上鹿川での移植

上鹿川での移植の歴史

放流でなく移植という行為は、以前から行われていたらしい。

鹿川では、国有林伐採が盛んな昭和30年頃から伐採に携わっていた人たちが多くの渓魚を下流域から上流部へ移植していたそうだ。奈須商店の大将にお伺いしたところ、源流部の伐採に際して移植された渓魚は環境に適合し、大きな渓魚となっていった。伐採のため山にはいるときには、昼食のおかずに塩を持参し尺を優に超す大きな渓魚を手掴みし塩焼き(「三里川原の惨劇」)にしていたそうだ。

上鹿川のとある滝で

鹿川地域の明らかに渓魚が地力で遡上不可能と推測できる大きな滝の上流でも魚影があるのはそのためかもしれない。しかし、私が以前宇土の内谷を釣り上がっていた時、20メートルを優に超す落差がある滝の途中にある直径2メートル程度のポケットに20〜30センチ位の渓魚が泳いでいた。直径2メートル程度のポケットで渓魚が生活してきたことは不自然であり、この渓魚が遡上の途中なのか、流下したものなのかは不明である。

そこが渓魚の自然分布域なのか否かは、造山活動の時期と氷河期が関係してくると以前読んだ本に書いてあった。造山活動が氷河期以後に行われていれば氷河期に南(台湾)まで勢力を伸ばした渓魚がとんでもない滝上にいても不思議でもない、と思う今日この頃です。