.

「おい、イタリア。帰るぞ。」
そう言うのに、イタリアはぎゅうぎゅうと右腕にしがみついたまま離そうとしない。…ここ数日、帰るときはいつもそうだ。分かれ道で、こうなってしまう。衣装合わせの日からずっとだ。…引き剥がすのに、かなり時間をかける。やだ。もっと一緒にいたい。そうぐずるようなイタリアに、どうしていいのかわからない。

「…また明日も会えるだろう?」
明日も練習だ。そう言うのに、イタリアは離そうとしてくれない。…弱った。
もう、23時を過ぎている。残りの作業をしてしまおうと、一人で残るつもりだったのに、何故かこいつが隣にずっといて(手伝いは丁重に断った。確実になにかやらかす。)。
「ほら、明日は金曜だぞ、一限から授業だろう?もう遅刻できないんじゃなかったのか?」
うながすが、一層強く、ぎゅ、としがみついてきただけで。
ため息。…まあ、こいつが家に帰っても、自力で起きられるわけもないし、姉が起こす、なんてそんなこともない。似たもの同士の万年遅刻コンビなのだから(スペインもいれればトリオか)。

「…うち泊まるか?」
小さく、独り言のつもりで呟いたら、がばっと勢いよく顔が上がった。
驚いた顔で見上げられて、いや、その、と言い訳を探す。
泊まる?…そんなの、耐えられるわけがないのに。ただでさえこの『友情』以上の感情を持て余しているのに…!
「と、泊まる、泊まる!ドイツんちお泊り!」
なのに、ぱああ、と輝いた表情に、今更無理だ、とは言えなくなって。
「やったー!久しぶりだよねドイツんち!」
「……ああ、そうだな…。」
ため息とともに吐き出して、うきうきと腕にしがみついたままのイタリアに引きずられて、重い足取りで、家へと向かった。


半年前までは、イタリアはよくうちに泊まりにきていた。
俺が恋心を自覚するまでは、もうどっちの家かわからないくらいに。男と女とかそういうことではなく、友人として。色っぽい展開など一度もなかった。ただ、ふざけて、遊んで。…それだけだ。まあともかく、急に決まった泊まりでも、宿泊セットは置いてあって。

「俺ご飯作るね!」
何がいいかな、と勝手に冷蔵庫をのぞくイタリアに、ため息。…見慣れた光景だ。以前は普通に繰り広げられていた光景。
だけれど、今は。
「…俺が、変わったんだろうな…。」
「何?」
なんでもない、と呟いて、このあと訪れるだろう試練を思い、深くため息をついた。


はい。試練の時間がやってきました。
「…イタリア…俺は床で。」
「やだ」
言ってみても、聞かない。せめて裸はやめろ風邪を引くと三十分にわたる説教が功を奏して、シャツとジャージは着ている。なんとか。
…ただ、一緒にベッドで寝ようと抱きついてくるのはどうにもならなかった!

ようこそ試練の時間。思いながら、うきうきとおやすみーと笑うイタリアの頭をなで、おやすみ、と返す。
返して、いち、にい、さん、と心の中で数えれば、もう聞こえてくる寝息。…相変わらず早い。

ちら、と見やる。すぐそこにある寝顔。信頼しきったそれに、思わずため息。
…こいつは、自分が好かれる性格と外見をしているということに気づいていない。
今までだって、危ないところだったこともたくさんある。本人はまったくといっていいほど気づいていないが。

昔からの知り合いで、今の部活にイタリアを引きずり込んだオーストリアとハンガリーはとても正しい判断をした。(まあうちにはフランススペインプロイセンの三大変態がいるが、あいつらは本気でイタリアをどうこう、というよりかわいい妹分を可愛がっているに近い。)
俺がそばにいなければ恐ろしいことになっていたことだって、あった。誰もいない教室に連れ込まれる寸前だったこともある。(こいつはきょとんとしてまったくわかっていなかったが。)

自分の身を守る、ということをしない。…わかっていないからだ。自分がどれだけ魅力的か。

顔にかかった髪をどけてやり、頬を撫でる。
んう、と鼻にかかった声。ふらり、と誘われるように、イタリアの上に、覆いかぶさるように、顔の横に手を付く。
体重を移動させる。ぎしり、とベッドが軋んだ。
…イタリアは起きない。何て無防備なんだろう。何も知らない純粋無垢な彼女。その寝顔を、触れそうなくらい近くで眺める。少し。動けば、触れられる。そんな距離に、いる。

思い出す。イタリアがここまで懐いたのはあなたが初めてでしょうと、オーストリアが言っていたのを。だから、仲良くしてあげてくださいね、とそう、まるで父親のように言っていた。
イタリアに一番近いのは、俺だ。その自覚も、自負も、ある。ならば。
…一番、その魅力に取り付かれているのも、俺なのだということを、他でもない俺が、教えてやるべきじゃ、ないのか?


……いっそ、このまま、イタリアを、


そっと頬に手をあて、唇を近づけて…

その瞬間、頬に当てた手をつかまれた。起きたか、と跳ね上がる心臓に、反して、寝息はそのまま。
ただ、イタリアは、目を閉じたまま、うれしそうに微笑んだ。
「ど、いつ…。」
「…っ!!」
はっと、我に返った。

慌てて彼女から離れる。俺は今、何をした?何をしようとした?
「…最低だ…!」
イタリアは全幅の信頼を寄せて、こうやって隣で眠っているのに。それを裏切るつもりなのか?
あろうことか、そんなことを考えるだなんて。
『いっそこのままイタリアを、俺だけのものにしてしまいたい』などと…!

結局その日は、ベッドから離れ、床で体を横にした。
自己嫌悪と後悔で、眠気なんてまったくやってこなかったけれど。









押し倒した(未遂だが)あの日から、イタリアとの距離の取り方が、わからなくなった。
幸い(幸い?)、オーストリアの頑固者が仕込みぎりぎりになって余計な注文つけてきたからそっちの対応に追われて、イタリアとは練習以外では顔をあわせる暇がなくなったから、勘付かれてはいないと思うのだが。
…というより、それに気づけるくらい空気が読めれば、こんなに苦労していないと思う。今まで。

ため息をついて、邪念を消し、作業に没頭する。
今日は仕込み。本番用の舞台に、実際に装置や照明を組み上げていく。たいがい、一日がかりの大規模なものになる。…今回は特に。オーストリアの注文どおりに仕上げて昨日ぎりぎりに完成したものを壊さないように設計通りにしっかりと組み上げるのは、本気で大変な作業だ。

今は、みんなには昼食を取ってもらっている。一時間休憩だ。が。装置の作業が少々押している。午前に予定していたことはいくつか終わっていない。階段の設置や、細かいものの運び込み。一人でもできる作業はやっておいた方が、午後からの作業に支障がなくていい。
そう思って、腰にさげたガチ袋に手を伸ばし、違和感に気づいた。
…入っているはずのなぐりがない。

「こーら、ドイツ!」
後ろから、呼びかけられて、ぎく、と体をすくめた。
恐る恐る振り返る。
俺のなぐりを持って腕を組んでいるのは、イタリアだった。
「…イタリア…。」
「ちゃんと休憩時間は休憩とらないとダメ!ドイツは、装置チーフだけど、今回は役者なんだから!」
役者は体が資本!と言われて、すまない、と謝って、うつむくふりして視線を逸らす。
目なんて、見れるわけがなかった。
「だから、学食一緒にいこ?」
俺おなかぺこぺこーというイタリアに、悪い、と呟く。
「俺は買ってきてるから…おまえは、ほら、日本!イタリアも連れて行ってくれ!」
今まさに出て行こうとしていた日本の了解しました、という答えを聞いて、ほら、とうながす。
じ、とこっちを見上げてくる視線が痛い。

「……そっか。わかった。じゃあ、また後でね。」
声にあからさまに出る、落胆の感情に心が痛い。
ふ、と視線を逸らしていたら、彼女はじゃあね、と小さく言って、日本待ってーと出て行った。

「…休憩、しないとな。」
呟いて、イタリアの置いていったなぐりを回収し、自分の鞄の中の弁当を取りに降りた。

イタリアを、見ることができない。罪悪感と後悔と愛情と欲情と、感情に押し流されそうになってしまう。
…こんなんで、本番なんて迎えられるのだろうか。

「おいドイツ、あの」
はああああああ、と深くため息をついたら、な?と言う声が聞こえて顔を上げた。
変な顔したイギリスの姿。

「どうした?」
「ああ、いや…ちょっと照明のことで相談あったんだが…邪魔なら、後でで…。」
「いや、いい。今聞こう。」
まっすぐに向き直れば、いや、別に大したことないし、と心配そうな顔。
「でかいため息ついてたけど…大丈夫か?」
「ああ。それに…仕事の話している方が気が楽だ。」
素直に言えば、なら、と向かい側に腰掛ける。

「今立ってるパネルなんだけど、さ、あれで場所最終決定か?」
「ああ。そのつもりだが…。」
持っていた図面を広げて、てきぱきと話す。照明チーフであるイギリスとは、何度も話し合いを重ねて今の装置の形を決定したのだが、やはり実際に立ててみると少し意見の食い違いや連絡ミスがあることもよくある。

不都合や問題点を話し合うのが、一番気が楽なのは本当だった。
…何もしないでいると、イタリアのことばかり考えてしまう。
「やっぱここにスタンド置きたいなあ…。」
「しかしここは、客からの見切りが…。」
端まで客席を使わなければ、客からは見えないかもしれないが、最前列一番端に座る人がいたら、完全にその照明が見えてしまう。客席をどこまで使うのかを決めるのは、製作チーフのフランスだ。ちら、とあたりを見回すが、…姿はない。学食に行っているようだ。

「後でフランスに、客席について聞いて、それから決めた方がよくないか?」
「あー…フランス今いないか…あ?」
同じようにあたりを見回したイギリスが、いやいや、そうだ忘れてたいるいる、と言うから、その視線の先を見る。
「カナダ!」
「うえ!あ、はい!」
隅の方で小道具の整理をしていたカナダの存在にやっと気づいて、ああそういえばカナダ、製作チーフ補佐だった、と思い出す。

イギリスの妹であるカナダは、ついついその存在を忘れてしまいがちだ。空気のように、そこにいるから。…細かいところまで気が回るその性格に助けられることは、もう毎回のようにあるのだけれど、つい。

「客席のことフランスから聞いてないか?」
「客席?えっと、最前列まで使うって聞いてますけど。」
寄って来たカナダの言葉に、そうか…と呟く。
「やっぱりか。」
「あ、でも、日本さんからの要望で、スピーカーのすぐ近くのエリアは座らせないです。」
「お、それどのへんだ?」
「えーと…。」

三人で図面をのぞきこんで、実際に舞台と客席を見て話し合って、ようやっと方針が決まったころには、すでにスペインが後10分で休憩終わりやで〜とストップウォッチ片手に時間をコールしていた。



次へ
戻る
メニューへ