85 写真の楽しみ(3)トリミング

2016.5.21


 ネットに写真を載せる人の「調整してません! 自然のままです!」が、無意味であることを最初の回で書いたのだが、それに続いて、あるいはそれ以上に多くて、実際には無意味なのは「トリミングしてません!」だ。

 トリミングというのは、今では犬や猫の毛をきれいに刈ることを意味する場面が多いようだが、写真では、実際に撮れた写真画像の一部を切り取ることを言う。それを「やっちゃいけないこと」だと思っている人が案外多いようなのだ。

 もっとも、こういう言い方が多く見られるのは、「価格コム」などのカメラやレンズのサイトで、参考としてアップされている写真に関してである。そういう場所でならそれはもちろん無意味ではない。つまり、そこではレンズの画角(どの範囲まで撮れるか)がどういうものかの「証拠」となるわけだ。広角レンズで撮ったのに、それをトリミングしてしまっては、画角が分からなくなってしまう。「トリミングしてません!」は、いわばレンズのテストとしての報告なのだ。

 それと同じことが「調整してません!」にもある程度言える。そういうサイトで、あるカメラで撮った写真をアップする際に、色彩やコントラストを「調整」してしまうと、そのカメラの特徴が分からなくなってしまう。だからあえて「調整してません。」と言うわけである。

 つまり、これらの言葉は、ある専門的な目的のために使っている言葉で、ぼくらが普通に写真を撮るときの、あるいは写真表現をするときの「お約束」ではないのである。ところが、こうした言葉を、カメラの初心者がみると、ああ、「調整」とか「トリミング」なんてしちゃいけないんだと早合点してしまうのだ。それが問題なのである。

 トリミングが嫌がられるのは、それをすると、画像の一部だけを使うことになるので、それだけ解像度が落ちてしまうということがある。写真展などに大きなサイズで出品するときに、特殊な目的がない限り、画像はできるだけ鮮明な方がいい。粒子のあれた画像では汚らしい。それなら撮ったままのサイズでプリントしたほうがいいということになるわけである。

 けれども、これも昔の話。今ではデジタルカメラの映像素子も当初からは考えられないような高密度となっている。撮った画像の四分の一しか使わなかったとしても、A4とかA3とかいった大きさにプリントしてもなんら問題はないのである。(厳密にいえば粒子は粗くなっているから問題だという人もいるだろうが。)

 話が専門的になるとメンドクサイと思われる読者も多いだろうから、簡潔にまとめると、「トリミングがダメ」という場合は、レンズの画角テストの場合、そして解像度を下げたくない場合の二つとなるはずである。前者は、特殊な場合だから普通は問題外。後者は、カメラの画質が進歩したからこれも普通はほとんど問題にならない。つまり、「トリミングはダメ」という根拠は、普通はない、ということになるわけだ。

 ところが、ここに変な「精神主義」が混入してくる。実際にそういう指導を受けたことはないが(ぼくは写真に関しては誰に師事するなんてことはしていない)、どうも察するに、写真というものは、撮った時点で、最高の構図を決めるべきだというような考えがあるように思うのだ。あとからトリミングして構図を変えるなどというのは邪道だとでもいいかねない人もいそうだ。しかし、そういう考えがどこから来たかを考えてみると、これもやはり、35ミリのフィルムで撮っていたころの名残で、できるだけ解像度を落とさないために、トリミングをせずにすませたい。そのためには、撮った時点で構図をバッチリ決めておこう、ということだろうと思う。

 ぼくの家内の父が、35ミリをやめて、大判のブローニーのフィルムをもっぱら使ったのも、トリミングがどうしても必要だったからであり、そのためには、解像度を稼ぐ必要があったからだと言えるだろう。

 実際のところ、二科展の写真部に毎年出展していた義父は、師匠の指導を受けながら、どうトリミングするかに苦辛惨憺していた。写真を撮ることはまず第一段階で、これがもっとも大事なことだが、撮った写真をどうトリミングするかが、写真を撮ることと同等ぐらいに大事なことだった。同じ写真をああでもない、こうでもないとトリミングして、その仕上がりを検討し、いちばんいいものを出品していた。それが当然だと思うのだ。

 たとえば、公園で花の写真を撮るとする。構図をばっちり決めようと思ったら、まず三脚にカメラを据えて、じっくりファインダーやらビューモニターやらを眺めて、あれこれ考えなければならない。手持ちであっちへフラフラ、こっちへフラフラしていたのでは、しっかりした構図を持った写真にならないわけである。実は、ぼくもこういうふうに、三脚を据えてじっくりと撮影したいものだと思わないわけではないのだ。けれども、ただでさえ重たいカメラとレンズにめげそうになっているのに、そのうえ、3キロ以上もある三脚を担いでいく体力はないし、そもそも写真だけが趣味ではないので、そんな時間的余裕もないのだ。

 で、ぼくは、三脚は使わない。ありがたいことに最近のレンズ、あるいはカメラにはたいていは手振れ補正という機能がついているし、感度もいいから速いシャッタースピードでとれる。だから慣れればまず手振れはせずにクローズアップの写真も撮れる。三脚は使わなくてもすむのだ。どうしても三脚が必要なのは、「鳥屋」さんたちで、400ミリとか500ミリとかいった大砲みたいなレンズを使うには、とても手持ちは無理だ。スポーツ写真も同様だろう。これは、「構図」の問題ではなくて、「体力・腕力」の問題だ。

 では、構図はどうするか。もちろん、考えて撮る。けれども、あんまり厳密には考えない。あとでトリミングすればいいのだと割り切るわけだ。

 後はひたすら枚数を撮る。撮りまくる。素材がなければ、加工することもできない。こんなの撮ってもしょうもないと思っても、「現像」でどうなるか分からない。だから撮る。最近、植物を撮ることが多いが、2〜3時間の撮影で、300〜400枚は撮る。(何百枚撮ろうと、金がかからない。これがデジタル時代の最大の恩恵である。)それを家のパソコンで、処理する。コントラストを変える、色調を変える、トリミングする、こうした一連の作業自体がとても楽しい。楽しくて仕方がない。

 「調整してません。」「トリミングしてません。」と誇らしげに言う人は、この楽しみを放棄していることになる。デジタル時代になったからこそ味わえる写真の楽しみを存分に味わえばいいのにと、他人事ながら思うのである。


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