51 「職人」であるということ

2015.8.30


 退職して、いわゆる「悠々自適」の生活に入ってから1年半ほど経つのだが、生活そのものは「悠々自適」の意味する「俗世間のわずらわしさを超越して、心のおもむくままにゆったりと日を過ごすこと。(日本国語大辞典)」そのものからはかなり隔たったいるものの、少しはあっているところもないわけではない。「俗世間の煩わしさ」に対して、「超越」などとはとても言えないが、ある程度自由になれているということだ。はやい話が、朝、いつ床を出てもよい、ということ。これだけでも、現役で働いている人から見れば、身をよじって羨ましがられてもおかしくないことだろう。

 年寄りは目覚めがはやいなどとよく言われるが、必ずしもそうとも限らない。もちろん、朝起きたらお昼を過ぎていたなどという高校生みたいなことは絶対にないが、朝4時には目覚めてしまい、それからはもう寝られないなんてことは、ぼくにはない。最近では、6時頃には目が覚めるけれど(その前に、夜中に1回は目が覚めてトイレに行くということはある)、そのまま7時半ぐらいまで寝てしまうこともあれば、トイレに行ったあと、またベッドに入ってグズグズとしていたり、iPadで「アンナ・カレーニナ」を読んだりなんてことも多い。

 起きて朝食をとるのが、だいたい朝ドラの時間。(「まれ」も最近、だれまくって、どうしようもなくなっているが。)その後は、なんだかんだで、あっという間に時間が過ぎてゆく。「心のおもむくままにゆったりと日を過ごす」というわけにはいかない。特にぼくの場合「ゆったりと」というのが、どうも苦手で、いつも、せっつかれるような気分で過ごしている。

 それでも、勤め人ならあんまり見ないだろうところの、NHKの「あさイチ」とか「スタジオパーク」なんてものをダラダラと見ているのは、何となく「悠々自適」っぽい。

 先日、何となくそんなふうにテレビを見ていたら、歌舞伎の中村獅童が出ていた。そういえば、最近は歌舞伎も観てないなあ、いつかいこうか、いや、今は歌舞伎より文楽を観たい、というか、あの太棹の三味線の音を聴きたいなあなんて思いつつ、獅童の端正な顔をほれぼれしながら見ていると、獅童が尊敬してやまないという松本幸四郎がビデオで登場した。吉右衛門にずいぶん似てきたなあと、こっちもほれぼれして見ていると、獅童に対して何を望むかと問われて、「職人になってほしいな。」と言った。「芸をしっかり身につけた職人になってほしいな。」と、くり返した。しびれた。

 芸能や芸術に携わる人びとは、昨今では「アーティスト」と自称してはばからない昨今である。けれども、希代の役者幸四郎は、「職人」と言った。それがかっこよかった。

 ぼくが大学生の頃だったろうか、さかんに「アーティスト(芸術家)」と「アルチザン(職人)」が対比されて語られていたことをふと思い出した。その頃は、圧倒的に「アルチザン」の価値の見直しがされていたのではなかったろうか。歌舞伎役者だけではなく、新劇の役者も、けっして「アーティスト」ではなく、むしろ「河原乞食」であることを宣言していたように思う。小沢昭一は『私は河原乞食・考』という本を出したくらいだ。そしてそれは1969年のことだった。

 そんなことを思って、胸があつくなった。それは、そういう過去を思い出したからということもあるが、それ以上に、ぼくが職人の家に生まれ、職人たちを間近に見て育ちながら、その職人であることを捨てて、教師というサラリーマンになったけれども、教師として過ごした42年間、こころの中で「職人」でありたいとずっと思い続けていたように思ったからだった。

 教師という仕事が自分にはどうもぴったり来ないという思いの中で、ぼくなりの「芸」を磨こうとしてきたような気がするのだ。国語の教師だったので、どうしても「話す」ことが多くなる。その中で「話芸」ということをいつもどこかで考えていた。落語も、漫才も、コントも、演劇も、歌舞伎も、文楽も、どこかに「話芸」がある。そこから学ぼうとしてきたことも事実かもしれない。「話芸」なんて大げさなことでなくていい。ぼくなりの「語り口」を獲得したいとずっと思ってきたのではなかったか。

 そんなことを幸四郎の言葉で気づかされたのだった。

 実は、幸四郎のその言葉をテレビで聞いたのは、ぼくが生まれて初めて、縁あって、都内の私立学校の教職員研修会の講師として招かれ、90分ほどの「講演」をした翌日のことだった。「講演」というものはどうしたら成り立つのかも分からぬままに、勝手にしゃべりちらして、結局うまくまとまるはずもなく、昔の授業の延長のような感じになってしまったことをしきりに反省しているときだったのだ。

 ぼくの「講演」を辛抱強く聴いてくれた先生方は、アンケートに温かい言葉をたくさん書いてくださったけれど、ぼくの実感としてはやはり「芸」のない「話」だったとしか思えなかった。「職人」としては、ものすごく中途半端だったことが悔やまれてならなかった。

 それでも、ぼくは「講演」をしたことを言いふらしたくて、家に帰ってから、「講演をしたけど、とりとめもない話になってしまった。」などとフェイスブックに書いた。そのコメントに、昔の栄光の教え子がこんなことを書いてくれた。

 洋三先生のとりとめのない話は、もはや職人技でしたよ。一見関係のない話が授業の最後にはしっかりと主題に収斂する様子は、伏線に富んだ小説のようでした。

 そんな授業があったんだ。ぼくの記憶では、だいたいが、終わった後、あ〜あ、とがっくりくるような授業ばかりだったけれど、それでも、「職人技」を感じさせる授業としてその生徒の心に残っているなんてこともあったんだと、無性にうれしかった。それと同時に、今回の「講演」が、そういうレベルには全然達していなかったことも確認できて、改めて反省した。

 現役時代、もっともっと、教師の「職人」としてのあり方に自覚的に取り組めばよかったのに、って思った。そうすれば、「いい教師」になれたかどうかは知らないが、教師としての生活にもっと充実感を持てたんじゃなかろうかと思ったのだった。

 ま、終わったことはしかたない。これからの「悠々自適」生活でも、どこかで「職人」としての「技」を磨いていく場はあるだろう。書でも、絵でも、写真でも、パソコンでも。まだまだ「心のおもむくままにゆったりと日を過ごす」なんて境地にはほど遠い。

 

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