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そして、茨姫の、最後のシーンが。……キスを、しなくてはいけないシーンが、始まる。


こんこん、とノックの音。
はやる気持ちを押さえながら、言う。
「入りなさい。」
舞台上に作られた張りぼての扉が、開く

思わず息を飲んだ。黒騎士は、肩や、腕に、たくさんの切り傷をつくって、その黒い鎧も、仮面もぼろぼろになっていた。
いや…いやいや昨日のリハのときそんなにひどかったっけ?
本番だからって張り切ったな、と血糊(ただの絵の具だ)のリアルさに、驚きながら演技を続ける。

「…う、そ。」
「…申し訳ありません。姫。」
ぐらり、と倒れこむのに、駆け寄って。

「く、黒騎士!」
「…だいじょうぶ、です。」
そう言って、黒騎士が体を起こす。
「すぐに、行ってまいります、今度こそ、ひまわり姫を、」
「いい、もういい!」
いやいや、とは首を横に振って、あ。と思った。ほんとに泣く。これ。…まだだ。まだ泣いちゃ、いけない。

「…姫。どうして、世界が欲しいと思われたのですか。」
静かに、そう尋ねられて、だって、とつぶやく。
「だってあのこは、いつも笑顔だわ。みんなに、世界に囲まれて、楽しそうに笑っているわ。それは、世界があのこのものだからよ!」
目を閉じて、言う。そうしたら、いいえ。とそう言われた。顔を上げる。…仮面の奥の優しい瞳。
…緑っぽく、見えてしまって、苦笑した。なんて…都合のいい、幻覚。

「ひまわり姫が笑っているのは、愛し、愛されているからです。」
「…あい、される。」
おうむがえしに、口にする。それは…それは、とても簡単で、だけれど難しいこと。

「そうです。愛。生きているもの皆が少しずつ持っているものです。共有しているものです。愛し、愛され、人は生きていくのです。」
「…私は、持っていないわ。愛されたことも、ないわ!」
言って、立ち上がる。
しん、と静まり返った舞台。…ほんとうに、ひとりきり、みたいだ。
「いいえ。」
そう言って、手を取られた。手袋越しに、触れる手。…あたたかい体温。
「私がおります。貴女様を愛しております。」
「…嘘。」
「真実です。…誓いましょう。我が剣と。」
手が、離される。仮面に手をかけ、ゆっくりとはずす。


……え?



「この仮面に誓います。…生涯あなたを愛し続けると。」

現れた髪は、金でなく、焦げ茶。
白い、というより、黒い、健康的に日焼けした、肌。

そしてなにより、見間違うはずもない、そのオリーブの瞳!!


なんで…なんで、スペインがいるんだよ…!?
見開いた瞳から、つ、と、耐えていた涙が、頬を伝った。


「…貴女の唇に触れることを、許可していただけますか?」
そんなこと、言われたって、セリフと違うし、だって、フランスじゃなく、なんでここにこいつがいるのかわからなくて、頭なんか真っ白になって、何も言えずに動けなくなった。

そのとき、ふ、とスペインの唇が、少しだけ、動いた。
…あ。

言葉にしなくても、それがほんの少しの動きでも、わかった。
今、こいつ

『ロマーノ、』

名前を、呼んだ。いつも、みたいに。…二人きりのとき、みたいに。

「…許す」
震えた唇が勝手に動いた。
柔らかく、微笑まれる。伸びてくる腕、自然と、目を閉じて。
触れる、唇。いつもと、同じだ。そう思うと、涙がこぼれた。
力を抜けば、腰を支えてくれる腕。…あまりにいつも通りで。…それが、本当にうれしくて!

ふ、と緩んだ唇に、ぺろ、と舌が触れた。ん?と思ったときにはもう遅く。
舌がからめ取られる。深く重ねられた唇から、慌てて逃げようとするのに、腰と後頭部に回った腕はほどけなくて!

きゃあ、と黄色い悲鳴が客席から聞こえた気がしたけど、それもほんとかわからないうちに全身の力を奪うように、舌を吸われ、かくん、と腰が砕けた。それでも、こいつはキスをやめなくて。

結局、窒息寸前で解放されて、深く息を吸い込む。足腰に力が入らない…。
思っていたら、ひょい、と抱き上げられた!慌てて首にすがりつくように手を回して。
スペイン、呼び、かけてここがどこか思い出して口を閉ざした。

そのまま、階段へと歩いていく彼に、あーもう知るか!と体を預け、擦りよった。ふわり、と流れ出す音楽。暗くなっていく舞台。

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