『サブ2時間30分までの道のり』


 大学院1年生のときにたまたま同じ研究室に配属されてきた大学4年生の後輩に
陸上競技部の奴がいた。彼はフルマラソンを2時間35分で走ると言う。私も死ぬ
までに一度ぐらいはフルマラソンを走ってみたいと思っていたので彼に影響されジ
ョギングを始めた。当時は23歳であった。最初は10分も走るのが大変であった
。しかし、「継続は力なり」という言葉を信じて走り続けた。走り始めて4カ月後
ぐらいに始めて10キロの市民レースに出場した。確か42分台であったと記憶し
ている。この頃はまだフルマラソンに出場しようとは思っていなかった。走るのも
2年目にはいったころから徐々に速くなり始めた。10キロも36分台で走れるよ
うになりレースに出るのも楽しくなり始めた。私は実家が兵庫県西脇市(高校駅伝
でおなじみの西脇工業の近く)であるため篠山町に近い。篠山では毎年3月に篠山
ABCマラソン大会が開催されているので、ちょうど大学院の修了記念にと出場を
決意した。初マラソンはコンディションが良かったのか何事もなく無事完走でき、
タイムも2時間48分14秒とサブスリーを達成してしまった。当時は25歳であ
った。入社後はまわりの人達には「2時間30分を切るまでは結婚しない」と公言
し、自分にプレッシャーを与えた。しかし、そう簡単には切れることはできずに「
2時間30分の壁」は私の前に大きく立ちはだかった。1992年には2時間32
分01秒と記録を伸ばしたものの1993年3月の職場全体の兵庫県伊丹市から神
奈川県相模原市移転を機に公言破りの結婚を決意
してしまった。引っ越し、結婚と
いう環境の変化も自分にとってプラスの方向へと
転換させ、1994年2月の別府
大分マラソンではサブ2時間30分に後一歩とせまる2時間31分04秒と
記録を
更新した。この頃からスピード持久力のなさを痛感し始め、その後からレースでた
またま知り合った
マラソンのクラブチーム「ハートブレイク」の練習会に参加し、
週1回のトラックでのインターバル練習を始めた。1994年
の夏は猛暑の中を月
間600キロ近く走り込んだ。夏の「北海道マラソン」でも2
時間39分18秒と
好記録で完走した。スピードも徐々についてきてトラックの5
000mでは15分
52秒で走れるようになった。20キロレースでも1993年よりは
1分程度速く
なってきた。あとは当日の体調と気象条件さえよければ確実に2時間
30分を切れ
ると自分に言い聞かせた。そして、運命の日の1994年11月27日を
迎える。
’94つくばマラソンのスタートである。自分の体調は若干風邪気味とい
ったとこ
ろでここ一時の絶好調時よりは下降気味ではあるが悪いというわけではな
かった。
当日の朝は天気予報通りの快晴である。スタートは前から3列目あたりに位置
をと
り、10時半丁度号砲一発でスタート。周りの人に注意しながら積極的に走る
。ト
ップ集団がさほど速くないため大集団で進んでいく。3キロあたりで少し速く
感じ
たので集団から少し離れ始め後続が来るのを待ち、5人ぐらいの集団で走る。
5キ
ロ地点がやってくる。17分23秒。17分15秒ぐらいではいったと思って
いた
が若干遅いようだ。いつもならここで落ち気味になってしまうが気合いを入れ
て前
の集団を追いかける。大学の構内を一周した後、一般道路へ出る。このあたり
から
足に違和感を感じ始める。かかとが靴擦れをおこし始めている。そういえば北
海道
マラソンを走ったシューズであるからと油断をしてバンドエイドを貼っていな
かっ
た。これはちょっとまずい。しかし今更どうにもならないので気合いだけは入
れ直
す。10キロ地点通過。34分47秒。スプリットタイムが17分24秒。気
持ち
的には上げたつもりであったが、ほぼイーブンといったところか。靴擦れはさ
らに
悪化している様子だ。前の集団との差が縮まってきた。集団はキロ3分半ぐら
いで
進んでいるようだ。この集団のペースを乱してやろうと思いそのまま前へ出て
いく。
案の定、何人かが付いてきたので集団が崩れ始めた。左カーブがあり向かい
風に変
わる。集団は5人ぐらいでオーストラリアの外人が引っ張ってくれるので付
いてい
く。15キロ地点通過。52分07秒。スプリットが17分20秒。少し上
がった
がまあイーブンといったところである。さらに左カーブがあり右側からの風
に変わ
る。相変わらず5人ぐらいの集団で進んでいく。20キロ地点通過。1時間
09分
36秒。スプリットが17分29秒。少し落ち始めた。前の集団がペースア
ップし
たこともあり相当離れている。中間点がやってくる。給水と一緒であるので
タイム
チェックをしづらい。1時間13分25秒ぐらいであったと思う。予定より
は30
秒程度遅い。これで後半いつものように1時間17分かかるとまた切れない
なあと
不吉なことを考えてしまうがとにかく頑張るしかないと気合いだけは入れ直
す。
25キロ地点がやってくる。1時間27分05秒。スプリットが17分29秒
。な
かなか持ちこたえている。後方から一人追い抜いてきたがとりあえず放ってお
いて
集団で走る。外人がちょっと落ち気味で離れ始める。後方から一人また追いつ
いて
きて30キロ地点通過。1時間44分45秒。スプリットが17分40秒。予
定よ
り1分程度遅いが別大のときよりも1分15秒速い。ということはここから別
大の
ときのペースをキープすれば切れる。別大はここからの5キロが18分40秒
ぐら
いかかっているのでここをがまんすれば絶対に切れると自分に言い聞かせて気
合い
を入れ直す。二人ほどが前へ行ってしまい二人ほどが遅れ始めたので二人で並
走す
る。このあたりで沿道の人が「15、16位」と教えてくれる。左カーブをす
ると
左側からの風に変わる。35キロ地点がやってくる。2時間02分42秒。ス
プリ
ットが17分57秒。まだ17分台をキープしている自分を誉めてやりたくな
る。
これは絶対いけるという気分になってきた。残り5キロ地点通過。2時間10
分4
1秒。予定よりは若干遅いがいけそうである。しかしキロ4分ペースでOKに
なる
までは気を抜けない。その後すごい上りが200メートルぐらいあり、右にカ
ーブ
してすぐに200メートルほど下る。下りでペースを少し取り戻す。風も追い
風で
ある。残り4キロ地点通過。2時間14分17秒。もう少しである。後方から
一人
追いついてきたので頑張って付いていく。残り3キロ地点通過。2時間17分
53
秒。よし、これで間違いなくいけるだろう。一人を捕らえて前を追いかける。
40
キロ地点通過。2時間20分47秒。スプリットが18分05秒。若干落ちた
が大
幅には落ちていない。一人交わす。残り2キロ地点通過。2時間21分29秒

1993年のような向かい風ではない。前の一人からは若干離され始めた。残り1
キロ
通過。2時間25分05秒ぐらい。これは28分台がでるなあ。嫁さんが「切
れる
、切れる、ラスト頑張れ」と声をかけてくれる。競技場の入り口へ曲がる。バ
ック
ストレートをうきうき気分で走る。3コーナーで時計を見る。28分台は間違
いな
い。嫁さんの声援直後にラストスパート。ゴール。2時間28分38秒。ラス
トが
7分51秒とまずまずであった。順位も1993年の18位を上回る12位で
あった。嫁
さんのところへ向かう。「やったで」と声をかけると嫁さんも嬉しそう
であった。

走り始めて12年、念願のサブ2時間30分を達成した。陸上競技の経験のない私
が「継続は力なり」という言葉を信じて続けてきた成果の現れであった。今後の目
標は2時間26分を切ってマラソンランナーの憧れである「福岡国際マラソン」に
もう一度参加することである。「勝って奢 るな、負けて腐るな」「気力は体力を上
回る」「自分の限界は自分の思う所よりも
もっと上にある」これらをモットーに今
後も走り続けたい。記録への挑戦は果てし
なく続く。