100 完結、そしてその次へ。

2016.9.25


 というわけで、とうとう1000編目である。しかし、この1000という数字は必死になって求めてきたものではない。1000編を何としても書きたいと思ってきたわけでもない。ただ、やめなかったら、1000になったというだけの単純なことなのだ。しかし、そうはいっても、それなりの感慨はある。

 「100のエッセイ」の第2集の「あとがき」には、こんなことが書かれている。

 「100のエッセイ」の1冊目を出したころ、いつまで続けるんだと聞かれ、冗談に「どうせなら千まで書こうかなあ。」なんて言ったりしていましたが、月日の経つのは早いもので、あっという間にまた百たまってしまいました。今の時点で、ホームページの連載は「第3期」に入っており、それも二十九まで来ています。うかうかしていると、ほんとうに千なんてことになりかねません。考えてみれば、このペースで書いていくと千を書き終わる頃は六十八歳という想像もつかない年齢に達していることになります。まあ、多分どこかでやめてしまうことになるのでしょうが、とにかくたまったものはどうにかしなければなりません。幸い「こんども本にしないの?」などと催促してくださる方もいて、調子にのってこの「第2集」を出版することになりました。

 この「あとがき」を書いたのは、2002年6月1日だが、その時ぼくは52歳。週1回のペースを厳密に守って書いていたので、そのままのペースで計算すると68歳で1000に到達ということだったのだろうが、その後、震災が起きて、「1000字以内」、「週に1回」という自分で作った規定を破棄することとなったために、その時の計算より約1年はやく1000に到達したわけだ。年齢でいうと、来月に67歳になるが、まだ66歳なので、2歳分はやく到達となったわけである。

 「どうせなら千まで書こうかなあ。」なんていう「冗談」が、こうして現実のものとなってみると、それなりの達成感はあるけれど、「計算通り」であることに、やや拍子抜けといった感もある。

 まあ、それでも、ここまで来るには、いろいろなことがあるにはあった。第7期ぐらいまでは、週1回書くということを厳密に守っていたために、週末になると憂鬱だった。ネタがあるときはいいのだが、何にも書くことがないということもしょっちゅうだった。それでも、10分ぐらいねばっていると、何か書けた。書けたけど、それを推敲したり、吟味したりする余裕もなくて、ええいままよとばかりアップしてきたことも数知れない。

 けれども、勝手気ままに書いてきたことが、こうしてネット上にであれ、ちゃんと読める形で残っていて、自分でも好きな時に読めるというのはいいものだ。本には2冊しかできなかったけれど、それはそれでよかったと思っている。後は、10期分をすべて、「Yoz Home Page」の方へ格納するという仕事が残っている。(今はまだ、第9期の途中までで作業が中断している。)

 さて、これからは、自由気ままに書いていきたい。週1回とか、何字以内とか、そういう「しばり」は一切なしだ。

 「やるべきことを、やるべき時に、しっかりやる」という栄光学園で叩き込まれた精神は、そろそろ返上してもいいだろう。「やりたいことを、やりたいときに、やりたいようにやる」ことにしたい。しかし、これは、想像以上に難しい。「べき」でしばられないと、人間というものは、うまく生きていけない動物のようだからだ。「たい」は自由でいいようだが、言い換えれば「意欲」の問題なのだから、そうそう人間をうまく導いてくれるとは限らない。しかし、困難なら、それもまた一興ではなかろうか。

 「100のエッセイ」というタイトルはもう使わない。今後のタイトルは、いろいろ考えた末、「木洩れ日抄」とすることにした。畏友林部英雄の名句「木洩れ日が思想を照らす不思議な時だ」による。高校時代の林部氏の作だが、今も忘れがたい。木洩れ日のように、ちらちら頭に浮かんでは消える日々の思いを綴るには格好のタイトルに思えるがどうだろうか。通算何編まで書けるか、それは神のみぞ知るだが、末永く書きつづけていきたいものだと思っている。


「100のエッセイ」は、18年半にわたって書き継がれ、ここにめでたく通算1000編達成となりました。長い間、ご愛読ありがとうございました。心より御礼申し上げます。なお、本文中でも触れましたとおり、今後は「木洩れ日抄」として、エッセイを書き続けて参りたいと存じます。更新は極めて不定期となりますが、引き続きご愛読いただければ幸いです。


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