58 光について

2013.12.30


 当たり前のように存在していながら、実はものすごく神秘的、というものはこの世に数多くある。というか、この世に存在しているものは、これすべて神秘的といってもいい。この場合の「神秘的」というのは、あまり厳密な意味あいではないが、「考えてみればものすごく不思議」っていうぐらいの意味である。

 そもそも、自分が、今、ここに、こうして、いる、ということ自体、「考えてみればものすごく不思議」である。だから、神秘的なものを数え上げたら、それこそ大変なことになるし、神秘的ではないものを挙げるほうが簡単かもしれない。そんなものは、「ない」からである。

 まあ、そんなメンドクサイ議論はともかくとして、やはり、「光」というものは、この世のものの中でも群を抜いて神秘的である。神秘的よりも何よりも、物理学的にいっても、とてつもなく不思議なものである。

 中学2年か3年の時だったと思う。当時の物理の授業を担当していたのが、ヘルムート・ウルフというドイツ人の神父だった。この人は、とにかく勉強家で、明るくて、心の深い人だった。この神父の物理の授業は、驚きに満ちたものだった。(授業は、時にドラマチックな演出が必要なのだということを、ぼくはこの神父から学んだ。あまり実践はできなかったけれど。)

 ある日、光とはどういうものかという実験があった。神父は、まず生徒に色のついたチョークを持たせた。ある者は黄色、ある者は赤、ある者は青、そしてある者は白のチョーク。さあ、みんな、自分のチョークの色、分かるね? よ〜く覚えたね? じゃ、これからすごいこと起こります。そう言って電気を消す。暗幕を閉めた部屋は真っ暗。そこにオレンジ色の電灯がつく。ナトリウム灯だ。さあ、自分のチョーク見なさい。何色か? 分かる? 何色だ? 言ってごらん。驚くべきことにチョークの色は消えている。消えているというよりは、みんな同じ色で、区別がつかない。こんなことははじめてなので、驚いた。生徒は大騒ぎだ。神父は、もうはしゃいで上機嫌。どうだ、どうだ、分からないだろうって言いながら、さあ、蛍光灯をつけるよ、見ててごらん、と言って、蛍光灯をつけた。その一瞬、色が戻った。これには更に驚いた。驚愕といっていい。

 今なら、高速道路のトンネルなどのオレンジ色のナトリウム灯で、車の色がみんな同じ色になってしまうという経験は多くの人がしているだろうが、今から50年も前には、ナトリウム灯などは見たこともなかったのだから、心底驚いたのだった。

 色というのは、その物に絶対的な固有色というものがあるわけではなく、「光」の反射によって生ずるものなのだということを、その時はっきりと知ったのだった。物理学的には相変わらず曖昧なことしか知らないが、ナトリウム灯のように光の色が偏っていると、それに照らされたものの色の極端に変わってしまうのだ。色の不思議は、つまり、光の不思議なのだ。

 美術全集などに載っている図版の絵も、太陽の光の下でみるか、白熱灯のスタンドの下で見るか、蛍光灯のスタンドの下で見るかで、色合いが全然違ってしまう。(これは是非一度お試しあれ。)とすれば、いくら実物を見たといっても、それをどういう光の下で見たかによって、見たものは違ってしまうということである。

 「光」は、ものを照らすだけではない。ものに「色」を与えるのだ。比喩的に言えば、「光」は、ものごとに意味を与えるのだと言ってもいい。

 「創世記」では、神が最初に作ったものは「光」だった。仏像の背後には、いつも「後光」がさしている。

 光について考えていると切りがない。日本国語大辞典では、「光」の「精神的な意味」の項でこんなふうに説明している。

〔二〕(精神的な意味で)明るい、輝かしい、美しいなどと感じられるもの。

(1)さかんな勢いや力をたとえていう。人をおそれ服させるような勢力。
   (イ)君主、国家、神仏、人間などのさかんな徳や勢い。威光。威勢。威徳。
   (ロ)物事の威力。効力。
   (ハ)黄金の輝き。金銭の威力。
(2)知恵や徳の輝き。すぐれた知徳。
(3)はえあること。光栄。見ばえのするもの。光輝。
(4)心を明るくするもの。闇を照らす光として感ぜられるもの。光明。
   (イ)迷い、悲しみ、無知などから覚めさせるもの。悟り。真理。
        *山家集「なべてみな晴れせぬ闇の悲しさを君しるべせよひかり見ゆやと」
   (ロ)心を明るくするもの。心に希望を与えるもの。また、心に憧れや尊敬などをよび起こすもの。光明。希望。
        *源氏物語 桐壺「目も見え侍(はべ)らぬに、かくかしこきおほせごとをひかりにてなん、とて見給ふ」

 この中でも、(4)の(ロ)がもっとも広く使われている意味だろう。この例文に挙げられているのは源氏物語で、光源氏の母、桐壺の更衣が幼い源氏を残して亡くなったあと、悲しみにくれる更衣の母のもとへ、桐壺帝が慰問に遣わした使者に述べた言葉である。訳してみると、「『悲しみに目も見えませぬが、このように畏れ多い帝の仰せ言を光といたしまして』と言って母君は帝の手紙をご覧になる。」ということになる。

 「悲しみに目が見えない」というのは本当に失明したということではなくて、「子ゆえの闇」のことを言っている。親というものは、子どものことを思うと、こころは子への思いで分別の付かない状態、つまり闇となってしまうことをいうのである。こうした悲しみにくれる桐壺の更衣の母へあてた帝の手紙が、その母には「闇を照らす光」となるというのだ。つまり、ここでは「言葉」が「光」となっているのだ。そして言うまでもないことだが、「光」は結局「愛」だろう。

 世界にこういう「光」をもたらすこと。もし人間に何か使命というようなものがあるならば、このことなのかもしれない、なんて考えている年の瀬である。


 

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