ヨルダン・イスラエル旅行

…反シオニストとして一神教の地をさまよう…

 2020年2月5日から12日にかけて、ヨルダンとイスラエルを旅しました。昨年末、中国武漢市で発生した新型コロナ・ウイルスが、まだ世界的に拡散する以前の、ロックダウン寸前、瀬戸際のような時期です。イスラエルから旅行社に対し、半年内に中国へ旅行した者の入国を禁止する、という通知が出されていたようです。帰国した直後、イスラエルは日本旅行者の入国を禁止しました。旅行中や帰国直後も、新型ウイルスがこれほどの感染力をもっていようとは、凡人の私には考えも及ばぬことでした。
 大手旅行社のパッケージですから、名所旧跡を旅することになります。緊迫した中東情勢には、なるだけ触れないですませようとする旅でもあります。ヨルダンの首都アンマンは、空港利用と昼食だけ、イスラエルでは首都であるテルアビブには立ち寄りません。それでも、これまでの経験にはない緊張感につつまれて、一神教の地を旅しました。
 宗教には偏見を持たないよう、個人的には努めてきました。名前だけの仏教徒で、無神論者です。ノンポリでもあります。人並みに、ナチスのユダヤ人虐殺には強い憤りを覚えます。しかし同時に、現在のイスラエルの行動には、深い怒りを覚えます。心情的には反シオニスト、親パレスチナです。そのような人間が、セム族の地を旅しました。

(たびたび聖書を引用していますが、昔ながらの文語訳がなじみ深く、現代語訳は用いていません。ただ句読点を適宜挿入し、現代仮名遣いに改めました。)

ヨルダン 

ペトラ遺跡

 シークと呼ばれる岩山の裂け目は1.2キロメートルほどの回廊を形成する。岩壁は、最も高いところで100メートルにも及び、幅は狭いところで3メートルほどしかない。自然が生み出した奇跡の回廊である。切り立った崖の両脇には、胸の高さくらいの位置に水路が刻まれている。砂漠地帯に時折り降る雨は鉄砲水となる。この回廊も、その鉄砲水が作り出したものである。2018年11月、観光客が水路の上に退避した映像に驚いた記憶がある。古代人は、貯水池(ダム)を作って、貴重な雨を利用した。岩壁には神殿のファサードのような彫りこみが数多くある。
 少し歩き疲れたころ、忽然として眼前が開け、切り立った岩壁に彫りこまれた建物が出現する。エル・ハズネである。
 東西を結ぶ交易商人にとって、ヨルダンの岩山は大きな障害物だった。この細い自然の回廊は地中海へ通じる近道となる。回廊の発見は、そこに居住する部族民に、計り知れない繁栄をもたらした。
 ペトラの遺跡は、その地を支配したナバテア族の栄華をいまに伝える。
 もともとこの地には、旧約聖書にも登場するエドム族が住んでいた。エドムとは、イサクの子エサウが住んだ地を意味する。ギリシアとアジア、ヒッタイト(現トルコ)とエジプトの位置関係をイメージすると、この地が文字通り交易の十字路であったことがよく理解できる。エドム族にとって西に住むユダヤ族は交易路の支配権を争う競合相手だった。ソロモン王の時代、エドム族はユダヤ族に敗れ交易路の支配権を失う。たがそのユダヤ族も、紀元前587年、バビロニアに征服される。いわゆる「バビロンの捕囚」と呼ばれる時代である。ユダヤ族が連れ去られた後、エドムの人々がこの地に戻ってきたが、大した勢力ではなかったらしい。
 ナバテア族はもともと遊牧民だった。現在のヨルダンやイスラエル南部に住み、羊の放牧や隊商の襲撃を暮らしの糧としていた。人口の増加に伴い、彼らはペトラを定住の地に選んだ。ユダヤ族がバビロニアへ連れ去られ、エドム族の勢力がまだ回復できていないタイミングがナバテア族に幸いした。
 通商上の要地に位置するペトラは、隊商都市として繁栄した。莫大な富で彼らは一大王国を築き上げた。エドム人は、否応なくナバテア族に吸収されたとみられる。
 紀元前1、2世紀がナバテア族の黄金時代である。王制ではあったが、政治は民主的で奴隷もいなかったらしい。シーク(回廊)のダム遺跡が示すように、乾燥地帯でありながら灌漑農業も行っていた。しかしその富は、新興ローマの征服欲をそそる。106年、首都ペトラはローマ軍に攻略され、ローマの一州都、属州アラビアとして支配されるに至った。
 その後もしばらくは交易都市として機能した。しかし隊商ルートは、王国の思惑を越えて変動する。ペトラ経由の交易路が、次第に南北二つのルートへと移動した。パルミラ経由の陸路と紅海を利用した海上ルートである。
 交易路の変化や度重なる地震などが影響して、紀元4世紀頃ナバテア王国は滅亡する。王国末期にはキリスト教教会が建てられ、7世紀にはイスラム教徒の支配下に入る。12世紀、十字軍が城塞を築いたが、彼らが撤退したあとは、遊牧の民ベドウィンが住むだけの忘れられた地域となった。ナバテア族がいまどの部族に含まれるのか判然としない。
 ほとんどの古代部族がそうであったように、彼らの宗教はアニミズムから発展した多神教だった。とくに祖先崇拝の念が強く、エル・ハズネも霊廟だった。エル・ハズネとは宝物殿を意味する。ファサード上部の壺に宝物が隠されているのでは、と発見者が思ったのである。もちろん宝物などなかった。建築様式はヘレニズム文化の影響を色濃く残している。紀元前1世紀から後2世紀に削りだされた。内部は入場禁止。映画「インディ・ジョーンズ最後の聖戦」に出てくるような奥行きはないらしい。地下室があり、まだ調査は終わっていない。
 ペトラでは回廊(シーク)とエル・ハズネがあまりにも有名だが、これは遺跡のごく一部に過ぎない。エル・ハズネ横の岩山の隙間を抜けると盆地状の台地が広がる。中央には水の枯れた川がある。両側の崖には霊廟が数多く彫り込まれている。建物正面はローマ帝国の宮殿様式に酷似している。半円形劇場や列柱通りが残っている。資料によると発掘された建物の数はおよそ800、うち500以上が墳墓とされる。祖先崇拝の宗教だったことを遺跡は物語る。
 盆地状の大地を過ぎると山道に入る。1時間ほど登ったところに、修道院と呼ばれるエド・ディル遺跡がある。エル・ハズネより少し後、1〜2世紀に作られた霊廟である。エル・ハズネのような柱廊玄関はないが、建築様式は酷似している。十字軍時代、一時期修道僧が住んでいた。名称の由来はそのあたりにある。
 モーゼの兄アロンの墓とされるジャバル・ハルーンは、さらに徒歩6時間ほど離れた山頂にあり、当然パッケージのツアー行程には含まれていない。
 いま、ペトラの遺跡を目の前にすると、その存在そのものが、人々の記憶から消え去っていたとは信じがたい。しかし事実は、1812年、スイス人ヨハン・ルートヴィヒ・ブルクハルトがペトラ遺跡として紹介するまで、地元の遊牧民以外知る人もない、忘れ去られた遺跡だった。 

ネボ山

 海が割れて、モーセ率いるエジプトの民が無事エジプトを脱出する。旧約聖書の中でも、もっとも劇的なシーンである。
 ネボ山はモーセ終焉の地とされている。旧約聖書によると、モーセはユダヤの民を率いてエジプトを出たが、乳と蜜の流れる地カナンへはなかなか到達できなかった。総勢60万人(「出エジプト記」12:37)のユダヤの民が、40年間シナイ半島をさまよったと、聖書には記述されているが、実態の数字はいずれも十分の一ぐらいか、もっと少なかったのではないだろうか。それにしても大人数であり、長い年月である。
 名前だけの仏教徒で無神論者のわたしには、映画「十戒」(1957年)が聖書入門としては分かりやすい。旧約聖書はユダヤ人の経典であり、他民族はおおむねないがしろにされる。ここでは、エジプトのファラオ(聖書ではパロ)が悪役である。監督はセシル・B・デミル。大がかりなスペクタクル映画を得意とした。同じ聖書を題材にした「サムソンとデリラ」(1950年)も彼の手になる。両者とも、哲学的な深みなど全くない。
 しかし、なぜユダヤ人がエジプトに住み、奴隷のような境遇に置かれていたかを最初に頭に入れておかないと、エジプトに対して不公平だろう。旧約聖書「創世記」37章以降にその記述があり、この挿話で「創世記」は終わる。
 アブラハムの孫ヤコブは子沢山だった。彼は遅く生まれたヨセフを溺愛した。嫉妬した兄弟たちは、荒野でヨセフの衣服をはぎ取り、穴に突き落とす。衣服に山羊の血をつけ、ヨセフは野獣に襲われて死んだと、父ヤコブに報告する。ヨセフは通りかかった隊商に救われれるが、彼らはヨセフをエジプトへ売り飛ばしてしまう。
 さまざまな苦難を乗り越えたヨセフは、夢判断でエジプト王の信頼を得る。ファラオの見た夢から、7年続く豊作と、その後の7年の凶作を予見し、豊作のあいだに食糧を十分に貯えるよう進言する。ファラオはヨセフに施策を任せた。夢判断の通り、豊作の後大凶作が7年続いたが、エジプトは貯えを活用して国をさらに富ませることに成功した。彼はファラオに次ぐ地位にまで上りつめる。
 カナンの地も凶作に見舞われ、ヨセフの兄弟たちがエジプトへやってきた。ヨセフは兄弟たちを許し、父ヤコブを招くよう勧める。ヤコブは、エジプトへ行くべきかどうかを神に問う。創世記46章の記述をそのまま記す。…我は神なり、汝の父の神なり。エジプトにくだることを懼るるなかれ。われ彼處にて汝を大いなる国民となさん。我汝と共にエジプトへ下るべし。亦かならず汝を導きのぼるべし(3-4)。
 ヨセフは指導力に富んだ魅力ある人物だった。トーマス・マンは彼の生涯をもとに「ヨセフとその兄弟」(筑摩書房、望月市恵・小塩節訳)を書いた。執筆動機にナチ思想への反感があったと言われているが、ヨセフの人となりへの共感が、文豪にこの大長編を書かせたのだろう。
 しかしヨセフが死にファラオが変われば、ユダヤ人への対応も変わる。加えて、ユダヤの民は唯一神を頑なに信じ、誇り高く、周囲と融合しようとしない。異民族として迫害されても仕方のない要素を多分に持っている。そして、ヨセフの四代後に生まれたのがモーセだった。
 ユダヤ族のリーダーとなったモーセは、ファラオと出国の交渉をする。安価な労働力が必要なファラオは拒否する。モーセは数多くの奇跡を示して、ファラオを脅迫する。ユダヤの民への奇跡はエジプトにとっての災厄である。十番目の災厄が最も厳しい。全ての家の、人であれ家畜であれ、初子を殺すというものだった。このとき、ユダヤの民は、門口に羊の血を塗り、神の怒りから逃れる目印とした。この奇跡を祝う過越祭は、ユダヤの三大祝祭の一つである。神の怒りを無事過ぎ越したことを祝っている。
 モーセは、神がヤコブに与えた言葉「亦かならず汝を導きのぼるべし」に従い、ユダヤの民を率いてエジプトを出た。ファラオの追跡を避けたのかもしれないが、カナンの地へ辿り着くまで長い年月を要した。聖書には、ヨセフの父ヤコブや兄弟たちが、エジプトへ来るのに長い年月を要したとは書かれていない。来るのは楽だったが、帰るのには時間がかかったとなると、童謡「とうりゃんせ」みたいで可笑しい。それを矛盾と考えるのは、私が無神論者だからと勘弁してもらいたい。
 エジプトの歴史に適合させると、ユダヤ人たちを厚遇したのは、紀元前1730年頃〜1580年頃のヒクソス王朝だとされる。モーセのエジプト脱出は、第19王朝ラムセス二世(在位、前1279-1213)の時代に相当する。エジプトの至る所に巨大な彫像を残した顕示欲の強い王である。エジプト側にはユダヤ人逃亡の記録が一切ない。ラムセス二世にとって名誉な話ではないから記録しなかった可能性もなくはない。しかし歴史家たちは、聖書に記述されるような大脱出劇が果たしてあったのかどうかと疑いを持っている。
 モーセがシナイ山で神から与えられたとされる十戒は、「出エジプト記」20章に記述されている。
 1.我の外何物をも神とすべからず、2.偶像を彫むべからず、3.神の名をみだりに口にあぐべからず、4.安息日を憶えて何の業務をもなすべからず、5.父母を敬え、6.殺すなかれ、7.姦淫するなかれ、8.盗むなかれ、9.虚妄の証拠をたつるなかれ、10.隣人の所有を貪るなかれ、がそれである。
 神がモーセに十戒を与えたのは、エジプトを出てから三ヵ月という早い時期である。苛酷な移動の旅で、群衆の規律は緩んでくる。モーセには、守るべき最低限の戒律を早い時期に示す必要があったと考えていいだろう。
 数々の苦難を乗り越え、モーセはカナンの地が見えるところまでユダヤの民を導いてきた。しかし神は、モーセがその地へ入ることを許さなかった。「申命記」には…而してエホバかれに言い給いけるは我がアブラハム、イサク、ヤコブにむかい之を汝の子孫にあたえんと言いて誓いたりし地は是なり。我なんじをして之を目に観ることを得せしむ。然ど汝は彼處へ済りゆくことを得ず(34:4)。
 無難に考えれば、モーセの寿命がここまでだったということになる。苦難な旅の途上、モーセは明らかに、幾度か神の命令に盾ついた。エホバは自らを嫉妬深い神だと言っている。モーセの反抗を、神が許さなかったという説もある。その方が筋が通る。そして私は、「済りゆくことを得ず」と告げられたときのモーセの心境に思いを馳せる。
 後継者はヨシュアである。ネボ山の頂上からモーセは、新しい指導者に率いられてカノンの地へ向かう一行を見送った。
 「申命記」はモーセの最後を次のように記す。
 …斯くの如くエホバの僕モーセはエホバの言のごとくモアブの地に死り。(中略)今日までその墓を知る人なし。モーセはその死たる時百二十歳なりしが、その目は矇まずその気力は衰えざりき(34:5-7)。

マダバ …聖ジョージ教会

 聖ジョージ教会はギリシア正教の教会で、ローマ帝国が東西に分裂した後に建てられている。床に6世紀に作られたモザイクが残っている。古代の巡礼地図、観光案内である。当時のパレスチナの地図がモザイクで描かれ、死海やエルサレムの市街地が判別できる。とりわけ、聖墳墓教会が大きく描かれ、4世紀にローマ帝国がキリスト教を国家宗教として間もない時期の、宗教的熱狂ぶりを彷彿させる。
 パッケージ・ツアーの約束事で、ヨルダンで訪問したのは、死海を含めて三か所である。大手旅行社としては、キリスト教信者やそのシンパ、もしくは単にペトラ観光目的だけの旅行客を対象として訪問先を選定するのだろう。ヨルダンの首都アンマンには、帰途昼食に立ち寄っただけで、現代ヨルダンを見たとは言えない。

植民地支配とヨルダン誕生

 現在の中東各国の国境線は、西欧諸国、主にイギリスとフランスが植民地支配時代に勝手に引いたものである。第二次世界大戦を別の角度から見れば、植民地所有国であるイギリスやフランス、アメリカなどと、新たに植民地利権獲得を目指す新規参入国ドイツ並びに日本との争いでもあった。終戦は同時に植民地主義の崩壊へとつながった。ドイツと日本に、植民地解放という崇高な目的があったとは言えないが、歴史的変換の引き金を引く役割は果たした。
 植民地支配の鉄則は、団結させるな、分離して統治せよ、である。団結した独立運動を、統治者は最も恐れた。民族や宗教の違いが、分離の基準となる。植民地支配以前の、曖昧だが平和な共存状態が、宗主国の意向でとげとげしい反目へと変化する。その傾向は、特に中東やアフリカで表面化した。東南アジア諸国は、植民地支配が始まる以前から、一応国家としての体裁を整えていた。侵略者は支配者を手なずければ事足りた。中東やアフリカは、エジプトやペルシャ(イラン)を除いて、面ではなく点が支配の単位だった。共通した特徴は「一族」意識である。一族の長が、支配単位である点のリーダーだった。ほとんどがイスラム教の国とはいっても、スンニ派とシーア派が勢力を争っている。「分離して統治せよ」の政策が、さらなる対立を煽った。イラクやシリアのように、宗教では少数派に属するリーダーが一国を支配した場合、紛争は一層激化する。植民地統治の悪影響はいまだに尾を引いて残っている。

 植民地政策を穏やかに克服した例がないわけでもない。アラブ首長国連邦は、七つの首長国が緩やかな連邦を形成している。この首長なるものが元をただせば部族長である。部族が大きければ国王となる。石油利権は権力者が握る。サウジアラビアのように主要閣僚は王子たちが占める。
 旧利権国は、植民地解放に追い込まれても、その影響力を残そうとさまざまに画策した。国境は関係宗主国の力関係で線引きされた。その過程で、クルド族は存在を無視された。独立後のリーダーの選択にも、旧宗主国の意図が顕著に現れる。新リーダーがその意図に添わないこともある。場合によっては、反対派のクーデターを支援したりもした。その画策の醜悪さは、人間の性悪説を信じたくなるほどおぞましい。宗主国撤退後、族長は独裁者となり、一族で富を独占した。
 独立後のいまもなお混迷が続く国も多い。イスラム国(ISIS)のような過激派に、得てしてつけ込まれる隙が生じる。
 現在の中東の混乱の主たる要因は、第一次世界大戦中のイギリス二枚舌外交に原因する。
 1914年6月28日、セルビアの一青年がオーストリアの皇位継承者を暗殺した。この事件にドイツとロシアが過敏に反応して大戦争へと発展した。中東の大半を支配していたオスマン・トルコは、オーストリア、ドイツ側についた。ロシア側についたイギリスは、まずスエズ運河の権益を守るため、エジプトを完全な保護国とした。その後、イギリスは矛盾に満ちた約束を連発する。
 1915年、フセイン・マクマフォン協定で、メッカの太守フセイン・イブン・アリーに対し、第一次大戦後の独立を約束した。1916年、英仏間で、サイクス・ピコ協定が結ばれた。オスマン・トルコから奪い取った国土を、英仏で分割するという秘密協定である。この協定には、後にロシアも加わっている。これは明らかに、フセインに対してなされた約束と矛盾する。そして、現在の中東混迷最大の要因となるバルフォア宣言が、1917年に出される。この宣言で、イギリスはユダヤ財閥に対し、大戦に勝利すればという条件付きではあるが、パレスチナの地にユダヤ人国家を樹立すると約束した。戦争継続に多大の資金を必要とした苦し紛れの宣言である。当時、オスマン・トルコを除いて、中東には国家らしい存在はない。戦争に勝ちさえすればあとは何とでもなるという思いがイギリスにあった。当時のイギリスは、太陽の沈まぬ帝国といわれた。その傲りが生んだ無責任な二枚舌三枚舌外交だった。
 
メッカの太守フセイン・イブン・アリーは、イスラム教の始祖ムハンマドの血を引くハーシム家の当主でもあった。息子の一人ファイサルが、アラビア人部隊を組織して、1920年、ダマスカスに入城した。シリアとパレスチナを占領した彼は、ファイサル一世として王位についた。この経緯は、映画「アラビアのロレンス」(1962年)にも描かれている。
 サイクス・ピコ協定に基づき、フランスはシリアとレバノンを手に入れた。フランスは、植民地統治に邪魔なファイサル一世を追放した。当然反仏運動が激化する。1936年、共和国として自治を認められたが、完全な独立を手にしたのは第二次大戦後(1946年)である。
 ヨルダンの建国は、この渦中に生まれた。1921年3月、フセインの別の息子アブドゥッラーは、アンマンに進撃し占領した。イギリスはパレスチナの地を二つに分け、ヨルダン川東岸地域をアブドゥッラーの領土として認めた。「トランス・ヨルダン首長国」の誕生である。これが現在のヨルダン・ハシミテ王国の原形となった。
 石油資源に恵まれないヨルダンは、軍事的に強大なイスラエルの隣国として、如何に生きて行くべきか苦心している。中東戦争ではアラブ側の一員としてイスラエルと戦い、三度敗れた(第四次には参戦していない)。多数のパレスチナ難民が流入し、いまでは人口の70%以上を占める。PLO(パレスチナ解放機構)はヨルダンで誕生した。湾岸戦争ではイラク支持に回った。2011年に始まった「アラブの春」運動で、隣国のシリアが内戦状態となり、多数の難民が避難してきた。現在の人口は970万人だが、30%は非ヨルダン国籍だという(Wikipedia)。
 現在、イスラエルと国交を持つ中東の国は、エジプトとヨルダンの二国のみである。エジプトは、1967年の第三次中東戦争でシナイ半島を失ったが、その返還を条件に、1979年国交を開いた。ヨルダンがイスラエルとの平和条約を結んだのは1994年である。戦争状態が続いたままでは、ヨルダン渓谷も、東岸地区もイスラエルに奪い取られかねない。やむを得ず開いた国交である。国交があるからと言って、反イスラエル感情が他の中東諸国に比べて希薄だというわけではない。湾岸戦争でイラクを支持したのも、根底に反イスラエル感があったからとみて間違いない。

イスラエル

ベツレヘム

 イスラエルはユダヤ人の国だとこの国の保守的指導者たちは主張する。イスラエル国籍を持つパレスチナ人がいるが、その存在はほとんど無視されている。国内に多数のキリスト教教会(旧教、新教、正教)やモスクがあるが、基本的にはユダヤ教の国である。現在では無神論者も増えてきているものの、生活の節々に影響するユダヤ教を無視はしていない。食物禁忌も大多数の人びとが守っている。現地ガイドの言葉を借りると、44%は好き勝手、32%は国家宗教としての尊重派、24%は伝統固執派だという。このうち、超正統派はユダヤ人総人口の11%を占めている。
 イスラエルは、1967年の第三次中東戦争で奪い取ったヨルダン川西岸地区と東エルサレム、ゴラン高原をわがものとして統治している。統治形態はABCの三つに分かれる。A地区は行政、治安ともにパレスチナ自治政府。B地区の行政はパレスチナ、治安はイスラエル。C地区は行政、治安ともにイスラエル。とはいうものの、県単位の行政区分でみると、イスラエルが行政・治安とも握っている地域が多い。
 ここに取り上げたベツレヘムも、都市部分はA地区だが、県単位で見ると大半はB、Cの区分に入る。外国のキリスト教徒やわれわれのような観光客は、ほとんど制限なくベツレヘムへ入れるが、イスラエルの人びとには政府の許可が必要となる。誘拐されて身代金を要求される可能性があるからだと言う。もちろん、都市の周囲は悪名高い分離壁に囲まれている。
 ユダヤ教の経典は、一般的に言うところの旧約聖書である。キリスト教徒には、旧約・新約の二つの聖典があるが、ユダヤ教徒に新約はない。神から与えられたとされる聖典があるのみである。特に重要視されるのが、トーラ(律法)と言われるモーセ五書である。すなわち、「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数紀略」「申命記」の五書である。
 「創世記」では、神エホバの天地創造、アダムとエバ(イブ)、兄弟殺しのカインとアベル、塩の柱で有名なソドムとゴモラ、ノアの方舟、バベルの塔、アブラハムとイサクの燔祭、賢明なヨセフとユダヤ族のエジプト移住などの挿話が語られる。「出エジプト記」から「申命記」までの四書は、エジプトを脱出したモーセの一行がカナンの地へ至るまでの苦難を描く。
 ユダヤ教徒にとって、イエス生誕の地ベツレヘムはさほど重要な地ではない。イエスは救世主とは認められていない。イスラエルが、ベツレヘムをA地区のままにしているのは、宗教上の重要性がさほどでもないからだろう。エルサレムのように、ユダヤ教にとって重要な地域であれば、他国の思惑など無視してわがものとしている筈である。
 旧約に出てくるベツレヘムで記憶にあるのは「ルツ記」で、ボアズと異邦の女ルツとの愛が語られる。旧約のなかでも、指折りの心温まる挿話で、彼らの曾孫がダビデとなる。
 古代ローマ帝国は、ほぼ三世紀にわたってキリスト教を迫害し続けたが、信者は増える一方だった。ついに、ガレリウス帝が311年に寛容令を出し、313年には、コンスタンティヌス帝と同盟者リキニウスが、キリスト教を承認する「ミラノ勅令」を出すに至った。しかし、この段階では、他のすべての宗教とともに公認されただけに過ぎない。コンスタンティヌス帝は、キリスト教に改宗した最初の皇帝となった。複数の皇帝に分割されていた帝国を再統一し、後に元老院から大帝の称号を与えられている。コンスタンチノープル(現イスタンブール)を建設した皇帝でもある。
 380年、テオドシウス帝がキリスト教をローマ帝国の国教と宣言、392年にはキリスト教以外の宗教への信仰が禁止された。ここではじめて、キリスト教がローマ帝国唯一の宗教となったのである。
 聖誕教会は、イエス生誕の地と信じられている。ローマ皇帝コンスタンティヌスの母ヘレナの懇望で、325年に皇帝が建てた。彼の改宗は、神の啓示を受けて戦闘に勝利したのがきっかけと言われているが、母ヘレナの影響が強かったのだろう。ベツレヘムやエルサレムに残る多くの聖地は、その大半をヘレナが特定している。
 イエスの誕生を新約聖書にたどると、ナザレに住むヨセフとマリアは、人口調査のためベツレヘムへ来たとある。聖書では…マリヤ月満ちて、初子をうみ之を布に包みて馬槽に臥させたり。旅舎におる處なかりし故なり(「ルカ福音書」2:7-8)。無神論者であるわたしには、そのような場所が、三百年以上も経った後で特定できるものかと、つい思ってしまう。信仰はどんなことでも可能にする。そのことを、わたしは忘れている。
 イエスの誕生については、旧約「イザヤ書」…おとめ孕みて子をうまん、その名をインマヌエルと稱うべし(7:14)、に預言されているとする。
 似た挿話がイスラム教にもある。新約「ヨハネ福音書」が伝えるイエスの言葉…われ父に請わん、父は他に助主をあたえて、永遠に汝らと偕に居らしめ給うべし。これは真理の御霊なり、世はこれを受くること能わず、これを見ず、また知らぬに由る。なんじらは之を知る。彼は汝らと偕に居り、また汝らの中に居給うべければなり。我なんじらを遺して孤児とはせず、汝らに来たるなり(14:16-18)。この「真理の御霊」がムハンマドだという。これを「コーラン」(井筒俊彦訳、岩波文庫)で裏付けると、
…マルヤム(マリヤ)の子イーサー(イエス)がこう言った時のこと、「これ、イスラエルの子らよ、わしはアッラーに遣わされてお前たちのもとに来たもの。わしより前に(啓示された)律法を確証し、かつわしの後に一人の使徒が現れるという嬉しい音信を伝えに来たもの。その(使徒)の名はアフマド(アフマド Ahmad はマホメットの原名 Muhammad とほぼ同義。)」と(61.「戦列」6)。
 無神論者には、どちらも権威付けに忙しいと、少々微笑ましくさえなる。
(ここでのカッコ内の言葉は、訳者が読者の理解を助けるために補足したもの。コーランは114の章からなる。以後、コーランを引用する場合は、最初に章番号、題名、つづいて句番号を表記する。なお、訳書はムハンマドを通称のマホメットと表記しており、引用文は原書通りマホメットとする。)
 2019年12月2日付けのAP通信は、バチカンに保存されていた馬槽の破片が、ベツレヘムへ返されたと報道した。木片は、華麗に装飾された容器に納められている。1400年前、この地からローマ教皇へ贈られたものだと言う。逆読みすれば、木片が発見されたのはイエス生誕後、6〜7世紀後ということになる。信仰は不可能を可能にする。 

エルサレム

旧約時代

 ダビデからソロモンの時代(前1000〜前900年頃)が、古代イスラエルの黄金期だった。イスラエル初代の王サウルの跡を継いだのはダビデである。彼には、数多くの逸話が残る。少年時代、ペリシテの巨人ゴリアテを、投げ石で倒した。ルネッサンス期、ミケランジェロが彫刻でこれを見事に表現した。これに勝る彫像はない。
 ダビデは、二大強国、エジプトとアッシリアの衰退に乗じて、エジプト国境からユーフラテス川に接する広大な領域を征服した。一方で、ウリヤの妻バテシバの入浴する姿を見て欲情するという穏やかならぬエピソードもある。ウリヤは彼の配下の武将だった。彼は、ウリヤを戦場で死に追いやり、未亡人となったバテシバを妻に迎えいれた。当然神罰が下る。ダビデの子アブサロムは、父に背いてたびたび反乱を起こした。ダビデは息子と戦わなければならない羽目に陥る。アブサロムはダビデの部下に殺される。死を聞いたダビデは、…わが子アブサロムよ、わが子、わが子アブサロムよ、鳴呼われ汝に代りて死にたらんものを、アブサロム、わが子よわが子よ(「サムエル後書」18:33)、と嘆く。
 神罰は続く。彼とバテシバの最初の子は早死した。干ばつと飢饉がイスラエルを襲った。しかし神は、深く悔恨したダビデを許す。
 エルサレムを王国の首都と定めたのはダビデである。彼とバテシバとの間に生まれたソロモンが、次の王となる。若いころの彼は賢明で謙虚な王だった。「列王紀略上」には、
 …エホバ夜の夢にソロモンに顕れ給えり、神いいたまいけるは我何を汝に與うべきか。(中略、ソロモンは、神に祝福された民をいかに統治すべきかと、エホバにひたすら願う)聴き別る心を僕に與えて汝の民を鞫しめ、我をして善悪を辨別ることを得さしめたまえ、誰か汝の此夥多き民を鞫くことを得んと(3:5-9)。…とある。かれは、己の富や長寿ではなく、民を幸せにする智恵を求めた。神エホバは、そのようなソロモンを愛でた。
 そして彼は、エルサレムに壮大な神殿を築く。「列王紀略上」第6章にはそのスケールが記述されているが、キュビトという単位なのでわかりにくい。メートル法になおすと、おおよそ幅10メートル、高さ15メートル、奥行き30メートルほどらしい。建築には7年を要した。金銀で鮮やかに飾られ、至聖所には契約の箱が運び込まれた。契約の箱(聖櫃)には、モーセがシナイ山から持ち帰ったとされる石板が納められている。
 ソロモンの神殿は、前587年バビロニアに破壊されたので、第一神殿と呼ばれている。
 ソロモンは経済にも明るく、交易で国を富ませた。正妃をエジプトから迎え、和平を維持した。彼の叡智の例として、二人の女が一人の子をめぐって争う大岡裁きのような話がある。もちろん、真似たのは大岡裁きの方である。有名なシバの女王との挿話は、聖書「列王紀略上」第10章、「歴代志略下」第9章に語られている。…シバの女王ソロモンの風聞を聞き及び難問をもてソロモンを試みんと(中略)、ソロモンの知らずして答えざる事は無りき(「歴代志略下」9:1-2)。ただ男女としての交流の話は聖書にはない。
 いかに叡智に満ちたソロモンと言えども人の子である。栄耀を極めた王国の繁栄に、彼の心は緩みを見せる。「列王紀略上」第11章には、…ソロモン王、パロ(ファラオ)の女の他に多くの外国の婦を寵愛せり。(中略)エホバ曾て是等の国民についてイスラエルの子孫に言い給いけらく、爾等は彼等と交るべからず、(中略)彼等必ず爾等の心を転して彼等の神々に従わしめんと。しかるにソロモン彼等を愛して離れざりき。彼、妃公主七百、嬪三百人あり(11:1-3)、とある。嬪は側女と考えていいだろう。周囲の国々との融和を図る目的もあったに違いないが、それにしても異常な数字である。栄華の夢に溺れ享楽に耽ったと言われても仕方がない。第一級の文化人だった彼は、必然的に他の宗教にも寛容だった。妃や側女には異教徒も多くいた。宗教心の強いユダヤの人びとに、王への疑念が生じたのも当然と言えよう。華麗な神殿や王宮の建設は、人々に重税を課す結果となった。国民の不満は募る。そして、国家の破綻はソロモンの死後に訪れた。
 彼の子レハベアムの時代、イスラエル王国は南北に分裂した。南のユダ王国はエルサレムを首都とし、北のイスラエル王国はサマリアを首都と定めた。紀元前930年頃のことである。分裂して覇権を争えば、ともに体力を失う。北のイスラエル王国は前722年、アッシリアに滅ぼされた。ユダ王国はアッシリアやエジプトに服属する形で存続したが、前597年と前586年の二度にわたって、バビロニアに征服された。バビロニアの王はネブカドネザル二世である。ユダ王国はエジプトと結んでバビロニアに対抗しようとした。ネブカドネザル二世はそれを許さなかった。エルサレムは炎上し、ソロモンが建てた神殿は徹底的に破壊された。支配者や神官たちはバビロニアに連行された。これをバビロンの捕囚という。民族離散を意味するディアスポラという言葉は、華僑や印僑にも使われるが、大文字で始まる Diaspora と書いた場合は、イスラエル・パレスチナの外で暮らすユダヤ人集団を指す固有名詞となる。
 バビロニアの繁栄は短かった。前538年、ペルシャによって滅ぼされる。ユダヤの人びとは帰国を許されたものの、あくまでもペルシャの支配下にあるという条件のもとだった。もっとも、自由意思で残留した者も多くいた。ディアスポラという言葉から想像するほど、居心地の悪い暮らしではなかったらしい。「ダニエル記」には、預言者ダニエルがバビロニア宮廷で重く用いられたことが記述されている。
 帰国したユダヤ人たちはゼルバベルの指導のもと、神殿を再建し燔祭を行った(「エズラ書」3:2-3)。ペルシャ王ダレイオス一世治下、前515年のこととされる。ペトラにナバテア族が定住し始めたころに相当するだろう。
 バビロン捕囚の一人、ネヘミアはペルシャ宮廷で高い地位にあり、第一次帰国が許されたときには残留組だった。エルサレムの城壁が破壊されたままだと知った彼は、ペルシャ王に帰国を願い出た。アルタクセルクセス一世はその願いを聞き入れ、彼を総督として帰国させた。彼は、さまざまな障害を克服し、52日で城壁を修復した(「ネヘミヤ記」6:15)。また、同第5章14には、12年の間、自分も兄弟も総督としての報酬を受け取らなかったと述べられており、よほど己に厳しい人だったのだろう。
 「エズラ書」第7章には、エズラの指導のもと、二度目の集団帰国が行われたと記録されている(7:13)。前458年に相当する。この二人の厳格な指導者ネヘミアとエズラの時代、ユダヤの国のあり方、ユダヤ教の根幹が定まった。ユダヤ民族以外との結婚を禁じた(「エズラ書」9:11-12)ことで、ユダヤ民族の独自性がディアスポラの最中にあっても維持された。現代のイスラエルにまで大きな影響を残したと言える。もっとも無神論者のわたしは、「ルツ記」に登場するルツは異邦人だったではないかと矛盾を覚えてしまうのだが…。
 当時のペルシャは、エジプトをしのぐ勢力を誇示し、版図はギリシア国境にまで及んだ。再三にわたって大軍を派遣したが、スパルタの頑強な抵抗で征服には至らなかった。その報復かのように、前333年、アレクサンドロス大王がペルシャを征服した。パレスチナの地も、ギリシアの支配下に入った。アレクサンドロス大王の死後、配下の将軍たちは、各地でヘレニズム色の強い王国を築いた。セレウコス朝(シリア)とプトレマイオス朝(エジプト)が、パレスチナの地を巡って支配権を争った。前198年、セレウコス朝がこの地の支配権を確立し、争いに決着をつけた。セレウコス朝は、ペルシャと異なり宗教には不寛容だった。ヘレニズム化したシリアの王朝は、ユダヤの人びとにエルサレム神殿での異教崇拝(ギリシアの神々)を強要した。
 セレウコス朝への反感を強めたユダヤの人びとは、祭司マカバイ家のマタティアとその息子たちを中心に、前167年、反乱を起こした。マタティアの死後も戦闘は継続し、前164年にエルサレム神殿を奪回した。そして前143年、ついにセレウコス朝の影響を脱して、マカバイ家による支配が確立した。バビロニアに征服されて以来、四百年以上の年月を費やしてようやく独立を回復した。マタティアの曽祖父の名をとってハスモン朝という。
 日本の書店で一般的に売られている聖書には、このイスラエルにとって誇らしいはずの記録が含まれていない。「マカバイ記」の扱いが、カトリックとプロテスタントでは異なる。プロテスタントでは外典とされ(Wikipedia)、カトリック教会で用いる聖書では正典扱いである。門外漢には、その経緯を憶測するしかない。
 ハスモン朝の寿命も長くはない。新興国共和制ローマが勢力を急激に伸ばしてきていた。前63年、ポンペイウスがシリアのセレウコス朝を滅ぼす。ハスモン朝は、ローマのシリア属州の一部として、ある程度の自治を認められながら生き残る。共和制ローマは、カエサルが暗殺された後、クレオパトらとの愛に溺れたアントニウスがアクティウムの海戦で敗れ、アウグストゥスが最終の勝利者となる。アウグストゥスは初代皇帝となり、共和制ローマは帝国となった。皇帝は死後神格化されるのが恒例となった。
 ハスモン朝の武将の一人ヘロデが、内紛に乗じてハスモン朝を倒し、前37年ヘロデ朝が始まった。とはいえ、あくまでもローマの後ろ盾があってのことである。彼は、後に息子たちと区別するため大王と称せられたが、その名にふさわしい業績があったわけではない。彼は、純粋なユダヤ人ではなかった。ハスモン朝の姫マリアムネを妃に迎え、自らの正当性を確立した。猜疑心に満ちたヘロデは、不要となったハスモン朝の人々を次々に殺害して行った。そして、前4年、およそ70歳(生年が不明)で血まみれの生涯を終えた。
 彼の業績としては、エルサレムの神殿や宮殿の大改築をあげるべきだろう。宮殿は半ば要塞と化していた。改築された神殿は、ソロモンのそれと対比して、第二神殿と呼ばれる。その壮麗さは、ローマ帝国の内外に喧伝された。ディアスポラのユダヤ人のみならず、非ユダヤ人までエルサレムを訪れたという。
 建築には並々ならぬ関心があったらしい。自分の名を冠した要塞都市ヘロディオンや大要塞マサダなど、五つの砦兼宮殿を構築している。このうち、ムカーウィルの砦は彼の子ヘロデ・アンティパスが洗礼者ヨハネを幽閉した場所ではないかと推定されている。
 ローマ帝国は、ユダヤ王の称号をヘロデの息子たちに与えず、王国を分割した。エルサレム、サマリア地方をヘロデ・アルケラオス、ペレヤとガリラヤをヘロデ・アンティパス、ゴランとヨルダン川東岸をヘロデ・フィリッポスがそれぞれ統治した。その後ローマは、エルサレム、サマリア地方を治めるアルケラオスを、統治能力に欠けるとして降格した。エルサレム、サマリア地方はローマ総督直接統治となってイエスの時代を迎える。
 新約聖書に登場するヘロデは、幼児虐殺のヘロデ大王と、その息子の一人、ペレヤ、ガリラヤを治めるヘロデ・アンティパスの二人である。

新約時代

イエスの時代

 新約聖書によれば、イエスがベツレヘムで生まれたとき、東の博士たちがヘロデ王を訪ねてきた。「ユダヤの王として生まれた方は何処におられるのか」という博士たちの言葉に、ヘロデは自分の地位を脅かす者が誰かと疑念を抱き、博士たちに帰途宮廷へ立ち寄るよう頼んだ。博士たちは、意図的に別の道を通って帰った。
 …ここにヘロデ、博士たちに賺されたりと悟りて、甚だしく憤おり、人を遣わし、博士たちに由りて詳細にせし時を計り、ベツレヘム及び凡てその邊の地方なる二歳以下の男の児をことごとく殺せり(「マタイ福音書」2:16)。
 ここに登場する残虐な王は、ヘロデ大王である。ただこの幼児殺害には批判的見解もある。マタイ伝以外の福音書にはそのような記述がなく、他の一般的な歴史書にも記録がない。もし仮に幼児殺しがあったとしても、当時のベツレヘムの人口はせいぜい300人程度で、実際に殺された幼児の数は、どんなに多く見積もっても20〜30人程度ではないか(Wikipedia)、という疑問である。
 西暦はイエスの誕生から始まる。以前をBefore Christ = BC,以後をAnno Domini = AD (ラテン語で「我らが主の年」)と記す。ヘロデ大王は前4年に死んでおり、厳密に考えればイエスが誕生したときには生きていないことになる。そこから、イエスの誕生は前5年か、6年だろうという説が出てくる。
 要するに、受胎告知も、幼児虐殺も、目くじらたてて吟味する必要はない。イエスという人が実在し、この大地を歩み、福音を説いたことが重要だと思うが如何なものだろうか。
 新約聖書には四つの福音書がある。そのいずれも、誕生以後福音を説き始めるまでの、およそ30年間についての記述がまことに乏しい。「ルカ福音書」に、12歳時のイエスの神童ぶりが、わずかに語られているに過ぎない。記述に従うと、イエスの両親はわが子を見失い、探し回った挙句、エルサレムの宮殿にいたところを発見する。イエスは教師と問答していた。母は言う。…「汝の父と我と憂いて尋ねたり」。イエス言いたまう。「何故われを尋ねたるか、我はわが父の家に居るべきを知らぬか」(2:48-49)。両親とも、イエスの答えの真の意味を悟らなかった、とある。
 彼の説教の節々から、旧約に関する並々ならぬ知識があったことは推定できるが、彼がどこで修業したのか皆目わからない。ヴェーダに似た教えもあり、そんなところから、インド修業説まである。
 その空白のせいで、イエス誕生の次に来る重要な挿話は、洗礼者ヨハネの活動の記述となり、当然サロメが登場する。ただし、聖書には、「マタイ福音書」14章や「マルコ福音書」第6章にヘロデヤの娘として登場するのみで、彼女の名前は他の年代記から確定されたものである。
 ヘロデ大王の息子の一人、ヘロデ・アンティパスはペレヤとガリラヤの領主だった。従って、彼が洗礼者ヨハネを獄に入れ首をはねたのはペレヤに近いムカーウィルの砦兼宮殿と考えられている。そこはヨルダン川東岸に位置し、残念ながら今回の旅の訪問地には含まれていない。
 イエスが、エルサレムに入城したとき、歓呼して迎えた人々は、救世主が現れたと思った。彼が病者を癒したり、死者を蘇らせるなど、数々の奇跡を行ったことが口伝えに伝わっていた。
 …イエス宮に入り、その内なる凡ての売買する者を遂いだし、両替する者の臺・鳩を売る者の腰掛を倒して(「マタイ福音書」21:12)、…という姿を目の当たりにした人々が興奮しないはずがない。
 しかしイエスは、エルサレム入城の前に、弟子たちに向かってこう言っている。…私は救世主キリストであり、エルサレムに行き、長老・祭司長・学者らより多くの苦難を受け、かつ殺され、三日目に甦る(「マタイ福音書」16:21)、と告げている。そのことを民衆は知らない。
 イエスの変容については「マタイ福音書」第17章、「マルコ福音書」第9章、「ルカ福音書」第9章に記述がある。自らがキリストであり死の道を歩んでいることを告げてから8日ばかり過ぎている。「ルカ福音書」による…ペテロ、ヨハネ、ヤコブを率きつれ、祈らんとて山に登り給う。かくて祈り給うほどに、御顔の状かわり、其の衣白くなりて輝けり。視よ、二人の人ありてイエスと共に語る。これはモーセとエリヤとにて、栄光のうちに現はれ、イエスのエルサレムにて遂げんとする逝去のことを言いたるなり(9:28-31)。バチカンにあるラファエロの絵が、見事にこの奇跡を表現している。
 これと似た神秘体験が、イスラム教の経典「コーラン」第17章「夜の旅」にある。
 …ああなんと勿体なくも有難いことか、(アッラー)はその僕(マホメット)を連れて夜(空)を逝き、聖なる礼拝堂(メッカの神殿)から、かの、我ら(アッラー)にあたりを浄められた遠隔の礼拝堂(エルサレムの神殿)まで旅して、我らの神兆を目のあたり拝ませようとし給うた。まことに耳早く、全てを見透し給う御神。
 このエルサレムの神殿というのが、神殿の丘にある岩のドームである。イスラム教徒以外入場できない。一帯はイスラエル軍の支配下にあり、自由な参拝を望むイスラム教徒との間でいさかいが絶えない。われわれの旅行は安全第一のパッケージである。岩のドームやアル・アクサー寺院は、オリーブ山の展望台から望み見ただけだった。
 教徒でない者にとって、神殿から商人たちを追い払う颯爽たるイエスと、鞭に打たれて十字架上で死ぬみじめなイエスとの隔たりはあまりにも大きい。ついなぜかと疑問を持ってしまう。すべては、旧約に書かれた預言の再現だとされるのだが、信じるより以前に「躓く」のである。もちろん、理解することと信じることには天地ほどの開きがあるとは百も承知ではあるが…。
 商人たちを神殿から追い出すという華々しい登場をしたイエスは、ユダの手引きで捕らえられ裁判にかけられる。このときローマ帝国ユダヤ総督ピラトとヘロデ王との間で、責任逃れのやり取りがある。このヘロデは、洗礼者ヨハネの首をはねたヘロデ・アンティパスである。ペレヤ、ガリラヤの統治者である彼は、たまたまこのときエルサレムに滞在していた。消えることのない悪名を聖書に残した。
 エルサレムでは、イエスが十字架を背負って歩くゴルゴダへの道・ヴィア・ドロローサ(悲しみの道)を辿って、聖墳墓教会に詣でた。イエスの苦しみを追体験する巡礼行である。

イエス没後

 ローマ皇帝コンスタンティヌス大帝の母ヘレナが、巡礼の旅でエルサレムを巡ったとき、十字架を発見、ゴルゴダの丘と特定して教会を建てた。4世紀のことである。丘そのものが教会で覆われている。
 キリスト教には多くの宗派があり、各派が聖墳墓教会の管理権を争ってきた。仲裁に入ったオスマン・トルコは、1852年「ステイタス・クオ(現状維持)」の勅令を出した。現在に至っても、毎朝入り口の門を開くのはムスリムの少年と決まっている。イスラム教徒による仲裁というのが、現在のとげとげしい政治情勢からみるとお伽話のように思える。これが現代にも再現できないものだろうか。
 ヘロデ大王が築いた宮殿兼城塞が破壊されたのは70年、ユダヤ人による反乱(第一次ユダヤ戦争)が発端である。ティトゥス率いるローマ軍が反乱を鎮圧し、神殿を徹底的に破壊した。反乱軍の一部はマサダの砦に逃れ、73年に玉砕するまで戦い続けた。ティトゥスは後に皇帝となる。
 ローマ帝国黄金時代五賢帝の三番目、皇帝ハドリアヌスは廃墟となったエルサレムを大改築した。その一部がカルドとして残っている。彼はローマの快適を与えることで、ユダヤ民族を懐柔しようとした。しかしその試みは無残に失敗する。バル・コクバ率いるユダヤ第二次反乱軍が132年、ローマ駐在軍を襲撃してエルサレムを占領した。バル・コクバは元の名をシモンという。自らを救世主(メシア)と称した。バル・コクバ(星の子)の名は、「民数記略」24章17、「ヤコブより一箇の星いでん」に由来する。2年を越える統治の間、聖都解放実現を記念する硬貨を鋳造した。強力なローマ軍も市街戦は苦手だった。結局ハドリアヌス帝は大軍を送り込んで反乱を鎮圧せざるを得ない。反乱を壊滅させるため神殿も市街地も打ち壊すしかなかった。バル・コクバは戦死した。ローマ帝国は、属州ユダヤとしていた国名を、属州シリア・パレスチナと改めた。ユダヤの敵対者ペリシテ人の名に由来する。そしてこの名称は、現在のパレスチナに繋がっている。
 マルグリット・ユルスナルの「ハドリアヌス帝の回想」(多田智満子訳、白水社)は、このときのローマ皇帝の苦悩を見事に表現している。
 …唯一の神の概念の狭い限界のうちに、あらゆる真理をことごとくとじこめ、そうすることによって、すべてを包含する≪神≫の多様性を侮辱する傲慢さを持った民族は、イスラエルを除いて他に一つもない。イスラエル以外のいかなる神も、その崇拝者に、ほかの祭壇に祈る者への軽蔑と憎悪を吹きこみはしなかった。それだからこそなおさらわたしは、イスラエルを幾つもの民族と幾つもの宗教が平和に共存できる、他の町と同じような町にしたかった。狂信と常識との争いにおいて常識が勝つことはめったにないという事実をわたしは忘れていたのである。(中略)否定すべくもない――このユダヤ戦役はわたしの失策の一つだった。
 70年の反乱鎮圧と同様、徹底した破壊が再現された。ハドリアヌス帝には悔恨を、ユダヤ民族には怨念を残す結末となった。
 神殿が破壊されたため、神殿祭儀中心のユダヤ教は終った。ユダヤ教徒のエルサレム立ち入りは禁止された。一年に一日だけの立ち入りが許可されたのは、「ミラノ勅令」が出された4世紀以降のことである。ヘロデ大王が築いた神殿は、西壁だけが残っていた。ユダヤ教徒はそこで祈りを捧げた。そこは後に嘆きの壁と呼ばれるようになった。
 5世紀、この地に残ったユダヤの人びとは少数派になっていた。多くのユダヤ人たちは、ロシアを含むヨーロッパ全域に離散した。彼らは真の意味でのディアスポラ、亡国の民となった。離散先では、常にマイノリティ(少数派)だった。キリスト教社会では、イエスを殺した民族として迫害の対象となった。しかし理財に長けた彼らはしぶとく生き延びた。旧約に書かれた「選ばれた民」としての誇りを持ち続け、少なくとも最近まではユダヤとしての民族の血を純粋に保ち続けた。
 イスラム教の勃興は、「右手にコーラン、左手に剣」のことわざ通り、あっという間に中東からアフリカ西端までをイスラム教化した。当時の中東は、その多くが多神教の国々だった。宗祖ムハンマドとその一族は、多神教の国々を武力で制覇したが、果たしてこれを宗教戦争と呼んでよいものかどうか、戸惑いを覚える。勢力拡大の主たる要因は交易にあった。イスラム教は、当初から他宗教に寛容だった。キリスト教徒は、望めばエルサレム巡礼が可能だった。
 しかし教皇庁は、聖墳墓をイスラム教徒の手から奪還するようキリスト教国の国王たちに呼びかけた。11世紀、十字軍がこの地を征服、エルサレム王国を樹立した。しかしそれはキリスト教徒のための解放であり、ユダヤ民族のためではなかった。そして、肝心のエルサレム十字軍は1187年、サラディン(サラーフッディーン)率いる軍に敗れ、王国そのものも1291年に消滅した。
 他宗教に寛容だったイスラム教は、次第にキリスト教と尖鋭に対立するようになった。公平に見ても、宗教対立を煽ったのは、この時点でも、そして20世紀のアフガン戦争以後もキリスト教国側である。
 十字軍の以前も以後も、ユダヤ民族は騒動の埒外にあった。1947年に国連が分割決議を通すまで、この地がユダヤ民族のものであったことはない。
 エルサレム旧市街は、1981年世界遺産に登録されている。申請国はヨルダンである。イスラエルではない。ユダヤ教徒がこの地に自由に出入りできるようになったのは、1967年の中東戦争以降である。この占領行為は、多くの国が違法としている。

エリコ

 イスラエル観光はベツレヘムとエルサレムだけだったのだが、ヨルダンへ抜ける通関の都合上、わずかばかりの時間エリコに立ち寄ることが出来た。政治的にはA地区に属し、行政・治安ともにパレスチナ自治政府が責任を持っている。水脈に恵まれたこの地は自給自足が可能に思える。たしかに乳と蜜の流れる地である。思いなしか、パレスチナの人びとの表情も穏やかに見えた。とはいえ、ヨルダン領の渓谷を含め、イスラエルは虎視眈々と我がものにすべく狙っている。パレスチナが頼りとするのは、アラブの大義と世界世論である。
 モーセはネボ山の頂上から、カナンの地へ向かうユダヤの人びとを見送った。彼らが向かった先はエリコだった。
 聖書によると、神エホバは、ここから日の落ちる大海までアブラハムの子孫に与えると約束している。しかしそこには先住の民族がいた。約束の地ではあっても無人ではない。ヤコブが一族を引き連れてエジプトへ渡って以来、当然のことながら他民族が移り住んでいたのである。「ヨシュア記」第3章10によれば、カナン人、ヘテ人、ヒビ人、ペリジ人、ギルガシ人、アモリ人、エブラ人ということになる。エリコの王は、街の周囲を城壁で囲み守りを固めていた。
 モーセに代わってユダヤの人びとを率いるヨシュアに、神のお告げが下る。指示通り、契約の櫃を担(舁)いでヨルダン川まで進むと、水の流れが止まりやすやすと渡河できた。信者でない者は、このような奇跡話が出てくるたびに眉に唾をつけ疑念を抱く。「躓く」のである。奇跡はこれだけに止まらない。聖書に従うと、
 …汝ら軍人みな邑を繞りて邑の周囲を一次まわるべし。汝六日の間かく為よ。祭司等七人おのおのヨベルの喇叭をたずさへて櫃に先立つべし。而して第七日には汝ら七次邑をめぐり祭司等喇叭を吹きならすべし。(中略)民みな大に呼はり喊ぶべし。然せばその邑の石垣崩れおちん。民みな直に進みて攻めのぼるべし(「ヨシュア記」6:2-5)。
 契約の櫃を担ぐという行為は、日本のお神輿担ぎのようなものだろう。へそ曲がりはわたしだけではなく他にもいると見えて、この奇跡を地震のせいだろうという人もいる。
 ヨシュア率いるユダヤの人びとは、崩れた城壁を越えてエリコを征服した。黒人霊歌「ジェリコの戦い」はこの奇跡を歌って熱い。そして、黒人霊歌を聴くたびに思うのは、黒人奴隷たちにキリスト教を教え込んだ白人たちの偽善である。イエスの説いた言葉の数々と己の行為との矛盾を、奴隷所有者たちは悟ることがなかったのだろうか。私自身偽善の塊のような人間だから、痛いほど後ろめたさを感じる。
 エリコの北西にそびえる岩山がいわゆる「誘惑の山」である。イエスが悪魔の誘惑にさらされた山とされる。「マタイ福音書」第4章を簡略に記すと、イエスは御霊に導かれて荒野に至る。40日間の断食行で飢えている。悪魔が言う。もし神の子ならばこの石をパンに変えよ。イエスは答える。「人の生くるはパンのみにあらず」。悪魔はイエスを聖都の宮の頂上に立たせ、飛び降りよ、神が御使いに命じて助けるはずだ、と言う。イエスは答える。「主なる汝の神を試むべからず」。次いで、悪魔は世のもろもろの国と、その栄華を示し、もし我を拝せばこれらを全部与えよう、と誘惑する。イエスは答える。「サタンよ、退け。『主なる汝の神を拝し、ただ之に仕えるべし』と記されている」。敗れた悪魔は去る…という経緯が重々しく語られる。
 仏教にも似た話がある。釈迦が菩提樹の下で悟りを開く禅定に入ったとき、瞑想を妨げるため悪魔マーラは、まず手始めに美しく技に長けた三人の娘を送り込んだ。釈迦は誘惑に屈しない。恐ろしい形相の怪物たちに釈迦を襲わせたが、なぜか近づくことが出来なかった。岩石やありとあらゆる武器を降らせ、周囲を暗闇で覆ったが釈迦は動じない。最後に、マーラ自身巨大な円盤を振りかざして向かって行くが、円盤は花輪となってしまう。マーラは敗北を認め、釈迦は悟りを開いた…。
 宗教指導者が神格化されて行くにつれ、必ずこうした奇跡話が生まれる。ちなみに男性の秘所を俗にマラというが、語源はこの悪魔マーラに由来する。
 誘惑の山の中腹にはギリシア正教会の修道院がある。時間に制約されたわれわれは、レストラン兼土産物店の広場から遠望したのみである。その店は「誘惑の山」という名前だった。

この旅の終活

 人生の終活期に入った者にとって、今回の旅は、文章で言えばピリオッドを打つような意味合いを持っていた。これから先、海外旅行ができたとしても、今回ほどの重みを持つことはないだろう。宗教やイスラエルについて、常日頃思っていることを書き連ねてみる。冗長な点は、老齢の性癖とご容赦願いたい。

聖書あれこれ

聖書と古事記

 少なくとも紀元前550年頃に書かれたとされる旧約聖書を、日本最古とは言っても8世紀に書かれた古事記と比べるなど、不遜も甚だしいとお叱りを受けるに違いない。ただ、それぞれの執筆動機と内容に似通った点がないわけでもない。
 聖書で最も重要視されるのは、モーセ五書と呼ばれる「創世記」「出エジプト記」「レビ記」「民数記」「申命記」である。これらはトーラ(律法)と呼ばれ、モーセが書いたとされている。しかし研究者たちは、モーセ五書をバビロニア捕囚期に編纂されたであろうとしている。バビロニアに滅ぼされ、国を失った民族が、自分たちのアイデンティティーを堅持しようと、古来から伝わる神話・伝承を懸命にまとめたのではないかと推察される。
 古事記が書かれたのは712年(和銅5年)である。稗田阿礼の記憶をもとに太安万侶が編纂し、元明天皇に献上した。稗田阿礼は、いまでいう強記の語り部のような存在だったのだろう。国史の編纂を命じたのは天武天皇である。663年(天智2年)白村江の戦いで、日本は唐・新羅の連合軍に完敗した。当時朝鮮は三国時代で、武力では高句麗が強力だった。唐は新羅と組んで高句麗に備えた。両国にとって、半島の西端に位置する百済は邪魔者だった。唐・新羅の連合軍は百済を攻めた。百済は日本に支援を求めた。
 当時の日本には、まだ国とか国境という意識が薄かったのではないかと思われる。高句麗、新羅、百済の人びとは朝鮮海峡を渡って自由に往来していた。日本に居ついた渡来人も多かった。とりわけ、百済は日本皇室との結びつきが強かった。朝鮮海峡は国境ではなかったのである。
 白村江の戦いに敗れた日本は、唐・新羅連合軍の襲来を恐れた。太宰府の北に水城や山城を築いた。壱岐、対馬に派遣された防人の歌が万葉集に集録されている。このとき初めて、日本は国家というものを意識した。天智天皇の跡を継いだ天武天皇は、日本という存在を明確にすべく国史の編纂を命じた。島国日本は、イスラエルのように国を失うことはなかったが、国難が史書編纂の動機だったところは似通っている。
 さらなる共通点は、強大な国に隣接しているという地理的環境である。日本で言えば中国、イスラエルではエジプトの存在が大きい。文明や歴史の深さ、古さは比較しようもない。肩を並べようにも差は歴然としている。せめてあまり見劣りのしない程度に形を整えようとする努力が、神話上の人物や初期天皇たちの寿命に現れた。
 天孫として降臨した邇邇芸命の寿命は「久しく」としか記録されていないが、その子山幸彦の別名で知られる日子穂々手見命は580歳まで生きた。その孫初代天皇神武は137歳まで生きた。彼から15代応神130歳まで、11人の天皇が百歳を越える。特に10代崇神は168歳まで生きたとある。結果として、神武天皇即位を元年とする日本の紀年は西暦より660年長い。2020年現在の皇紀は2680年である(天皇の没年は古事記と日本書紀では相違するが、ここでは古事記に従った)。
 旧約に登場する人々は、さらに天文学的に長寿である。アダム930歳、ノア950歳、ノアの子セム、セムの系列からアブラハムが生まれるが、このあたりの登場人物はみな900歳、800歳を越える。ノアから10代目のアブラハムからが、人としての歴史だと仮定しても、その彼が175歳、イサク180歳、ヨセフ110歳、モーセ120歳と異常な年齢が記録されている。
 エデンの園は豊饒なナイル川沿岸をイメージしているという説がある。なじみ深い聖母子像は、天空神ホルスを抱く豊穣の女神イシスがモデルだと言われる。中国文明の影響下にあった日本と同様、もしくはそれ以上にユダヤ民族とエジプトとの関係は深い。
 旧約は言うまでもなく一神教である。世界は神エホバによって創られ、アダムが人類の祖となる。アダム以前に人間が存在していては都合が悪い。これだけ年齢のサバを読んでおけば、いくらエジプトの歴史が古くとも、アダムからアブラハムに至るまでの誰かがエジプト民族の祖先だと説明できる。聖書は、バベルの塔の挿話に説明を準備している。…是故に其名はバベル(淆乱)と呼ばる。是はエホバ彼處に全地の言語を淆したまひしに由てなり。彼處よりエホバ彼等を全地の表に散らしたまへり(「創世記」11:9)。旧約記述者の苦心のほどが察せられる。
 旧約と言い、新約と言い、いずれも神との契約を意味する。神と契約を結ぶなど、多神教の世界に住む者には及びもつかない強さである。古事記にそのような昂ぶりはない。その点、両者は根本的に異なる。
 キリスト教がローマを中心に普及するまで、一神教はマイナーな宗教だった。周囲はすべて多神教だった。宗教がアニミズムから発展したものであれば必然的に多神教となる。
 一神教の誕生については、ジークムント・フロイトの「モーセと一神教」(渡辺哲夫訳、ちくま学芸文庫)が参考になる。精神分析の創始者フロイトは、1938年、ナチスのオーストリア侵攻を逃れてロンドンへ亡命した。すでに82歳になっていた。「モーセと一神教」と「精神分析概説」(未完)を書き、1939年83歳で世を去った。
 彼は一神教がエジプト王イクナトンの太陽神アテン信仰から始まったとする。イクナトンの正式名はアメンホテプ四世、別名アクエンアテンという。長らく謎とされていたが、ツタンカーメンの父とされる。ツタンカーメンは当初ツタンカートンという名前だった。アトン神の名が末尾に引用されている。父イクナトンの死亡後、エジプトはアメン神を中心とする多神教に戻った。ツタンカートンはツタンカーメンと名前を改めた(改めさせられた)。
 フロイトの説は、モーセがイクナトンの息子か高官だったとした。モーセがユダヤ人ではない可能性を示唆している。イクナトンの死亡後、多神教に戻ったエジプトに失望し、ユダヤ民衆に一神教を教え込んだ。彼の書から引用する。
 …彼はユダヤ民族が神の選民であることを保証して彼らの自尊の念を高め、彼等を聖別し、彼らに他民族から離脱することを義務づけた。(中略)ユダヤ人を創造したのはモーセという独の男であった、と敢えて言ってもよかろうと思う。ユダヤ民族は、その強靭な生命力を、また同時に、昔から身に受けいまもなお身に受け続けている周囲の敵愾心のほとんどすべてを、モーセという男から受けとったのだ。
 そしてフロイトは、イクナトンの一神教を「洗練された抽象化の高みへの飛躍を成し遂げた」と言い、キリスト教を、「父親の宗教」から「息子の宗教」に変貌したことで「ユダヤ教が登りつめた精神化の高みを維持できなかった」と切り捨てる。
 「マタイ福音書」の冒頭は、アブラハムに始まりイエスに至る血統を綴る。「ルカ福音書」第3章では逆にイエスから遡ってアダムに至る血脈が書かれている。この血統のなかに、モーセは含まれていない。アブラハムの系統ではない預言者だったと考えればすむ話だが、ひょっとしたらフロイトのいう通り、ユダヤ人ではなかったのかもしれない。もちろん正統派からは、何を馬鹿なと一笑に付されることは間違いないが…。
 最初福音書を手にしたとき、聖書でも血統が大事なのかと奇異に感じた。天皇家に似ていると思った。天皇家は、26代継体に疑念はあるものの、神武に始まり令和に至るまで、脈々と一つの血統が維持されてきた。
 無神論者の思考はまことに下賤である。マリヤが受胎告知で身ごもったのであれば、アブラハムから父ヨセフまでつながる血統は、イエスに伝わらなかったのではないか。そこに矛盾はないのか。精霊によって身ごもったのだから、神の子なのだと言われればそれまでだが、そうであれば、逆に血統を縷々記録する必要はないのではないか。
 以上は、決して聖書を貶めようと書いたわけではない。神話だとおおらかに受けとめておけばよい話である。聖書に使われている言葉は世界最古というわけではない。そのことはすでに証明されている。しかし世界には、聖書は神の言葉で一言一句誤りはないとする狂信者が少なくない。アメリカのバイブル・ベルトと呼ばれる南部諸州にその傾向が強い。映画「風の遺産」(1960年)は、進化論を教えた高校教師をめぐる裁判を描いた。この事件は、後にモンキー裁判と呼ばれた。監督は「渚にて」のスタンリー・クレイマー。映画の題は、「箴言」…おのれの家をくるしむるものは風をえて所有とせん(11:29)から引用されている。
 ブッシュ(子)大統領はクリエーショニズムを学校で教えてはどうかと発言した。風を遺産とした大統領だった。人間は神によって創られたとするクリエーショニズムは、インテリジェント・デザインと同意義と考えていい。進化論の否定である。
 イスラム教徒にも狂信者がいる。2015年1月パリで、ムハンマドの風刺画を掲載したシャルリー・エブド紙の編集長、画家など12人が殺された。日本ではすでに忘れ去られているが、サルマン・ラシュディ「悪魔の詩」の翻訳者(五十嵐一)が、1991年に殺害されている。犯人は捕まっていない。他人の宗教心を冒涜すべきではないが、殺人などは狂気の沙汰である。
 そして、プーチン大統領やトランプ大統領など、とても敬虔な信者とは思えないような人物が、国民の支持を得るためだけの目的で、信心深そうな態度を見せるのにも虫唾の走る思いがする。

ソロモンの叡智

 「列王紀略」や「歴代志略」には、ソロモンがいかに叡智に満ちていたかが縷々述べられている。だが、具体的な例は大岡裁きくらいしかない。
 ソロモンの叡智を知るには「伝道の書」を読むべきなのだろう。聖書の一般的な配列では、「箴言」「伝道の書」「雅歌」の順だが、いずれもソロモンが書いたとされる。内容から順序を追うと、青年期に「雅歌」で愛を詠い、壮年期に智恵の書「箴言」をまとめ、晩年に、すべては空しいと「伝道の書」を書き残した、と思われる。
 「雅歌」は、男女の恋の歌であり、聖書のなかでも少々型破りと言える。ただ異教徒にとっては、ほっと心和む章でもある。「箴言」は宗教書らしい格言が並ぶ。不信心者が苦手とする章である。
 「伝道の書」は最近「コヘレトの言葉」とされることが多い。コヘレトとは「集める者」を意味する。最初この章を読んだとき、仏教の教えによく似ていて驚いたことを思い出す。
 …ダビデの子エルサレムの王伝道者の言葉。伝道者言く空の空、空の空なる哉、都て空なり、日の下に人の労して為すところの諸の動作はその身に何の益かあらん。世は去り世は来る。地は永久に存つなり。日は出で日は入り亦その出でし処に喘ぎゆくなり(1:1-5)。…日の下には新しき者あらざるなり(1:9)。…我心を盡して智恵を知らんとし、狂妄と愚痴を知らんとしたりしが、是もまた風を捕らうる如くなるを曉れり。夫智恵多ければ憤激多し。知識を増す者は憂慮を増す(1:17-18)。…生るるに時あり、死ぬるに時あり、植うるに時あり(3:2)。…我は猶生る生者よりも既に死にたる死者をもて幸なりとす。またこの二者よりも幸なるは未だ世にあらずして日の下に行わるる悪事を見ざる者なり(4:2-3)。…銀を好む者は銀に飽くこと無し。豊富ならんことを好む者は得るところあらず、是また空なり(5:10)。…人の壽命千年に倍するとも福祉を蒙れるにはあらず。皆一所に往くにあらずや(6:6)。…衆多の言論ありて虚しきこと増す。然れど人に何の益あらんや(6:11)。…我日の下に空なる事のおこなわるるを観たり。即ち義人にして悪人の遭うべき所に遭う者あり。悪人にして義人の遭うべき所に遭う者あり。我謂えり是もまた空なり(8:14)。…我日の下に一の患事あるを見たり。是は君長たる者よりいづる過誤に似たり。すなわち愚かなる者高き位に置かれ貴き者卑き処に座る(10:5-6)。…而して塵は本の如くに土に帰り霊魂はこれを賦けし神にかえるべし。伝道者云う、空の空なるかな皆空なり(12:7-8)。
 「伝道の書」が本当にソロモンによって書かれたものかどうかと疑う研究者がいないわけではない。ソロモンが書いたとすれば、およそ前10世紀頃の著作ということになる。異論があることを認めたうえで、やはりこの章はソロモンの晩年の思いを書き表していると思いたい。
 統治に心を砕いた青年期、愛欲に溺れた壮年期を経て、深い厭世感に浸された彼の老年期に思いを馳せる。ソロモンほどの賢者になると、今日真理に到達したと思っても、次の日には疑いが生じたことだろう。その繰り返しが空しいと彼に嘆息させたのではないだろうか。運命論に陥ったようにも思える。
 ただ「伝道の書」の「空」は、仏教の説く「空」とは微妙に違うような気がする。「空」の英訳は vanity となっている。般若心経の「空」は emptiness と訳されるのが定番のようである。空は空でも、「伝道の書」の「空」は、神のない人生は「空」だと言っているように思う。それは最終12章の結びにある…事の全體の帰する所を聴くべし、云く神を畏れその誠命を守れ。是は諸の人の本分たり。神は一切の行為ならびに一切の隠れたる事を善悪ともに審判たまうなり(13-14)。これは、章を閉じるに当たってとってつけた信仰告白とは思えない。やはり、仏教の「空」とは異なる。
 最近の研究が示すように、ソロモンその人が書き残したものではないかもしれない。しかし、「箴言」をものにした人がこの「伝道の書」を書いたと想定すると、一層人生の虚しさに身を切られそうな思いに至る。そして「伝道の書」があることによって、ソロモンという人の、人間としての弱さも含めた厚みを実感できるように思う。

新約の飛躍

 ユダヤ教の指導者たちは、その教えを広めようと意図したことはない。あくまでも一民族の宗教で良しとした。選ばれた民はわれわれのみという観念に固執した。ユダヤ教では救世主はまだ現れていない。
 キリスト教は、ユダヤ教から出発しながら布教に熱心だった。ペテロやパウロがローマに狙いを定めたとき、それは世界宗教への第一歩となった。当時、ローマは世界の中心だった。インドや中国は独自の文化圏を持っていたが、エルサレムから見ればそこは遠い異郷だった。
 以下は、無神論者の私見である。
 十二使徒のうち、一番のインテリだったユダは、イエスを救世主だと信じていた。エルサレムの神殿から商人たちを追い出したとき、神の国が到来したと歓喜した。ところがイエスは、次に期待する行動を起こさない。失望した彼は、イエスを試そうとする。逮捕され、裁判にかけられるようなことになれば、神官たちを論破するのではないか、神の子として真の威光を発揮するのではないか、と期待した。彼は銀貨30枚で密告し、イエスを逮捕させた。ところがイエスは一切抵抗せず、十字架に架けられた。ユダは絶望し、銀貨を投げ捨て、首を吊って死んだ。
 ペテロをはじめとする使徒たちも、ユダ同様、イエスが息を引き取るまで奇跡が起きると期待していた。しかし何も起きなかった。しかし、ここから新しい宗教が、ユダヤ教の制約を超越して誕生した。
 原罪を償うイエスの死という概念が基礎となる。昇天、そこから過去に遡って受胎告知、誕生、三博士などの一連の神話が創りだされた。当初はおそらく、イエスの死をどのように解釈し、信徒たちにどう説明するかというところから始まったに違いない。神格化すれば、不合理な処女懐胎も昇天も説明を必要としない。
 おそらく、使徒たちがまず最初にしたことは、旧約のなかから、イエスの死を説明できる文章を探し出すことではなかっただろうか。山上の垂訓から死に至るまで、イエスの教えと行動を、すべて神から託された約束の実現だったと説明する必要があった。
 救世主というイメージからすれば、彼を裁く者たちより早く死んでは困る。死を理由づける必要が生じる。イエスを救世主と神聖化すれば、何とでも説明はつく。それにはユダヤ教から数段の飛躍が必要となる。残された使徒たちや聖書記者たちはそれを見事に成し遂げた、と推察する。不敬のそしりは甘んじて受ける。
 釈迦や孔子同様、イエスにも自らが書き残したものはない。彼らの死後、弟子たちが集まって師の言葉を編纂した。それがマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネの福音書となった。布教活動を伝える使徒行伝、最後に預言めいたヨハネ黙示録を加えて新約の形が固まった。
 キリスト教が世界宗教に至った最大の貢献者はパウロである。彼はイエスの直弟子ではない。むしろ迫害する側にいた人物である。トルコのタルソスの裕福な家に生まれ、熱心なユダヤ教徒だった。ローマの市民権を持つエリートでもあった。彼はエルサレムからダマスカスへ向かう途上で、光に撃たれ、盲目となった。「使徒行伝」に従う(聖書ではヘブライ語サウロとなっている)。
 …かれ地に倒れて「サウロ、サウロ、何ぞ我を迫害するか」という声をきく。彼いう「主よ、なんじは誰ぞ」。答えたまう「われは汝が迫害するイエスなり」(9:4-5)。
 イエスは、信者アナニアに、パウロのもとへ行き手を彼の上に置け、と命じる。アナニアは「パウロは迫害者なのになぜ助けるのか」と問う。イエスは、自分が選んだ器だと答える。アナニアがパウロの上に手を置くと彼の眼jから鱗のようなものが落ちて再び見えるようになった。回心したパウロは洗礼を受け、熱心な布教者となる。
 「使徒行伝」を読む限り、パウロは重要人物としてただちに布教に専念したように見えるが、ペテロやほかの弟子たちとの関係はかなり難しいものがあったに違いない。ペテロにはイエスの一番弟子だという誇りがある。イエスから直接命じられたと主張するパウロを、ほかの直弟子たちがそう簡単に仲間に入れたとは思えない。必然的に彼はアナトリア、ギリシア、ローマへと布教することになる。その結果が一応の成果を上げ、直弟子たちも次第に一目を置かざるをえなくなったのではないか、と思われる。
 パウロとバルナバが最初の布教活動を終え、エルサレムに戻ったところで第一回目の使徒会議が開かれる。バルナバはパウロの教えに共鳴し、私財を投じて初期教会を設立した有力者である。使徒会議で問題となったのは、ユダヤ族特有の割礼である。異邦人へ布教するに当たって、割礼の有無が障害となった。パウロは、信者となるのに割礼は必要ないとする立場である。再び、「使徒行伝」からパウロの言葉を引用する。
 …「兄弟たちよ、汝らの知るごとく、久しき前に神は、なんじらの中より我を選び、わが口より異邦人に福音の言葉を聞かせ、之を信ぜしめんとし給えり。人の心を知りたまう神は、我らと同じく、彼等にも聖霊を与えて證をなし、かつ信仰によりて彼らの心をきよめ、我らと彼らとの間に隔を置き給わざりき。(中略)我らの救わるるも彼らと均しく主イエスの恩恵に由ることを我らは信ず」(15:7-11)。
 彼の力強い言葉に会衆は沈黙したと記されている。初回の使徒会議は49年のことだった。
 ユダヤ人キリスト教徒と、異邦人キリスト教徒との論争はその後も続いた。しかし、70年のエルサレム陥落以来、使徒たちの活動は国外の異邦人教化へと比重が移って行った。
 無神論者としては、イスラエルという中東の一小国の歴史を、あたかも世界の歴史であるかのように錯覚させた魔術に感嘆する。魔術と言っては世界宗教に失礼だとすれば、飛躍と言っておこう。
 バチカンの教皇庁があるサン・ピエトロ大聖堂は、…「我はまた汝に告ぐ、汝はペテロなり、我この磐の上に我が教会を建てん。(中略)われ天国の鍵を汝に与えん(「マタイ福音書」16:18-19)、というイエスの言葉に基づく。ペテロの教会である。この聖堂の前に、天国の鍵を持つペテロと、剣を佩くパウロの、二つの彫像が立っている。キリスト教が世界宗教となる過程で、パウロの果たした役割がいかに大きかったかを、彫像の配置が物語っている。

聖書礼賛

 さんざん聖書への疑念を書いてしまったが、聖書はまことに魅力に満ちている。高校時代、国語教師が「西欧文学を理解しようと思うなら、聖書を読んでおくべき…」と言った。古本屋で買った聖書が、いまも手許にある。やみくもに読みはじめたものの、正直手こずった。挿話は重複するし、奇跡話が出てくるたびに疑問を抱いた。いわゆる「躓く」のである。
 聖書には、アブラハムが我が子イサクを殺せと命ぜられたり(「創世記」22章)、義人ヨブがいわれもなく罰せられる(「ヨブ記」)など、いまでも訳の分からない章が多々ある。それでも、比喩として読めば、蛇とエバ(イブ)の智恵の果実やノアの方船、バベルの塔など、示唆に富む挿話がある。人びとがバベルの塔を建てようとする前までは…全地は一の言語一の音のみなりき(「創世記」11:1)とある。そう言われると、バベルの塔を再び作りかねない人類の一人として、鼻っ柱をひっぱたかれたような気分になる。
 神という概念について興味深い表現がある。モーセがユダヤの民を救えと神に命じられたとき、神に問いかける。イスラエルの人々が私に、神の名は何というかと問うたとき、どう答えればよいかと。神エホバは答える。…『我は有りて在る者なり。又いいたまいけるは、汝かくイスラエルの子孫にいうべし。我有という者、我をなんじらに遣わしたまう』と(「出エジプト記」3:14)。「ヨハネ黙示録」には…今いまし、昔いまし、後きたり給う主なる全能の神いい給う『我はアルパなり、オメガなり』(1:8)とある。神は「有りて在る者」にして「初めであり終り」だと言わんとしている。
 日本には仏教から来た格言や諺が多々ある。西欧にも聖書に由来した言葉が数々ある。その数は日本以上だろう。西欧人の名前も、多くは聖書に由来している。
 魅惑された言葉を書き連ねてみる。
 神、光あれと言いたまいければ光ありき(「創世記」1:3)は神話の始まりの言葉として力強い。そしてこの言葉は、新約「ヨハネ福音書」冒頭の、…太初に言あり、言は神と偕にあり、言は神なりき。この言は太初に神とともに在り、萬の物これに由りて成り、成りたる物に一つとして之によらで成りたるはなし。之に生命あり。この生命は人の光なりき。光は暗闇に照る。而して暗黒は之を悟らざりき(1:1-5)。へとつながる。ここに使われる言 Word は、ギリシア語聖書の Logos の英訳だという(「英語聖書の言葉」船戸英夫、岩波新書)。単なる言語ではなく、理性の意味を持つ。日本にも言霊という表現がある。たしかに人間としての理性は、言葉を発するところから始まったのかもしれない。そして、「ヨハネ福音書」にいう光はイエスの到来を示唆している。
 汝は塵なれば塵に帰るべき(「創世記」3:19)は、神がアダムを土から創ったことに由来し、「ヨブ記」の…我裸にて母の胎を出たり。又裸にて彼処に帰らん(1:21)。に対応する。
 新約のイエスの言葉は深淵で美しい。ときに恥じ入って落ち込むこともある。もちろん、凡人の特権で、そんな殊勝な思いもすぐ忘れてしまうのだが…。
 ただ凡庸な私は、放蕩息子の譬えや、百匹のうちの一匹の迷える羊の比喩を、まだよく理解できていないのではないかと自問自答している。
 野の百合は如何にして育つかを思え、労せず、紡がざるなり。然れど我汝らに告ぐ、栄華を極めたるソロモンだに、その服装この花の一つにも及かざりき(「マタイ福音書」6:28-29)。鴉を思い見よ。蒔かず、刈らず、納屋も倉もなし。然るに神は之を養い給う(「ルカ福音書」12:24)。狐は穴あり、空の鳥は塒あり、然れど人の子は枕する所なし(「マタイ福音書」8:20)、などは動植物を見事に比喩として用いている。
 なんじらの中、罪なき者まず石を擲て(「ヨハネ福音書」8:7)、は厳しい。さらばカイザルの物はカイザルに、神の物は神に納めよ(「マタイ福音書」22:21)、は聖と俗の結界を示して明快である。
 求めよ、然らば与えられん。尋ねよ、さらば見出さん。門を叩け、さらば開かれん(「マタイ福音書」7:7)、は意気阻喪したときの支えとなる。
 すべて剣をとる者は剣にて亡ぶるなり(「マタイ福音書」26:52)、は世の権力者たちすべてに贈りたい。
 優れた宗教にはどこか共通したものがある。黄金律を辞書でひくと、然らば凡て人に為られんと思うことは、人にも亦その如くせよ(「マタイ福音書」7:12、「ルカ福音書」6:31)、を指すと記載されている。そのおよそ五百年前、孔子は、己の欲せざる所は人に施すこと勿れ(「論語新釈」顔淵12、宇野哲人訳、講談社学術文庫)と言った。
 人もし汝の右の頬をうたば、左をも向けよ(「マタイ福音書」5:39、「ルカ福音書」6:29)は釈尊の、怨みに報いるに怨みを以てしたならば、ついに怨みの息むことがない。怨みをすててこそ息む(「真理の言葉ダンマパダ」1:5、中村元訳、岩波文庫)や、老子「道徳経63」の、怨みに報ゆるに徳を以てす(「老子」金谷治訳、講談社学術文庫)に共通する。孔子は、何を以てか徳に報いん。直を以て怨みに報い、徳を以て徳に報ゆ(「論語新釈」憲問14)と言った。訳者宇野哲人は「直」を公平無私と解している。この問題に関する限り、偉大な常識人だった孔子には、釈尊や老子ほどの切れ味がない。
 新約に魅せられるのは、ときにイエスの人間としての肉声が聞こえるところにある。
 最後の晩餐を終えたイエスは、ゲッセマネの園に弟子たちを残し、独り先に進んで祈る。彼は自らの運命を予知している。弟子たちは、イエスの苦しみを察することなく、つい居眠りをしてしまう。イエスは祈る。…『わが父よ、もし得べくば此の酒杯を我より過ぎ去らせ給え。されど我が意の儘にとにはあらず、御意のままに為し給え』(「マタイ福音書」26:39)。「ルカ福音書」には、…イエス悲み迫り、いよいよ切に祈り給えば、汗は地上に落つる血の雫の如し(22:44)。とある。
 さらに福音書は、十字架に掛けられたイエスの最後の言葉を記録する。…三時ごろ、イエス大声に叫びて『エリ、エリ、レマ、サバクタニ』と言い給う。わが神、わが神、なんぞ我を見棄て給いしとの意なり(「マタイ福音書」27:46)。「マルコ福音書」の記述もほぼ同様だが、「ルカ福音書」は、…『父よ、わが霊を御手にゆだぬ』斯く言いて息絶えたまう(23:46)、と簡潔に記すのみである。「ヨハネ福音書」は…イエス萬の事の終りたるを知りてーー聖書の全うせられん為にーー『われ渇く』と言い給う。ここに酸き葡萄酒の満ちたる器あり、その葡萄酒のふくみたる海綿をヒソプに著けてイエスの口に差附く。イエスその葡萄酒をうけて後言い給う。『事畢りぬ』。遂に首をたれて霊をわたし給う(19:28-30)、と記述する。「聖書の全うせられん為に」の箇所は、「詩篇」22篇19の…わが力はかわきて陶器のくだけのごとく、わが舌は顎にひたつけり。なんじわれを死の塵にふさせ給えり…に由来するらしい。
 無神論者としては、『われ渇く』『エリ、エリ、レマ、サバクタニ、わが神、わが神、なんぞ我を見棄て給いし』『事畢りぬ』という順序でイエスの肉声を聞くような気がする。そして『父よ、わが霊を御手にゆだぬ』の記述がなければ、福音書は宗教書として成立しないのではないかとも思う。「マタイ福音書」は…イエス再び大声に呼わりて息絶えたまう(27:50)、と述べ、最後の言葉がどのようなものであったか記していない。
 血の汗を流して『此の酒杯を我より過ぎ去らせ給え』と祈り、『わが神、わが神、なんぞ我を見棄て給いし』と叫ぶイエスに、わたしは信仰のあるなしに関係なく深く首を垂れる。そして、これらの言葉は、イエスの神格化を阻害するのではないかとも思う。その怖れに怯むことなく、きちんと書き残した福音書記者たちにも、同様に首を垂れる。
 この項の最後に、ヨハネ福音書から引用する。…それ神はその独子を賜うほどに世を愛し給えり。(中略)神その子を世に遣わしたまえるは、世を審かん為にあらず、彼によりて世の救われん為なり。(3:16-17)。
 キリスト教信者にとって、この言葉ほど心の琴線に触れるものはないだろう。不幸にして、私はそうではないが。

死海文書、ナグ・ハマディ文書

 1947年、まだイスラエルという国は誕生していない。羊飼いのベドウィンの少年が、群れからはぐれた子ヤギを探していた。死海沿岸北西部の断崖の中ほどに、洞窟のような洞穴がいくつかあった。子ヤギが迷い込んでいないかと、少年は小石を投げ込んだ。壺が割れるような音がした。崖をよじ登って覗き込んだ少年は、ずらりと並んだ素焼きの壺に驚いた。死海文書の発見はこのように、お伽噺めいて語られる。夏の暑さを避けようとした行商人が発見したという別の説もある。
 文書が残された洞窟は、合計で11箇所あった。発掘作業は、イスラエル独立に伴う中東戦争にたびたび中断を余儀なくされたが、いまイスラエル博物館に保存展示されている。
 文書のほとんどは羊皮紙で、触ればボロボロになるほど乾燥していた。現在ガラス板に挟まれて保存されているが、まだ開封不可能なものもある。銅板の巻物になったものは、酸化がひどく、のこぎりで切って小片に分けて広げたという。
 ユダヤ教には面白い慣習があった。古くて使えなくなった写本は、手続きを踏んだ上で廃棄されていた。そのため古い時代の写本は存在しない。幸いにして、新しい写本を作る場合、決して記憶に頼って書かれてはならず、必ず元となる写本の通りに書くことと定められていた。
 そのため現在使われている旧約聖書も、元となる写本は意外と新しい。10世紀の写本「マソラ本文」である。マソラとはヘブライ語で「伝統の伝達」を意味する(Wikipedia)。
 1902年、W.L.ナッシュ(聖書考古学協会秘書)が、エジプトで古物商から一枚のパピルスを購入した。それは後2世紀頃に書かれた聖書写本の断片だった。後にナッシュ・パピルスと呼ばれるようになる。ただこれはヘブライ文字24行の断片に過ぎない。
 このような背景を知ると、紀元前後に書かれたとされる死海文書の発見が、いかに大きな反響を呼び起こしたか想像に難くない。
 発見された死海文書の大部分は、マソラ本文の伝承に属していた。10世紀の写本が、紀元前後の死海文書によって立証されたことになる。それは同時に、写本を更新する際の慣習が忠実に守られていたことを示していた。旧約聖書に納められていない宗教的文書の存在は、聖典編纂活動が盛んだったことを示唆している。さらに興味深いのは、文書を壺に納めて保管した特殊な宗教共同体の活動記録、それも、70年の神殿崩壊以前のものが含まれていたことである。イエスと使徒たちの活動を、ある程度推察させるものでもあった。
 確立した宗教組織にとって、新しい発見はときおり困惑を招く。教義の変更を余儀なくされる可能性がある。しかし新国家イスラエルは歓迎すべき発見ととらえた。自らのアイデンティティーを強化し、民族意識を高揚できると考えたのである。特殊な宗教共同体の活動記録は、イスラエルにとって、興味はあっても決して迷惑なものではない。しかし、バチカンの教皇庁にとって、果たして歓迎すべきものだっただろうか。
 イスラエル博物館の外観は、発見された陶器の蓋をイメージした玉ねぎ型をしている。外庭には50分の1に縮小された第二神殿時代のエルサレムの精巧な模型が展示されている。
 乾燥した気候風土は、古代の遺跡や文献を後代にまで残してくれる。1945年、エジプトのナグ・ハマディ村で、アラブ人農夫が土中から壺を掘り出した。壺には皮で綴じられたコデックス(冊子状の写本)が12冊と8枚の断片が入っていた。発見された村名をとってナグ・ハマディ文書という。そこはルクソールから直線距離で約60q北に位置する。
 写本はこの地区の修道士共同体が所蔵していたものらしい。上部組織から正典ではない文書を用いないよう指導を受け、隠匿したのではないかと想定されている。写本の執筆や隠匿の時期は3〜4世紀とされていて異論はない。写本の大半はグノーシス主義派の文献で、教皇庁から異端とされている。中でも最も有名なものが「トマス福音書」と「ユダ福音書」である。グノーシス主義は、1世紀から4世紀にかけて地中海世界で一定の勢力を持った宗教思想だった。グノーシスとはギリシア語で「認識、知識」を意味し、Wikipedia によれば、自己の本質と真の神についての認識に到達することを求める思想、とある。我流に考えれば、知的に神の存在を追及するということだろう。突き詰めればつめるほど、キリスト教本流からはみ出してしまう。異端とされたのも必然と言える。
 「トマスによる福音書」(荒井献訳、講談社学術文庫)に登場するイエスは、当然のことながら、新約の四つの福音書と微妙に異なる。例えば、
 …イエスが言った「もしあなたがたを導く者があなたがたに『見よ、御国は天にある』と言うならば、天の鳥があなたがたよりも先に(御国へ)来るであろう。彼らがあなたがたに、『それは海にある』と言うならば、魚があなたがたより先に(御国へ)来るであろう。そうではなくて、御国はあなたがたの只中にある。(中略)しかし、あなたがたがあなたがた自身を知らないなら、あなたがたは貧困にあり、そしてあなたがたは貧困である」(3)という一節は、グノーシス(認識、知識)を主張する派の、教義の特徴をよく現わしている。ただ新約のなかで、イエスが弟子たちにこのように祈れと教えた…天にいます我らの父よ、願くは御名の崇められん事を。御国の来たらんことを。御意の天のごとく、地にも行われんことを(「マタイ福音書」(6:9-10)、「ルカ福音書」(11:2-4)、とはそぐわない。教皇庁としても、たとえ比喩であるとは言っても、鳥や魚が先に天国へ行ってしまっては困るだろう。このほかにも、
 …シモン・ペテロが彼らに言った、『マリハム(マグダラのマリア)は私たちのもとから去った方がよい。女たちは命に値しないからである』。イエスが言った、『見よ、私は彼女を(天国)導くであろう』(114)。このように言われると、ペテロをイエス第一の弟子とする教皇庁にとって受け入れ難いのではないだろうか。
 「ユダ福音書」はさらに刺激的である。イエスを最もよく理解した者はユダだとする。エレーヌ・ペイゲルス、カレン・L・キング共著「ユダ福音書の謎を解く」(山形孝夫、新免貢訳、河出書房新社)は、150年代のある時期に「ユダ福音書」は執筆され、著者は不明だと述べている。もちろん首を吊って死んだユダ自身が書いたはずもない。この書には、もちろん「ユダ福音書」そのものも収録されている。それによると、ユダは自殺したのではなく、仲間の弟子たちの石打ちによって殺されたとある。キリスト教徒によるユダの死を告発し、ユダヤの祭司長や律法学者たちを、ローマ帝国の迫害者同様徹底的に非難する。異端とされても仕方がない過激さである。
 教皇庁はナグ・ハマディ文書の発見を極力控えめに扱った。学者間の論戦にも参加しなかった。二千年の歴史を持つ教義を変更させるものではないとした。信者ではないわたしには、違うイエスを知ることで、あらためて彼の大きさを認識できると思うのだが、キリスト教本流の宗教者たちにとってはただ迷惑な発見だった。
 新しい文献の発見は、イスラエルには喜びを、教皇庁には困惑をもたらしたのである。

イスラム教

イスラム教の立脚点

 アブラハムと妻サラには、年老いても子供がなかった。神は、アブラハムにカナンの地を与えると約束したが、相続すべき子がいない。サラは夫に、侍女ハガルと交わり子供を得るようにと勧めた。男児が生まれ、アブラハムはイシマエルと名づけた。そのときアブラハムは86歳だった(「創世記」16)。
 アブラハムが99歳のとき、神エホバは彼に男の子を授けると告げる。彼は、99歳の夫と90歳の妻との間に子供など生まれるはずがない、と心の中で哂う。神は、生まれた子をイサクと名づけるよう命じる。アブラハムは庶子となるイシマエルの将来を憂う。神は、イシマエルには「多衆の子孫を得さしめ、大に彼の子孫を増すべし」と告げる。実はこの時まで彼の名はアブラムだった。以後アブラハム(衆多の人の父)と名前を変えるように命じられる。妻もサライだったがサラと変わる。この名前の変更には説明がない。「諸邦の民の母とならしむべし」と書かれているだけである。なお、割礼についてもここに記述されている(「創世記」17)。
 神に不可能はない。二人は男児を得る。アブラハムは100歳になっていた(「創世記」21)。
 正妻サラに子が生まれれば、ハガルとイシマエルの居場所がなくなる。アブラハムは神の約束を信じて、革袋に入れた水とパンをハガルに負わせ、二人を家から出す。荒野を彷徨った二人は、パンも水も尽きて生きる望みを失う。ハガルは、わが子を木の下に置き、離れたところに座って泣く。わが子の死んで行くのを見るに忍びなかったのである。神は二人の泣く声を聞きとどける。ハガルの耳に神の声が響く。
 …起て童児を興し之を汝の手に抱くべし。我之を大なる国となさんと。神ハガルの目を開きたまいければ水の井あるを見、(中略)神童児と偕に在す。彼遂に成長り曠野に居りて射者となりパランの曠野に住めリ。其母彼のためにエジプトの国より妻を迎えたり(「創世記」21:18-21)。
 このイシマエルがアラブ民族の祖となった、というのがコーランのとる立場である。イスラム教という呼称も、イシマエルに由来する。「コーラン」に登場する人々も、発音の違いだけで、アブラハムはイブラーヒーム、モーセはムーサー、ノアはヌーフ、マリヤはマルヤム、イエスはイーサー、大天使ガブリエルはジブリール、サタンはシャイターンとなる。
 訳文から想像するのは難しいが、コーランは全文が詩と言っていいらしい。それはトルコやヨルダンで耳にしたアザーン(礼拝の呼びかけ)からも想像がつく。コーランを翻訳した井筒氏の解説にも、コーランの原語「クルアーン」はもともと読誦を意味したとある。
 …かくて我らムーサーに聖典を授与し、彼のあとも続々と(他の)使徒を遣わし、(中でも)マルヤムの子イーサー(マリヤの子イエス・キリスト)には数々の神兆を与え、かつ聖霊によって(特に彼を)支えた。ところが汝ら(ユダヤ人たち)は己が気にくわぬ(啓示)を携えた使徒が現れるたびに傲岸不遜の態度を示し、(それらの使徒の)あるものをば嘘つきよとののしり、又あるものは殺害した(2.「牝牛」81)。
 ユダヤ民族に啓示を下したが、行いが改まらないので、こんどはあらためてイシマエルの子孫ムハンマドに啓示を下した、というのがイスラム教の立場である。

ムハンマドの生涯

 言うまでもなくコーランはムハンマドが神から受けた啓示を記録したものである。ムハンマドが書いたものではない。その点、聖書とは全く異なる。翻訳者井筒氏の言葉を借りると、「神がかりの状態に入った一人の霊的人間が、恍惚状態において口走った言葉の集大成」である。
 ムハンマドは文盲だったと言われる(Wikipedia)。神の啓示を受けたムハンマドは、その言葉を覚えておき、別の者に書きとらせた。宗教家となる前は、商人として成功しており、完全な文盲ではなかったと思うが少なくとも教養人ではなかったのだろう。
 コーランを読むと、まず記載の順序に基準がないことに困惑する。啓示を受けた順序でもない。一定の物語性もない。ただ内容は、そのときどきの出来事に対応している。なぜなら、彼は問題が起きた都度、神の啓示を仰いだからである。
 井筒氏の解説に従って、ムハンマドの一生をコーランから辿ってみることにする。
 彼は570年頃メッカに生まれた。名門のクライシュ家の一族ではあったが、生まれて父を知らず、6歳で母を失った。祖父に引き取られたが、これも3、4年で死に、伯父のアブー・ターリブの下で成長した。
 …よいか、孤児は決して苛めてはならぬぞ。物乞いに決して邪険にしてはならぬぞ(93.「朝」9-10)。この章句には、彼の体験が反映している。
 やがてムハンマドはハディージャという未亡人の経営する交易商社に雇われる。誠実な人柄で信用を得た。商人として実績を上げた彼は、ハディージャから結婚を申し込まれる。ムハンマド25歳、ハディージャは40歳前後。思いがけぬ幸運に恵まれたムハンマドは、15年ほど、平穏な日々を送った。40歳になったころ、彼の心に何か満たされない思いが生まれた。孤独と瞑想への欲求にかられ、ときおりメッカ近郊のヒラー山の洞窟にこもり、禁欲生活を送った。彼は商売でたびたびシリアを訪れていた。そこで、キリスト教修道士たちの真摯な生活態度に刺激を受けたのでは、と推察されている。当時のメッカは、喧噪と淫乱の偶像崇拝の都だった。
 …「ナザレ人」と自称する人々(キリスト教徒)。それというのは、彼らの中には司祭とか修道士とかいう者が沢山あって、みだりに傲慢な心を起こしたりしないからだ(5「.食卓」85)。
 ある年のラマザンの月のある夜、洞窟で瞑想しているムハンマドに、突然超自然的な圧力がのしかかった。後日彼はそれを天使ジブリール(ガブリエル)の降臨と解した。天使は彼の喉元をひっ掴んで、いきなり「誦め」と命じた。「わたしは読み書きもできぬ無学のもの。わたしに何が誦めましょう」と言うと、天使は彼に神の言葉を伝えた。
 …誦め、「創造主なる主の御名において。いとも小さい凝血から人間をば創りなし給う。」 誦め、「汝の主はこよなく有難いお方。筆もつすべを教え給う。人間に未知なることを教え給う」と(96.凝血1-5)。
 …たしかに、ありありと地平の彼方にお姿を彼(マホメット)は拝した(81.「巻きつける」23)。このとき、彼は天使の姿を見たと信じる。
 驚愕した彼は家に逃げ帰り、妻の膝に縋りついた。てっきり悪霊にとりつかれたと思ったのである。冷静なハディージャは、これが神の霊感であると信じた。夫を励まし、力づけ、彼をアラビアの預言者へと成長させた。そして、彼女は最初の信者となった。
 新宗教を興したムハンマドだったが、裕福な階級のメッカの人びとは彼を狂人扱いし、嗤いものにした。しかし次第に信者の数が増え、無視できなくなる。新宗教は、聖書系統の唯一神崇拝を唱え、メッカの人びとが信じる先祖伝来の神々を否定する。コーランの社会政策は、貧乏人に都合よく、金持ちには具合が悪かった。社会主義的である。名門クライシュ族をはじめとするメッカ支配層は、総力をあげて新宗教を押しつぶそうとした。新宗教の信者の多くは貧しい階級の人びとである。有力者たちから圧力をかけられると信仰も揺らぎだす。おりあしく、最大の支援者ハディージャと叔父アブー・ターリブが死ぬ。血を分けた部族中心のアラブ社会で、ムハンマドは後ろ盾を失った。
 四面楚歌となったムハンマドは、メディナへの{遷行}へ踏み切る。当時、メディナに住むアラブ人はイエメン系で、ニザール族中心のメッカに対抗意識を持っていた。加えて、富裕なユダヤ人が多く住み、唯一神の思想が奇異ではない環境だった。
 初期のイスラム教は、ユダヤ教徒、キリスト教徒を仲間と考えていた。モーセ五書は三宗教共通の聖典である。むしろ、民族を同じくするアラビアの人々を邪神教徒として敵視した。これが、メディナへの遷行を決めた最大の要因だった。
 ハディージャの膝に縋りつくほどに気弱な面を見せたムハンマドだったが、ほぼ10年の間に、新宗教のリーダーとして無類の政治性を身につけていた。{遷行}にしても、実行の2年も前から慎重に布石を打っている。まず信徒を移動させ基盤作りをした。事前工作は成功し、メディナの人びとはムハンマドの一行を招待する。彼自身は腹心の友、アブー・バクルと二人、クライシュ族の厳重な監視をくぐってメディナへ入った。622年7月16日、この日がイスラム暦第一年となる。アブー・バクルはムハンマド亡き後、第一代の教皇(カリフ)となる人である。
 この時代のコーランには、聖書の物語が、枚挙に暇がないほど出てくる。その語り口は、まるで映画を見るように脚色されている。ユダヤの人びとの歓心を買おうとしたのだろうか。一例をあげる。神がアブラハムに、サラに子供が生まれると告げた箇所(「創世記」18章に相当)である。
 …彼女は言った。「ああ、情けない、この妾に子供が生めましょうか。妾はこの通りの老婆、主人はこのような爺ですのに。それこそ奇妙なはなしというもの」と。すると彼ら(神の使い)は、「アッラーの御命令を奇妙と思うのか。アッラーのお恵みと祝福とがお前がた一家の上にありますように。まこと、(アッラー)こそはいとも貴く、栄光に満ちたお方におわします」と告げた(11.「フード」75-76)。
 メディナに入ったムハンマドは、一宗教集団を、イスラム教共同体へと進化させる。「血のつながり」に基づく部族共同体ではなく、共通の祭祀と、共通の利害関係に基づく広い、自由な共同体、すなわち将来の「サラセン帝国」へと発展する基礎を打ち建てたのである。
 この展開を良しとしなかったのは、最初歓迎したはずのユダヤ人たちだった。一神教のユダヤの人びとは、多神教のアラブ人と、宗教的には対立するが、商売仲間でもあった。交易で富を得た人びとである。イスラム教信者グループの発展は、新たな商売敵の出現だった。敵の敵は友である。ユダヤ人たちは、メッカのアラブ人たちと手を結び、陰に陽にムハンマドたちの活動を阻害し始める。彼らに関するコーランの言葉は厳しい。
…だが迷わされるのは悪徳の人々のみ。すなわち、アッラーと固く契約を結んでおきながら、平気でそれを破り、アッラーが結べと命じ給うたものをことさらに裁ち切って、地上に悪をなす人々のみ。かかるやからは亡びの道を辿り行く人々(2.「牝牛」24-25)。
 ムハンマドはキブラを変更した。キブラは祈りの方角を示す。すべてのモスクにはミフラーブという神聖なくぼみがあり、メッカへ向いている。メディナへ遷行した当初、ムハンマドはエルサレムに向かって礼拝するよう指導していた。ユダヤの人々を味方に引き入れようとしていたのである。ユダヤ人が敵対してきた以上、エルサレムを向く必要はない。彼は、メッカの神殿カアバへ祈りの方角を変更した。そこには神聖な黒石がある。
 もともと石を立て、これを「神のお宿」と称し、その石を巡って祭祀を行うことはアラビアだけでなく、ひろく古代セム人の世界全般に見られる現象である。それがときに淫乱であったことも事実であろう。日本の歌垣、北欧の白夜祭などにも通じるものがある。
 ムハンマドがキブラの方角をメッカの神殿へ変えたとき、そこはまだ多神教の巣窟だった。ムハンマドから見れば忌みすべき下等な聖石崇拝である。彼は神に祈る。そして、方角を変えると同時に、聖石の概念まで変更するお告げを受ける。
 …以前にお前(マホメット)が採っていた祈りの方角を我ら(アッラー)があのように(イエルサレムに向けて)定めたのは、あれは元来、本当に使徒(マホメット)について来る人と、背を向けてしまう者どもとをはっきり見分けるための方便だったのだ。(中略)こうして見ておると、お前(マホメット)は(どっちを向いてお祈りしていいのか分からなくなって)空をきょろきょろ見廻している。よし、それならここでお前にも得心のいくような方角を決めてやろう。よいか、お前の顔を聖なる礼拝堂(メッカの神殿)の方に向けよ(2.「牝牛」138-139)。
 …されば、汝らイブラーヒーム(アブラハム)の信仰に従えよ。彼こそは純正なる信仰の人だった。偶像崇拝のやからではなかった(3.「イムラーン一家」89)。
 …また我ら(アッラー)が聖殿(メッカのカアバ)を万人の還り来る場所と定め、安全地域に定めた時のこと。「汝らイブラーヒムの立処(カアバ内にある聖石、そこにアブラハムが立った所という。『アブラハムの足跡』が残っている。神聖な黒石とは別の聖石)を祈祷の場所とせよ」と(2.「牝牛」119)。
 アブラハムの聖石に向かって祈れば、同じ場所にある聖なる黒石も、浄化されて一神教の信仰の拠りどころとなる。
 ムハンマドにとって、都合の良いい時期に、都合の良い神託が下ったように思える。弁護するわけではないが、彼の立場に立って考えてみたい。難問を抱えたとき、朝から晩までその解決策を考える。一心不乱に神に祈る。恍惚状態となったとき、答えがひらめく。まさにこれが神の啓示だと、彼は信じる。そして、行動に移す。
 イスラム教徒の間では、カアバはアダムとイブが神に命じられて作った神殿で、ノアの時代大洪水で失われたが、その後、アブラハムとイシマエルが再び建立した、という伝説がある。もちろん、聖書にそのような記述はない。
 後世に至ると、聖なる黒石はムハンマドが据えたという伝説が生まれる。ハディース(ムハンマドの言行碌)には、ムハンマドの言葉として、黒石は彼が据えたとし、復活(最後の審判)の日には、黒石に目や口が生え、これに触れたことのある者の弁護をする、といった趣旨の記録がある(Wikipedia、イブン・イスハーク「預言者伝」)。
 キブラの変更はユダヤ教やキリスト教からの決別を意味した。ムハンマドは、「純正なる信仰の人」とアブラハムを賞賛する。カアバの創始者(再建者)こそ、ムハンマドが尊崇する祖先であり、イスラム教の遠祖となるお方だとする。ユダヤ教でもキリスト教でもない、イスラム教こそ真の一神教であるという独立宣言だった。政治的な意味で、ムハンマドの決断の速さと正確さは見事というほかはない。
 カアバをイスラム教の中心点と決めたムハンマドは、攻勢に転じる。カアバのあるメッカは仇敵クライシュ族の手中にある。イスラム教徒の手に取り戻さなければならない。神のお告げが下る。
 …これ、預言者よ、信者たちを駆りたてて戦いに向かわせよ。汝ら、忍耐強い者が二十人もおれば、二百人は充分打ち負かせる。もし汝らが百人もおれば、無信仰者の千人ぐらい充分打ち負かせる(8.「戦利品」66)。大変勇ましいが、第二次世界大戦中の軍部の精神論を思い出させて、あまりいい気持ちでは読めない。
 …だが、(四ヵ月の)神聖月があけたなら、多神教徒は見つけ次第、殺してしまうがよい。ひっ捉え、追い込み、いたるところに伏兵を置いて待伏せよ(9.「改悛」5)。
 ムハンマドはもともと商人だったから、交易に生きるクライシュ族の弱点をよく知っていた。直接メッカを攻めるのではなく、隊商を待ち伏せして略奪する戦術を取った。ゲリラ戦である。神聖月のタブーを破って大勝利をおさめた。タブーを破ってよいのかという問題に神のお告げが下る。
 …神聖月について、その期間中に戦争することはどうかとみんながお前(マホメット)に訊きに来ることであろう。こう答えるがよい。神聖月に戦ったりするのは重い(罪)だ。しかし、アッラーの道から離脱し、アッラーやメッカの聖殿に対して不敬な態度を取り、そこから会衆をおい出したりすることの方が、アッラーの御目から見れば、もっと重い罪になる。(信仰上の)騒擾は殺人よりもっと重い罪だ、と(2.「牝牛」214)。
 もちろん勝ち戦ばかりではない。ウフドの合戦では大敗北を喫している。
 …(あの時)汝らはみな他人のことなど構いもせずに遁げ道を登って行った(メディナに向って逃げた)、使徒(マホメット)が一番殿りに立ってあんなに汝らを喚んでいたのに(3.「イムラーン一家」147)。
 …お前(マホメット)があの者ども(マホメットと共に戦ったが、心がともすれば動揺がちだった人々)に優しい態度を取ったのも実は、言って見ればアッラーのお恵みであった。もしお前がもっと苛酷な態度を示したり心を硬くしたりしたら、彼らはちりじりになってお前のまわりから逃げ去ったであろうから。ま、ともかく彼らのことは赦してやるがよい。(中略)まずアッラーを絶対に信頼し奉ること。アッラーの方でも御自分に頼り切って来る者は好もしくお思いになる(3.「イムラーン一家」153)。
 …アッラーの御為めに殺された人たちを決して死んだものと思ってはならないぞ。彼らは立派に神様のお傍で生きておる、何でも充分に戴いて(3.「イムラーン一家」163)。
 これらのお告げからも、相当な痛手であったことが推察できる。
 イスラム暦5年、ムハンマドに最大の危機が訪れる。メディナに住み難くなったユダヤ人たちは、北方のハイバルに集結し陰謀をねった。四方のユダヤ人たちに呼びかけて糾合し、これにメッカのクライシュ族の軍勢、北アラビアの諸部族、さらにエチオピアの傭兵軍まで加えた大聯合軍を組織した。総指揮官はクライシュ族から選ばれた。
 大軍がメディナに迫った。多勢に無勢、数からいえば、ムハンマドに勝つチャンスは無かった。信者たちにも動揺が走る。逃げ出した者たちもいた。
 …これ、お前たち信徒の者、アッラーの授け給うたお恵みを憶い起こすがよい、お前たちのところへ大軍が攻め寄せて来た時のこと、(中略)まことにあの時こそ、信者はみな試錬られ、もの凄くゆすぶられたものであった。似非信者どもや、心に病患もった連中が、「アッラーと使徒の約束はみんなでたらめだったか」などと言い出した時のこと。(中略)あれでもし(敵軍が)四方から強引に侵入して来て、その上で叛逆(マホメットに背いてイスラム教を棄てる)を要求されたら、彼らは平気でやってのけ、殆んどなんの躊躇もしなかったことであろう。そのくせ、決してうしろは見せませんと前々から固くアッラーに契約しておったのだ。アッラーとの契約については、いまに必ず訊問されようぞ(33.「部族同盟」9-15)。
 ムハンマドはメディナの周囲に深く広い環濠を掘って、籠城する作戦に出た。いまでは珍しくもない防衛策だが、アラビアでは初めての試みだった。聯合軍は攻めあぐみ、徒に日々を過ごすうち、水や食糧がなくなる。聯合軍は囲みを解き、それぞれの拠点へ帰ってしまった。大軍ではあったが、所詮は烏合の衆だった。もっともコーランは次のように記す。
 …あの時我ら(アッラー)彼らに向かって大風を吹き起し、お前たちにも見えない軍勢(天使の大軍)を送ったではないか(33.「部族同盟」9)。
 …彼ら(敵軍)を殺したのは汝らではない。アッラーが殺し給うたのだ。射殺したのはお前(モハメット)でも、実はお前が射殺したのではない。アッラーが射殺し給うたのだ(8.「戦利品」17)。
 この成功で、ムハンマドはアラビアでもひとかどの人物と誰もが認める存在となった。翌年、イスラム暦6年神聖月、彼は軍を編成してメッカへ乗り込もうとした。どれほどの軍勢だったかは不明だが、とてもメッカを征服できるほどの大軍ではなかったと思われる。メッカに近いフダイビーアで、一行の進路を阻もうとメッカ軍が出てきた。ここでムハンマドの政治力がものをいう。両者の間で協定が結ばれた。フダイビーア協定という。内容は、今回はこのまま引き返す、来年は三日間だけクライシュ族はメッカから退出しイスラム教徒にカアバ神殿の参詣を許す、ただしムハンマドはメッカに永住することなくメディナへ戻る、といったものである。一見弱気に思えるが、カアバがイスラム教の神殿でもあると認めさせた事実は大きい。
 …見よ、我ら汝に輝かしい勝利(フダイビーア協定の成功を指す)を与えたぞ(48.「勝利」1)。
 …今度居残った(メッカへ乗り込もうとしたモハメット軍に参加しなかった)ベドウィンどもは(案に相違して戦いがなく、和平協定が結ばれたので、あわててマホメットのご機嫌をとり出した)「なにしろ財産のことや家族のことで手一杯でしたので。ま、よろしくお執成しねがいます」と言ってくるに違いない。心にもないことを舌先で言うだけのこと。こう答えてやるがよい、(中略)「いや、いや、アッラーはお前たちのしていることは何から何まで御存知。本当はお前たち、使徒(マホメット)や信者たち(今度遠征に出た人々)がもう二度と再び家族のもとに還って来まいと思っていたのであろう。(中略)まことに、よくよくの碌でなしだ、お前らは」と(48.「勝利」11-12)。
 イスラム暦8年、西暦630年、彼は念願かなって、平和裡にメッカに入り、神殿カアバの鍵を要求し、正面入口に鎮座するフバル神をはじめ無数の偶像を木っ端微塵に叩きこわした。散乱する多神教の残骸を前にして彼は、参集した信徒たちに「いまや異教時代は終わった」と宣言した。
 このときはムハンマドも協定に従って、約二週間でメッカを去ったが、大勢は決したと言っていい。イスラム教は、世界宗教へと歩み始めたのである。
 イスラム暦10年、ムハンマドはメッカに正式の巡礼を行った。これが彼の最初で最後の巡礼となった。その年の6月8日、愛妻アーイシャの胸に抱かれて静かに息を引き取った。 

コーランあれこれ

 「コーラン」を翻訳した井筒は次のように述べている。「本書は『コーラン』の口語訳である。(中略)現代の日本語の話し言葉では、原文の鳴り響くような、そしてどことなく荘重で、時とすると荘厳でさえある、あの持ち味を到底出せっこないと僕は思った」。またそのほかに「神がマホメットに直接話しかけて種々様々なことを独りで喋る、いわば神様の独り芝居みたいなものだから、文語よりもかえって口語の方が適当と思われる側面も大いにあるわけなのである。」と述べている。そして読者に、「プラス・アルファとして、一種の荘重味を想像裡におぎなって」もらいたいと希望している。わたし自身、口語訳の聖書に満足しきれないでいるのだから、訳者のジレンマに大いに共感する。
 前項でムハンマドの生涯と、コーランの章句を並行的に列挙してみた。実際のコーラン114章はすべて、
 …慈悲深く慈愛あまねきアッラーの御名において…、という言葉で始まる。ほとんどの章が、神の偉大さの賛美、恩寵と懲罰の文言で占められている。例えば、
 …まあ復活の日になって見るがいい、アッラーについてありもせぬこと言いふらしていた者どもは、みな顔を真黒けにされてしまう。ジャハンナム(ゲヘナ/地獄)の中に生意気な者どもを容れる席がないわけではあるまいし(39「.群れなす人々」61)。
 …これぞこれ唯一無二の御神、アッラー。目に見える世界も、目に見えぬ世界もともに知悉し給う。お情けぶかい、慈悲ぶかい御神。(中略)ああ勿体ない、恐れ多い、人々がともに並べる(邪神ども)とは比較にならぬ高みにいます御神におわしますに。(中略)天にあるもの、地にあるもの、すべて声たからかに賛美し奉る。ああ限りなく偉大、限りなく賢い御神よ(59.「追放」22-24)、といった具合である。
 教義上、キリスト教との関係はまことに微妙である。イエスを救世主とは認めないものの、偉大な預言者として取り扱っている。
 …彼ら(ユダヤ教徒)は信仰に背きマルヤム(マリヤ)についても大変なたわごとを言った。そればかりか「わしらは救世主、神の使徒、マルヤムの子イーサー(イエス)を殺したぞ」などと言う。どうして殺せるものか、どうして十字架に掛けられるものか。ただそのように見えただけのこと。(中略)彼らは断じて彼(イエス)を殺しはしなかった。アッラーが御自分のお傍に引き上げ給うたのじゃ。アッラーは無限の能力と知恵を持ち給う(4.「女」155-158)。イスラム教では、イエスが十字架に掛けられて死んだことを、ユダヤ人の嘘言として否定する。イエスではなくてイエスに似た男が殺されたにすぎない、とする。しかし昇天は認めている。
 …マルヤムの息子はただのアッラーの使徒であるにすぎぬ。また(アッラー)がマルヤムに託された御言葉であり、(アッラー)から発した霊力にすぎぬ(神でもないし、「神の独り子」でもない)。(中略)決して「三」などと言うてはならぬぞ(三位一体の否定)。(中略)アッラーはただ独りの神にましますぞ。ああ勿体ない、神に息子があるとは何事ぞ(4.「女」169)。イスラム教では、ムハンマドをあくまでも人間であるとし、神格化はしない。イエスも同様だとする立場で一貫する。
 コーランは徹底して男性の宗教(書)である。旧約聖書も、仏教も、儒教も、男性重視の宗教であることに違いはないが、それでもコーランほどではない。歴史的に言えば新しい、イエスの死後からほぼ6世紀後に生まれた宗教が、最も女性を差別している。
 …アッラーはもともと男と(女)との間に優劣をおつけになったのだし、また(生活に必要な)金は男が出すのだから、この点で男の方が女の上に立つべきもの。(中略)反抗的になりそうな心配のある女(伴侶)はよく諭し、(それでも駄目なら)寝床に追いやって(こらしめ、それも効がない場合は)打擲を加えるもよい。だが、それで言うことをきくようなら、それ以上のことをしようとしてはならぬ。アッラーはいと高く、いとも偉大におわします(4.「女」38)。
 一夫多妻については、
 …誰か気に入った女をめとるがよい、二人なり、三人なり、四人なり。だがもし(妻が多くては)公平にできないようならば一人だけにしておくか、さもなくばお前たちの右手が所有しているもの(女奴隷を指す)だけで我慢しておけ(4.「女」3)。
 ムハンマド自身は、Wikipedia によると12人の妻がいたという。異教徒との戦いで多くの未亡人が出た。その救済という面もあったらしいが、特別にアッラーにお許しを頂いたのだろう。
 女性の体を覆うチャードルやブルカについては、
 …それから女の信仰者に言っておやり、慎みぶかく目を下げて、陰部は大事に守っておき、外部に出ている部分はしかたがないが、そのほかの美しいところは人に見せぬよう。胸には蔽いをかぶせるよう(24.「光り」31)。
 …これ、預言者、お前の妻たちにも、娘たちにも、また一般信徒の女たちにも、(人前に出る時は)必ず長衣で(頭から足まで)すっぽり体を包みこんで行くよう申しつけよ(33.「部族同盟」59)。とアッラー直々の指示がある。
 断食については
 …これ信徒の者よ、断食も汝らの守らねばならぬ規律であるぞ、汝らより前の時代の人々の場合と同じように。(この規律をよく守れば)きっとお前たちにも本当に神を畏れかしこむ気持ちが出来てこよう(2.「牝牛」179)。
 …断食の夜、汝らが妻と交わることは許してやろうぞ。(中略)食うもよし、飲むもよし、やがて黎明の光りさしそめて、白糸と黒糸の区別がはっきりつくようになる時まで。しかし、その時が来たら、また(次の)夜になるまでしっかりと断食を守るのだぞ(2.「牝牛」183)。
 食物の禁忌については、
 …アッラーが汝らに禁じ給うた食物といえば、死肉、血、豚の肉、それから(屠る時に)アッラー以外の名が唱えられたもの(異神に捧げられたもの)のみ。(中略)やむなく(食べた)場合には、別に罪になりはせぬ。まことにアッラーはよく罪をゆるし給うお方。まことに慈悲の心ふかきお方(2.「牝牛」168)。
 そして天国については、
 …そこ(楽園)では生姜をほどよく混ぜた盃がまわる。サルサビールと呼ぶあそこ(天国)の泉(の水)で。お酌をしてまわるお小姓たちは永遠の若人、(その美しいこと)あたり一面まき散らした真珠かとまごうばかり。これを見たら、(真の)幸福、偉大なる神の国とはいかなるものかとしみじみ悟る事であろう(76.「人間」17-20)。ここに出てくるサルサビールは泉の水で、お酒ではないのだろうか、そんな疑問が湧く。
 …(アッラーはマホメットに直接言いかける)だが信仰を抱き、かつ善行をなす人々に向っては喜びの音信を告げ知らしてやるがよいぞ。彼らはやがて潺々と河水流れる緑園に赴くであろうことを。その(緑園の)果実を日々の糧として供され(中略)清浄無垢の妻をあてがわれ、そこにそうして永遠に住まうであろうぞ(2.「牝牛」23)。
 清浄無垢の妻とは、古アラビアの伝説で、天上の楽園に住むという神女フールのこと。イスラム教の伝承によると、信者は死後楽園に入ると同時に彼女らに迎えられ、地上においてラマザーン月に断食した日の数と、善事を行った数だけ彼女らと歓を交えることが許される。しかも彼女らは永遠に処女であるという。
 コーランには、聖書に語られた挿話が頻繁に出てくる。しかし、文盲と言われるムハンマドが聖書を読んでいたとは思えない。引用の仕方も物語風で、おそらく巷間に語られるエピソードを耳学問で覚えていたのではないだろうか。
 西欧の知識人たちは、概ねコーランに否定的だった。その代表格として、ここではパスカルに登場してもらおう。「人間は考える葦である」と名言を残したパスカル(1623-1662)は、とてつもないマルチ人間だった。数学者、物理学者、キリスト教神学者そして哲学者で、それぞれの分野で際立った業績を残している。残念なことに短命で、わずか39年しか生きていない。「パンセ(瞑想録)」(世界文学大系13「デカルト、パスカル」松浪信三訳、筑摩書房)は次のように述べる…人間は自然のうちで最も弱い一茎の葦にすぎない。しかしそれは考える葦である。(中略)われわれのあらゆる尊厳は思考のうちに存する(347)。空間によって、宇宙は私を包み、一つの点として私を呑む。思考によって私は宇宙を包む(348)。
 このように考えた人が、イスラム教をどのように見ていたのだろうか。「パンセ」からの引用を続ける。
 …権威をもたないマホメット。それゆえにこそ、彼の理由は権力的であらねばならなかったのであろう。というのも、彼の理由はそれ自身の力をしかもたなかったからである。/では、彼は何と言ったか? 信じなければならない、と言っただけである(595)。(「権威をもたない」というのは、「予言者も、奇蹟も、証人ももたない」という意味である。原書注)
 …マホメットのうちにある曖昧なもの、何か神秘的な意味に受けとられそうなものによってではない。むしろ、そこにある明瞭なもの、すなわち彼のいう天国やその他のものによって、彼を判断してもらいたい。マホメットが笑うべきものであるのは、その点においてである。そういうわけで、彼の明瞭な点が笑うべきものだから、彼の曖昧な点を神秘と解するのは正当でない(598)。
 …イエス・キリストとマホメットとの差異。マホメット、予言されなかった。イエス・キリスト、予言された。/マホメット、殺す。イエス・キリスト、その信者が殺されるようにする。/マホメット、読むことを禁じる。使徒たち、読むことを命じる。/要するに、両者はかくも相反しているので、マホメットが人間的に成功する道を選んだとすれば、イエス・キリストは人間的に破滅する道を選んだことになる。そして、「マホメットが成功したのだから、イエス・キリストも、当然、成功しえた」と結論する代わりに、「マホメットが成功したのだから、イエス・キリストは破滅するのが当然だった」と言わなければならない(599)。
 コーランを宗教書として捉えれば、わたしもパスカルの意見にほぼ同意する。ムハンマドは、シャーマンであると同時に傑出した政治家、軍人だった。その考えに立てば、彼はアレクサンダー大王やカエサル以上の人物だったと言えるのではないだろうか。
 イスラム教を批判すると反応が恐ろしい。しかし、パスカルは四世紀も前の知の巨人である。彼は、「パンセ」に「クレオパトラの鼻、それがもう少し低かったら、大地の全表面は変わっていたであろう(162)」とか「人は意識して悪を為すときほど、完全にまた愉快にそれを為すことはない(895)」などの名文句を残した人でもある。ファトワを連発する宗教指導者にもお目こぼし頂けるだろう。
 最後に、オマル・ハイヤーム「ルバイヤート」(訳、小川亮作、岩波文庫)の詩(88)でこの項を閉じたい。彼は11世紀ペルシャの天文学者、数学者そして詩をよくした人生の達人である。ムハンマドから見れば、不信の徒と言うことになるかも知れないが…。
  天国にはそんなに美しい天女がいるのか?
  酒の泉や蜜の池があふれているというのか?
  この世の恋と美酒(うまざけ)を選んだわれらに
  天国もやっぱりそんなものにすぎないのか?

スンニ派とシーア派

 イスラム教の信者は、全世界で約18億人いると言われている。スンニ派が大多数で、シーア派は10〜15%に過ぎない。少数派のシーア派は、そのほとんどがイランに集中しているが、隣接するイラクでも65%を占める。2003年、ブッシュ(子)大統領がイラクに侵攻したとき、識者から、みすみすイランに呉れてやるようなものだと冷笑された。スンニ派のフセイン大統領を倒せば、シーア派の多いイラクは、必然的にイランへと傾く。現在の状況は、識者の見解に近づきつつある。
 世界的に見れば圧倒的にスンニ派が多いように見える。しかし、最大のイスラム教国と言われるインドネシアやアフリカ大陸のイスラム教徒を除外すると、中東での比率はほぼ拮抗している。バーレーンやアゼルバイジャンは60%以上、レバノンでも45%をシーア派が占める。
 どの宗教でも似たような現象だが、宗祖が死んだ後分裂が始まる。仏教でも、教義上の差異から、大乗と上座部(小乗)に別れた。キリスト教は、カトリックの力が圧倒的だったが、教皇庁の腐敗が原因して、16世紀以降プロテスタント運動が北欧を中心に広まった。
 イスラム教は、血統か合議制かで分裂した。シーア派はムハンマドの従弟で、彼の娘の夫でもあるアリーが後継者となり、その血統がいまだに続いている。「シーア」はアラビア語で「アリーの党派」を意味する。
 スンニ派(スンナ派)は、血筋よりも合議制を重視してスタートした。予言者ムハンマドの「慣行」、アラビア語で「スンナ」を語源とする。「スンナに従う人」を意味する「スンニー」が現在多く使われている。イスラム共同体の最高指導者をカリフという。初代のカリフは、ムハンマドがメッカからメディナへ「遷行」した際、行動を共にしたアブー・バクルである。その後、中東における支配的な王朝、例えばウマイヤ朝、アッバース朝、オスマン朝の王がカリフを引き継いで来た。1922年、オスマン朝が滅亡し、1924年新生トルコの建国者アタチュルクによって、カリフ制そのものが廃止された。最後のカリフは、オスマン朝の王アブデュルメジド二世である(Wikipedia)。
 アメリカはイラクのフセイン大統領を倒したが、その残党はイラク北部に結集し、イスラム国(IS)を樹立した。彼らはイスラム原理主義を主張し、自らをカリフと称した。カリフ空位を好機にイスラム教徒の共感を得ようとした。
 いまではイスラム国の勢力も当初の勢いを失っているが、過激派は各国に散在する。スンニ派に属する信者は、数は多いもののカトリックの教皇庁のような統一組織を持たない。地域かコミュニティの宗教指導者、イマームの指導に従う。ムハンマドの教えに忠実であるべきという過激な言動が、えてして支持を得やすい。気ままにファトワという指導方針を連発するが、それが死刑宣告を意味することが多い。アフガニスタンでは、スンニ派がシーア派のモスクを襲撃する。パキスタンでは名誉殺人(異教徒との結婚を願う子女を殺す)が絶えない。そして、イスラム国のような、まがい物の組織がカリフを自称する。両派にそれぞれ過激派がおり、他派を邪宗徒と見る。同じイスラム教徒であるにも拘わらず…。
 シーア派はイランを中心に一つのまとまりを持つが、その分家のようなレバノンのヒズボラ、イエメンのフーシのような存在が、地域の不安定要因を作り出している。これは、教義の問題では無く、政治権力の争いに宗教が利用されているに過ぎない。ライバル関係にあるサウジアラビアとイラン、加えてイスラエルの存在が騒動を助長する。
 ただ、ニュースを賑わすイスラム教徒間のトラブルは、大多数のイスラム教徒にとって迷惑千万なものであることを理解しておくべきだろう。両派とも大多数は、平和的で他宗教にも寛容である。トランプ大統領は就任早々イスラム教徒を槍玉にあげたが、これは無知と偏見のなせる愚挙だった。

現代イスラエル

国としての名前

 イスラエルという国名は聖書に由来する。アブラハムの孫ヤコブがある人と力比べをした。角力のようなものだろう。勝負がつかない。その人がヤコブの枢骨に触れた。枢骨とは股関節のことである。再び力比べをするとヤコブの骨が外れた。しかしヤコブは負けていない。夜が明けて、その人は別れを告げようとする。ヤコブは、自分に祝福を与えるまで行かせるものかという。創世記32章に従う。…其人いいけるは汝の名は重てヤコブととなうべからず。イスラエルととなうべし。其は汝、神と人とに力をあらそいて勝ちたればなりと。(中略)斯て彼日のいづる時にペニエル(神の面)を過ぎたりしが、其髀のため歩行はかどらざりき。是故にイスラエルの子孫は、今日に至るまで髀の巨筋を食わず。是彼人がヤコブの髀の巨筋に触たるによりてなり(28-32)。
 ある人というのは神だったという、少し笑いたくなるような挿話である。ヤコブを大きく見せようとして、神が小さくなってしまっている。ゴーギャンはこの挿話を題材に、「ヤコブと天使の戦い」を描いた。彼なりの判断で、ヤコブが力比べをしているのは神ではなく、その下のランク、天使である。
 ヤコブは双生児だった。兄にあたるエサウは野生児だった。おそらく腕力ではヤコブより強かったかもしれない。もしエサウが神と力比べをしていたらと想像すると、この挿話の可笑しさがさらに増す。
 いずれにしても「イスラエルととなうべし」という言葉が、現在の国名の由来である。

国家樹立

 イギリスの三枚舌外交については「植民地支配とヨルダン誕生」の項で触れた。現在の中東混迷の理由の大部分は、イスラエル建国が原因している。
 1917年のバルフォア宣言を、イギリス政府はさほど重要視していなかった。ユダヤ人国家を樹立する気などなかった。動けばアラビア半島をアラブ人のものとしたフセイン・マクマフォン協定に違反する。アラブ側の反発は必至である。しかしシオニスト側は真剣だった。パレスチナへのユダヤ人の移住が徐々に増え、現地人との間で軋轢が生じ始めていた。第二次世界大戦の勃発は、この問題を不安定な状態のまま、棚上げにしてしまった。
 ナチによるユダヤ人虐殺は、全世界を驚愕させたが、特にヨーロッパの人々に強い呵責の念を抱かせた。どの国もこれまで、少なからずユダヤ人を迫害してきたからである。その思いが、ユダヤ人の望むことならば、少々の無理は聞かねばならぬという素地を生んだ。
 強制収容所から救出された人々や、ヨーロッパ各地からの移住希望者が続々とパレスチナの地を目指した。彼らは、現地アラブ人と紛争を起こしただけではない。委任統治のイギリスをも追い出しにかかった。手段はテロである。
 特筆すべきテロ事件が、1947年7月22日のキング・デイヴィッド・ホテル爆破事件である。死者91名、負傷者46名という悲惨な結果を生んだ。このホテルは、委任統治政庁、イギリス軍指令部などが利用し、テロ組織の調査機関もあった。統治をあきらめたイギリスは、問題を国連に丸投げした。
 国連は1947年11月29日、パレスチナ分割決議を採択した。ユダヤ人の国をヨーロッパの中に創出するのであれば、問題は起きなかったことだろう。しかし、シオニストは、その案では満足しない。
 分割決議の主な内容は、パレスチナの地にアラブとユダヤ人の国を創出し、エルサレムを特別都市(国連の信託統治)とすること、イギリスの委任統治の終了を1948年8月1日までとすること、などである。採択結果は、賛成33、反対13、棄権10、欠席1だった。もちろんエジプトを含む中東諸国は猛反対だった。西欧諸国は、中東諸国の意向を軽く見た。まだ植民地支配時代の余韻が残っていた。ただこの決議は、採択直後から内戦が始まったため、公式見解では実現に至っていないとされる。
 建国前、1948年4月9日に起きたディル・ヤシーン村、パレスチナ住民虐殺事件に触れないわけにはいかない。Wikipedia によると、虐殺された人々は107人から120人とされている。事件後、更なる迫害を恐れた数十万人のアラブ人がエジプトやヨルダンに逃れた。この恐怖感は、イスラエルが計画的に煽ったものである。アラブ系の村々で、小規模の虐殺やレイプを続け、恐れを抱く住民たちを「移送」したことが証明されている。空白となった地域にはユダヤ人たちが住み、土地財産は彼らのものとなった。イスラエル政府は、難民の帰還を認めていない。パレスチナの人々はこの事件をナクバ(NAKBA/大惨事)と呼ぶ。

戦争行為による領土拡張

 パレスチナ問題から早く逃げ出したいイギリスは、1948年5月15日を以って委任統治を終了すると声明を出した。その前日5月14日、イスラエルは建国を宣言する。アラブ諸国は直ちに、イスラエルに宣戦布告した。第一次中東戦争である。アラブ諸国の参戦国は、エジプト、シリア、イラク、レバノン、トランスヨルダン、サウジアラビア、イエメン、モロッコ、スーダンである。誕生直後のイスラエルは、兵力、兵器ともに弱体で苦戦を強いられた。
 西欧諸国は、中東諸国の反対を押し切ってイスラエル建国を推進した以上、誕生したばかりのイスラエルを見棄てるわけにはいかなかった。武器支援を得たイスラエルは反撃し、停戦時には現在多くの国々に認められている領土を獲得した。
 1949年イスラエルは、国際連合への加盟が認められた。この速さも、西欧諸国の呵責の念の裏返しであろう。
 中東戦争は四度起きている。1956年の第二次は、スエズ運河の管理権をめぐる争いで、イスラエルはイギリスやフランスに便乗する形で戦争に参加した。漁夫の利を得んとしたのである。この争いはアメリカによる仲介で、エジプトに管理権が確定した。当時、イギリスやフランスはまだ植民地時代の夢から醒めていなかった。アメリカの方が常識的だった。時代の流れを認識していた。
 ヨルダンへ逃れたパレスチナの人々は、パレスチナ解放機構を結成し、アラブ諸国の秘密裏の援助を得て、イスラエル内でのテロ活動を始めた。なかでも、最も過激な武装組織が「黒い九月」だった。
 第三次中東戦争は、1967年イスラエルが先制攻撃で勝利をおさめた。短期間で終わり、6日間戦争と呼ばれる。参戦国は、アラブ連合共和国、エジプト、シリア、ヨルダン、イラクである。このときにイスラエルが占領した東エルサレム、ヨルダン川西岸地区、ゴラン高原など、いまも国際的にはイスラエル領として認められていない。
 時系列的には、三次と四次の中東戦争の間に、ミュンヘン・オリンピック事件が起きている。パレスチナ武装組織「黒い九月」の8名が、イスラエル選手たちを人質に取り、エジプトのカイロへの脱出を企図した。空港内で銃撃戦となり、テロリストたちは自爆した。死者は、イスラエル11名、警察官1名、「黒い九月」5名である。残る3名は逮捕されたが、つづくルフトハンザ航空ハイジャック事件で解放された。テロは非難されるべきだが、「黒い九月」側は、世界がようやくパレスチナの抵抗運動を認識した、画期的事件だとしている。
 日本にも共鳴者がいた。1972年5月30日、岡本公三、奥平剛士、安田安之の3名が、テルアビブ空港で乱射事件を起こした。死者26名、負傷者73名という大惨事である。奥平と安田は射殺され、岡本は逮捕された。イスラエルは彼を終身刑に処したが、捕虜交換でレバノンへ移動、政治亡命を認められていまも生存している。1947年生まれだから、73歳になっている。
 1973年に起きた第四次中東戦争の参戦国は、エジプトとシリアである。このときは不意打ちを食ったイスラエルが苦戦し、占領地を一部失って停戦している。
 四次にわたる戦争の参戦国を記したのには意味がある。イランの名がどこにもない。現在イスラエルが最も敵視しているイランは、中立的立場を取り続けていた。
 第二次世界大戦終了当時、イランを支配していたのはパーレヴィ(パフラヴィ)朝である。国民的に支持されていたモハンマド・モサッデグ首相は、1951年、イギリス系アングロ・イラニアン石油会社のイラン国有化を図った。アメリカCIAとイギリス秘密情報部が暗躍、イラン軍部を扇動してクーデターを決行させた。モサッデグ首相は失脚、国王に権力が集中する結果を生んだ。
 国王パーレヴィの支配は、1979年のイラン・イスラーム革命によって終わる。独裁色の強い王朝は国民から支持されなかった。そして何よりも嫌悪されたのは、豪奢を極めた暮らしぶりだった。革命後、亡命中だったホメイニ師が帰国し、宗教が国法よりも決定権を持つ中世的な国家となった。イランは反米色を強めた。テヘランでアメリカ大使館人質事件が起きた。
 イランと中東戦争をオーバーラップさせると、モサッデグ首相時代が、第一次に相当する。当時のイランは、親イスラエルとは行かないまでも、敵視はしていない。第三次中東戦争で、イスラエルが中東諸国を先制攻撃したとき、イランは親米のシャー(皇帝)支配の時代で、イスラエルの攻撃対象ではなかった。
 アメリカの要らざる干渉が、イランをイスラエルの天敵にしてしまった。
 イスラエルが、他国の脅威に敏感なのは理解できる。しかし度重なる国際法規無視は許しがたい。1981年にはイラクの原子炉を、2007年にはシリアの原子炉を爆撃した。いずれも国際法違反の越境爆撃である。国連安保理はイスラエル非難決議を採決したが、アメリカが拒否権を発動した。このほか、カダフィ時代のリビアや現在のイランに対し、原子炉爆撃を辞さずと脅しを加えてきた。
 第三次中東戦争で支配地域を広げたイスラエルは、国連決議を無視し、占領地への入植を拡大している。アメリカは拒否権でイスラエルを守りつづける。唯一の例外は、2016年12月24日に起きた。国連におけるイスラエル入植地非難決議に、これまで常に拒否権を行使してきたアメリカが、オバマ大統領の指示で棄権したのである。ただこの時点で、次期大統領が共和党のトランプに決定しており、オバマ大統領の決断は、次期大統領の歯止めにもならなかった。
 現在のイスラエルは、何をしても世界は許す義務があると考えているのではないだろうか。二千年もの間、迫害され続けてきたユダヤ人たちは、自分たちの思った通りのことをやってよいはずだと考えているのではないだろうか。しかし迫害してきたのは、ロシアを含めた西欧諸国で、中東やアジアではない。その西欧諸国も、いまでは我慢しすぎた、我儘を許しすぎたと反省しているように思える。例外は、トランプ大統領とその取り巻きだけである。
 トランプ大統領の暴走は止まらない。オバマ大統領時代、アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、ロシア、中国の五か国とイランとの間で核合意が成立した。イランの核開発を制約する目的である。イスラエルはこの合意を強く非難した。ウラン濃縮を制限しても、遠い将来核爆弾を持ち、イスラエルへの脅威となる、というのが反対理由である。イスラエルの肩を持つトランプ大統領は、一方的にこの合意から離脱しイランに経済制裁を課した。イランの核開発を阻止すると豪語したが、かえってイランのウラン濃縮を加速させ、両国間の関係を悪化させただけである。
 イランとの核合意の意義を考える前に、核拡散防止条約の偽善性を問題にしなければならない。アメリカ、イギリス、フランス、ロシア、中国の五か国以外、核兵器を持たないという不公平な条約である。これには、すでに核兵器を持つインドとパキスタンは加盟していない。北朝鮮は離脱した。そしてイスラエルも加盟国ではない。イスラエルは否認も肯定もしていないが、核兵器を持っていることは公然の秘密となっている。
 この条約の偽善性は、核保有国が自国の核兵器を保有したままで、非保有国の核兵器開発を禁止しようとするところにある。あくまでも非保有国の良識に依存するだけの、説得力に欠けた条約と言わざるを得ない。全世界が核兵器を放棄しない限り、この偽善性は消滅しない。
 イランとの核合意は、核拡散防止条約の偽善性を認識する核保有国が、どうやればイランの核開発を制限できるかと智恵を絞ったあげくの産物である。トランプ大統領には、その認識が欠けている。そして、イランがイスラエルの脅威であるとすれば、イランにとってイスラエルが脅威であるという認識が、イスラエルには欠けている。
 1996年に国連で採択された核兵器禁止条約は、この旅行記を書いている時点では、批准国がまだ50ヶ国に達していないため発効していない。核保有国は、既得権に固執しこの条約に反対である。イの一番に賛同すべき原爆被害国日本は、アメリカの核の傘に守られているという理由で、まだ批准していない。核保有国の偽善の片棒を担っている。日本人として恥ずかしい限りである。
 第二次世界大戦後、戦争行為で領土を広げてはならないという不文律が国際間で成立した。悲惨な戦争から学んだ教訓である。大戦後、この不文律に違反している国は、イスラエルとロシアの二国のみである。

アパルトヘイト

 …われバビロンの河のほとりにすわり、シオンを思いいでて涙を流しぬ(旧約聖書「詩篇」137:1)は、ディアスポラの悲しみを詠って胸を打つ。しかしつづく詩句…ほろぼさるべきバビロンの女よ、なんじがわれらに作しし如く汝にむくゆる人はさいわいなるべし。なんじの嬰児をとりて岩のうえになげうつ者は幸福なるべし(同137:8-9)、は怨念の表現としてもすさまじい。
 そしていま、迫害されているパレスチナの人びとは、バビロニアンではないし、ナチスでもない。
 アパルトヘイト( apartheid )は、分離とか隔離を意味する。南アフリカ共和国における白人と非白人を差別する人種隔離政策を指す。1948年に立法、全世界から非難されたが、強力に実行された。非暴力を貫いたマンデラ大統領の苦闘は今も胸を打つ。1994年全人種による初の総選挙ですべて廃止された。
 そしていま、人種差別が最も苛烈な国がイスラエルである。同じユダヤ人社会でも、ヨーロッパやアメリカからの移住者の地位が最も高く、次いでロシア系、最低はエチオピアなどのアフリカ系と、歴然たる差別がある。ましてパレスチナ人の人権など無いに等しい。
 パレスチナの問題は、2000年におよぶ居住権と、それ以前の居住権の争いである。聖書に書かれているからと言って、居住権を法律的に主張できるはずがない。2000年の居住権が優先し、差別などを受ける謂れなどない。
 1947年の国連におけるパレスチナ分割決議に、アラブ諸国が反発したのは至極当然と言える。パレスチナ人の住む地域を無人とみなして、イスラエルという有を生じさせたところに無理がある。加えて、決議案の分割比が不公平だった。人口比でアラブ67%ユダヤ33%であったにも拘わらず、面積比はアラブ43%ユダヤ56%だった。
 建国前から、シオニストたちは将来の国土となるべき地の人口比率を、ユダヤ人にとって有利になるよう、策略をめぐらした。パレスチナ人たちを追い出しにかかった。それが建国前のディル・ヤシーン村事件であり、建国後の人種差別、民族浄化となって現れた。イスラエルが人道主義を口にしたら、これに勝る偽善はない。
 ストリート・アーティスト、バンクシーは、最近とみに有名になった。イギリス人であることは間違いないが、素性を隠していて、それが広く関心を集める要因となっている。彼の絵は、具象で極めて分かりやすい。常に反権力であることも好ましい。イスラエル滞在中、彼の絵を見たのは一度だけだが、彼は絵の他にも、ベツレヘムのホテルに出資している。分離壁に面したそのホテルは、「世界一眺めの悪いホテル」というのがキャッチフレーズになっている。
 彼自身が関与した映画が「イグジット・スルー・ザ・ギフトショップ」(2010年)で、彼の覆面活動がある程度推察できる。映画の題は、どこの美術館や博物館も、ギフトショップを通らないと外に出られない、と揶揄している。
 彼の絵は壁に描かれる。彼は皮肉っぽく言う。「今やパレスチナは世界で一番でかい青空監獄だ。グラフィティアーティストがアクティビティホリデーを過ごすには絶好の目的地でもあるね」(吉荒夕記「バンクシー壊れかけた世界に愛を」美術出版社)。たしかにイスラエルは、グラフィティ・アーティストに巨大なカンバスを提供し続けている。
 現代のイスラエルを知るには、四方田犬彦「パレスチナ・ナウ」(作品社)がいい。「シオニズムがユダヤ人唯一主義を主張するあまりに、パレスチナに本来存在していた宗教的寛容、民族的共存、文化的多元のことごとくを破壊した」と書く。「イスラエルとはユダヤ人による植民地」であり、「シオニストたちはユダヤ教とは絶対に関わりをもちたくなかった。むしろヨーロッパ化された世俗のエリート国家を目指していた」と分析し、植民地政策がアパルトヘイトの最大の要因であると指摘する。「シナゴーグに足を踏み入れたことがない者が60%に達した」という現状の指摘には、苦い笑いしか浮かばない。
 「ガザに地下鉄が走る日」(みすず書房)を書いた岡真理は、現代アラブ文学を専門とする京都大学大学院教授で、人権活動家でもある。この書の中で、南アフリカの反アパルトヘイト活動家たちの言葉を紹介している。彼らは、イスラエルにかつての白人国家と同じレイシズムを看取し、イスラエルの占領と闘うパレスチナ人との連帯を表明している。その中から南アフリカ労働組合会議議長ウィリー・マディシャの言葉を記す。
 …アパルトヘイト(南アフリカにおける)は、殺人、絞首刑、失踪、追放、没収、低学歴、バンツースタン(白人が黒人の土地を奪う制度)の建設等々によって特徴づけられるが、パレスチナ人の身に起きていることに較べれば、日曜日のピクニックのようなものだ。私は自信をもって断言する、イスラエルはアパルトヘイト国家である。
 こういう発言に対し、シオニストたちは「反ユダヤ主義」とレッテルを張り、問題をすりかえる。
 「ガザに地下鉄が走る日」など来るはずがない。このユニークな題を持つ本は、理想を追う者の夢を描いてやまない。
 …ヨルダン川から地中海まで、いま、イスラエルが支配するその土地の上で、ユダヤ人もアラブ人も、神の前でそうであるように、自由で平等な人間となったら…? それこそが、シオニズムが最も恐れる事態だ。(中略)砂漠の檻の鉄格子がなくなったとき、ガザに地下鉄が走るだろう、と岡真理はこの書を締めくくる。

テロリスト

 イスラエルはパレスチナ人をテロリスト呼び、分離壁を築いている。この醜い壁は、第三次中東戦争で奪い取った、国際的には認められていないヨルダン川西岸地区へ深く食い込み、不法な入植地を保護している。たしかに、分離壁建設後イスラエル国内におけるテロ行為は減少した。だが、イスラエルに、パレスチナのテロ行為を非難する資格があるのだろうか。
 イギリスが委任統治を断念し、問題を国連に丸投げした主な要因は、ユダヤ人によるテロ行為だった。そのいい例が、キング・デイヴィッド・ホテル爆破事件である。建国後、イスラエルはモサドという情報・特務工作機関を創設した。アルゼンチンに潜伏していたナチスのアイヒマンを捕らえたのもこの機関である。モサドは暗殺集団と言っていい。
 ミュンヘン・オリンピック事件の生き残り「黒い九月」のメンバー3名を追い詰めて殺した。2010年、パレスチナ、ハマス軍事部門創設者マフマード・マブーフを、ドバイで暗殺した。このとき、モサドのメンバーは、イギリスやオーストラリアの偽造パスポートでアラブ首長国連邦へ入国した。利用された国々はイスラエルを非難し、イギリスはイスラエル外交官を一人国外追放処分とした。同じ年、イラン、シャリフ工科大学教授アリ・モハマディを爆殺した。彼は核兵器顧問でもあった。イスラエルは沈黙を守っているが、パレスチナ以上のテロ国家であることは否定できない。
 「モサド・ファイル」(マイケル・バー=ゾウハー/ニシム・ミシャル著、上野元美訳、ハヤカワ・ノンフィクション文庫)には、モサドが実施してきた暗殺破壊行為の数々が記述されている。著者たちがユダヤ人であるだけに、反省の弁は全くない。むしろユダヤの古いことわざ「だれかが殺しにくるのならーー立ちあがって、その男を先に殺せ」と己の行為を正当化している。
 2020年1月3日、アメリカのドローンが、イランの軍事責任者ソレイマニ司令官をバグダット空港で爆殺した。われわれの今回の旅行の直前である。このとき同時にイラクのムハンディス副司令官ほか4名が死亡している。アメリカに、他国をテロリスト国家と呼ぶ資格はない。

遠のく和平、便利な政治家

 現在のパレスチナ自治政府の母体となったパレスチナ解放機構は、イスラエル建国によって国外に逃れたパレスチナの人々が結成した抵抗組織である。1964年のアラブ連盟による第一回アラブ首脳会議で、その設立が承認された。念願とするのは、民族自治権と離散パレスチナ人の帰還権である。Palestine Liberation Organization の略称PLOと呼ばれた。
 当初ヨルダンのアンマンに拠点を置き、イスラエルへ小規模な越境テロ攻撃を繰り返した。イスラエルは、報復としてヨルダンを爆撃した。ヨルダン政府はPLOを追い出さざるを得ない。PLOは拠点を、レバノンへ移した。
 イスラエルとパレスチナの闘争を列挙し始めると、どこで始めてどこで終わっていいのか、いくら文字を連ねても終りがないように思える。それでも1982年のレバノン戦争だけは、ここに記録しておきたい。
 イスラエルは1979年、エジプトとの和平条約を結んだことで、南部での戦争の脅威から解放された。世界は、イラン=イラク戦争や、フォークランド戦争の行方に注目し、パレスチナ問題への関心が薄れていた。イスラエルは、これを好機に、レバノンのPLOをつぶしにかかった。仮にPLOを国家と考えれば、第五次中東戦争と言ってもいい。
 1982年6月、PLOの拠点があったベイルートを爆撃、PLOを支援するシリア空軍にも攻撃を加えた。国連の停戦勧告にも拘わらず、8月まで戦闘を続け、ベイルートは瓦礫の山と化した。死者1万9085人、負傷者3万302人、孤児となった子供約6000人、家を失った人約60万人と記録されている(広河隆一「パレスチナ」岩波新書)。悲劇はこれだけに止まらない。
 キリスト教マロン派の武装組織ファランジスト(ファランヘ党)が、ベイルート郊外のパレスチナ難民キャンプを襲い、非戦闘員を虐殺した。ファランヘ党は、親イスラエルの民兵組織である。この悲劇の背景には、当選したばかりのレバノン大統領アミーン・ジェマイエル暗殺事件がある。親イスラエルだった大統領の暗殺を、ファランヘ党はPLOの犯行と捉え、パレスチナへの報復を誓っていた。
 二日間続いた虐殺の死者は762人から3500人と言われている(Wikipedia)。サブラー・シャティーラ事件と言う。この事件で、イスラエルは事前の回避措置を取らず、虐殺を黙認したと非難された。
 この結果、PLOはチュニジアへ拠点を移した。
 インティファーダはアラビア語で、「蜂起」、「反乱」を意味する。
 1987年10月1日、イスラエル兵がガザのジハード運動構成員7名を殺害した。数日後、入植者がパレスチナの女子学生を背後から銃撃、12月6日イスラエル国防軍のトラックがバンに衝突し、パレスチナ人が4名死亡した。難民キャンプでの葬儀が暴徒化し、イスラエル国防軍への攻撃へと発展した。第一次インティファーダという。攻撃したと言っても火炎瓶か精一杯手製の爆弾である。多数の死亡者がパレスチナに出た。12月22日、国連安保理はジュネーブ条約違反としてイスラエル非難決議を採択した。
 アメリカの拒否権に守られたイスラエルは手を緩めない。1988年4月、PLO指導者アブージハードをチュニスで暗殺した。同年10月には、ユダヤ人過激派がエルサレムのモスクを襲撃し、騒乱に出動した治安警察が、パレスチナ人22名を射殺した。
 世界の世論は、「石つぶてで圧政者に立ち向かう住民と、それを最新兵器で女子子供を含め掃討するイスラエル軍」ととらえ、イスラエル非難へと傾いた。
 機を見るに敏なPLOアラファト議長は、1988年11月15日、パレスチナ国家の独立を宣言した。1947年の、国連におけるパレスチナ分割決議がまだ失効していないとする立場である。エルサレムを首都として宣言したものの、どこにも領土のない国家だった。
 イツハク・ラビンは、1967年第三次中東戦争時のイスラエル軍参謀総長で、自国を勝利に導いた軍人である。退役後アメリカ大使となり、その後政界入りした。所属は左翼系の労働党で、労働大臣を経て労働党党首となった。そのころ、イスラエルにも変化の芽が萌していた。ロシアからの移民が急増し、政治的情勢がやや左翼化していた。1974年、彼はゴルダ・メイヤの跡を継いで首相となった。そして、パレスチナとの和平の主役を演じることになる。
 アメリカ、クリントン大統領は中東和平に力を注いだ。彼には女性スキャンダルの汚名がついてまわるが、外交面の業績は大きい。中東以外でも、ボスニア・ヘルツェゴヴィナの和平を成功させている。
 ノルウェーの仲介も大きい。水面下の交渉の場を提供した。クリントン大統領の主導で、イスラエルとパレスチナ解放機構との間の合意が成立した。1993年9月13日、ワシントンで調印式を行った。オスロ合意という。ラビン首相は、「和平は友と結ぶのではなく、敵と結ぶものだ」と言った(「ラビン回想録」竹田純子訳、ミルトス)。
 基本的な合意内容は、@イスラエルを国家として、PLOをパレスチナの自治政府として相互に承認するAイスラエルは占領した地域から暫定的に撤退し、5年にわたって自治政府による自治を認める。その5年の間に今後の詳細を協議する、というものである。
 その結果、1994年5月からガザとエリコの先行自治が始まった。イスラエルのラビン首相、ペレス外相、PLOのアラファト議長の三人はノーベル平和賞を受賞した。
 1995年9月24日、オスロ合意をさらに煮詰めた「暫定自治拡大合意」がワシントンで調印された。「ベツレヘム」の項で触れたA、B、Cの管理区分はここで決定している。C地区は順次パレスチナへ移管される計画だった。和平は目前のように思えた。
 1995年11月4日、ラビン首相が暗殺された。犯人はイスラエル拡大主義者(カハネ主義)だった。平和への希望は頓挫した。その後火中の栗を拾う政治家は出て来ない。ノーベル平和賞受賞者の一人シモン・ペレスは後に大統領となったが、すでに飾り物でしかなかった。
 イスラエルの対パレスチナ政策はより厳しさを増し、入植地は拡大した。対抗するようにアラブ側も尖鋭化する。PLOを構成するファタハの穏健路線に不満を持つハマースがガザを支配し、抵抗運動を過激化した。レバノンのヒズボラは越境攻撃を繰り返す。
 2000年9月、第二次インティファーダが起きた。きっかけは、シャロン外相(当時、後に首相)が1000名の武装兵士と共に、アル・アクサモスクに入場したことに端を発する。イスラム教徒に対する挑発行為だった。この第二次インティファーダもまた、「石つぶてで圧政者に立ち向かう住民と、それを最新兵器で掃討するイスラエル軍」の繰り返しに終わった。圧倒的な武力の差は、圧倒的な死者数の差となる。
 2002年2月、サウジアラビアが、アラブ連盟を代表して和平案を提案した。1967年の占領地からイスラエルが撤退すれば、国家として承認するという至極妥当な提案だった。しかし、グレート・イスラエルを目指すシオニストたちは一顧だにしなかった。それだけではない、世界世論を嘲笑するかのように、テロ抑止を理由に分離壁の建設を開始した。イスラエル非難決議は、常にアメリカが拒否権で守った。 
 シオニストが目指すグレート・イスラエルとは、ダビデやソロモン時代の領土の再現である。二国共存案など、彼らにとっては迷惑な提案である。しかしグレート・イスラエルなど、そこが無人の曠野であればともかく、現存する国々がある。実現できるはずがない。彼らは聖書に書かれていると言う。ここまでくると、イスラム原理主義者の狂信と何ら違いはない。
 2003年4月、ブッシュ(子)大統領は、イラク侵攻に先立って、イスラエル・パレスチナ問題を解決しようと、二国共存案を骨子とするロードマップを発表した。イスラエルにとって、迷惑な提案だったがとりあえず沈黙を守った。ブッシュ大統領の本心はイラク侵攻にあり、ロードマップはこれ以上進展しなかった。
 2004年、PLOのアラファト議長が死去した。後継者はマフムード・アッバースである。彼は2011年9月、パレスチナ国家としての国連加盟を申請した。国連は、2012年12月1日、パレスチナを「非加盟オブザーバー組織」から「非加盟オブザーバー国家」へ格上げした。
 現在パレスチナを国家として認めている国々は137ヵ国に上る。残念ながら、日本は仲間入りしていない。
 2014年夏、ガザを51日間封鎖したイスラエルは、ジェノサイドとでも呼ぶべき攻撃を実行し、2200人以上のパレスチナ人を殺害した。
 2016年11月のアメリカ大統領選挙で、もし大方の予想どおりヒラリー・クリントンが大統領に当選していたとする。夫のビル・クリントンが外交顧問となってオスロ合意の再現を目指したかもしれない。しかし、歴史に「もし」は成立しない。トランプ大統領が当選して以来、イスラエルとパレスチナとの関係は、一層緊張感を増した。得票総数ではヒラリーに劣ったトランプは、二期目を目指して、ユダヤ寄りの姿勢を崩さない。ユダヤの資金と、宗教色の強い南部諸州の票が頼みの綱である。
 2017年12月、アメリカはエルサレムをイスラエルの首都と認定、イスラエル建国70周年を記念して、2018年5月大使館をテルアビブからエルサレムへ移動した。国際的には非難されたが、再選しか頭にないトランプ大統領は、歴史的経緯や国際正義などに考えが及ばない。当然パレスチナの反発を招く。特にガザでは激しい衝突が起きた。極端な死者数の不均衡が報道されると、非難はイスラエルに集中する。イスラエルはスナイパーを国境付近に配置し、デモグループの足元を狙い撃ちする。死者数は減るが、投石する少年たちに不具者が多く出る。石つぶてと最新兵器では、常に結果は見えている。
 イスラエルの首相は、1996年以来ネタニヤフである。彼は、汚職などのスキャンダルに苦しみ、首相の地位を失えば訴追される恐れがある。対パレスチナ強硬策を続けて政権を維持しなければならない。トランプ大統領とネタニヤフ首相の組み合わせは、パレスチナにとって最悪と言える。入植地の拡大は黙認された。二人とも、和平協議はイスラエルとパレスチナの二者間で行われるべきと主張する。力の差が拮抗する二者であれば、その論にも正当性がある。イスラエルとパレスチナの二者間では、ただの言い訳に過ぎない。
 トランプ大統領の娘婿ジャレッド・クシュナーは、大統領上級顧問として中東和平案を練っている。ユダヤ人である彼の案は、イスラエルにすり寄ったものとなる。ビジネスマンとしては義父以上であろうが、それだけに金銭的な解決案が生まれることだろう。和平案が不動産取引として扱われかねない。パレスチナの誇りなど完全に無視される案になることだろう。
 ネタニヤフのライバルと目されるベニー・ガンツは、ネタニヤフの汚職は追及するものの、グレート・イスラエルを目指す路線ではさほど違いはない。二国共存案など念頭にない。
 イスラエルにも良心派がいないわけではない。パレスチナ人の土地を取り上げたことに、良心の痛みを感じている人々も多くいる。しかし、大多数は自国の領土の維持拡大を望む。国が大きくなることに反対する者などいない。
 ネタニヤフ首相は、汚職政治家である。しかし大衆にとって、己の良心を痛めることなく、汚いことをやってくれる政治家がいたらきわめて便利ではないだろうか。「便利な政治家」であることが、ネタニヤフの存在価値と言える。
 和平案はないのか。ある。1947年に戻ろう。国連で採決されたパレスチナ分割決議が、いまもなお、最も妥当な案なのである。
 パレスチナの地に、アラブとユダヤ人の国を創出し、エルサレムを特別都市(国連の信託統治)とすることが分割決議の骨子だった。これを、1967年第三次中東戦争以前の領土区域で実行すればいい。解決策は常に単純で明確である。しかし、いかに実現がむずかしいことか、出るのは溜息しかない。

評論、文学、映画など

知の巨人たち

 エドワード・W・サイードはパレスチナ系のアメリカ人で、キリスト教徒だった。コロンビア大学で、英文学と比較文学の教授を40年間勤めた。
 著書「オリエンタリズム」(今沢紀子訳、平凡社ライブラリー)において、この言葉の持つロマンティックなイメージが、西欧の人々が持つ優越感から生まれてきたと的確に指摘した。加えて、それが植民地主義や、帝国主義的な野望を正当化する隠れ蓑となって来たと追及した。言われてみれば、われわれが中東に持つイメージは、「千一夜物語」やリムスキー・コルサコフの「シェヘラザード」であり、ドラクロアやアングルの絵画である。西欧の目を通して中東を見ている。
 サイードはさらに発展して、オリエントとオクシデントの区別も不必要とした。オクシデントは、ラテン語で日没の地を意味し、西欧を指す言葉である。
 「パレスチナとは何か」(島弘之訳、岩波現代文庫)や「ペンと剣」(中野真紀子訳、ちくま学芸文庫)などが示す通り、彼はアメリカにおける数少ないパレスチナ側の論客だった。彼はオスロ合意に反対だった。「一国家解決」すなわち、アラブ人とユダヤ人が等しい権利を持つ新たな国を作るべきと主張した。そのため、アラファトと袂を分かつこととなった。オリエントとオクシデントの区別など不要と主張する彼らしい理想論だった。インド独立の父ガンディーが望んだのは、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒が等しく共存する国家だった。ジンナーの強力な反対でインドとパキスタンの二国家が誕生した。ガンディの願いは実現しなかった。パレスチナにおいて、頑迷なシオニストたちがサイードの主張に組するはずがない。理想論は夢と消える。惜しくも、彼は2003年67歳で世を去った。
 イランに生まれのハミッド・ダバシは、アメリカで学び、現在はコロンビア大学で教授を勤めている。サイードの後継者とも言える。「ポスト・オリエンタリズム」(早尾貴紀、本橋哲也、洪貴義、本山謙二訳、作品社)のなかで、彼はサイードの「オリエンタリズム」を高く評価しつつ、その論が西欧的人文主義的見地に捉われているのではないか、説得しようとしている対話者が西欧に限られ、イデオロギー的に自滅していると指摘する。サバルタン(被抑圧者)としては、世界を対話者にすべきと示唆する。
 ハンチントンの「文明の衝突」や、フクヤマの「歴史の終り」を取り上げ、右翼政治家に貢献するだけの御用学者と酷評する。痛快ですらある。
 「サピエンス全史」(柴田裕之訳、河出書房新社)の著者ユヴァル・ノア・ハラリはイスラエル人歴史学者である。オックスフォード大学に学び、ヘブライ大学で教鞭をとる。彼は自らを無神論者で、ゲイであることを隠していない。つまり一昔前のユダヤ社会だったら、生きていけない類の人物である。この書は、動物たちにはいろんな種(例えばライオン、トラ、ヒョウ、ジャガーはすべてヒョウ属に入る)があるのに、人類にはホモ・サピエンスしかいないのか、その前に存在したネアンデルタールとどこが違うのか、と指摘する。アフリカでほそぼそと暮らしていたホモ・サピエンスが、食物連鎖の頂点に立ち、文明を築いたのはなぜか、と問いかける。
 それは、ホモ・サピエンスに「虚構」を作る能力があったからだ、というのが彼の答である。「虚構」こそが見知らぬ人同士協力することを可能にした。当然その「虚構」の中には宗教も含まれる。
 ユヴァル・ノア・ハラリの「21Lessons」(柴田裕之訳、河出書房新社)は、現代社会を分析する。「神」「ナショナリズム」「移民」などの問題が取り上げられる。「もし今、エジプトがイナゴの大発生に見舞われたら、エジプト人はアッラーに救いを求めるだろうか」と書く。彼の論は、深刻な問題の指摘に始まり、数々の歴史的事実と比較し、どちらかと言えばポジティブに結論づけるところが面白い。
 この書が引用した書物のなかに、オルダス・ハクスリーの「すばらしい新世界」(黒原敏行訳、光文社文庫)がある。ハクスリーがこのデストピア物語を書いたのは1931年である。同じイギリスのジョージ・オーウェルの「1984年」(新庄哲夫訳、ハヤカワ文庫)は、全体主義国家のデストピアを描いて人々を戦慄させた。ハクスリーの「すばらしい新世界」は、恐れと暴力の代わりに愛と快感を提供する。その世界は平和で繁栄している。そのどこがデストピアなのか指摘は難しい。しかし、「1984年」以上に悪夢のようなデストピアなのである。「すばらしい新世界」は未来への希望のない人間社会を示唆している。オーウェルがイートン校で学んでいた時代、ハクスリーが彼にフランス語を教えていたというのもなにかしら不思議な因縁である。
 こういった知の巨人たちの書を読むと、いつも「目から鱗」の思いに駆られる。自分の知識の浅薄さに冷汗を流す。まさに冷汗三斗の思いである。
 ユヴァル・ノア・ハラリは、ユダヤ人で、イスラエルで生きていかなければならない。彼は、その著書の中で、注意深くパレスチナ問題を避ける。「21Lessons」の中で唯一、「イスラエル人とパレスチナ人の間の平和条約締結阻む大きな障害の一つは、イスラエル人がエルサレムの町を分割したがらないことだ。この町は『ユダヤ民族の永遠の都』であり、永遠のものに関しては絶対に妥協できない、と彼らは主張する。(中略)『永遠』はどんなに短くても138億年ある。(中略)エルサレムはわずか5000年前に創設され、ユダヤ民族は長くても3000年の歴史しか持たない。これでは永遠と言う資格はとうていない」と述べているが、そこまでが精一杯のところだろう。
 比較文明論では、松本健一の「砂の文明、石の文明、泥の文明」(PHP新書)がよくまとまっている。比喩はそれぞれアラブ、ヨーロッパ、アジアを意味する。石の文明のヨーロッパは、表土が浅く農業に向かない。乾燥に強い麦が主食となる。泥の文明のアジアは米を産出する。麦と米では支える人口に差が出る。アジアの人口密度の高さに反映する。石の文明のヨーロッパは、牧畜が主産業になる。羊や牛が草を食べつくすと、別の場所に移動しなければならない。それには広い牧草地が必要となる。必然的に拡大主義者となる。
 砂の文明に住む人々について、松本は映画「アラビアのロレンス」から例を引く。砂漠に入ったロレンスが、案内のベルベル人と井戸の水を飲む。部族長が現れ、案内人を射殺する。ロレンスが抗議すると、部族長は「こいつは盗っ人だ」と答える。ロレンスは「俺も水を飲んだ。俺も盗っ人じゃないか」と抗議する。部族長は答える「いや、あなたはゲストだ。ゲストは情報を持っている」。
 砂漠に生きる人々は、交易で身を立てる。部族間のネットワークを通じて伝わる情報が命の綱である。必然的にタフ・ネゴシエーターとなる。交渉の相手としては手強い。
 そう言われて、ブッシュ(子)大統領のイラク侵攻を思い起こす。彼の狙いは、石油利権の支配にあったが、そう露骨に言うわけにもいかず、イラクが大量破壊兵器と化学兵器を所持していると、侵攻の理由づけをした。フセイン大統領は、強く否定して交渉を続けた。査察を拒否したイラクに辛抱しきれなくなったブッシュ大統領はイラクに攻め入った。そこには大量破壊兵器も化学兵器もなかった。イギリスのブレア首相も、日本の小泉首相も、ブッシュ大統領に盲目的に賛同し、追随した。両者とも国内ではまずまずのリーダーだったが、消えぬ汚名を残してしまった。
 このとき、フセイン大統領はまだ交渉を続けているつもりではなかっただろうか。アメリカも、イギリスも、日本も、中東の人々がタフ・ネゴシエーターであることを理解していなかった。先制攻撃の非がどちらにあるかは明白である。
 サイードやダバシの書を読んで、鈍い私もようやくイスラエルの実体を理解できたように思う。オリエント(東洋)に対するオクシデント(西洋)という観点から見る必要がある。本来、人類に西洋も東洋もあってはならないが、イスラエルを理解するには、彼らの考え方に立たざるを得ない。
 もともと西洋から見れば東洋の民族だったユダヤ人は、二千年に及ぶディアスポラの末、西洋のユダヤ人となった。その彼らが、パレスチナの地に新しく作った「植民地」がイスラエルである。四方田が「パレスチナ・ナウ」に書いた植民地云々の指摘は正しい。西洋以外の地域からの移住したユダヤ人は、西洋系ユダヤ人の支配下にあって下部階層を形成する。植民地原住民との中間的存在である。中南米におけるメスティーソに近い。
 16世紀以降に作られた植民地は、そのほとんどが独立を果たした。欧米化したユダヤ人の作った世界で一番新しい植民地は、失敗した先輩国から何も学んでいない。学ぼうともしない。人種差別、民族浄化、アパルトヘイトなど、彼らがなぜそれほど冷酷になれるのか、やっと合点がいく。それらはすべて先輩国が、インドや東南アジア、中南米やアフリカでやって来たことである。イスラエルは、先輩国以上に冷酷にそれを再現しているに過ぎない。

文学や映画など

著作あれこれ

 世界でも最古と言える文学が、「ギルガメシュ叙事詩」(矢島文夫訳、ちくま学芸文庫)である。古代メソポタミアに生まれたこの物語は、粘土板に楔形文字で刻まれた。「死海文書」は羊皮紙に書かれていた。乾燥して崩れ落ちかけていた。「ギルガメシュ叙事詩」の泥に刻まれた文字ははっきりと残っていたが、粘性がなく小さな破片になっていた。バラバラになった泥の破片を、研究者たちは気の遠くなるような努力を重ねて、一つの物語に構成して現代に伝えてくれる。翻訳した矢島文夫も含めて、こういう研究に携わる人たちの頭の中は、どのような構造になっているのか、凄いとしか言いようがない。
 この物語は、紀元前1300〜1200年頃にまとめられたとされている。主題は不死の追及、友情、神などで、人間は精神的に古代から果たして進歩したのかと、慨嘆の思いに駆られる。大洪水は旧約聖書の「ノアの方舟」、ギルガメシュとエンキドゥの関係はダビデとヨナタンに影響を与えたとされる。もちろん、ユダヤ教徒も、キリスト教徒も認めたくない事実である。
 この書には、「イシュタルの冥界下り」が併録されてている。ギリシャ神話のアドニスやオルフェウスの物語に影響を与えたのではないかと考えられている。同時に、日本神話の伊弉諾尊の冥界下りも思い出させる。
 日本でもイエスを主題にした伝記や小説は数多くある。なかでも異端の作は、武田泰淳の「わが子キリスト」(講談社文芸文庫)であろう。非信者は、受胎告知や処女懐胎、昇天などに抵抗を覚える。武田泰淳は浄土宗の僧侶でもあった。国家が推奨する委員や、授与しようとした賞をすべて拒否した。そんな硬骨漢が、自分の納得できる、奇蹟物語のないのないイエスを書いた。大胆な試みである。彼の代表作ではないが、納得させられるところは多い。
 パレスチナのガッサーン・カナファーニーは優れた小説や評論を書き残した。「太陽の男たち/ハイファに戻って」(黒田寿郎・奴田原睦明訳、河出書房新社)には移民の話が登場する。イラクのバスラからクウェイトへ密入国を図った三人が、大型の給水車のタンクに隠れて越境を試みる。炎天下で中は焼け付くように熱い。検問所の係官は雑談などをして、一向に手続きを進めてくれない。運転手が車に戻ったとき、水槽タンクの中からは何の物音もしなかった。三人とも窒息死していた。なぜタンクの壁を叩かなかったのかと、運転手は砂漠に向かって叫ぶ。叩いても、検問所にいた運転手に聞こえたはずもない。「なぜだ」という運転手の叫びで物語は終わる。
 この小説は1962年に書かれている。同様な事件が、さらに多数の死者を出して現実に起きた。イギリスで2019年11月、ヴェトナム人とみられる39人が、冷凍トラックのコンテナの中で窒息死していた。運転手は過失致死の罪で有罪となったが、背後の闇の組織には捜査の手が届かない。
 1936年生まれのカナファーニーが12歳のとき、ディル・ヤシーン事件が起き、一家はダマスカスに移動した。苦学してダマスカス大学に学んだが、中退して政治活動に入った。パレスチナ解放人民戦線(PFLP)の公式スポークスマンとして活動した。PFLPはPLOの下部組織とみていいだろう。彼は有能なスポークスマンだった。文学上の成功によって、彼の政治的発言に多くの人々が関心を寄せるようになった。イスラエルにとって、彼の存在は脅威でしかない。1972年7月、何者かが自動車に爆薬を仕掛けた。彼は36歳で暗殺された。
 アルジェリア生まれのヤスミナ・カドラの「テロル」(藤本優子訳、早川書房)の舞台はテルアビブである。主人公の医師は、ベドウィン系のアラブ人で、成人してイスラエルに帰化した経歴を持つ。彼は警察から呼び出され、自分の妻が自爆テロの実行犯だったと告げられる。なぜ愛する妻がテロリストになってしまったのか、彼は妻の足跡を追ってイスラエルとパレスチナ自治区を旅する。アラブ系イスラエル人という立場は、アラブ系、ユダヤ系双方から異分子とみなされかねない…。
 ヤスミナ・カドラは1955年に生まれ、アルジェリアの軍人(それも高級士官)だった。にもかかわらず、50歳でフランス国籍を取得した。小説の主人公同様複雑な経歴の持ち主である。フランス自体、国民感情が変化している。イスラエル建国当初、贖罪の思いもあって親イスラエルだった。原爆開発にも協力している。現在は、イスラエルの傲慢さに嫌気がさしたのか、中立的立場を取り始めている。
 パレスチナ独立宣言の起草者マフムード・ダルウィーシュは、パレスチナを代表する詩人である。日本では「壁に描く」(四方田犬彦訳、書肆山田)という詩集が出版されている。「この大地にあって」という題の詩はこのように結ばれる。
  …この大地にあってまだ生に値するもの、
   女なる大地、すべての始まりと終りを司る大地。かつてパレスチナと呼ばれ、のちにパレスチナと呼ばれるようになった。
   わがきみよ、汝がわがきみであるかぎり、われに生きる価値あり。
 書名となった「壁に描く」は長編詩で、ギルガメシュから聖書、コーランなどを網羅しながら、パレスチナの現在を描き出す。浅学な私には少し荷の重い詩である。イエスを詠った箇所では、
  …私は平和と静けさを与えられてきた。
   微かな一粒の麦がわたしと
   敵なる兄弟を養うだろう。
   私の時はいまだ来ていない。
 イエスが説いた赦しは、「いまだ来ていない」と彼の詩は語る。
 彼はPLO執行委員会メンバーだった。2008年67歳で世を去った。パレスチナは、アラファト議長に次いで二人目となる国葬で彼の功績を讃えた。
 イスラエルの作家ではアブラハム・B・イェホシュアの「エルサレムの秋」(母袋夏生訳、河出書房新社)を読んでいる。「詩人の、絶え間なき沈黙」と「エルサレムの秋」の二編が収められている。筆を折った詩人と、彼が老境に入ってから生まれた息子を描いた「詩人の、絶え間なき沈黙」が印象深い。息子には脳に障害を持って生まれてきたらしい。卒業まぎわの授業で父親の詩を知った息子は、父に再び詩を書かせようとする。それもかなり執拗に。父は「もう書かない、君が書くといい」と言う。息子は父に代わって詩を書き始める。ひょっとしたら、この息子はイスラエルそのものを象徴しているのかも知れない。
 イェホシュアは、イスラエルの良心的左翼といった存在らしい。末尾の解説によると、2006年に起きたレバノンのヒズボラとの戦争に際し、「停戦して交渉に場を移そう」と新聞広告を出した、という。
 それでもなお、パレスチナ側の著作に比べ、やはり生ぬるいものを感じる。追い詰められた度合いの違いがそこにある。

映画あれこれ

歴史ものなど

 見てきた映画を、歴史的な順序に並べてみる。
 まず、ジョン・ヒューストンが監督した「天地創造」(1966年)がある。監督不可能な監督と言われたヒューストンだが、至極真面目に作っている。破天荒ではないところが、逆に面白味を欠くことになったのではないだろうか。
 一神教の誕生では、「エジプト人」(1954年)にイクナトン(映画ではアクナトン)が登場する。多神教だったエジプトを、太陽神アテンのみを信仰する一神教に導いたファラオである。これがユダヤ教の初めとされるが、定説にはなっていない。映画でも、むしろ狂気じみたファラオとして描き、ユダヤ教とは結びつけてはいない。イクナトンの死後、エジプトは多神教に戻り、彼の築いた都アケトアテン(現アマルナ)は完全に破壊された。象形文字で彫られた彼の名は削りとられた。以前エジプトを旅行した折、ルクソールの博物館で、破壊された神殿のレリーフ――モザイク状に再現されたのを見ている。イクナトンの彫像も、数は少ないが残っていて、カイロのエジプト考古学博物館に展示されている。
 セシル・B・デミルの「十戒」と「サムソンとデリラ」については、ヨルダンの項で触れた。
 旧約時代では、「愛欲の十字路」(1951年)がダビデとバテシバの愛と苦悩を描く。ダビデはグレゴリー・ペック、バテシバはスーザン・ヘイワードが演じた。
 「ソロモンとシバの女王」(1959年)では、ソロモンにユル・ブリンナー、女王にジーナ・ロロブリジーダが扮した。監督はキング・ヴィダーだが、彼としても自慢できる作品ではない。
 新約時代に入る。「情炎の女サロメ」(1953年)はリタ・ヘイワースが主役を演じた。彼女は、第二次世界大戦中、兵士たちに一番人気のあったピンナップガールである。ロロブリジーダといい、ヘイワースといい、お色気で売ろうとした映画は、概して出来が悪い。
 異色作として、フラメンコの名ダンサー、アイーダ・ゴメスを主役にカルロス・サウラが監督した「サロメ」(2001年)がある。彼女のフラメンコ・ダンスはさすがに見応えがある。
 聖書を読む限り、サロメは、母にそそのかされて、洗礼者ヨハネの首を求めただけの少女にすぎない。後年、サロメがファム・ファタル(運命の女)的なイメージに変わったのは、なんといってもオスカー・ワイルドの「サロメ」(西村孝次訳、新潮文庫)が影響していよう。絵画では、ワイルドの「サロメ」に挿絵を描いたオーブリー・ビアズリーが、鮮烈な印象を残す。ギュスターヴ・モローに至ると、神の権威への挑戦者に昇華する。音楽では、リヒャルト・シュトラウスが、ワイルドの「サロメ」を原作とするオペラを残した。
 イエスを描いたものでは、「偉大な生涯の物語」(1965年)の完成度が高い。監督はジョージ・スティーヴンス。「陽のあたる場所」や「シェーン」を作った名監督である。イエスはスウェーデンの名優マックス・フォン・シドーが演じた。結局、映画は製作者の志と監督次第だと納得させられる。先にあげた映画などとは比較にならない。
 「キング・オブ・キングス」(1961年)の監督はニコラス・レイ。「夜の人々」や「理由なき反抗」などを作った人で、ハリウッドでも異色な存在だった。イエスを演じたのはアクション・スターのジェフリー・ハンター。このキャスティングには驚かされた。「偉大な生涯の物語」とは比較できないが、見応えのある作品に仕上げている。
 新解釈ものでは、「最後の誘惑」(1988年)がある。監督はマーティン・スコセッシ、イエスをウィレム・デフォーが演じた。ニコス・カザンザキスの「キリスト最後のこころみ」(児玉操訳、恒文社)を原作にしている。
 新解釈たる所以は、十字架上のイエスに最後の誘惑が襲ったとするところにある。その誘惑とは、マグダラのマリアを娶り、彼女の死後、ラザロの姉妹マリア、マルタと結ばれ、子どもたちを得て安逸に暮らすというものだった。この誘惑に打ち勝ったとき、彼は真のメシア(救い主)となった…。宗教色の強いアメリカでは、この映画の上映に反対運動が起きた。
 マーティン・スコセッシは、宗教に強い関心を持っているらしい。「クンドゥン」(1997年)で若き日のダライ・ラマを描き、最近では、遠藤周作の原作をもとに「沈黙 サイレンス」(2016年)を作った。同じ原作で、篠田正浩が1971年に映画にしているが、出来栄えはスコセッシの方が断然優れている。おそらくクリスチャンかそうでないかが、原作の理解度に影響しているのだろう。
 「聖衣」(1953年)は、十字架にかけられたイエスの衣を主題としているが、物語を欲張りすぎて、金をかけた割には平凡な出来に終わっている。主演はリチャード・バートンとジーン・シモンズ。監督は人情物を得意としたヘンリー・コスタ。スペクタクルは荷が重たかったのかもしれない。
 「バラバ」(1962年)は、イエスが磔刑に処される代わりに赦免された男を描く。監督はリチャード・フライシャー。職人肌の監督で、傑作もないが常に70点級の映画を提供した。原作はノーベル賞作家のペール・ラーゲルクヴィスト。バラバをアンソニー・クインが演じた。
 「クォ・ヴァディス」(1952年)は、ローマ帝国、皇帝ネロのキリスト教徒迫害を描く。原作はヘンリク・シェンキェヴィチ。この人もノーベル文学賞をとっている。題名はラテン語で「主よ、何処にゆき給うか」(「ヨハネ福音書」13-36)に基づく。最後の晩餐の席で、ペテロがイエスに対して発した言葉である。ペテロはイエスに信仰を棄てないと誓うが、イエスは「鶏が鳴く前に、あなたは三度私を知らないと言うだろう」と予言する。
 映画(原作)では、迫害を逃れてローマを去ろうとするペテロの前にイエスが出現する。「主よ、何処にゆき給うか」と問うペテロにイエスが答える。「汝、我が民を見捨てなば、我、ローマに行きて今一度十字架にかかるであろう」。気を失っていたペテロは、起き上がると迷うことなく元の道をたどりローマへ向かう。ただし、聖書にこのような挿話はない。
 監督はマーヴィン・ルロイ、主演はロバート・テイラーとデボラ・カー。皇帝ネロはピーター・ユスティノフが扮した。炎上するローマを背景に詩を吟ずるなど怪演を見せる。脇役の貴族に、「サテュリコン」(国原吉之介訳、岩波文庫)を書いたペトロニウスが登場する。この映画も「聖衣」同様、金をかけた割には感動作とまでは至らなかった。
 「キングダム・オブ・ヘブン」(2005年)は十字軍とイスラム軍の戦いを描く。監督リドリー・スコットは「グラディエーター」でアカデミー賞を得ている。作品としては、この映画の方がさらに上質だと思うが、エルサレム陥落を描いているせいかアメリカでは人気が出なかった。
 映画の終盤近く、エルサレム王国軍を敗走させたアラブ軍のリーダー、サラディンが教会に入る。彼は、床に転がっていた十字架を拾い上げ、静かに祭壇に置く。
 宗教はこうでなくてはならない。たとえ違う宗教であっても、互いに敬意を払い、尊重しあうべきである。そのことを、一言も発しないこの場面が雄弁に語りかける。  

現代ものなど

 イスラエル建国直前を描いた映画が「栄光への脱出」(1960年)である。監督はオットー・プレミンジャー。原題はEXODUS、旧約聖書の「出エジプト記」とダブル・イメージさせている。
 オンボロ貨物船に乗ったユダヤ人たちが、キプロスの港からパレスチナへ出発しようとする。アラブとの軋轢を恐れるイギリス政府が、軍を出動させて足止めするところから映画は始まる。ハンストで抵抗するユダヤ人たち。世論に非難されたイギリスは、やむなく出航を認める。
 製作・監督を兼ねたオットー・プレミンジャーはユダヤ人である。映画は徹底してユダヤ寄りとなる。劇中、建国前のテロ活動、なかでもキング・デイヴィッド・ホテル爆破事件は出てくるものの、ディル・ヤシーン村パレスチナ住民虐殺事件は描かれない。イスラエルのテロ活動は、止むを得ざるものと是認される。映画の出来栄えを云々する前に、不公平さが目に余る。しかし、映画公開当時は、アラブ側のニュースはほとんど入って来ていなかった。ほとんどの人がこの映画に洗脳されたのではないだろうか。私もその一人である。
 日本人でディル・ヤシーン村虐殺事件を映画にした人がいる。広河隆一が製作・監督した「パレスチナ1948 ナクバNAKBA」(2008年)は、この大惨事を、多くの人々の証言をもとに洗い出そうとしたドキュメンタリーである。
 広河は、この映画を作るに至った過程を次のように語る。…私がイスラエルに着いたのは1967年5月。社会主義が実現している稀有な共同体社会があると聞き、ここに来たのだ。世界中から若者があこがれてキブツに集まっていた。第三次中東戦争の時には、私はひたすらキブツで働いていた。塹壕を掘ったのを覚えている。硬い石灰岩につるはしが弾き飛ばされて苦労した。初日は防空壕に入り、翌日からはもうイスラエルの圧倒的な軍事的勝利のニュースばかりで、6日間で戦争は終結した。
 キブツは自力労働、集団責任、身分平等、機会均等を原則とする集産主義的協同組合である。ソ連のコルホーズ、中国の集団農場に近い。建国当初、イスラエルは理想の国造りをしていると喧伝し、キブツもその一例として西欧社会の関心を集めていた。
 広河も、そのプロパガンダに魅せられてイスラエルに渡った若者の一人である。彼は、ヒマワリ畑のはずれに白い瓦礫を目にする。…この瓦礫を見て私は、最初何かの小規模な遺跡の跡だと思った。ローマ時代か、十字軍時代かの。しかし、それを尋ねたキブツのメンバーは、なぜか答えをはぐらかした、と彼は記している。
 疑問を持った彼は、丹念に証言を求めて尋ね歩き、写真を撮り、「NAKBA大惨事」の実体を知るに至る。親イスラエルだった彼は、必然的に親パレスチナへと変貌する。しかし、このドキュメンタリーは、あくまでも公平な立場を維持しようと努めている。作家としての良心が感じとれる。
 キブツは姿を変えていまも存在している。独立した自治体に近く、農業中心から、工業、観光業も営む。当初は、構成員の報酬がゼロ(生活は無償で保障される)だったが、現在は給与制になっている。
 四方田犬彦は「パレスチナ・ナウ」の中で、初期のイスラエル映画はアメリカの西部劇に似ていたと指摘している。つまり、パレスチナ人はネイティブ・アメリカン(インディアン)同様、騎兵隊ならぬイスラエル軍によって駆逐されるのである。ただ残念なことに、この書で紹介されるイスラエル初期の映画は、そのほとんどが日本では上映されていない。
 このほか、日本人が作ったものでは、「テロリスト 幽閉者」(2006年)がある。監督は足立正生。1972年5月テルアビブ空港乱射事件の岡本公三をモデルにしている。ただし足立監督が、岡本の心象を描こうとしたドラマで、史実に忠実なものではない。
 「ガーダ パレスチナの詩」(2005年)は古居みずえの手になるドキュメンタリーである。一人の女性に密着し、その23歳から35歳までの、結婚、出産、自立への探求を描く。当然、民族の苦難の歴史が並行する。パレスチナでは、女子の誕生を喜ぶという。女性ならではの可能性があるという。少なくとも戦闘員にはならない。それはそれで、悲しい現実である。
 1972年ミュンヘン・オリンピックにおけるテロ事件を扱った映画が「ミュンヘン」(2005年)である。監督はスティーヴン・スピルバーグ。パレスチナ武装集団「黒い九月」によるイスラエル選手団人質、空港での射撃の応酬が前半、生き残った三人をイスラエルの秘密組織が追い詰めて行く過程が後半という構成である。スティーヴン・スピルバーグはユダヤ人である。この映画で彼は、ユダヤ寄りであることを隠そうとする。生き残ったテロリスト三人は、彼の映画「ジョーズ」と同様殺されてしかるべき悪漢である。復讐の起点を選手団襲撃に置けば当然そうなる。テロ集団がなぜ生まれたかについては、意図的にスピルバーグは触れない。ディル・ヤシーン村パレスチナ住民虐殺事件を復讐の起点にしなければ公平とは言えない。
 スティーヴン・スピルバーグは処女作「激突!」(1972年)から腕達者な監督だった。スリルとサスペンスという得意のテクニックで、映画「ミュンヘン」の偏向を隠してしまう。後味の悪い映画である。
 「ブラック・セプテンバー」(1999年)は、黒い九月を公平に描こうとしたドキュメンタリー映画である。製作に関与した国はスイス=ドイツ=イギリス、監督ケヴィン・マクドナルド。テロは是認できないが、まず要因となるものを除かなければならない。製作者たちの意図もそこにある。
 イスラエルが作った映画では、
 「戦場でワルツを」(2008年)は、1982年のレバノン戦争のトラウマに苦しむ人々を描く。アニメーションに実写が一部混じっている。製作国はイスラエル=ドイツ=フランス=アメリカ、監督アリ・フォルマン。ラストの、難民キャンプ、パレスチナ女性たちの叫ぶような啼泣が耳に残る。バックに流れる音楽、シューベルトのピアノ・ソナタ20番が印象的。
 「運命は踊る」(2017年)の監督はサミュエル・マオズ。映画の前半は、兵士である息子を持つ両親の、誤報による悲しみと怒りを描く。後半は兵士たちの緊張と退屈が交錯した鬱々とした気分が描かれる。そして偶発的に悲惨な事件が起きる…。
 二作とも、イスラエルの良心的な作家たちによる上質な映画であることは認める。しかし、どこか言い訳めいたものを感じる。「われわれも悩んでいるのです。パレスチナ人を抑圧しているわけではありません」と言っているように聞こえる。
 「ハッピーエンドの選び方」(2014年)の監督はシャロン・マイモン。老人ホームを舞台としたユーモラスな人情劇。発明マニアの入居者が、安楽死機械を作ったのが騒動の原因。政治は一切出てもないので気楽に楽しめる。もちろん、パレスチナ側には、老人ホームなど作る余裕はない。
 建国後のイスラエルの悩みは、自国内のアラブ人比率の高さにあった。出生率も高い。ユダヤ人の比率を高める必要があるが、建国後数十年も経てば、ディル・ヤシーン村虐殺のような露骨な手段は許されない。ヨーロッパやロシアなどに住むユダヤ人たちに積極的移住を呼びかけたものの、それだけでは足りない。イスラエル政府は、エチオピアに住むユダヤ人たちを移住させる計画を立てた。エチオピア内ユダヤ人は「ファラシャ」と呼ばれ、迫害の対象になりがちだった。「ファラシャ」とは、現地語で流浪民・異邦人の意味を持つ。
 移住作戦は、1984年の「モーセ作戦」と1991年の「ソロモン作戦」の2回にわけて行われた。その後も散発的に移住は続いている。国交のない国からの移住で、空輸も国交のない国の上空を飛んだ。秘密情報機関モサドによる救出作戦だった。現在、イスラエルに住む皮膚の黒いエチオピア系ユダヤ人は13万人を超える。ベタ・イスラエルと呼ばれる彼らは、イスラエル社会の最下層を構成する。
 「約束の旅路」(2005年)の製作国フランス、監督ラデュ・ミヘイレアニュ。中立的な立場で作られた映画と言える。視点も確かで見応えがある。
 映画は、1984年の「モーセ作戦」から始まる。スーダンの難民キャンプに、貧しい母子がいた。ユダヤ人ではない。母親は、子供の将来を思い、息子を移住登録の列に並ばせる。親切な女性がわが子と偽り、少年は無事イスラエルへ移住する。まもなく母親代わりの女性は病死し、別の夫婦の養子となる。映画には、すさまじいまでの、ユダヤ人社会の差別も描かれる。彼は差別に悩みながらも成長し、フランスで医師の資格を取る。そのころ、イスラエルではユダヤ人と偽ったエチオピア人が訴えられ問題となっていた。彼は貧困国への派遣医師の道を選び、その傍ら生みの母を探し始める…。
 彼には三人の母がいた。生みの母、移送を助けた偽の母、そして育ての母。恋人となる女性の言葉「たくさんのお母さんに守られているのね」という言葉が胸を打つ。
 「もうひとりの息子」(2012年)の製作国もフランス、監督ロレーヌ・レヴィ(ユダヤ系フランス人)。イスラエル人家族とヨルダン西岸地区に住むパレスチナ人家族との間の、取り違え子の問題を描く。日本にも「そして父になる」(2013年、監督・是枝裕和)という佳作があったが、設定としてはこの映画の方がより深刻である。18歳になる若者2人を含め6人がそれぞれ悩みながら解決を見出そうとする姿勢がいい。それにしても父親はダメである。主義にこだわり、現実解決力がない。母親は事態に即した解決策を見出そうとする。柔軟である。
 この二つの映画が示すように、フランスはイスラエルに対し距離を取り始めている。公平であろうとしている。
 パレスチナ映画には活力がある。
 注目すべき映画監督がハニ・アブ・アサドで、「パラダイス・ナウ」、「オマールの壁」、「歌声にのった少年」という3本の映画を見ている。
 「パラダイス・ナウ」(2005年)の製作国はフランス=ドイツ=オランダ=パレスチナ。テロ実行に志願した青年たちの悩みが主題。実行を命じる者の偽善性もきちんと描いている。狭量なアメリカでは、テロリストに同情的と上映反対運動が起きた。
 「オマールの壁」(2013年)はパレスチナ国内のみの資金で作られた。分離壁を越えて恋人のもとへ通う青年が、イスラエル軍に捕らえられ、インフォーマーになるよう強制される。彼が取った復讐の手段すら空しい。トランプ大統領といい、ネタニヤフ首相といい、壁の建設に余念がない。万里の長城は世界遺産で観光客を魅了するが、分離壁は、将来最も醜い世界遺産となることであろう。
 「歌声にのった少年」(2015年)は、2013年の「アラブ・アイドル」で優勝した少年の実話が物語の骨子である。展開はよくあるサクセス・ストーリーだが、子供たちが生き生きと描かれる。少年が乗り越えなければならない障害が、ガザならではの厳しさを持つ。
 「ガザの美容室」(2015年)の製作国はパレスチナ=フランス=カタール、監督ターザン・ナサール。天井のない牢獄と言われるガザにも、日々を送る生活がある。美容室に集まる女性たちがいる。通りでは銃声が響く。「私たちが争ったら、外の男たちと同じじゃない」と一人の女性が言う。いつでも戦争をするのは男たち。オシャレをする、メイクする、他愛ないお喋りを、他愛ない毎日を送る。それこそが彼女たちの抵抗なのだ…というテーマが重い。
 「テルアビブ・オン・ファイア」(2018年)の製作国はルクセンブルク=フランス=イスラエル=ベルギー、監督サメフ・ゾアビ。この人は、「歌声にのった少年」の脚本も書いている。
 映画は、パレスチナの人々の粘り強さと負けん気を見せてくれる。検問所は、パレスチナの人々にとって、日々自分たちの力のなさを身に染みて味あう場所である。そこでは、銃で威嚇するイスラエル兵士のご機嫌を損なわぬよう、下手に出て通り抜けなければならない。もちろんイスラエル側からみれば、テロ攻撃を受けやすい最前線ということになるのだが…。
 1967年の第三次中東戦争は、アラブ側にとって思い出したくもない大敗戦である。映画は、この検問所と敗戦をコメディにして笑いのめす。痛快な笑いを提供する。
 製作国が示すように、パレスチナの映画人は、各国から資金を集めて映画を作り続ける。まことにたくましい。ハニ・アブ・アサドやターザン・ナサール、サメフ・ゾアビなどが、これからも心折れることなく、映画を作り続けてくれることを願ってやまない。                        


2020年6月6日、記す。

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