1 現場の力

2003.10


 国語学者の大野晋が、今度の指導要領の改訂は「読む教育」を軽視しているとして国語教育の衰退を憂えている。(毎日新聞)

 まず先生は「国語表現」の教科書の目次を見て、「ここには読む項目」がないと驚いている。「国語表現」の教科書は言語表現の方法を学ばせる教科書だから、読むだけの教材などないに決まっている。物理の教科書を開いて、ミミズの説明がないと驚くようなものだ。先生はこの「国語表現」だけで高校の国語をおしまいでもいいという文部科学省の役人の説明を聞いて、「先進国で、自国の言語教育を、高校で週2時間でよしとする国などあるだろうか。」とお怒りである。

 「国語表現」だけで高校をおしまいにする学校もあるが、それは一部の高校に限られる。普通科の高校では、だいたい「国語総合」の教科書を使い、週4〜5時間を確保している。エライ人というのは、こういう細かい事情を無視して闇雲に批判するので困るのである。影響力が大きいだけにタチが悪い。

 全国の高校のほとんどが使っている「国語総合」の教科書はどうか。「『読む』学習は一応の形をとっている。しかし、多くの作品を細切れ的に載せている。三浦哲郎『とんかつ』、志賀直哉『清兵衛と瓢箪』など短編しかない。これでは読書の力は育たない。」のだそうだ。しかし、教科書に長編小説を載せられるわけがないではないか。これではまるでヤクザの言いがかりである。それに短編小説ひとつだって、やりようによっては十分に「読む力」を養うことができるのである。現場の教師を馬鹿にしてはいけない。

 戦後間もない頃、先生は教科書などを使わずに漱石の「こころ」や倉田百三の「出家とその弟子」などを女子高生たちと読んだものだと威張っている。のどかな時代でしたねという他はない。時代は確実に変わった。文部科学省の肩を持つ気はさらさらないが、長編小説ばかりを「がむしゃらに」読んでいればすむというような単純な時代ではない。それに今だって、少し気の利いた教師なら、教科書以外の教材ぐらいちゃんと用意する。そんなに威張るほどのことではない。

 ところで、「国語総合」は高校1年用の教科書で、2、3年生用のほとんどの教科書会社の「現代文」では、「こころ」は抜粋ながら健在である。大野先生、「国語力の衰退は民族の運命も左右する」などと大時代な見得を切る前に、せめて高校3年間分の教科書ぐらいは覗いてみてくださいね。


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