20 『男の火祭り』って何なのさ

2015.2.9


 日曜日の昼は、「のど自慢」を見る。「のど自慢」を見ていると、聞いていると、ああ、今日は日曜日なんだなと思って、どこかでホッとする。もっともぼくの昨今は、言い古された言い方だが「毎日が日曜日」なので、ホッとするというのも変なのだが。

 この言い古された「毎日が日曜日」も、さすがに飽きられて「サンデー毎日」とか「全日空」とか言い換えらるようになって久しいけれど、ほんとうのことをいうと、「毎日が日曜日」というのは間違っている。日曜日はやっぱり週に1回しかない。ここでは「日曜日」が「仕事が休み」という意味で使われていることは当然だが、他の日に仕事があるからこそ、「仕事がない日曜日」の意味が生じてくるわけで、毎日仕事がなくてブラブラしているなら、本来の意味での「日曜日」でもなんでもない。もっとも「本来の意味での日曜日」となれば、旧約聖書まで遡らなくてはならないわけだが、まあ、そこに深入りはしない。

 とにかく、「のど自慢」開始の鐘の音と音楽を聞くと、小学生時代に、お昼時に周囲の家々からも流れてくるラジオの音を思い出し、昼食の干物を焼く匂いを思い出す。「古きよき昭和」の下町庶民の生活といったところだろうか。もっとも、ぼくはこの「古きよき昭和」という言葉も使いたくないのだが、まあ、そこにも深入りしない。

 何を言いたいのかというと、昨日の「のど自慢」のゲストに坂本冬美が出て、『男の火祭り』という歌を歌った。初めて聞いたわけではないが、改めて呆れもし、腹も立ち、演歌っていったいどうなってるの? って思った、ということなのだ。

 ぼくはもう生まれたころからの歌謡曲好きで、小学生のころには、三橋美智也の歌をよく歌ったものだが、そのころはまだ「演歌」とは言わなかったように思う。「のど自慢」もジャンル分けがあって、たしか「歌謡曲」「歌曲」(ああ、こんな時代があったんだなあ。)「民謡」というふうになっていて、チャンピオン大会も部門別だったと思う。

 それがいつの頃からか「演歌」というものが「確立」し、時には「艶歌」などとも呼ばれ、そのうち「ぴんから兄弟」がふざけ半分の『女の道』なんかを歌い、いくらなんでも、こんな「女」はいないよなあと笑っていたら、「演歌」の本道(?)になってしまった。

 つまり、日常ではありえない男と女の関係をフィクションとして楽しむものとしての演歌である。そこでは、女はひたすら「待つ」「耐える」「泣く」「尽くす」といった心情や生活態度を生き、男は、そんな女に甘え、勝手放題な生を生きるものとして描かれた。

 もちろん、そんな演歌ばかりではない。虐げられたものの苦しみや哀しみに寄り添う演歌も多くあった。高橋竹山の生涯を題材とした『風雪ながれ旅』(作詞:星野哲郎)やら、色町の女の哀しみを歌った『花街の母』(作詞:もづ唱平)など、挙げればきりがない。

 けれども、どうも演歌の世界では、歌手が功なり名遂げて「大歌手」になると、やたら大げさな歌を歌いたがる傾向がある。正確に言えば、歌手が歌いたがるのではなく、歌手に歌わせたがる、ということなのかもしれないが。

 『男の火祭り』の歌詞(作詞:たかたかし)は、「日本の男は 身を粉にして働いて 山に海に 生きてきた 女は嫁いで 男によりそって 留守を守って くらしてた 一年三百六十五日 感謝感謝の 神さまよ ありがとう ありがとう 大地の恵みを ありがとう」とあって、その後、「あっぱれ あっぱれ あっぱれ あっぱれ あっぱれ 千年萬年 あっぱれ あっぱれ あっぱれ あっぱれ あっぱれ 幸(さき)はふ国よ」と続く。二番は省略。

 これを華麗な着物に身を包んだ坂本冬美が歌い上げる様は、これはいったいどこなのか? と目を疑うばかり。この歌はいったい何を言いたいのか、なんて「演歌」に対して疑問を呈するのはグノコッチョウなのかもしれないけれど、それにしても、ヒドイではないか。

 「日本の男は」と平気で言えてしまう神経。それじゃ、日本以外の国の男は「身を粉にして働く」ことはないとでも言うのだろうか。「日本の男」は、冬のコタツでぐうたらしたことがないとでも言うのだろうか。「女は嫁いで 男によりそって 留守を守って くらしてた」って、今どきの世の中で、こんな「差別発言」が通用すると思っているのだろうか。これをどこぞの国会議員が口にでもしようものなら、「引責辞任」は必至である。「くらしてた」と過去形になっているのもヒジョーに気持ち悪い。「昔はそういうふうに暮らしてたんだぞ。(それも間違いだが。)それなのに今どきの女は……。」という非難の口調が透けて見える。最後の「幸はふ国」なんてわざわざ旧かな遣いで書いているところなど、もう、戦前の歌か? と思わず目をこすりたくなるほどだ。

 演歌もこういう歌になってしまったらオシマイである。演歌は、どんなに狭い世界であろうとも、その世界に生きる人間の切ない心情に訴えるものがなければならないし、それだけでいい。いやそこにとどまらなくてはならないと、演歌歌手になりたかったなあと今でもこころのどこかで思っているぼくとしてはそう考える。

 はたして坂本冬美は、この歌に疑問を持たないのだろうか。歌手はそういう疑問を持つべきではないと思っているのだろうか。歌手は、与えられた歌を歌わせていただけるだけで幸せと思っているのだろうか。それともこの歌に心底共感して歌っているのだろうか。そして「あっぱれ あっぱれ」と合唱していた会場の皆さんは、心のどこかに違和感を感じていたのだろうか。それとも、心のそこから感動していたのだろうか。

 さまざまな疑問ばかりが渦巻く「のど自慢」であった。


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