【注釈エリア】
作中の(註1)などの表記をクリックすると、ここに説明が表示されます。
























 
【永暦元年、如月の十三日】
異世界を西暦で表すのはナンセンスと知りつつ解説するなら1160年3月23日頃に該当。

 
【嫡子でもある自分】
頼朝は三男だが母が正妻で、兄達は異母兄のため頼朝が嫡男

 
【池の尼君】
池の禅尼。清盛の継母で、頼朝の助命嘆願を率先して行った人物。彼女の死んだ息子が、頼朝に良く似ていたからという物語が残っている。


 
【北条小四郎義時】
政子の弟で、後の二代執権。

 
【萬壽(まんじゅ) 】
後の頼家

 
【牧宗親】
一幕で登場し、頼朝を助けた池の禅尼の妹の夫の名が「宗親」なのだが、この牧宗親と同一人物であるという説がある。その場合、北条氏は頼朝の伊豆流刑当初から、庇護と監視の役割を果たしていた可能性がある。

 
【全成(ぜんせい・ぜんじょう)】
幼名今若、後の阿野全成。九郎の同母兄であり、北条政子の妹である阿波局の夫。

 
【鎌倉一帯に支配力を持つ梶原】
元々、梶原一族が支配する土地は鎌倉一帯。遙かではなく歴史の話になるが、鎌倉に本拠地を置いた頼朝が、景時を配下に入れ重用した理由にはそういう事情があったという説も。

 
【源氏や頼朝自身に忠誠を誓っているわけではない】
理屈はともかくとしてイメージとしてなら、ゲーム中での九郎と弁慶の関係を見れば想像しやすいと思われる。弁慶は九郎に従って(彼なりの真意があるので忠誠といえるかどうかは微妙)いるが、頼朝に従う意思はないように見える。実際の歴史における各御家人の主従にも、そんな繋がりがあったと思っていただきたい。彼らが命を賭して『鎌倉』のために戦ったのは、彼らなりの利害や理由があるからであって、源氏への忠誠からではないのだ。

 
【敵となる可能性】
景時が頼朝に命じられて上総介広常を暗殺するのはこの約1年後の寿永二年十二月二十日(1184年2月頃)。

 
【景時に命じた】
北条氏の伊豆引き上げ事件の際(1182年)、義時の残留の確認のため頼朝に使わされたのは景時の息子の梶原景季だが、遙3設定でそれはありえないので(笑)、景時が代役。


 
【佐殿(すけどの)】
伊豆時代までの頼朝の呼称。流罪前の官職が右兵衛佐(うひょうのすけ)であったことに由来。

 
【海路】
言葉で説明するよりも、地図を見るとわかりやすい。
足柄――三浦半島(Gooleマップ別窓)


 
【土肥実平(どいさねひら)】
ゲームでは未登場だが、一説には歴史上における、梶原景時の長年のお友達。敵であった景時が寝返った直後から重用されたのは、旗揚げ前から頼朝の味方だった彼の口添えもあったという説がある。


 
【畠山次郎重忠(はたけやま じろう しげただ)】
鎌倉の御家人の一人で歳は小四郎の一つ下。政子や小四郎の妹が、彼の正室として嫁いでいる。歴史上での評価は人徳に篤く名将として誉れが高い。また梶原景時と仲が悪く、いくつか悶着を起こした記録や伝説が残っている。

 
【傾向が近い】
余談、あるいは蛇足。
小四郎は後に、父の時政と対立し、姉の政子や弟の五郎時房と協力して時政を失脚に追いやり、伊豆に蟄居させることになる(牧氏事件)。その後、自らが執権の座につく。その辺りが歴史上泰衡ではなく遙版泰衡と通じるものがあると思ったという、ただそれだけの話。

 
【五郎】
政子や小四郎の弟、北条五郎時連。後に時房と改名。後の初代六波羅探題で、義時の死後の三代執権泰時の時代には連署として泰時を補佐する。

 
【討つかもしれん】
余談。
畠山次郎重忠は、後に謀反の疑いをかけられ、その時の執権・北条時政の命を受けた小四郎義時の軍によって討ち取られる(畠山重忠の乱)。武人らしい、堂々たる死に様だったと伝えられる。後日、この事件が時政の姦計と知った義時は、時政と対立。失脚に追いやるのは註2で述べたとおり。さらに蛇足を加えると。
重忠を討った後、義時が時政に詰め寄り「長年の友としての交わりを思えば、涙を禁じえぬ」と泣く場面が吾妻鏡にあり、なかなかに胸を打つ。

 
【馬が脚をいためる】
源平盛衰記に、鵯越の逆落としの際、重忠は自分の愛馬が脚を痛めるのを嫌がり、馬を担いで降りたという話がある。ただし、吾妻鏡では重忠は義経の軍ではなく頼範の軍に属し、褒賞も得た記録もあるので、鵯越参戦の件は後世の創作と見ていいと思われる。この作中では折角なので逆落としイベントに参加していた設定とした。

 
【平家との和議を主張】
九郎と頼朝の仲違いの原因として、歴史的には存在しない遙か設定部分に焦点をあててみました。ならば和議を主張しなかった歴史上の義経に非はなかったかというと、無断任官事件とか鎌倉の意志を確認しない独断行動とか、もっと言い訳のきかない部分がいろいろと。

 
【北条三郎宗時】
政子と北条小四郎義時の亡き兄。「月鏡」の幕間一、幕間二参照。実在であり、石橋山の戦いで戦死したのも史実。

 
【佐々木兄弟が現れず】
頼朝挙兵当日の八月十七日、佐々木兄弟の参軍が洪水のために遅れ、出陣の予定が変更された話が吾妻鏡に記載されている。

 
【政所】
鎌倉内で政を行う機関。ただし、この呼称はもっと後世になって使われたもので、実際この時期なんと呼ばれていたかは不明。「御所」でいいのかもしれないが、頼朝の呼称と被るので政所とした。なお軍事面についての機関は「侍所(さむらいどころ)」

 
【治承四年】
異世界を西暦で表すのはナンセンスと知りつつ解説するなら1180年。ゲームの出来事としては、景時が石橋山の戦いの後、惨劇を目撃した年。望美たちが最初に異世界を訪れる冬は1184の1月。

 
【金剛】
義時の長男で後の北条太郎泰時(三代執権。御成敗式目を制定した人)の幼名。実は義時の実子ではなく、頼朝の落胤だという説が根強くある人物。後世の歴史家から酷評されがちな北条の執権達の中にあって、彼は「名君」と評されることも。

 
【比企の姫・姫の前】
御家人である比企朝宗の娘、姫の前。吾妻鏡に、義時がこっそり恋文を出しているのが頼朝にバレて、その後頼朝の口添えで義時の正妻となった話が載っている。美人で有名だったとのこと。

 
【梶原ヶ谷(かじわらがやつ)】
「谷(やつ)」とは鎌倉によく見られる地形で、梶原屋敷のあった谷をこう呼んだ。現在の鎌倉の明王院西側の谷にあたる。他に比企ヶ谷(ひきがやつ)等、当時屋敷のあった御家人の名でよばれた地名が多くある。

 
【子孫永く〜】
「子孫はこの国を治め、永く繁栄するだろう。ただし、政(まつりごと)の道を違えることがあれば、七代を過ぎずに、滅びるだろう」の意。出典は「太平記」。太平記の中では、北条時政が江ノ島の大蛇にそう告げられ、三枚の鱗を得たことになっている。江ノ島では今は弁天と共に龍を祭っているので、その大蛇をここでは龍と解釈。

 
【兄を亡くした石橋山の戦い】
ゲームで言うなら景時が荼枳尼天の起こした惨劇を目撃した戦い。歴史上で言うなら、景時が身を隠していた頼朝を見逃したという伝説のある戦い。小四郎の兄で北条家の総領であった北条三郎宗時が討ち死にしたのも、この戦い。

 
【則子】
足利に嫁いだ北条の娘は実在するが、名は創作。後半登場する「貴子」も同様。当時の女性の本名はほとんど伝わらない上、よく見かける「○子」という名は諱(いみな)で実際は人から呼ばれることは少なかったと思われるが、政子もその名を得たのが1218年以降であったのに、ゲーム中で「政子」と呼ばれていることから、準じてそれらしい名にした。 実際なら政子は「大姫」、末の妹が「乙姫」、真ん中が「中津姫」あたりが実際の呼び名と思われるが、北条の姉妹は人数が多すぎて当てはめきれないのであきらめた。

 
【小四郎は姉の政子に】
「月鏡」幕間二の、後半部分のエピソードに該当。

 
【寿永元年】
1182年

 
【上総広常】
景時さんが、頼朝に命じられて暗殺させられた、例の人。ゲーム中でも確か「上総殿の件…」みたいに名前が挙がっていたはず。

 
【正当な報酬を、正当な形で受けたい】
別の言葉で言うなれば、あまりに有名な「御恩と奉公」

 
【北条の名は含まれていなかった】
吾妻鏡、平家物語共に、出兵した者達の一覧の中に北条の名前はない。

 
【別の家に嫁がされるのはよくある】
後年の話だが重忠に嫁いだ小四郎の妹は、畠山が北条に滅ぼされた後、足利に嫁いでいる。

 
【小四郎殿】
本当は「小四郎様」のほうがそれっぽいな、と思いつつ、朔が九郎の事を「九郎殿」と呼んでいるので、それに準じてみた。ちなみに「北条殿」だと、時政を指すことになる。義時が景時を「梶原殿」と呼んで景時を指すのは、景時が梶原の棟梁だから。
「義時」は"諱"のため、たぶん、目下の朔が呼んでいい名前ではない。反対に、景時は一族の大きさや立場などから小四郎より目上なので「義時殿」と呼んで許されるイメージ。一方頼朝が「小四郎」と呼ぶのは、親しさの表れ。月鏡の最終話で、景時が「小四郎君」と呼んだのも同義

 
【後見を命じられた二家】
萬壽の乳母を比企能員の妻と、梶原景時の妻が命じられている。が、この話の設定で「景時の妻」はありえないので、後見という言い方にしてある。なお、この時代乳母を命じられた家が、実質的な後見人である、という説があることも言い添えておく。

 
【九郎に馬引きを命じた】
1181年鶴岡八幡宮の上棟式での出来事。不満を見せる義経に、他の御家人(畠山重忠や土肥実平等)がしているものを、何故出来ないのかと頼朝が怒った事件。
時代背景として、実の弟でも頼朝が彼を特別扱いできない事情があったのは「落花流水」の3話で語ったとおり。また、物語ではなく史実ベースで語るなら、嫡子(正妻の子)と庶子(妾の子)という違いも実際大きなものだったと思われる。

 
【八重姫】
彼女は子供を殺された後に、無理矢理「江間小四郎」という人物に嫁がされている。北条義時も江間小四郎という通称を名乗っていたため、八重姫は義時に嫁ぎ、殺されたはずの子供こそが義時の長男泰時である、という(トンデモ)説もあることにはある。実際、泰時の頼朝落胤説は、この辺の逸話が色々憶測を生んで発生したものではないかと個人的には考察する。が、泰時の出生年や義時の年齢などに無理があるため、単に同名ゆえに混同されただけと思われる。拙作内でもここは別人として扱い、泰時(金剛)の出生についても別の設定とする。
また、八重姫と頼朝の逸話自体、正式な史料があるわけでなく、物語内の記述。史実ではなく創作である可能性も高いが、かといって完全なフィクションとも限らない。

 
【姉上は身代わりに】
伊豆時代、政子の妹が奇妙な夢を見て、その話を聞いた政子が、夢は凶兆だと言って買い取った、という「夢買い」の逸話がある(曽我物語)。

 
【言い寄るは禁じられている】
実際、小四郎の嫡男(次男だが正妻の子)朝時が、女官に言い寄って小四郎に勘当されている。とは言っても小四郎自身、朝時の母・姫の前に恋文を出して言い寄ったわけだから、この辺の勘当の事情は別にある(=庶子で長男の泰時を跡継ぎにしたかった)可能性も高い。

 
【泰時より数えて六代後】
普通は時政から数えるので七代は超えている。ここでは話の構造上、泰時から数えている。

 
【土肥実平】
石橋山の戦いの後、敗走する頼朝を見逃したという景時の伝説の際に、頼朝と同行していたことになっている人物。その後景時が正式に頼朝の配下となるまで実平の元に身を寄せていたり、他にも景時と一緒の行動が多く見られるなど、頼朝旗揚げ以前から、東国に根を張る勢力同士として景時と実平の間にそれなりの交流があったのだろうという説がある。
ちなみに土肥実平の子に遠平という人物がいて、その養子に景平という人物がいる。彼の出生は謎に包まれているのだが、「景」の字が梶原氏の係字であるところが、後に失脚した梶原一族の子をかくまって養子にしたのでは?とウッカリ妄想中(笑)

 
【鎌倉党】
頼朝旗揚げ以前の時代に、鎌倉一帯で力を持っていた武士団の名。頼朝が鎌倉に拠点を置いたので忘れられがちだが、鎌倉という土地はもともとは彼らの勢力下にあった。鎌倉景政を祖とする鎌倉氏のほかに、梶原氏、大庭氏、長尾氏などがある。

 
【梶原郷】
元々の梶原氏の領地で、現在の鎌倉市梶原。湘南モノレール「湘南深沢」駅付近。頼朝が鎌倉に本拠地を置いた後に建てたと思われる梶原ヶ谷の梶原屋敷とは別の場所。

 
【平三(へいぞう、へいざ)】
景時の通称。
「景時」という名前は元服時に名乗った(いみな)であり、「平三」とは普段人に呼ばせるための仮名(けみょう)(=字、通称)。彼の幼名は不明なのだが、元服前の子供を諱で呼ぶよりは仮名がそのまま幼名だったという方が違和感がないので、そのようにした。当サイトの遙3創作中で、北条義時が小四郎と呼ばれることがあるのと同じニュアンス。

 
【八重姫と佐殿の間に】
出典は「曽我物語」。名前通り”物語”のため、史実とは限らない。なお、頼朝と政子が結婚するのはもっと後のこと。


 
【三浦】
旗揚げ時、北条を主とした頼朝の軍は300騎ほどしかなかったらしいので、実際兵力のほとんどは三浦に依存していたと思われる。ただし、天候の関係か合流が送れ、石橋山の敗戦につながったのは「月鏡 幕間1」で書いたとおり。


 
【御館様(おやかたさま)】
鎌倉時代、武家の棟梁が臣下から呼ばれる時に用いられた呼称・尊称。この場合景時を指す。


 
【初陣(ういじん)】
歴史上の景時の場合年齢を考えれば、この時点で初陣である事は考えにくいのだが、遙か二次捏造設定ということで、なにとぞ。


 
【熊谷】
熊谷次郎直実(くまがいじろうなおざね)のこと。 遙3ではともかくとして、歴史上では敦盛を討った例の人。




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