67 ICUは夢空間

2014.3.2


 ICU(集中治療室)というと、何だかすごく怖いイメージがある。サスペンスなんかだと、たいていは、ガラス張りの部屋で人工呼吸器をつけている患者がひとりいて、「今夜が峠です。」とか医者から言われた家族が、その姿を廊下みたいなところかハラハラしながら見守るといったシーンが頻繁に出てくるので、そんな部屋なのだろうと思っていた。手術が手術なだけに、手術が終わった後はICUに入っていただきます、という説明が事前にあって、手術前に「見学」をしたときもドキドキした。

 実際に見てみると意外に広々とした部屋で、6床ほどの(もっと多かったか?)ベッドがカーテンで仕切られてずらっと並び、その一番奥に、完全な個室の病室があった。ここがいちばん重症な患者が入る部屋で、そこにはありとあらゆる事態に対応できるように様々な医療器具が揃っていた。この個室の中で、説明を担当医師から説明を聞いた。たぶん、山本さんは、あちらのカーテンで仕切られたベッドだと思いますが、まあ、とにかく、何日かこちらで過ごしていただくことになります。ここを出られれば、まずひと安心ということになりますね、と小柄な男性医師が言った。そうか、出られないということもあるのだなあ、そういう場合は、この個室で死ぬということか、とふと思ったが、そんなに深刻には考えなかった。

 ここには、専属の医師が必ず常駐しています。また患者さん二人に対して一人の看護師も常駐してお世話をします、と言いながら、ずらっと並んだベッドのある部屋を見て、あそこに並んでいるのは、どんな症状にも対応できる薬です、と言う。ベッドが並んでいる側の向かい側に、大きな長いカウンターがあって、その向こうに、看護師や医師の姿がチラホラ見え、その背後の壁一面にぎっしりと薬が並んだ棚がある。テレビでおなじみのICUとはまるで違っていた。

 そのICUで、ぼくは、麻酔から目覚め、鈴木先生と握手をし、家内と携帯で話したのだと思う。その日を含めて、2日間、ICUにいたのだが、ここで過ごした期間は、あらかじめ医者にも「ICUでは、少し麻酔をかけて、うつらうつらという状態にさせていただきます。」と説明を受けていたとおり、非常に不思議な体験をしたのだった。

 何よりも印象的だったのは、夜の照明である。いろいろな処置をしなければならないので、あまり暗くはしませんと言われてはいたが、この照明がものすごくお洒落なのである。どういう器具を使っているのか知らないが、最高級の間接照明のような感じで、濃いブルーのなかにうっすらとオレンジ系の光、という感じだったろうか。ベッドからは、カウンターが見えるのだが、そのカウンターの中に立っている看護師や医師は、バーテンダーのように見え、その後ろの壁の棚にぎっしりとならんだ薬は、ありとあらゆる種類の酒に見えた。スコッチウイスキー、バーボン、シェリー、ブランデー、ラム、といった洋酒系のイメージだ。しかも、ベッドの合間を、看護師がゆったりと歩いて患者の世話をしている。まるで、銀座の超高級クラブのようではないか。(行ったことはありません。あくまで勝手に描いているイメージです。)こんなICUがあったのだ。これで体さえ何ともなければ天国だ。

 体さえ何ともなければ、なんて、バカな仮定にもほどがあるが、ここではこの体が一番の問題なわけだ。ぼくの場合は、痛みはまったく感じなかった。大きなキズが出来ているのだが、痛みどめの点滴で完全に痛みはない。いちばん辛かったのが、口の中の渇きだ。とにかく渇いて舌が引きつる。我慢できないと、看護師さんを呼ぶと、すぐに来てくれて、水を飲ませてくれる。口をしめらす程度だが、それでもすごく楽になる。でもすぐにまた渇く。また看護師さんを呼ぶ。看護師さんは、何度でも来てくれる。

 口は酸素吸入マスクで覆われている。半分朦朧としているのだが、それでも眠ろうとする。ところが、眠れない。そのうち、酸素吸入マスクから聞こえてくるゴボゴボという音が妙に気になりだした。そのうち、どうも、何か言っているように聞こえてきた。ちょうど、AM放送のチャンネルを回していくと、雑音に混じって北朝鮮だかなんだかしらないが、そっちの方の放送らしきものがとぎれとぎれに聞こえてくることがあるが、そんな感じである。こうなるともう気になって寝られない。そのうち、言葉がはっきりと聞こえるようになった。「ザーザー、ゴボゴボ、ニッポンガンバレ、ゴボゴボ、ゲンパツゼロ、ザーザー、ソウダガンバレ、ニッポンバンザイ、ゴボゴボ、ザーザー、ゲンパツゼロ………」これが無限に繰り返される。いろんな言葉が聞こえたが、とにかく「ゲンパツゼロ」だけは、繰り返しはっきりと聞こえる。

 ぼくはもう耐えられなくて、看護師さんを呼んで「ねえ、この酸素吸入器、うるさいんだけど。何か言ってるよ。どこかのラジオの電波と混線してるんじゃないかなあ。」とあえぐような声で言うと、さすがに看護師さんも、首をひねって、そうですかあ、というばかり。しかし、あまりに何度も同じことをぼくが訴えるので、とうとう違うタイプの酸素吸入器に交換してくれた。こんどは、まったく音のしないものだった。それにしても、酸素吸入器のゴボゴボ言う音に、どうやってラジオの電波が混線するというのか、そんなことはあり得ないことなのに、結構まじめにそういうこともあるんじゃないだろうか、と思ったのも、麻酔によって頭が混乱していたからだろう。

 混乱には、もう一つ、びっくりするようなことがあった。それは時間感覚である。病院の夜というものは、いくら銀座の高級クラブのような雰囲気だといっても、心地良いものではもちろんない。できれば、早く夜があけて、次の日を迎え、出来れば一刻もはやくこのICUを出たい、そう思うのが自然の人情だろう。だから、夜、目が覚めているときは、時計をよく見た。ベッドから丁度正面に壁時計が見えた。ところが、この時計がちっとも先へ進まないのだ。もちろん、止まっているわけではない。けれども、たとえば、家で寝られない夜に、何とか目を閉じていて、さあどのくらい経ったろうと時計を見て、まだ30分しか経っていないと思ってがっかりするということがあるが、それが同じ事をしても、せいぜい1分しか経っていないのである。最初は驚いた。何度目をつぶって寝てみても、時間はちっとも進まない。せいぜい3分とか5分とかしか経たないのである。これも麻酔のせいだろうが、もしも普段の生活で、こんなに時間が進まなかったら、いったい人生はどれほど長く、どれほど耐えがたいものだろうと、朦朧とした頭で考えたのだった。

 そのうち、今度は、目をつぶるとかえって視界全面がiPadの画面になり、ものすごく綺麗な色で、つぎつぎとよく分からない映像が映し出されるようになった。何の画像なのだか分からないのだが、とにかく極彩色で、これもまた寝られたものではない。目を開けた方がよほど暗いのだから。病棟のベッドでは、携帯の通話は禁止だったが、メールは自由だったので、iPadでメールを書いたり、ネットサーフィンをしていたのがいけなかったのか、とにかく、鑑賞したくなるほど綺麗だった。

 そんなこんなで、眠れない、ある意味幻想的な夜を二晩(意識があったのは一晩だったはず)過ごして、ICUを後にした。

 その後、一般病棟へ移るための様々な処置をするHCUという部屋で2日を過ごし、手術から4日後には、一般病棟に戻ったのだった。


 

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