新しく棟梁として担ぎ出すにふさわしい人間を必要としはじめている。 源氏という、平氏に拮抗する氏を持つ頼朝は、この流れにあえて自分から乗ってみせたのだ。 『俺は、変えてみようかと思う』 かつての青年が言った言葉に、今や彼の年をとうに越した、かつての少年は深く頷いた。 しかし同じ頃ひとつだけ、気になる噂を耳にした。秘術により平重盛が怨霊となって蘇った、という噂だ。 ―― 怨霊になってまで、この世に留まりたいとも思わんさ。 彼のこの言葉を胸に刻むように記憶していた頼朝は、真っ先に、ありえぬ、と否定した。蘇ったというのなら、どこかの愚か者が名を騙っただけであろう、と思いたかった。ならばその愚か者を討つだけで済む。 だが万が一怨霊であったなら。 ―― 私はあの方を、討つことができるのか。 しかしその場合の答えも、頼朝はすぐに見つけた。 怨霊となってまでこの世に執着したというのであれば、あの時理想を語ったその人ではもうありえぬ。ならばいずれにしろ、この手で討つことが、往時の恩を返すことだと、彼は結論したのだ。 伊豆の地で、北条三郎宗時をはじめとした仲間を得、本来己を監視する役割を担っていた北条の力を後ろ盾につけ、かくして頼朝は伊豆にて挙兵する。 しかし真っ先に彼は、伊豆で供に青年期を過ごし、彼の志を理解してくれていた北条の総領と、己が妻の精神とを失ってしまった。 数年前に何故か見込まれてしまった異国の神を、この時点で彼はさほどの重要性を持って利用しようとしていたわけではない。ただ、怨霊となったかもしれない重盛を、三種の神器なしで浄化するための最終手段、その程度に考えていたというのに。 ―― 道過つというのなら、彼らが神の餌食となるを許してしまった時点で、私は一つ、既に道を踏み過っていたのかもしれぬ。 だからといって道を選びなおすことは、既に犠牲となった彼等を思えば、決して許されぬことにも思えた。 志を変えることは許されない。ならばおぞましい神の力は、目的のために掌中で利用できるだけ利用し、逆説的な手向けに変える。 ただせめて。 頼朝の意図を見定めるようにひっそりといる小四郎と、事件の一部を知る景時とを傍に置くことが、唯一自分に許した無言の言い訳であり、自分に科した見せしめでもあった。 けれどもその後の濁流のような変遷の中で、すこしずつ、時には唐突に。頼朝の中の何かが形を変えていった。 絶大な神の力を利用することに慣れ、関東を掌握する武家の棟梁であることに慣れ。 いつしか野望という名の欲が、彼の心を蝕み始めた。 目的のために姦計をめぐらし、邪魔なものを退け排し、使えるものは情を捨て利用し、忠誠などは信じずに恐怖ですべてを支配した。 その頃になって頼朝が気づいたことがある。 ―― 理想だけを追うは、なかなか難しいのだがな。だからこそ、約束だ。 ―― 俺が道を過てば、討て。 こう言った重盛もまた、己の中に理想とはかけ離れた、野心という蟲を飼っていたのではないのか。 世を動かす力を得て、欲という感情を喰らって身中に蠢く醜い蟲。 その蟲と彼の仁心との間のせめぎあいこそが、敵の子供を助け、あんな約束を仕掛けた理由なのではないのか。 今、己の弟に『道過ったと判じたなら ―― 俺は必ずあなたを討ちに来る』そういわれて、安堵とも喜びともつかぬ心が生まれたのと同じ想いであり、景時や義時を、道過ちた時に敵になると知っていてわざと傍に置く理由とも同じ想いではなかったのか。 この結論に達したからといって、重盛という男の理想像が崩れ去ったわけでもなかった。かえって、記憶の中のただただ清廉だった人物が、ひとりの血の通った人間であったことに気づかされた気がしていた。 これらすべてが入り混じる心を、記憶を、やはり言葉にして誰かに伝えるのは無理であり、無意味だった。 「言葉にすれば、すべてが綺麗ごとの言い訳になる。だが、現実はそうではあるまい。だからだ」 あとは黙り込んだ頼朝を、将臣がじっと見ていた。鋭く観察するような目。 いつかこの目を見たことがある。思い返して、それがまさにあの日の重盛の目であったことに思い当たり、流石に頼朝は驚く。 そして。 「頼朝、お前って存外、マジメなヤツだな」 今度は苦笑をこぼすしかなかった。 「…… 昔、同じ事をいわれた」 彼はある思いを胸に、己の弟を見やる。 「九郎」 「―― はい」 「先ほどの言葉、 「…… はい」 苦しそうな表情で硬く一礼した九郎に、重盛似の男は横から茶々を入れる。 「カ〜ッ、九郎、お前も真面目すぎだ。しかもお前の場合、頭に馬鹿がつく」 「なんだと、将臣!」 じゃれあいにも似た言い争いを見せて、将臣が九郎の髪の毛をげしげしと崩すと、強情なくせっ毛が、ぴんぴんと跳ねた。 それを見て、変なところで血は争えぬものだと、心ひそかに頼朝は呆れ笑ったが表情には出さずにおいた。 一行の中、ひときわ目立つ鬼の男が、そろそろ引き上げ時だと促す。 「九郎さん、行こう」 思いやりを含んだやわらかな白龍の神子の声に押され、九郎は「では」と、曖昧に別れの言葉を濁して身を翻しかけた。 その姿を見て、頼朝の中に浮かぶ言葉があった。 かつて京から伊豆へ流されるときに、弟御等に言伝なりとあれば伝えると言ってくれた池の禅尼に、ただ首を振って口にすることの無かった言葉。 今はもう、憚る事は何もない。 彼は弟の背中に向かい言った。 「息災であれ」 弟の歩みが止まる。 「あに、うえ」 僅かにこちらを向け、俯いている顔。 震える肩を見れば、泣いているのであろうことは想像に難くなかった。 二十数年前、頼朝がひとり死の恐怖に耐えているとき、母に庇護されていたであろう赤子。 青年期を過ごした伊豆の日々を既に過去に封じた己と違い、奥州のため命を賭すことの出来る男。 今、己の感情を表に出すまいと律している兄の前で、いとも簡単に泣く弟 ―― 。 枚挙するに ―― お前の、そういうところが嫌いだ。 まるで子供の我侭なようなこの言葉を、口にしてしまえれば楽だったのかもしれない。だが結局、彼はそれをしなかった。 それとも普通の兄弟のように ―― 梶原の兄妹や、北条の兄弟や、将臣と名乗った男とその弟のように ―― 幼い頃から共に有り、互いにこういうことを言い合って他愛も無い喧嘩でもしていたなら、別れの際に浮かぶ違う言葉があったのだろうか。 だがそれは、もう永遠にわからないことだった。 「 頷いて仲間と共に去ってゆく弟の背を見送ることはせずに、眠る妻をそっと抱きかかえて彼もまた、その場を後にする。 背中合わせの弟と、今度こそ永遠に道が分かたれたことを感じた。 切なさはあるが、後悔はない。 父も母も兄も、幼い頃道を示してくれた青年も、青春時代共に未来を語った朋友も、皆逝った。けれど、 違う道を選んだこの弟は、遠く自分の生を全うしていくのだ。きっそとれは、祝福すべきことだ。 一方残された鎌倉で、この先いったいどれだけの多くの死を己は見るのだろうかと考えた。それでも、自分は来た道を引き返すことなく、生きていくのだろうとも。 その時、朝日が低い位置からさし込み、彼の顔をまぶしく照らした。 一日、よく晴れそうな日和である。そして、頼朝は今日が十六日であることを思い出した。 妻が無事、長い夢から目覚めたなら、今宵は 彼は、そんなことを思いながら、覚えず穏やかな笑みを一つ零した。 ◇ 終幕へ ◇ ◇◆◇◆◇ 【言い訳】公式設定では、将臣が還内府と呼ばれ始めたのは、神子が異世界に来る一年ほど前=頼朝が鎌倉に本拠地を置いた三年目ということになっている。そのため拙作内で頼朝が旗揚げ前に重盛の復活の噂を聞いたのは、敦盛復活の儀式の件が誤った形で伝わったためと、解釈していただきたい。 2007/06/20 |
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