『寺ちゃんの歩み(2)』


(2)<社会人1年目(1985年4月〜1986年3月)>

1985年 4月 三菱電機株式会社入社。配属場所は兵庫県伊丹市所在のLSI研究所。
入社式、研修後、4月2日夜に東京から兵庫県西宮市の「西宮寮」に移動。4月3日から兵庫県伊丹市の北伊丹製作所で合同新人研修開始。毎日、夕方にトレーニングあり。研修中のスポーツ章テストで1500m4分42秒、マラソン(15kmと言っていたが、走った感じでは13km強)42分23秒で研修生200名ぐらいの中でともに1位。マラソンは大会新記録賞(カップ)をいただいた。合同新人研修はその後、7月15日まで続く。
1985年 7月 LSI研究所設計技術第二部設計技術第一課に配属決定。
翌日からお昼休みを利用して会社前の瑞が池の周り(1周1.6km)を走り出す。まだ残業禁止だったため、帰宅後、数kmジョグも実施する。
1985年 8月 神鍋高原マラソン大会ハーフマラソンに出場。
コースもタフであり、暑さもあって、1時間21分台。しかし30歳未満の部で6位入賞する。初入賞で、非常に嬉しかった。
1985年10月 第2回ランナーズ月間走り込み大会参加。
12月の防府読売マラソン出場をめざして約680km走破する。途中、大町アルプスマラソン30kmに出場。1時間52分台で完走する。10数位であったと記憶している。
1985年11月 新体連ロードレース20km(淀川河川敷)に出場。
1時間14分台で完走する。
1985年12月 西脇子午線(へそ)マラソン10kmに出場。
35分台後半で、学生のときより悪く結構落ち込む。2週間後の防府読売マラソンに向けて黄色信号が点る。
1985年12月 防府読売マラソンフルに出場。
目標は2時間40分以内。この時点では別大の資格が2時間50分でびわ湖の資格が2時か40分と思っていた。会社の先輩のTさんと参加。前日の健康診断時にTさんの知り合いの方に別大の資格が2時間45分に、びわ湖の資格が2時間35分になったと聞いて愕然。この時点でびわ湖出場はあきらめる。当日、天候は雨。無理せず適当な集団につき、中間点を1時間19分台で通過。後半は30kmすぎからややペースダウンし、結局2時間42分23秒でゴール。目標には届かなかったものの、自己記録を約6分更新し、別大の参加資格もゲットして、まずまず。
1986年 1月 年明け早々から社内の神奈川県鎌倉市の研究所に4週間弱の研修出張となる。
生活パターンが崩れ、思ったほど練習できなくなる。それでも夜は見知らぬ場所をコツコツ走る。1月31日(金)に研修終了。夜に関西に戻る。次の日から別大マラソンに出場のため、大分に移動予定の強行スケジュールとなる。
1986年 2月 別府大分毎日マラソンフルに出場。
あまり練習できていないが目標はやはり2時間40分以内。前日は朝から新幹線と特急を乗り継いで別府入り。知らない人ばかりでかなり不安になる。健康診断では疲れのせいか脈拍が下がらず再診。体調はいまひとつの感じだ。開会式で神戸市から参加されているMさんと知り合いになる。Mさんはかなりの実力者のようで、いろいろと教えていただく。当日、天候は快晴。気温もさほど低くないと思い、ランシャツ、ランパンで臨む。再後方かその前ぐらいの集団に乗って進めていく。ペースは防府のときよりは速い感じがする。30kmを1時間54分台で通過したあたりから集団について行けなくなる。大分駅前あたりでついに立ち止まってしまう。屈伸運動とアキレス腱を伸ばしてジョグを始める。後方からはどんどん追い抜かれていく。まだコース変更前なのでここから橋を渡って競技場を左手に見ながらまだ5km以上走らなければならない。給水では立ち止まってドリンクを飲み、ジョグの繰り返しである。3時間を切らなければゴールできないと思うが身体は動かない。それでも40kmの給水を立ち止まって飲みながら前を見ると競技場が大きく見え、なんだ、もうゴールは目の前だ」と思うと俄然元気が出てきて、一気にペースアップし、2時間57分台でゴール。完走タオルをかけてもらい、ホッと一息。3回目のマラソンで初めて味わう挫折感であった。Mさんは2時間34分台でゴールしていたと思う。
1986年 3月 今シーズンにもう1本フルを走ろうと思い、4月の中日福井マラソンにエントリーする。
この間、レースに出たかもしれないが記憶があやふやなため、省略する。