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声が、少し。変だと思った。フランスの。
でも昨日、風邪気味だって言ってたし、ちょっとつぶしたのかもしれない。あと、頭からすっぽりかぶった仮面、というか兜のせいも大きいだろう。さっきまでしゃべっていた声とも、少し反響して違って聞こえる。
……あとはまあ。演技が違うのは、こいつにはいつものことだ。…ヴェネチアーノもそうだけど。演じるたびに少しずつ違ってたりするから。…おかげで対応力はついた。
ここ手なんか伸ばさなかっただろうがと思いながら、その手を扇で払いのける。
…茨姫として、ふつうの対応だ。

人に触れられることすら、人が近づいてくることすら嫌いな、茨姫。…その感情はきっと、その、行動はきっと。理解されないだろう。そう思う。理不尽な振る舞いを、わがままを繰り返す茨姫。…本当は、寂しいだけなのだけれど。それさえわからない、怖いと震える小さな子供。…けれどそれは、今はまだわかってもらわなくていい。彼女は、わかりやすく、悪だ。…それでいい。

ばさり、と扇を片手で広げ、ひまわり姫を見下ろす。
「邪魔よ。…どきなさい。」
そう言って、慌ててどいたそこを、通る。
横を通るときに、にらみつけて。
彼女が憎い、わけじゃない。ほんとは。…羨ましい、だけ。その差もわかってない茨姫にとっては、同じだけれど。

そのまま歩いて、舞台裏に入り、扇を畳んで脇にはさんで、靴を脱ぐ。高いヒールは歩くと音がするから。表では普通に劇が続いているのに、そこに裏の音なんて聞こえたら興醒めするから。音を立てないよう、敷かれた柔らかい布の上を早足で歩いて、反対側の入り口を目指した。


劇は順調に進む。…何カ所か裏ではらはらしてたところもあるけれど、まぁうまいことおさめて、続けて。
スタンバイする隣に、影。見れば、黒騎士の姿。…そういや今日は、無駄話してこないな。いつもならしてくるのに…さすがに本番だから、か。

本番。…そう思うだけでもう泣きそうになる。だから。できるだけ考えないようにはしてる。

キス。…嫌だ。スペインとじゃなきゃ、やだ。だってほんとに、初めての彼氏がスペインで、他のやつとは、したことないのに。…したくないのに!
溢れそうな感情に、思わずしゃがみこんだ。泣くな。メイクが落ちる。本番中だ。もうすぐ出番だ。こんな、…こんな個人的な感情で、みんなに、見てくださってるお客さんに、迷惑かけるな。
そう自分に言い聞かせて、奥歯をかみしめる。泣かない…俺はそんなに弱くない。

くしゃ、と優しく頭を撫でられた。
見上げると、手をさしのべてくる黒騎士。大丈夫かと、言わんばかりに。
「っ平気だ」
小声で答えて、その手をとらずに自分で立ち上がる。
その仮面の下の青い視線を、振り払うように。
…俺は、大丈夫。一瞬で終わるから、だから。…終わったら、八つ当たりしてやるんだ、スペインに。キスしたって、って。俺が満足するまで言ってやればいい、だから。…劇を成功させたいって思ってるのはみんな一緒なんだから。

無性に、スペインに会いたくなった。…そういえば、劇が始まってからその姿を見ていない…裏で着替えとか小道具運搬の手伝いしてるはずなのに。同じ仕事してるプロイセンは、よく見るけど。
…まあ、今回舞台入り組んでるから、会ってないだけだろ。そう思って、息をついた。もうすぐ出番だ…大丈夫。そうだろう?

この世界には他に何もいらない。私だけいればそれでいい。心を閉ざせ、茨のとげで武装しろ。私の命令に従う人形さえいればそれでいい。背筋を伸ばせ、扇を持て。気高く歩け。弱い感情なんて…邪魔だ。

なんていったって、俺は。…茨姫なんだから。



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