『寺ちゃんの歩み(3)』


(3)<社会人2年目(1986年4月〜1987年3月)>

1986年 4月 中日福井マラソンに出場。
2月の別府大分毎日マラソンで歩いたために今回は完走(歩かないこと)を目標にゆったりとスタートする。4月半ばとあってかなり気温も高く目標の完走は果たした。タイムは2時間51分台。
1986年 5月 この頃はあまりレースに出場した記憶なし。夏場まではそれなりに走れていたように思う。夏を過ぎてから体調がなんとなく悪くなり、どんなに練習してもすぐに息があがるような感じになる。焦って練習量を増やすという逆効果でますます走れなくなる。
1986年10月 敦賀マラソン大会20kmに出場。
コースも結構タフではあったが、スタート直後から息が上がり出し、速く走れない。キロ4分ペースも維持することができず、ずるずると後退する。タイムはよく覚えていないが1時間24分ぐらいであったと思う。この頃から走ることに対して悩み出し、あまり走らない状態が続く。昼休みのジョグ2km程度は続けていたように思う。
1986年12月 地元でもあるので西脇子午線(へそ)マラソン10kmには出場。
やはり息はすぐにあがってしまい、40分もきれなかったように思う。いろいろと考えてしまいスランプ状態におちいる。
1987年 1月 2月の別府大分毎日マラソンにはエントリーする。体調は相変わらず悪い。月末近くになって、会社の診療所に相談する。とりあえず血液検査をしてもらうと貧血とわかる。改めて病院でも診察を受けると同様に貧血の診断。鉄欠乏性貧血のため、鉄剤を服用するようになる。
1987年 2月 別府大分毎日マラソンフルに出場。
体調は戻らないままで30km関門は通過できないものと考えて走る。キロ4分ペースで走れたのは5kmあたりまでで、あとは関門の30kmめざして淡々と走る。30km地点を2時間03分ぐらいで通過し、収容車に乗り込む。その後、1週間ぐらいで一気に体調は回復してくる。鉄剤服用の成果のようだ。
1987年 3月 篠山ABCマラソンフルに出場。
目標は別大の資格の2時間45分以内。貧血もほぼ回復した感じで臨む。後半は「別大、別大」と心の中で叫びながら走っものの35km以降はあまり身体が動かず2時間46分台で別大参加資格は得られず。やはり、貧血が回復してからの準備期間(走り込み)不足が原因と考えられる。別大参加資格突破は暮れの防府読売マラソンに絞ることにする。

篠山の2週間後に地元西脇の兵庫レディースマラソン男子協賛種目20kmに出場する。タイムはよく覚えていないが、まずまず走れたような記憶がある。貧血はほぼ問題なくなる。