FMGネット   caseインデックス

21世紀、草創期のWebマーケティング事例集

case003 佐藤勝久流の街づくり
2000.03.16東京第2回 事例報告

佐藤勝久流の街づくり論

佐藤勝久事務所代表 佐藤勝久氏

http://www.mori.co.jp/

1.森ビルという会社、私の原点

   森ビルは街を造ることが専門の会社です。わたくしが昭和40年に入社した頃は、愛宕下に9階建ての小さなビルがございまして、貸し面積が当時8000坪くらいしかない弱小の会社でした。なるべく小さい会社に入ったほうが自由がきくのではないかと、森ビルにお世話になったのです。オリンピックが終わった直後で建築基準法の改正があり、貸しビルが都内に駆け込み建設の最中でして空き室がものすごくあった。また当時はデベロッパーという表現よりも不動産屋と称することが多くて、それもまた、その上に「悪徳」という言葉がつくことが常だったですね。
 森ビルというのは、先代の社長が横浜市大の商学部長をやって、そのあと教鞭を降りてから貸しビル業を始めました。もともとは港区の日赤ビルさんの前あたりでお米屋さんをやっていました。そのお米屋の倅が先代でして、お米屋さんをやりながら、ずっとその場所に居続けるものですから、いろいろな方から土地や木造アパートを預かったりしながら、また自分でもお金が貯まるとアパートを建てては賃貸業をやっていたということが、お米屋さん時代の森ビルです。
 先代はその間、一橋大を出てから大学の教授をしながら、京都の方に住んでいたのですが、途中、関東大震災と戦災という大きな事件がありまして、2回とも京都にいて「大変だ」ということで東京に立ち戻ってみたらおやじさんが経営していたり、お預かりしているアパートが全部燃えてなくなっていたということで、震災のあと建て直しして、また戦災のあと建て直ししてやったのですが、木造のアパートを建ててもまた同じことが起きるのではないかと、自分の産まれた街をなんとか燃えない街にしたい、ということで、貸しビル業を始めたということが先代の動機だったようです。

 わたくしなどはそんな事は知らずに、まあ小さいからということでお世話になって、まわりからは不動産屋なんて悪徳でヤクザの仕事だからやめろとずっと言われてきました。みんなから言われてちょっと意地になりまして、「良い会社へ行ったな」といわれるようになるまでは森ビルにいようと思うようになりました。
 ちょうど田中角栄さんが列島改造の話しを打ち出したときに、今回のバブルのように儲けられる話しが出てきましてわたくしも、会社員ですから、きっと儲けられる話しを社長に持っていけば喜んで、その話しに飛びつくのではないかと思って、いろいろな土地のもってきていただくおいしい話しを全部社長のところへ持っていったのですが、ぜんぜん乗ってこなくてですね、「会社なんですから、大きく造るのが目的じゃないんですか?」とくってかかると、そのときに「土地というものは1個しかないので、自分は土地をころがして儲かるような仕事はしたくない、森ビルというものを造ったのは、国会議事堂に続いて虎ノ門エリアを燃えない街にしたいだけだ。震災で、戦災で新橋に戻ってきたら、自分のおやじのアパートは全部燃えたけど、丸ビルだけは残っていた。あれをみたら、街づくりというのは木造で造っていても仕方ない、鉄筋,鉄骨で造って燃えないものを造らないと街というものはできない。」というようなことで、自分の故郷を燃えない街にしたいというテーマで造ったものが森ビルでした。燃えない街を造るというメルヘンにしがみついている先代にとても共感を覚えましてずっとついてきました。

 アークヒルズはわたくしが入社した直後に真っ先にやった仕事です。オリンピックで高速道路ができて、赤坂側に街が2分割されてしまい、真っ先にギブアップしたのがお風呂屋さんでして、高速道路から山側にふたつお風呂屋さんがあって、一番隅っこにあったお風呂屋さんが道を渡ってお客さんがきてくださらない、また、どんどん家庭風呂が広がっている最中でして、森ビルに買ってくれという話しで、私共は地続きでして虎ノ門のほうからその土地を求めまして、お風呂屋さんをかったのですが、浮浪者が入って火事でも起こされては困るということでトラックにベニヤを積んで行ったのが昭和40年。アークヒルズが実際できたのが53年ですから、23000坪くらいの再開発に23年かかりました。

 アークヒルズができて、テレ朝さんがお入りいただいたとき最近のロクロク(六本木6丁目)再開発に着手いたしました。虎ノ門からだんだん広がっていった燃えない街づくりの計画があの当時できました。結果的にようやく着手できそれまでに15年間かかっています。私共の森ビルというのは、儲けたビジネスというよりも、街づくりというのはある目標に向かって進めていってそして、我々の仕事はレールに足が乗ったか乗らないか、乗せるにはどうしたらいいかということを色々考えることです。いろいろデベロッパーさんはいますが、我が社の場合はそう言う意味では、本来、お役所さんがやった方がいいようなプロジェクトに敏感に取り組んでいるということです。

2.ラフォーレ原宿、”商業”初体験

 そういう点で、森ビルグループの中にたまたま、昭和53年に、原宿に土地が入手できてそこで、どういう開発をするか研究しました時に、ショッピングセンターでもいいし、オフィスでもいいし、住宅でもいい場所であったわけですが、ショッピングセンターを選びました。理由は、アークヒルズが実施設計の直前まできていまして、アークヒルズのテーマは、食住近接の街をつくるということでやっていましたので、食住近接であるということは、商も入ってないと、生活するのに困るということで、食住商一体となった街の開発をしようということで、考えました。それまでに森ビルの経験には商業というものはなかったのですが、原宿で商業の訓練をしようということになりまして、ラフォーレ原宿というものを造りました。ところが、森ビルというのは商業について何も知らない。そこで名前の通っている有名な会社が入ってくださればきっと、商売上手にうまくビジネスできるようにしてくれるのではないかということで、有名な企業ばかりを誘致してスタートしました。

 ところが1年経ったところで、2000坪の売り場なら一般的には我々は30年くらいの長い計画を立てていますから初年度の売上が社内では48億円くらいだとレールに片足が乗るかという感じでしたが、新聞記者の方たちから年間目標聞かれて、答えるのに根拠がなかったので、テナントさんにきいたら、2000坪なら70億円と答えておいたらどうですかとアドバイスをいただいたので「70億」と答えました。結果的には初年度は56億円でした。森ビルサイドでは56億なら48億よりちょっと良かったねので良かったねという感覚だったのですが、70億という1回発表した数字に対して56億というのは2割減であり素人がこんなことをやるからだとマスコミさんに叩かれました。叩かれるとなんとなくテナントさんもデベロッパーさんも不協和音が出てくるものでして、一体となって前向きにいくよりも誰の原因で2割減になったかという風な話しになりまして、テナントさんとおおもめにもめまして顔をあわせるとケンカという状態に初年度はなっていました。

 森ビルサイドは予定よりもちょっと良かったわけですからこのまま頑張っていけばいいということだったのですが、街づくりをしているのにテナントと揉めているのでは街づくりなんてとてもできないということで、商業施設というのは結構大変だからアークヒルズからやめてしまおうとうことで最終段階では商業施設をとりました。たまたま、サントリーさんが文化施設のサントリーホールをつくりたいというご要望とタイミングが一致いたしたものですからサントリーホールをつくらせていただきました。結果、いいイベントをいっぱいお持ち込みいただきまして森ビルといたしましては、アークヒルズを商業施設でやるよりサントリーホールさんにいい文化施設をおつくりいただいて良かったという感じです。それでアークヒルズから、商業施設がなくなったというラフォーレの初年度の結果です。

 その間、わたくしはラフォーレ修善寺でゴルフ場を少々立て直すということで行って居りましたが、1年経ったところでなかなか原宿の方がうまくいってないので何かやってみないかということで、気軽に原宿の方を引き受けまして、2年目からラフォーレを担当することになりました。どのような方向にもっていくべきかわからなかったし、私自身ファッションに興味がありませんでした。ただ我々は貸しビル屋なのでたくさん家賃を貰えればいいなと、家賃を頂ける何かいい方法はないものかと思っていました。

 原宿にきてずっと眺めていると渋谷、新宿は有名な方たちばかりお入りいただいていますから、うちの商品は渋谷新宿に行くとデパートさんとか路面に全部いっぱいあって、わざわざ原宿まできて商品を買うお客さんなどはいないです。そう意味では原宿というのは、渋谷、新宿にあるものを揃えてどんなにきれいにみせてもお客さんは喜んではくださらないということが解りました。そういう方たちはもうだめですからどんどん退店していただいて、原宿にしかないものを集めよう、ということで Only one shopを入れようと思いまして、店でオンリーワンというと店舗展開している方でも本店というものは1つしかないですから、原宿に本店集めしようということで、「1年経ったところで本店集めいたします。支店の方たちはできるだけお譲りいただいて、本店に切換えさせていただきたい」とお願いしたのですが、売れてないというショッピングセンターに本店をもってきてくださる方はひとりもいない。そこでどうするかというと店を持っていない人にお店を持たせるということでみんな1号店,本店になるということでたまたま原宿にはあの当時マンションメーカーという呼称で呼ばれていましたアパレルさんがたくさんおりまして、その方たちが、今では、「鈴や」さんとか「三愛」さんとか「たかの」さんとか有名なナショナル専門店さんに商品を卸して商売するアパレルさんがいっぱいいました。それをみてたら特に、服を作るにはものすごいエネルギーがいるということがわかりまして、氷山の一角の状態で商品ができるのですが、一旦アパレルさんから小売やさんの手に渡ると今度は小売やさんの店長さんの好き勝手なところに並べますから、50日かけて作った商品でもお店の隅にちょこっと置かれてしまったりして作った意欲をお客様に伝えられないのが実情だとが解ったので、第一号店をそういう方たちに自分の意志をそのままお客様にお伝えするお店としてアパレルの方たちに直営ショップとしてもらうということにしました。これが、デザイナーズブランドの発祥のきっかけになりました。デザイナーが直接売る店が原宿にできましたというようなことを、デザイナーと会話しながら、自分の服を選んでくださいというようなことをやったり、こういうことをやるとものすごく楽しいということをアパレルさんに知らせたりしながらやっていったわけですが、デザイナーの方たちの層が浅いので、原宿コレクションというファッションショーをやったりしながら、ラフォーレからデビューすると成功の確率が高いというようなことを、新聞や雑誌とかにどんどん書いていただいて結果、これから集まるブランドになりたいなと思った方たちはなんとかラフォーレに出店したいと感じていただくような環境づくりをいたしました。今のDCブランドブームをつくった方々のほとんどが、ラフォーレ出身で大きくなりました。昭和53年当時の原宿のファッションメーカーさんの総生産量というのは200億ぐらいだったのですが、5年後には8000億ぐらいの産業に生まれ変わりました。
 その時に原宿をファッションの街にしたいなというようなことで、私共は街づくりをテーマにしている会社ですから街の商店街の方たちとは共同歩調をとることにしておりました。お祭りなどというとうちの社員が全員出ておみこしを担いだり、イルミネーションなども10年くらいかかってやれるようになりました。7年間続けて、一昨年で終わりになったのですが、そのこともラフォーレの仕事として率先してやるんだということを原宿で実施してきました。

 森ビルにいて悪徳不動産とかいわれてみんながいい会社に入ってやめるということと同じように、原宿でも同じようなことがありましたので、商店街へ行ってラフォーレがひとりがんばっても絶対街などできない、街ぐるみみんなで情報発信基地になろう、街でも名刺でもみんな全員が書いているといつか相手の方たちも言ってくださるようになるので、原宿をファッションの街にしましょうよと提案しました。あの当時の商店街シャンゼリゼ会の理事長がラフォーレは途中から入ってきて勝手なことを言うな、ここは、明治神宮の表参道で充分だと言って拒否されまたりもしました。しかしファッションの街と言われるようになりました。

 ラフォーレの街づくりで欅も一役買ってもらいました。あの欅は明治11年に植えられ、大正11年に補修されて現在に至っています。街ぐるみで欅を維持していまして、なかには昔のおじいさんたちが欅の葉っぱがどんどん細くなってしまうとか、幹の皮がどんどん剥けてしまうとか弱くなってしまって心配だとか、商店街の勧誘をやっていても欅の話ばっかりです。たまたまゴルフ場もやっていたので植物だって人間と同じで、欅を1本ずつ欅ドックをやりましょうと提案して、欅に番号をうちまして、健康診断を専門の方にお願いしてカルテをつくってもらいました。東京都さんにもお願いしていたのですが、欅は都内に3700本くらいあるということでそのうちの表参道の欅は百何十何本は全部Aランクであり、もっと他にお金を積まなければならないところがあって表参道には予算の順番は一番後ですという。それで街ぐるみで健康診断をやってA〜Eまでランクをつけて、ランクEには土壌改良やるとかなどを新聞に発表しました。今では明治神宮さんがもしだめになった時の補修の欅をうちのここに植えておいていいですよとかですね、あのエリア全体が欅に対しては関心を持ってくれるようになりましたし、東京都さんも予算をつけて定期的に冠水できるような施設を作ってくれるようになりました。原宿の街づくりにはファッションの街以上にそういう一つの柱があって良かったことです。

 原宿には、賛否両論あるのですが、いろいろ憲章がありまして、街をきれいにするとかその他に自分たちで決めたことなのですが、例えば銀行さんのように目的があってお客さんが来るところは表の間口がそんなに広く要らないのではないか、1間ぐらいであとは全部ショーウィンドーにしよう、土曜日曜とかはシャッターで閉められると街が中断されてしまうので銀行さんは全部入り口にそれだけとって、あとは街のためにショーウィンドーなり商業を表にだすことによって街を明るくしようと内部できめておりまして、今ではどんどん銀行も整理されたのですが、一社に2行ぐらいずつ原宿青山エリアに出店を計画をされた時に、全部大蔵省と我々の地元の商店街で話合いをして、銀行さんが出店する時は間口だけ残して明るい街がずっと続けられるような街づくりみたいなことがこれは街の憲章で決めていて、出店される方たちにもそれは理解していただきながらやっていけるというようなことが実現できました。

 その他、街には文化がなければいけないということで、ラフォーレミュージアムをつくって多目的なイベントをしかけてきました。はじめ57億だった売上もそんなことをやるにつれ、73億、84億、104億とどんどん伸びてきまして、ラフォーレは4年目にしまして安定路線にはいりました。ショッピングセンターはいつも元気で新鮮でいるということが一番重要なことでして、それを続けるには、年に1/3ぐらいのテナントの入れ替えをしています。原宿でうんと商売できるようになったら卒業していただいて、新しい方のために空けていただいて新しい方にまたチャレンジしていただきます。これが新鮮さを維持していく一番の元でございます。当初3年であと2年で自動更新という賃貸契約があると思いますが、ラフォーレの契約の場合は今輝いている人が演じてほしいビルで、仕草とかテクニックで売るような状態になったら一回卒業するなり、休憩して欲しいということを言い続けてきました。これは実行するということは難しいのですが一番簡単な方法はテナントを選ぶ時にそういうことを知っているテナントさん、なおかついい結果を出しているテナントさんの推薦の方を選びます。私共の会社の役員であるとかの縁故でテナントを入れるのではなく、入っているテナントさんの推薦してくださる方をいれることです。我々のルールを全部知っていて、ラフォーレというのは売れなくなったら出されるんだぞというようなことも含めてですね、いい結果をだせばどんどん育ててもらえるけれどもだめだったら休憩しなければいけない、ということをテナントさんが引き継いでくださって、またテナントさんが保証人になってお入りいただいているのでそういう点では、縁故中心にテナントレーシングをしておりまして、契約期間を意識してテナントさんの出し入れをしたことはないのですが、そんなことができる運営形態にしています。

 一番画期的だったと思うのは、ショッピングセンターだとどうしても1階が保証金も高くて家賃も高くて2階3階とだんだんと安くなっていくということが一般的なのですが、ラフォーレの1年後の改装時に、いくつかみていて解ったことがありまして、そのひとつに売れる店は1階であろうと2階であろうが3階だろうが場所は関係なく売る人は売っています。売れない人はどんな良いところにいても売れないということが解りました。それは、あるブランドが3階の一番奥にあっても売れていた、これはたまたまラフォーレに1店舗しかなかったのですが、売れる売れないは場所ではなくて、売るサイドの姿勢の問題だなということがわかりました。それでラフォーレの場合は1階、地下各階関係なく条件は同じにしています。どこでも売る人は売るんだ、ラフォーレのようなショッピングセンターは路面をどんどん重ねただけで蜂の巣みたいに重ねただけでおのおの人がお客さまにアプローチをしているわけで、そういう点では場所は関係ないということで条件は同じにしているということが我々の特色ですね。保証金という金額をたくさんお預かりすることはやめにしまして、なるべく出店しやすくていい結果がでたら、たくさんお家賃を払っていただくということで歩合を中心の貸方に切換えました。お金がなくてもお店が持てる、いい商品の人がいたらお店が持てます。通常ですと保証金を150万円お預かりしてお家賃が8%、だんだん売れてくると6%や5%と低減するような方式とフロアによって違うというような方式が一般的な貸し方ですが、ラフォーレの場合は今、ちょっと変えていますが、一律売上の12%という方式で、保証金が少ない代りにうんと売れたら20%払ってくださいよというような方式にしています。これはテナントさんたちと交渉していて分かったことですが、商売人というのは500万売って8%だったのが、もし600万いって6%に落ちるとしたら、売り方などはぜんぜん違いますよとみなさん結構そういうことをおっしゃって低減性をものすごく主張なさるのですが、1週間ぐらい経ってからあの条件いくらだったときいたら、社長が覚えてない、店長は覚えてない、誰も覚えてないんですね。ただ売ることは一生懸命やるのですが、利率条件によってやる気が変わるなんてことはないということが解りましてたので一律12%にしました。

 その結果坪効率400万という店がありますと、12%ですから、坪あたり48万円というお家賃がいただけるということができるようになりました。これはよそさまではちょっとやらなかったケースであろうと思います。それから、商売っていうのは灯台の火みたいなもので、我々がいろいろ計画を立てて実行する時に自分は3階を良くしようかなとずうっと3階を見まわすと必ず3階は良くなっているのですね、此れと同じで、経営者が、渋谷のお店、原宿のお店、あちこちお店があって今回は原宿のお店に興味を持ったということで、そのお店を見ると必ず原宿のお店が良くなるものでして、そういう意味ではお店をもっていただいた時に経営者が一番関心を持っている店でずっと居続けるにはどうしたらいいか、店長さんたちをこっちに向けるだけではなく経営者もこっちに向けるために、ゴルフやったりマージャンやったりいろいろ経営者が喜ぶこと、あまり商売には関係ないのですがいつもラフォーレから目を離させないことに対してとても神経を使いました。私共へ遊びにきたついでにちょっと店に立ち寄って、励ましの言葉をかけてくれるだけでお店の売上がちがってくるくらいに微妙なものです。やはり商売というのは灯台の火だと思ってですね、いろいろだめなものがあったら徹底的にそこを見つめていくと必ず良くなっていく、これがビジネスではないかなと思っています。

 ラフォーレというのは、物事というのは三角形の状態で上からだんだん浸透してくる、わたくしが思うに何か新しいことをやると飛びついてくる人が必ず1〜2%いて、それをみてやってみたいと思う人が11%ぐらいで、その1〜2%の人というのはどういう人かというと、だいたい変人と呼ばれている人で、11%ぐらいの人は変わっていると呼ばれている人です。我々の時代もそうだったのですが、昔は白のワイシャツが一遍通りだったので、色付きなんて着たら会社の中でも変人ということで、でもそれを見て自分もやってみると、なんとなく気分が違うなということになります。変人と変わったヤツの対象の商品というのは付加価値ビジネスですから、1個しかないとか、数が少なければ少ないほどお金に関係なく買ってくださる。だんだんそれが一般的に誰でもやるようになってくると、安さが定番になってくるということです。特に原宿ラフォーレの場合はその変人、変わっている人たちが探してくれる店でいつもい続けたいということをテーマでやっています。そのためには、人口の12〜13%の人に興味を持っていただくと思うと東京都民を対象につくって経営していたのでは商売にはなりません。全国の人たち対象にやらなければならない、ラフォーレというのは原宿をできるだけ全国区立候補した街にもっていこうとしています。東京地方区だけではないようにしようということです。実はここのところ、渋谷と原宿の間にどんどんお店ができていまして、あの間にいる人たちは商売できる街にしたいのでなるべく、渋谷にも近づきたい原宿にも近づきたいとお考えですが、わたくしなどは渋谷に近づきたくないなと思っています。渋谷は東京の方たちの街で、原宿は全国の方たちのための街でこういう区分をするためにはですね、渋谷に近づいてはだめで、同じようなものは全部はじきとばしたいくらいです。こう思ってずっとやってきました。幸いにして海外のブランドが原宿と銀座にでると全国に知名度が一遍にやれるのだということでそういう使い方をしていますので、今はバブルの時以上に原宿の地価なり家賃が上がっています。

 土地というものは不思議なもので、じっとそこに座っているとこの土地はこういうものを造ってくれと語りかけてくるものでして、今全国で土地が空いていると、すぐ商業施設つくったりホテルつくったりとかワンパターンになってきていますが、土地はひとつずつ違うことを訴えているので、極力街づくりなどの開発をする時にはその土地が何を欲しているのかということを見て一番いいものを建てることがいいのではないかとわたくしは思っています。ですから最近はあまり商業施設の開発は考えずに別のことを考えるようにしています。

3.ヴィーナスフォート、制約下での挑戦

 東京都さんがお台場を開発をされて、都市博をやめて10年間暫定で利用することになりました。わたくしはその前に埋め立てができた時に東京都さんに、原宿を全部引越しをするからお台場エリアを全部貸して欲しいと提案をしていました。12万坪くらいの敷地ですが、原宿のアパレルがちょうど8000億くらいでして、アパレルというのはだいたい一億十坪くらい業務上使うものですから、8万坪使ってあと4万坪を商業施設にして原宿から全部アパレルを引きつれてお台場に引越ししたいと思いました。お台場というのは港区がお台場でして青海の方に行くと江東区なのですね。今回のヴィーナスフォートは江東区になっていましてファッションの人たちに引越しするけどどうかと話しをしたら、江東区だとファッションというイメージに合わないということで、港区でやれるのなら引越しをするということで計画を立てて東京都に出しました。東京都さんはとても喜んでくれました。しかし一事業者にこれだけの土地を渡すわけにはいかないとなりました。また都市博を断念する企業がでてきたりして、再度東京都さんからあれをやれないかとお話しを頂いた時は虫食いの状態になっていてお断りしました。我々にしてみると、あそこはファッションをつくる街としてはふさわしい街だなと思っています。その間にいくつかのあいたところを10年期間限定利用のコンペがありまして、我々もノミネートしました。それは自動車を買うのに、あらゆるメーカー車を見て触って試乗も出来てクルマを買えるところを作ろう、これを全国で何箇所かにつくりたい、その基地としてお台場につくりたいというものでした。ゴーカートからF1までというようなことで、ヴィーナスフォートからトヨタさんのエリアまで600メートルありましてあのエリアは銀座でいうと1丁目から6丁目までに相当する距離です。そこを試乗もできたりディーラーさんにそこに全部入っていただいてそこでクルマを買えてしまえるという、みせるだけでは街はできませんので売る行為もすることによって街をつくっていこうということです。24時間営業の自動車教習所をつくるとかの計画も立てて、とりにいきました。この提案は森ビルの計画というよりは、ラフォーレのプロジェクトで提案していたものですから、所ジョージさんのカスタムカードという彼のコレクションをもってくるとか、「間違いだらけのクルマ選び」の得大寺さんという先生も中に入っていただいて、手を挙げました。いざコンペになってみると十何社手を挙げていまして、激戦だったのですが一番激戦だったのは、都市博のときに、パビリオンをおつくりになり東京都さんに協力するということで、トヨタさんとか三井物産さんとか電通さんとかのチームが都市博ができなくなった代りに必ずなんかやれるようにいたしますと東京都さんがお話ししているチームがグループをつくって手を挙げていまして、そこともろにバッティングになってしまいまして、我々は自信があるテーマだったのですが、大方の予想は都市博のときに迷惑をかけた人達に東京都さんは渡すのだろうという見方だったのですが、いろいろヒアリングを通していく中で、街というのは見せるだけではないというところが東京都さんにご理解いただけました。そしてラフォーレをやっていたのだから自動車はあきらめて、トヨタさんが自動車をみせている隣でヤナセさんと組んでよそのクルマを売るわけにはいかないので、トヨタさんからクルマは売らないでくれということになり結果的に商業は私共がおつくりしましょう、ということでトヨタさんと我々で半分ずつ使わせてもらうということで計画を立てることになりました。

 実は自動車をやることについては細かく計画ができていたのですが急にラフォーレのような商業施設になることになって当初は200億くらいの予算で考えいたのですが、半分になったので100億を使って商業施設をつくろうということになったのですが、ところが半分になってしまって中途半端で何をつくろうかといろいろ迷っていたのですが、その時にスクエアのオーナーの宮本さんという方が100億森ビルで使うなら自分も100億だすから200億でもっと面白いことをやらないかというご提案をいただきました。これは渡りに船でおもしろい案なのでこの話しにぜひのりたいということで、ヴィーナスフォートという施設をつくることに致しました。その間、ナイキタウンさんが日本にどんどん進出してきていまして中国やニューヨークのナイキタウンも話題になっていまして、ナイキタウンを誘致してあの真中にセットしてその周辺になんかやろうかという話しがありましてニューヨークをいろいろ見たりしながら、説明にいったのですが、ニューヨークのナイキタウンをみましてこのままもってこられてもおもしろくもなんにもないと思いまして、それにもっと健康をプラスしてもってこれるのならぜひ誘致したい、我々も一緒になってやってもいいという話しをしにいったのですが、ニューヨークでも100億かけて開発したのであのままどうしてももってきたいという気持ちが強くてですね、それにこだわるならいらないということで断って帰ってきたのです。

 その間ラスベガスがだいぶ変わってきておもしろいということで、ラスベガスへ見に行ってシーザスパレスのフォーラムショップというのがそれなりにグレード感もあるし、これをつくろうかということにしました。
 あれは、ドゴールという設計者がつくられているものでドゴールさんにお願いして同じ物をつくってもらいたいと依頼したのですが、版権がシーザスパレスにあってそれを使わせてもらうともすごく高いお金がかかってしまうということが解って、だったらドゴールさんに新たにつくっていただくということで、向こうが紀元前だったらこっちは18〜19世紀のヨーロッパの街並みにしましょうということで、面白い景色の写真をたくさん並べて、ここのこの写真採用、この写真採用ということでそれを全部組み合わせしてああいうものをつくりました。10年限定であるのでなるべく、安くつくったり場合によっては組みたてしなおして次のところへでまた組みたてられるようにということを含めて、いずれにしても日本のラーメン博物館はじめ、ちょっと似通ったああいうものもあるのですが、技術的に向こうの方が優れているというか慣れているのであれだけの面をうまく利用した技術が凄かったのでドゴールさんにお願いし、また絵も全部向こうでやった方たちにお願いしました。向こうでつくってきてこっちで組みたてるというようなやり方でしました。

 その間テナントさんを集めなければならないのですがテナントさんは、お台場は飲食しか売れないということを思っていて一発でひっくり返すには、自分たちがシーザスパレスはこうなんだと説明するよりも、連れていってしまった方がいいのではないかと、出店をお願いしたい企業さん180人をラスベガスにご招待いたしました。こういう中にお店を持ちますかとお願いをしたので、いいのではないかということであの時に180人ということは一億5千万円くらいかかりました。ところがヴィーナスフォートは300億を売り上げたいという目標でやっておりまして、売れないというだけで家賃は1割値引きされ、1割値引きされると3億強ですから、こういうところに出たいといったら、1%も引かないで契約ができるわけですから、結果的にいうとご案内した方達がほとんど値引きなく自分はどこに店を持つかということでご出店いただけることになりまして、一億5千万円かけても値引きのない分だけいい結果を得たということになりました。ラスベガスにみなさんをご案内して、その中で自分たちはどういう参加の仕方をすればいいのかをやっていただきました。

 ヴィーナスフォートでもうひとつ面白いやり方をしたのは、通常ラフォーレの場合ですと、ひとつのコンセプトを決めて、営業の人間があちこちの情報を集めてその優先順位を決めてご出店依頼とかご案内をするわけですが、ヴィーナスフォートの場合は20才〜40才前くらいの女性の方がこられたら絶対裏切らないようなお店にしようというテーマを決めまして、そのゾーンをねらった雑誌の方とかモデルの方々二百何十人にお金を払ってアンケートをとりました。例えば化粧品だったらあなたはなにかほしいですか?こういうような問いかけでですね、バッグの部、宝石の部、化粧品の部といような形で1番から50番くらいまで人気投票をいたしました。その人気投票の出たうちの20人を全員ご招待しよう、10番目までをご招待しようということで、ご招待状をおつくりしまして、結果的にはラフォーレでやっている営業の人間とか森ビル関係の営業の人間とかはノータッチでいたしました。ですから、資生堂さんカネボウさんなどは絶対なければならない化粧品なのにあそこにはありません。そういう方たちに人気投票をやるとどうしてもベーシックになるものですからベスト20までにでてこないわけです。

 また、オープンするにあったて10年の限定でやるものですから、資産とかをテナントさんにお持ちこみいただいてやると10年経ってまだリースが残ってしまうなどいろいろ問題がでると、壊して東京都さんにお返ししなければならないというような条件があるものですから、あそこの場合はすべて込みこみの内装までこちらでおつくりして、お貸しするという方式にしています。ラフォーレはブースお渡しして、12%のお家賃、それの共益費や販促費とかをお出しいただいているわけですが、ヴィーナスフォートの場合は、全部込みで、クレジット手数料なども全部込みでお貸しするというようなやり方でお使いいただいておりまして、物販が標準で26%、飲食が21%というようなことで、お使いいただくことにしております。

 いまだいたい予定通りの集客と売上の推移です。このG.Wなどは予定以上の来店客を得られたようなのですが、ショッピングセンターを私共あちこちラフォーレシリーズをやっていますが、なかなか全員がこぞっていいという状態はございませんで、だいたい1/3の方が良くて1/3の方が悪い、1/3の方がもう少し努力しなければいけないなとお考えになるような状態のバランスになっています。ヴィーナスフォートでもだいたい同じ傾向が出ています。ただあれだけ大勢の方が目の前を通りながら、この数字がっていうのは逆にいうと、だめな方のかたがしゃべりずらいという状況になっています。よくお客さんが少なくて数字が悪いとか、デベロッパーが悪いとかいう話しもあるのですが、ウィークデーで3万人、土日で10万人からお越しになられる状況ですので、ご本人の努力がもっと必要なのではないかということで、あまり悪い言葉は聞こえてきません。努力して一番いい結果をだしていただくことがベターなことだと思います。そういう意味ではデベロッパーにとって面白いショッピングセンターだなと思います。

 ただ、10年の限定でやりますから、人気投票でベストワンになったお店が全部入っているとは限りません。例えば、シャネルにしてもプラダにしても結構人気投票の中では1番になっていて、我々もなんとか入っていただきたいと営業していたのですが、決めてからオープンするまで1年と少ししかなかったものですから、自分の方ではその計画がなかったということで、できあがってから緊急に入りたいということになるかもしれないとおっしゃっていたので、1回全部ミッシングが終わったのですが、その中から、何ポイントかあえて空けるスペースをつくって、突然入りたいといったら、ベスト1,2のところが手を挙げたらだまっていれよう、その代わり今度は条件はぜったい高くするくらいの形で入っていただこうということが我々のスタンスでやりましたから、オープンした去年の8月の段階では、8店舗くらい故意に空けて用意していました。
 京葉線が大崎につながるまであと2年ですが、それまでにほぼ完成させて、あと7年間絶対的にビジネスに走れるような形にもっていこうということが、ヴィーナスフォートの大きな経営計画です。

 今回アクアシティさんができて、強力なパートナーがでてきましたから、そう意味でいくと私の感覚でいくと、横浜や千葉とかが今度きつくなってくるだろうなと、お台場にどんどん集中してくるだろうとみております。あと4年くらいの間に現物的な要素を含めて強化し変化していきます。商業施設というのはラフォーレの時もそうでしたが、水鳥みたいなもので、鴨とか白鳥のなんかもそうですが、顔をみているとゆったりとしていますが、足はものすごい勢いで漕いでいましてですね表には顔色をかえないで足を動かしているというところが、ショッピングセンターだなと思っております。そういう意味では普段の行動が、手を抜くとすぐに落ちてしまう。テナントさんや従業員にもいっていたのですがお客様とかマスコミの方もそうですが、「仔猫ちゃん」と一緒で食べられないものでも振っていればかならず寄ってくるんですね。止めたとたんに「ああ食べられないのか」と向こうへ行ってしまいます。原宿でも街としてイベントをしかけて、イルミネーションだとか、ファッションコーナーなどいろいろ振る、今度は来たお客さんがラフォーレは玄関でどんなものを振ってこっちへ入ってくるか、入って頂いたら今度は各店がどんどん振って自分のところにお客さんがきてくださるように、この振りをいろいろ工夫しながらやったところが結果的にいうと成果をだしています。この振りが一番重要だと思っています。

(質疑応答)

Q1.日本には私鉄のデパートという良く似たものが全国にある。非常に日本的風習だと思うが、これらのリニューアルだとか再開発についてどのように考えるか。
A1.むかしある電鉄さんでそんな計画を立てられた時に、例えばお医者さんのように、1番目の駅は何科で2番目の駅は皮膚科でというように全部科目別で分けて薬をどこの駅でも貰えるとか24時間貰えるとかテーマ分けた方がいいというようなことを申し上げた。地下鉄というのは故郷感覚というものはないですが、表の駅なら心のどこかに故郷感覚が持てる場所です。だから情報を集約してそこから発信するという形のテーマをもった開発をすべきという気持ちがする。ただ今までのようにどこの駅もみんなやるのではなく、やる駅とやらない駅が区分されるべきだ。やらない駅は文化のイベントができる駅に変えていくなどしていくべきで、地域々々によっても違う。

Q2.ラフォーレのコマーシャルは広告業界で話題になり、クリエーターの登竜門だった。その戦略の考え方をお話いただきたい。
A2.ラフォーレがやりだした頃はパルコさんが全盛で、我々も負けたくないと一生懸命やった。しかし精度をあげると全部パルコさんになってしまい、遠くから見るとパルコさんに見えてしまってラフォーレだとは誰も思わない。で、あれに対抗するのはやめようと決めた。パルコさんがコピーを出さなかったら我々はコピーをつけよう、それも絵とはミスマッチのナンセンスコピーで「なにこれ?」という批判をいただくことにしよう、そんなことができるのもラフォーレよというようなことにしてしまおうとした。
 またパルコさんはロゴをよくお使いになっているが、わたくしのほうでは、ロゴはやめて絵にあわせてロゴをつくってもらうという形で、一定のロゴにこだわらずにやろうとした。電通さんはじめプロの方にだいぶ批判を受けたが、あとでイタリアのフィオルッチのデザイナーで現地のほうに絵にあわせてロゴをつくってほしいという注文をつけたところ、ものすごく面白いロゴがどんどんでてきた。こっちのロゴをいれなくて済むからそのままポスターに印刷できまして、1年くらい経つと毎回ロゴが変わっているわけですが、誰もロゴが変わっているのに気がついていないということで、やはりその程度のものだなと思った。我々はラフォーレを訴えたいのでロゴを訴えたいのではない。それがよかったと思う。

Q3.10年の定借でヴィーナスフォートは金勘定が合うのか。
A3.最終的に言うと50億くらいは残せるのではないかという計画で立てている。今ヴィーナスフォートはああいう形で商法をやっているが、これからはリアルとバーチャルの世界を立ち上げます。もうひとつはヴィーナスフォートの通路自身を媒体としてヴィーナスを立ち上げようとしている。あるときは結婚式であるとか、コダックさんが1ヶ月間お使いいただくとか。ラフォーレのイルミネーションをやめたのは、大勢のかたが見に来てくださって渋滞とかゴミを散らかすとかいうことがあったからだが、ヴィーナスフォートだとそういうことはないので、お使いになりたい方は1ヶ月でも2ヶ月でも通路からなにから全部お貸しできることを媒体として考えている。そういうビジネスが新しいビジネスとしてカウントされてくると多分1年間に5億くらいは残るのではないかといわれているので、10年経つと50億というカウントをしながら計画している。(以上。誌面の都合で一部割愛させていただきました。文責:事務局)
ページTOPへ