55 自由であることの難しさ

2013.11.30


 いっとき醒めていた写真熱がこのところまた再燃していて、授業でもいかに写真を撮るかなんてことをしゃべっていたのだが、一番面白いのは、撮ってきた写真をパソコンに取り込んで加工をすることだと言ったら、生徒の誰かが、「ああ、ダメじゃん。」みたいなことを呟いた、ように聞こえた。

 本当にそう言ったのか、または空耳なのかは確かめなかったが、こうしたことはよく耳にする。ニコンやキャノンの写真を掲載するサイトや、「価格com」あたりの情報などでは、「ノートリミングです。」とか「加工は一切していません。」といった言葉が、誇らしげに書き込まれている。こうした書き込みを見て、写真は「撮ったまんま」が一番よくて、パソコンで補正したり、トリミング(切り抜き)したりしてはいけないのだと思い込んでいる人が結構多いのだ。

 カメラメーカーや情報サイトで、「ノートリミング」とか「補正なし」とか言ったことがことさらに言われるのは、カメラやレンズの性能をそれで確かめるためである。レンズの画角(どの範囲が映るか)がどれくらいかを知りたいのに、トリミングした画像では役に立たないし、カメラのセンサーの色再現性を比べたいのに色彩補正をしてしまったら何にもならない。だから、レンズやカメラの性能を確かめるための画像は、あくまで「撮ったまんま」じゃなきゃダメなのだという道理である。

 しかし、作品となると話は全然違ってくる。写真作品として提示するときに、「これはトリミングなど一切していませんし、色や明るさの補正も一切していません。」なんていうことは何の自慢にもならない。自然の写真などで、「パソコンソフトによって加工された写真は受け付けません。」なんて応募用紙に書かれていることもあるが、それは、何にもいない空に鳥の写真を合成したような写真はダメだと言っているのであって、トリミングや色彩の補正もダメだと言っているわけではないだろう。

 カメラで撮ったまんまの画像は「自然」だが、パソコンでいじくり回した画像は「不自然」だ、なんて思っている人もいそうだが、それこそ勘違いも甚だしい。そもそも「カメラで撮る」こと自体が、とっても「不自然」なのだ。フィルムカメラは「自然」だが、デジタルカメラは「不自然だ」なんていうのもおかしな話だ。フィルムの写真も、「化学反応」による処理以外の何ものでもない。

 更に言えば、その昔、写真がまだ白黒だったころ、カメラで「撮ったまんま」の写真なんてどこにもありはしなかった。まず、フィルムを現像する。この段階で、すでに「加工」は始まる。現像液をどのくらいの温度に保つか、現像液にどのくらいの時間浸けておくかで、画質は大きく変わるのだ。いや、それ以前に、どのようなフィルムを使うかで、まったく画質が変わってきてしまう。

 さらに今度は印画紙への焼き付けの作業がある。これがまた、「人工的な作業」そのもので、印画紙の種類、印画紙への感光時間、現像液の温度、現像液につけておく時間、そういったことで、まるで違った画質の写真となる。

 ぼくは高校生の頃に、自宅で、こうした一連の作業をよくやったので、写真の現像作業の面白さと難しさをよく知っている。暗室の中で、液体の中に沈む白い印画紙に、徐々に姿を現してくる画像に胸をときめかし、ちょうどよいコントラストになったころに「よし!」とばかりに現像液から取り出し、すぐさま定着液に浸ける。このタイミングが難しく、まただからこそ楽しかった。そしてその頃、ぼくが切に思ったのは、こういう自由な画像の操作をカラー写真でもできないだろうか、ということだった。

 それは当時のぼくにとっては、夢のまた夢だったのだが、今、デジタル写真の時代となり、それが当たり前のように出来るようになった。その楽しさやありがたさを知らずに、そんなことはしてはいけないなどと思い込んでいるとしたら、本当にもったいない話である。

 思えば、「自由であること」は難しい。自由でありたいと思っているのに、どこかで自分を束縛してしまっている。誰に言われたのかも分からぬうちに、「これはダメだ。」「こんなことしちゃいけないんだ。」なんて勝手に思い込んでしまっている。案外人間というものは、自由であることを心の底から望んでいるわけではないのかもしれない。


 

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